第90話 『美しい化物』
突然聞こえた王太子の声に、ハッとして意識が戻された。その瞬間、王妃様に突き飛ばされる。体勢が取れずにこける、と思ったが、支えるようにぎゅぅと後ろから抱き込まれた。
「良かった……。無事で、本当に良かった」
安堵のため息を吐くディラン様に、小さく謝る。アズとシエルも呆然としていたし、私も怒りに身を任せるような軽率な行動だったと反省はしている。勿論、後悔なんて微塵もないけれど。
「ギルヴァルト! この娘を殺しなさい! 私を馬鹿にしただけではなく、暴力まで振るったのよ!?」
王妃様は牢屋を這いながら、王太子の足にすがり付いた。王太子は自身の母親を冷たい目で見つめた後、押し退けるように王妃様を振り払う。王太子に拒絶された王妃様は信じられないと目を見開いた。
「母上、貴女は自分が何をしたのか覚えていらっしゃらないようだ」
服のボタンを外しながら、王太子は淡々とそう言った。冷静ながらもその言葉には怒気が滲んでいる。
「貴女が躾と称して私を罰した痕です。正直、私は今立っているのも辛いんですよ」
憎しみの籠った瞳で王妃様を睨み付けながら、王太子は肌を晒す。包帯の巻かれた身体は痛々しく、所々血が付いていた。
「母上。貴女は人を見下し、人形のように操ることを至上としていた。本当に、どこまでも救いようのない愚者であり、罪人だ。貴女を牢屋に放り込む罪状はいくらでもあるんです」
「ギ、ギルヴァルト。貴方何を言っているの?」
「伝わりませんか? 貴女を牢屋にぶちこむと言っているんです」
どこまでも冷徹なその表情に、王妃様も冗談ではないと理解できたのだろう。ブルブルと肩を震わせる。
「私を、牢屋にぶちこむですって?」
ガッと王妃様が王太子に掴み掛かった。反動で王太子の身体がよろける。
「戯れ言も大概にしなさいよ! 誰が貴方を生んだと思っているの!? 誰が貴方を王太子にさせてあげたの!! 私よ! 全て、私のお陰なのよ! なのに、親の恩も忘れて罪人に仕立て上げるだなんてどれほど親不孝者なの!? 貴方は私の物! 生まれてから、死ぬまでずっとね!! 王座に座って、私に貢ぐお人形なのよ! 黙って私のいいなりになれ!!」
勢いよく王太子を揺さぶる王妃様の顔は般若そのものだった。アズとシエルが慌てて王妃様を王太子から引き剥がす。
「離せ! 私を誰だと思っているの! 言うことを聞きなさい!」
「━━先程、私を洗脳している、という言葉を聞きました」
王太子は無表情のまま、静かにそう言った。どうやら王妃様の声が聞こえていたらしい。
「そ、それは」
「聞きましたよ。しっかり。魔力も感じました。嗚呼、本当に、馬鹿馬鹿しい。幼い頃は、打たれることが貴女からの愛情表現だと信じていた。私を罰して、愛してると頭を撫でる貴女を、母親だと思っていた頃が懐かしい。……その、私を欲の籠った目で見るのが心底気持ちが悪いです」
「……っ……あ"ぁう……!」
王妃様は息を乱しながら、呻き声を発する。
「【離しなさい!!!】」
明らかに魔力の籠った命令に、アズとシエルは怯えたように力を緩めた。ミサンガは千切れてはいないようだけど、やはり慣れない圧には抵抗しにくいらしい。魔法なんて科学を越えた超自然だから、仕方がないことかもしれないけど。
王妃様は素早く二人を振り払って、王太子に近付いた。目の奥には、ドロドロとした激情が渦巻いている。私を抱き締めるディラン様の腕を握れば、優しく頭を撫でられた。
王妃様はその勢いのまま、王太子の首に手を回し、思い切り壁に押し付ける。ドンッと背中を叩き付けられる音がして、王太子が息を詰めた。
「【全員動くな】」
その命令は、恐らくミラ様の魔法よりもずっと強い。ビタッと動かなくなった体を、ディラン様は労るように撫でてくれている。あれ、ディラン様には魔法が効いてない?
「あぁ、背中の傷が痛いのね、ギルヴァルト」
王妃様は王太子の首を絞め、壁に押し付けたままズルッと上に滑らせた。
「ぐ、ぁっ」
「痛い? 痛いでしょう? そうよね、あぁ、綺麗。美しいわ。なんて甘美な喘ぎかしら!」
「ぅ、ぁあ」
「もっと啼いて! 私のために!!」
ギリギリと王太子の首を締め付ける王妃様に、王太子は苦しげに目を細めた。
視界の端には、駆け寄ろうとするアズとシエルが、グラディウスに止められていた。なぜ止めるのだろう。
「ディラン様……」
「ん? 怖いの? 目を覆っててあげようか」
甘い砂糖菓子のような溶けた声色で、ディラン様が優しく囁く。目を覆われたら、狂った王妃様と苦しさに喘ぐ王太子は見えないけど、声が鮮明に聞こえてそれもそれで怖い。
「なにを……なにをしている!!!」
突然その場に響き渡った声に、王妃様が息を飲む。なんだろう、とディラン様の手を退けて見ると、焦ったように怒りを露にした国王がいた。
驚いて、思わず平伏しようとするが、それはディラン様に止められた。あ、体が動くようになっている。
アズとシエルとグラディウスは丁寧に膝をついており、臣下として静かに頭を垂れていた。
「王妃! お前は王太子を殺すつもりか!? 明後日が戴冠式だというのに、一体どういうつもりだ!!」
もの凄い剣幕で怒り狂う国王に、王妃様も怯えたように王太子を離して平伏する。首が解放された王太子は激しく咳き込んだ。
「も、申し訳ありません! ですが、ギルヴァルトが罪人を解放したようなので……!」
「お前は、私の言葉を忘れたのか?」
国王の言葉は怒りで震えていた。
「私はギルヴァルトを王とする、と言っただろう。その王太子を殺して……お前はどう責任を取るつもりだ!! 私をいつまで王座に縛り付けるのだ!」
吠えるような剣幕に驚いていると、国王は王太子を睨み付けた。
「お前もお前だ! なぜ抵抗しない!」
「貴方には、私が必要でしょう。貴方の代わりに冠を被るための、生け贄が」
「…っ、ギルヴァルト、謀ったな!?」
「王太子殺しの容疑で、母上に罰を。陛下」
ギリギリと唇を噛み締める国王に、ああそういうことかと納得する。国王に期待はするなと言われていたが、この人が王という地位を嫌っているとは思っていなかった。
国王にとって、明後日の戴冠式はその責から解放される記念すべき自由への第一歩、と言ったところか。これでは、魔力量が減っているというのも嘘か本当か分かったものでない。そんなもの、本人が確認するしか方法はないのだから。
今まで傍観を決め込んでいた国王と言えども、王妃様の犯罪現場を目の当たりにすれば黙って見過ごすことなどできない。しかも、罪状は王族の殺害未遂。
「……ジェヴィーナ・トランス。お前の地位を剥奪し、王族殺しとして刑に処する」
「お、お待ち下さい、陛下!! これは、躾であって、決して殺そうなどとは……!」
「お前の躾など毛ほども興味がないが、私の目の前で罪を犯すな。見逃せなくなる」
「陛下! どうかお助けを!」
ボロボロと涙を流す王妃様と、呆れたように王妃様を見る国王。"国王は、最も恥ずべき傍観者"。王太子の言葉は正しい。この夫婦は二人揃ってとんでもないろくでなしだ。
「死んで罪を償うがいい」
「……っ、私が頭を下げているのが分からないの!?」
殊勝に頭を下げていた王妃様は鞭を振り上げた。
「もういい! 死ね! 全員死んでしまえ! 全部を壊して、私がこの国の王になる!! 【跪け!】」
感情が昂っているのか、桁違いに力が強い。ぐんっと重力が増したように地面に膝が着く。あまりの魔力に、その場の誰もが跪いた。
「誰に命令しているんだ?」
響いた声は、ディラン様のもので、驚いて彼を見る。一緒に跪いたように見えたが、よく見たら私に合わせてしゃがんでいるだけだった。
「お、おまえ!」
「そんなお粗末な魔法で俺を御せると思うあたり、笑えるね」
にっこり、といつも通り微笑むディラン様はボロボロではあるものの、足取りはしっかりしていた。
「ベル、大丈夫? 怖くない?」
「だ、大丈夫です。ディラン様が守ってくれるので……」
ディラン様は私の頬をするりと撫でてから、王妃様に向き直る。そして難なく立ち上がった。
「俺が心から慕い、従っているのは、ベルだけなんだよ」
ニコニコと笑みを張り付けたまま、ディラン様は首を傾げる。
「駄目だよね。俺の力を借りたいなら、まずはベルを大切に大切に、蝶よりも、花よりも丁寧に扱って、俺を信頼させてみせなきゃ。━━話はそっからだろ、クソ女」
パチンッとディラン様が指を鳴らした瞬間、王妃様が体を震わせて崩れ落ちた。バチバチと電気を帯びるディラン様に、王妃様を感電させたのだろうと気づく。
「これは、ベルを傷付けたお返し。死なないといいね」
王妃様の放っていた魔力が、ディラン様の魔力に押し潰される。皆が床に座り込んだまま、その場を支配するディラン様を見上げる。
そこには、美しい化物が悠然と佇んでいた。




