第91話 『唇に溺れる』
「ベル、こっちにおいで」
蜂蜜を溶かしたような甘い声に、思わずビクリと体を強張らせる。頬を紅潮させ、水の滴る髪の毛をタオルで軽く拭くディラン様は本当に目に毒だ。上半身丸出しで出てこなかっただけ、ほっとした。
王妃様がディラン様の魔法に敗れ、倒れた後は嵐のように物事が進んだ。王様は王妃様の目と口を塞ぎ、どこかへ厳重に幽閉するように命じた。王太子は本当に限界だったようで、ふらふらと今にも倒れそうだった。
『タイバス家には連絡を入れておいた。今日はディランの部屋に泊まってくれ』
『え!? お、お言葉ですが、結婚前の男女が同じ部屋で寝るのは……』
『口答えするな。それにどうせお前らはお互い思いあっているようだし、まぁ、抱き締めるくらいなら』
『兄上は変なところで初心ですね』
顔を若干赤らめて言う王太子に、ディラン様が鋭い突っ込みを入れる。王太子は不機嫌そうに眉をしかめた。
『別に自分のことなら照れたりしないが、他人のを見たり聞いたりするのは嫌なだけだ』
『そうですか』
『間違いがあってもいいだろ……。もう面倒くさい。寝かせてくれ。ディランの部屋なら敵が侵入することもないだろうから、私の負担も減る。何も考えずに眠りたいんだ』
げんなりと顔色の悪いまま、王太子はさっさと部屋へ戻ってしまった。あの包帯と、王妃様にされたことを考えたら、彼の気持ちも分かる。いつもはポーカーフェイスの王太子が眠たくて眠たくて仕方がない、という顔を全面に押し出していたのが何よりの証拠だった。
『俺の部屋に行こうか』
ディラン様にそれを言われたときの私の顔はどうなっていただろう。沢山の感情がごちゃまぜで変な表情になっていなかったかだけが心配である。
「ベル? どうしたの?」
優しい声に、はっと顔を上げて未だ髪を乾かし終わっていないディラン様を見つめる。お風呂上がりのディラン様になんて近付ける訳がない。まず動悸が収まらないし、それに伴って息も荒くなる。顔が赤くなる自信があるし……いや、それよりもお化粧ができていないことの方が重大ではないか。
とんでもないことに気がついて、バッと慌てて顔を隠した。
「ど、どうしたの!? どこか痛い?」
急に顔を押さえて踞った私に、ディラン様が慌てて駆け寄ってくる。ディラン様が近くにいる気配がして、絶望的な気分になった。無理だ。顔を上げられない。
「俺、何もしないよ。大丈夫だから」
「いえ、私、見せられる顔じゃないので」
「うん?」
顔を手で完全ガードしながらそう言えば、ディラン様は不思議そうな声を上げた。
「ベルはいつでも可愛いよ」
「違うんです! お化粧をしてないんです!」
「え、でも小さい頃はお化粧なんてしてなかったよ」
「してました!!」
これはいよいよ顔が見せられない、とさらに手に力を込めた。いや、でも、ディラン様とのお泊まりが嫌なわけでなく、むしろ嬉しいのだから、タイバス家に使いを送って化粧道具だけ持ってこさせようか。でも今から? もう真夜中と言ってもいい時間なのに。
時刻は深夜の12時。もう侍女は寝ている時間だけど、背に腹は変えられない。
部屋の前で護衛してくれてるアズかシエルに頼もうかな、と思った瞬間、結構な力で手を剥がされた。ヒュッと呼吸が浅くなり、声も出ずに口をパクパクさせる。
目の前には、輝かんばかりの金髪が光を吸い込んでいた。海のような深い青色の瞳が、私のスッピンを映す。
「うん、やっぱりベルは可愛いね」
ディラン様は張り付けたような微笑ではなく、満面の笑みを浮かべて私を見つめた。無邪気なその表情が、昔の幼いディラン様を連想させて思わず食い入るように見る。
「はい、髪の毛乾かすよ」
私の手首を掴んだまま、ディラン様がそう言った。両手が塞がった状態で髪を乾かせるだろうかと不思議に思っていたら、ぶわっと風が吹いた。半乾きだった髪の毛が一瞬でカラカラになる。いつものように手入れされていない髪は、癖毛が爆発したように広がった。
「ふふ、くるくるだね」
ディラン様は楽しそうに、私の髪に指を絡ませて遊ぶ。なんだか急に恥ずかしくなって、うつむいた。
「あの、不思議だったんですけど、アズとシエルはどうやって牢屋から出ることが出来たんですか?」
何か話さなければと話題にした話はなんとも味気ないものでますます恥ずかしくなるが、ディラン様は気にしてないように答えてくれた。
「もともと王妃は二人を処刑するとか永久的に閉じ込めておくつもりなんてなかったんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。二人は貴族だし、何より、シエノワールは当主が聖騎士団団長だから敵に回すのはまずい。特に聖騎士団は国の兵力だし王妃も重宝していたようだから、揉め事を起こしたくないみたいだったね。アスワドたちが入れられた牢屋の錠はとんでもなくお粗末だったらしいよ」
シエノワールの怪力だけで外れたんだって、とディラン様は愉快そうに笑った。
「で、そのまま脱獄して、王妃の部屋から廊下に出たみたいだよ。そこが王妃の部屋とは気付いてなかったみたいだけど。地下牢から出るのに仕掛けはないし、そんなに苦労はしなかったんじゃないかな」
「王妃様にバレなかったんですか?」
「運だけはあるよね、あの二人」
ディラン様は楽しそうにケラケラ笑う。
「その、ディラン様の怪我とかは……? 大丈夫ですか? 痛くないですか?」
「あぁ、怪我なら大丈夫」
ディラン様は躊躇なくシャツをベロリと捲り上げ、お腹を晒した。ぎょっとして思わず目を見開くが、その肌を見てまた驚く。あんなに酷かった傷がほとんど治ってしまっていたのだ。
「魔力が戻ったら勝手に傷も治るよ」
「そういうものなんですか? でも、魔法に回復魔法はないって……」
「人を治療するのはね。自分のなら勝手に魔力が傷を塞いでくれるんだよ。だから、魔力を持った王族は普通の人間より数倍丈夫なんだ」
だとしたらこの短時間でディラン様の傷が治ったことも説明がつく。もしかしたら、あの首輪が外れた瞬間から徐々に傷は治っていたのかもしれない。
「ベルはさ、俺のこと怖くない?」
私の髪を弄っていたディラン様の手が、いつの間にか私の手を握っていた。
この問いかけに含まれた意味は、聞き返さずとも理解することができる。あの牢屋で王妃様を魔力で捩じ伏せた時、恐らくその場にいたすべての人間が恐怖を感じた。普段なら感じることのない、魔力による威圧感と強者を前にした怯え。それは、もちろん私も感じたことで、怯えなかったのかと問われれば否と答えてしまうだろう。
だけど、それでディラン様を怖がるか、と言われればそれは違う。あの圧力の中でも、ディラン様が私を守ってくれようとしていたことは分かっている。
「怖くないですよ。ディラン様は、いつだって私を守ってくれますから」
宝石のように輝く瞳をまっすぐに見つめて微笑む。ディラン様ははっと息を飲んだように体を震わせ、瞳を潤ませた。
「こわく、ないの?」
「はい」
「俺は、魔力も強くて、その気になればすぐに人を殺せるのに」
「誰だって、人は殺められます。でも、そんなことしません。そうでしょう?」
「……ん」
宥めるような私の問いかけに、ディラン様は小さく頷いた。
「でも、魔力の制御方法はしっかり学んでおいた方がいいと思います。感情が乱れて魔力が暴走して、人を傷つけたら大変ですし……」
言葉の途中で、手を強く握られた。ゆるやかに手を引かれてディラン様の頬に触れる。
「ベルが……ベルが側にいてくれれば、感情が乱れることもないよ」
うっとりと、目を細めてディラン様が幸せそうに微笑んだ。思わず顔が赤らむ。
「ねぇ、ベル。あのさ」
ディラン様の声は硬く、手を握る力も強くなった。どうしたのだろうと顔を上げれば、緊張した様子のディラン様が私の視線から逃げるように目を伏せた。
「キス、していい?」
甘えるように首を傾げながら、ディラン様が問う。睫毛は伏せられたままで、照れたように頬が赤い。
私はボンッと爆発したように頬が熱くなった。
「え、あ、キス……?」
「うん、キス。今すごく、したい」
キス。嫌ではない。もちろん。だって好きな人だし。というか、前世は普通に恋人としていた。いまさら恥ずかしがることでもないのに、なぜこんなに羞恥心に襲われるのだろう。まるで恋を初めてしたかのような甘酸っぱい空気に、私自身が耐えられない。
いやいや、一体何を尻込みする必要がある! 好きな人とキスなんて幸せ以外の何物でもないはずだ。むしろラッキー。キスしたいって言われたことを光栄に思うべきだろう。
「お、お願い…します……」
私もキスしたいです、くらいは言えば良かったと後悔した瞬間、手を握られている方とは逆の手が首に回った。目を開けている訳にはいかないと、反射的に目を瞑る。
サラッとディラン様の髪が額を滑り、少し擽ったかった。触れるようなキスをして、すぐに離れていく。もうちょっと長くても良かったな、と思ってしまった。
「……やわらかい」
目を開ければ顔を真っ赤にしたディラン様が自分の唇を押さえて率直な感想を述べていた。女子よりも可愛らしい反応だ。
「ね、もう一回」
え!? もう一回!? と驚いたころには、また口が塞がれていて。ディラン様も多少は余裕が出来たようで、ちょっと長かった。
「はっ」
「ふふ、ベル息してない」
キスの後に息を吸う私を見て、ディラン様は可笑しそうに笑った。ディラン様は初めてでも上手にできているのに。
「ディラン様は、その、キスははじめて、ですか?」
「うん。ベルもだよね?」
「はい」
馬鹿だ。何故ファーストキスかどうかなど訊くんだ。これで初めてじゃないなんて言われたら死ぬほど傷つくくせに。でも、初めてとは思えないほど要領を得ていたので、驚いたのだ。
「初めてじゃなかったら?」
「怒ります。……どうしようもないことかもしれないですけど」
「はははっ、かわいい」
ディラン様は嬉しそうに破顔して、ぎゅっと私を抱き締めた。
「俺、今日寝れないかも」
「じゃあ、寝るまでずっとお話しますか?」
「え!? いいの!?」
キラキラと少年のように瞳を輝かせるディラン様に、にこりと微笑む。お泊まりに夜更かしは付き物だと思っているのだが、違うのだろうか。
「ディラン様は疲れているでしょうから、すぐ寝てしまいますよ」
「いや、ずっと起きておく!」
二人でベッドに潜り込み、枕元の小さなランプだけ付けて他の照明を消した。薄ぼんやりした部屋の中で同じベッドで寝るというのはかなり緊張する。
「ベル、ぎゅってしていい?」
「あ、そういえば抱き枕が無いと寝られない質でしたね。いいですよ」
すっごくドキドキするけれど、どうせなら私もくっついて寝たい。しばらく話していたが、案の定ディラン様はうとうとして返事もおざなりになってきた。ディラン様の眠気に誘われて、私も瞼が重くなる。
「そろそろ、寝ましょうか」
「……ベル、キスしたい」
寝ぼけ眼で私を見つめてねだる。私もぼんやりした頭のまま、軽く唇を合わせた。
「おやすみ、ベル」
「おやすみなさい、ディラン様」
ドキドキする暇もなく、暖かな微睡みに包まれた。




