第92話 『悪魔の影』
厳かな教会に、布が擦れる音がする。赤い絹に金色で巧みな刺繍の施されたマントを羽織り、軍服姿で王太子が真っ赤なカーペットの上を歩く。
スッと膝を付き、若干体を前に倒した王太子の頭に王冠が載せられた。
「今ここに、ギルヴァルト王が誕生した!」
戴冠を一通り見ていた教主が声を張り上げ、教会内にいた貴族に報せる。その瞬間、空気を震わせ、皆が沸いた。
「万歳! ギルヴァルト王、万歳!」
王冠を被ったまま教会のバルコニーに立った新王を国民が歓迎した。わあああ、と降り注ぐような歓声に私も続いて拍手を送る。教会内にいる貴族に混ざって、パチパチと手を叩いた。
結局、もう一晩王宮に泊まったあとはすぐにタイバス家に返された。アズとシエルはまだディラン様の護衛という名目で、王宮には残ったようだ。王族の席にはディラン様とクラウディア王女が静かに座っている。その後ろにはシエルとアズが立っていた。
王太子が国王になったことで、ディラン様も王弟という立ち位置になる。少しは王宮での生活も良いものになるのではないかと期待している。
タイバス家に帰った時は、久しぶりにお母様に抱きつかれた。よかった、とか細くそう言ったお母様と疲れたように眉を下げるお父様。今にも泣きそうなウィルを見て、迷惑をかけたと謝った。よくあんな中で無事に生きて帰れたなぁ、と感慨深くなる。
「姉上、良かったですね」
「え?」
戴冠式から馬車でタイバス家に帰る途中で、ウィルから話しかけられた。お父様とお母様は向かいに座っており、会話に参加する気はないようだ。
「パーティーですよ。久しぶりじゃないですか? ディラン兄上にエスコートされるの」
「……ええ」
照れたように顔を赤らめれば、ウィルはやれやれと呆れたように肩をすくめた。戴冠式の後には、新王主催の豪華絢爛なパーティーが開催される。そのパーティーにはもちろん招待されているので行くのだが、ちょっと緊張する。沢山お洒落しなくちゃ、と一人意気込んでいた。
屋敷に戻ると、侍女のルティによって素早く部屋に連れられる。私はディラン様の婚約者として、お父様たちはタイバス家として出席するから、私だけ早めに馬車で屋敷を出なければならない。ルティがこれだけ焦っているのだからあまり時間がないのだろう。
「お嬢様、覚悟してくださいませ。今日は隅々まで綺麗にさせていただきます!」
ルティを筆頭に、沢山の侍女が私の体を隅から隅まで綺麗にしてくれた。体を散々洗われ、爪も美しく整えられる。髪には香油が塗り込められ、同じ匂いの香水を手首や足首に擦り付ける。
「お嬢様。今日のドレスはこちらでいかがでしょうか」
ルティの言葉にそちらを向いて、瞠目した。トルソーに美しく飾られていたのは、学園のパーティーでワインまみれになった夜空色のドレスだった。
「……それ」
「はい、ワインのアルコールでひどい有り様でしたが、このルーテリヌ。お嬢様のためにあらゆる方法で染み抜きをし、生地の美しさを損なうことなく洗うことに成功いたしました。美しいシルエットを保つために仕立て屋に出しましたし、靴の方も靴屋に修復を頼んだので、こちらを履くこともできます」
ペラペラと饒舌に喋るルティはとても誇らしげで、ドヤァと胸を張っている。
「……ルティ…ありがとう。本当に。とっても嬉しい……。実家にドレスを送ったけれど、正直もう無理だと思っていたのに……」
「お任せください、お嬢様。私に不可能などありません」
内気な彼女にしては随分と自信満々で、こちらまで嬉しくなる。これは絶対、ウィルの執事と上手くいったな、と思った。後で彼女に問いただそうと決める。
スレンダーシルエットのドレスに袖を通し、幸せを堪能するようにその場をくるりと回る。
「あぁ! 美しいです、お嬢様!!」
興奮を隠しきれないように、ルティが感激したような声を上げた。相変わらず表情はぴくりとも動いていないが、彼女が心の底から称賛してくれていることは理解できた。
慎重に椅子に座り、髪を結い上げ化粧を施される。自分でするよりも何十倍も顔の良さを引き出させてくれる侍女たちの手腕には舌を巻いた。綺麗に結い上げられた髪に、可愛らしい髪留めが付け加えられる。
「ふふ、よく分かったわね」
「えぇ、お嬢様はディラン殿下が大好きですから」
いつかの誕生日にもらった髪飾りと、ディラン様の色を模したドレスと靴。着ているだけで幸せになるこの衣装は宝物以外の何物でもなかった。
少し肌寒いということで、ショールを羽織る。ヒラヒラとする薄い生地が妖精のようで少し高揚した。
◇◆◇
「うわぁー! なんだよ、あの子、すっごく綺麗になってるぜ!」
王城の屋根の上でそう叫んだのは、水色の髪を鬱陶しそうに掻き上げ、煙草を吸う男だ。煙草を挟む指の爪は黒く塗られており、男の白い肌も相まって不気味に浮かび上がる。眼下に広がるきらびやかにライトアップされた王城をその海のように青い瞳に映した。王城の光を浴びて露になるその横顔は、意外にも美しく整っている。
「いいなぁ、あんなに幸せそうだと僕が奪ってやりたくなるよ。そう思わないか? クララ」
クララと呼ばれた少女はぼんやりと半目で、屋根の上に座りながら目の前の光景を見ていた。アイスグレーの髪を美しく結い上げた娘と金髪の綺麗な顔立ちをした青年が幸せそうに笑いあい、頬を染めながら王城の中庭を歩いている。
「とっても、幸せそうだね」
クララは正直に感想を述べ、手を繋いだり頬を染める二人をただただじっと見ていた。
「何か感じたりする?」
「お姉さんは、不思議な記憶がある。お兄さんは……とても心が弱い」
「へぇ、不思議な記憶、ね。利用価値がありそうなら嬉しいなぁ。ディランは、まぁ、そうだろう。アイツは精神面が脆すぎるし」
ふぅ、と煙を吐き出しながらそう言った男に背後から殺気が浴びせられる。
「おいおい、ご主人サマに殺気はないんじゃないか?」
「お前は僕の主なんかじゃない。僕の主はディラン様だけだ」
「そのディランを裏切ったのはお前だろ」
「裏切ってなんかいない! 僕は、ディラン様を王にするというお前の言葉を信じてここにいる!! 決してお前のためなどではない!」
「シュヴァルツも大概バカだよな」
「なんだと!?」
噛み付くように叫ぶシュヴァルツを、男は黙殺する。本当の男の目的をシュヴァルツは知らなかった。ディランの体を乗っ取り、魂を喰うというその男の計画を、知らずにいる。
それはもちろん、自分が隠しているせいでもあるが、シュヴァルツもシュヴァルツで察しが悪いな、と男は思っていた。
(察しが悪いんじゃないか。どうしても、ディランを王にしたい、それだけだな)
煙が肺に溜まる感覚がたまらないと、男は煙草を深く吸った。
男は、ディランの魔力を手に入れてこの国の王になる。シュヴァルツには王になるという点しか言っていない。ディラン(の体)を王にする。屁理屈だが、そこに胸が痛むほどの情けなど男には存在しなかった。裏切ったのはシュヴァルツだ。その事実は決して消えず、シュヴァルツは二度目の大罪を犯す。守ると言った主を、手酷く裏切る方法で。無知という言い訳を盾にして。
「マジでクソだな」
自分のことを棚に上げながら、男は嗤い、煙を吐く。
「あーあ。ミラは使えねぇし、王妃も使えねぇ。折角苦労して作り上げた魔法道具がパアだ。ま、ディランに壊されることがわかっただけ重畳。重畳。もっと丈夫に作らなきゃいけねぇなァ」
ケラケラと嗤いながら、男は立ち上がる。その身長は座っていた時には想像できないほど高い。
「よっしゃ、決めた。ベルティーアは僕のにする」
水色の髪を風に靡かせながら、キスをする二人を、男はニコニコしながら見下ろしていた。
「……ベルティーア様を奪えばお前だって只ではすまされないぞ」
「その競争に、僕が勝つんだ。いやー、だってすっげぇ可愛いんだもん。意外と気が強い所も、王妃を殴っちゃうところもさぁ。いいなぁ、ディラン。あんな可愛い婚約者がいてさぁ。あ、またキスしてる」
男は明るく言いながらも、イラついたように煙草を屋根に押し付けた。
「ま、ディランの体を手に入れれば自然とベルティーアも手に入るよね。ディランをおびき寄せるにはベルティーアの体がいるし。そんで、器を奪ったら、今度はベルティーアの心を貰おう。それがいい!」
「器……?」
「あぁ、こっちの話だよ、シュヴァルツは気にしないで」
ニヤニヤと嗤う男に、シュヴァルツは眉を寄せた。
「クララも協力してくれるよね?」
「……貴方が望むなら」
「よし、じゃあ決まりー! 僕の奥さんはベルだよ」
ディランとのキスに慣れていないのか、顔を赤くし目を潤ませるベルティーアを屋根から見下ろし、男はディランと同じ色の瞳を恍惚に歪めた。
「ああ、そそるね、その顔。犯したくなる」
狂気的な表情を浮かべたまま、男は誰にも気づかれることなく消えた。




