第76話 『似た者』
耳に膜が張ったように音が反響する。
体が誰かに揺すられているかのようにゆらゆらと前後した。
「……上……兄上」
静かに私を呼んだのはディランだった。時計を見ると随分と時間が経っている。
ぼんやりと寝惚けたまま、自分の状況を確認した。ミラの様子を見に来たのに、うたた寝をしてしまったようだ。
「……ディランか」
「義姉上の看病は結構ですが、こんな所で寝ていれば風邪を引きますよ」
ミラの暴走から一週間後、長期休暇を迎えた学園の生徒は現在帰省している。ディランもその一人だった。
未だに顔色の悪いミラを見て、詰めていた息を吐く。
「ベルティーア嬢は、ミラの処遇について何か言っていたか?」
「……いいえ、何も」
結局、ミラを正式に裁判で裁くことはできなかった。というか、そもそも訴えることさえできない。操られていた生徒は結局何も覚えていなかった上に、ミラ自身もどうやって精神魔法を使う術を手に入れたのか、肝心な記憶が消されている。未だに目を覚まさないミラがどこまで覚えているのかは分からないが、精神魔法を使った彼女が起きたあとも正気であるとは限らない。
暴走した後、ミラはかなり錯乱状態だったし、いつもに比べると思考回路が幼稚だった。精神魔法は、使用者の精神までも犯す魔法だ。目が覚めても、もう彼女は戻らないかもしれない。
「俺は別にいいんですけどね。義姉上が処刑されようが、死んでしまおうが」
「ディラン、口が過ぎるぞ」
ベルティーア嬢が聞いていれば憤慨するような言葉だ。彼女は、ミラが回復したら謝罪してもらうと眉を下げて笑っていた。
『ミラ様が傷付くことは望みません。彼女は十分咎を受けたと思っています』
意識を失い、ぐったりと横たわるミラを見舞いに来た時にそう言った。医者からは、諦めた方がいいかもしれないとは言われている。
ミラの命が危ういのに、私はもし彼女が亡くなった場合どうするか、ということを考えてしまっていた。人ひとりの命が懸かっているにも関わらず、どこか冷静に次を考えてしまうことに今回ばかりは嫌気がさす。
「まぁ、ベルが王宮に来る理由が出来た点では義姉上に感謝しなければならないですね」
いけしゃあしゃあとそんなことを言うディランに比べたら幾分か自分がマシに思えた。
「何度でも言いますけど、俺は義姉上を許さないですから」
「お前は本当に良い性格をしているな」
「ベルが怒らないからですよ」
「お前の婚約者なんだから、お前が守ってやれ。私のようにはなるなよ」
静かにそう言えば、ディランは黙ったまま何も言わなかった。雰囲気が変わったことに違和感を感じて振り向く。
「……気になるか?」
「当たり前です。ガルヴァーニの標的は、確実に俺ですから」
ディランはこちらを見ずに、ぽつりと答えた。ディランが聖書を開くことは無かったが、奴の魂が解放されたことの方が厄介だとようやく気付いた。あれは、私たちの敵う相手ではない。
ディランの魔力を持ってすれば互角かそれ以上にはなるが、私は完全に足手まといだ。
「ミラはディランを執拗に狙ったと聞いている。なぜだと思う?」
「義姉上の目的は、俺を絆して兄上側につけることでしょう」
「あぁ、王妃についても調べていたようだから、私が王位についたときにより戦力を集めるためだろうな」
「どのような形であれ、俺を手に入れるという目的のもとでは利害が一致していたんでしょうね」
しかし、あの賢いミラがディランを手に入れるという目的のためだけに禁忌に手を染めるとは考えにくい。何か大きな目的があって、そのついでとしてディランを手に入れようとしたのではないだろうか。━━例えば、婚約者である私の気を引くためだとか。
……だが、精神魔法を使う度に精神を犯されていったミラが正確な判断を出来たとも思えない。言動も微妙に辻褄が合わないし、おそらく被害妄想もあった。
それか、もともと精神的に病んでいたか。
可能性はいくらでも考えられた。ミラをここまで貶めてしまったのは他でもない私自身なのだ。
「兄上にしては随分と参ってますね」
「それはそうだろう。こうなってしまったが、ミラは私の婚約者なんだ」
「あの時、義姉上を説得した言葉は真ですか? 嘘ですか?」
ミラが暴走した日、廊下で説得を試みた時のことを指しているとすぐに理解した。ディランを見れば、彼も私をじっと見つめている。
その瞳の奥はぽっかりと暗く、この会話など彼にとっては全く興味のないものなのだろうと思わせた。それでも、聞かれたからには答えねばなるまい。ディランも被害者の一人なのだから。
「半分本当で、半分嘘だ」
「さすが、兄上ですね。素直で情に厚いながらも、傲慢な底知れない残酷さも兼ね備えているなんて」
貴方ほど悪辣な人間を、俺は知らない。
最後までディランが口にすることは無かったが、言外に言われたことは理解できた。ディランを甘やかしながらも、手酷く裏切ったこと。ミラを唆すような甘言を溢しながらも、見捨てるつもりでもあったこと。
情に厚い、確かにそうだろう。だけど、私は損得勘定で物事を見ることを忘れない。一人の命と、数万におよぶ民の命を天秤にかけたら、私は迷わず一人の命を切り捨てる。
ミラを罪に問わなかったことも、シャトレーゼ家とタイバス家を比べた結果であった。シャトレーゼ家の方が、王族を盲信しているからだ。
「もしも、義姉上が錯乱していたらどうしますか?」
「こちらに害を及ぼすようなら殺す」
迷いなく言い切った私の言葉にも、ディランが顔色を変えることはなかった。ただ、虚無を写したまま私を見つめる。
「周りにはなんと言い訳するんですか?」
「病弱な婚約者は風邪を拗らせてそのまま息を引き取ってしまった、と」
実際に今も、ミラは風邪を拗らせて寝込んだことになっている。起きたときに騒ぎを起こされると困るので、現在は王宮で治療しているが。
「シャトレーゼ家は王族に弱いですからね。義姉上を殺したところで、なにも咎めないでしょう」
「もしもの話だ」
淡々と、ただただ事務的に言葉を交わす。
「俺より質が悪いですよ。無害そうな顔をして、そんな残虐非道な行いができるなど誰が予想できますか」
「優しさばかりで王になれるとは思ってない。殺す時は親でも殺す」
「兄上の理不尽で容赦がない所は結構好きですよ」
「どの口が言うんだ」
形ばかりの笑みを浮かべたディランは面白そうにくつくつ笑った。
「王妃はどうするんです?」
「お前はさっきから質問ばっかりだな」
「兄上の考えを聞かない限りはどうも動けませんから」
それもそうか、と一人で納得した。
ディランは私に全く興味がない。ただ、自分に与えられた兄の臣下という職務をまっとうしようとしているだけだ。私は、ディランの何物にも関心がないことをひどく気に入っていたりもする。
「母上は幽閉だ。あれでも国母だからな。そう簡単に処刑台に登らせるわけにはいかない」
「思ったよりも優しいですね」
「直接手を下すまでもない。精神魔法を使っているならば確実に狂っているだろう。母上の野望を打ち砕き、何処かに閉じ込めればすぐに極限状態になる。そこにそっと刃物を差し出せば……自害して終わりだ」
ディランは「なるほど」と感心したように頷いた。
「慈悲深い兄上はそうやって実母を地獄に突き落とすんですね」
「私も、胸が痛まないわけではないぞ」
「そう言いながらも迷いが無いのが貴方の残酷な所です。結局自分が一番なんでしょう?」
「そうかもしれないな」
そろそろ自分も部屋に戻ろうと息を吐いて立ち上がる。
「一つ、私も聞きたいことがある」
部屋を出る前、そう問えばディランの意識がこちらに向いた。
「もしも、お前の婚約者を害したらどうする」
ディランは驚いたように瞬きをし、完成された笑みを溢す。
「もちろん、嬲り殺します」
非常に爽やかな笑顔のまま、そう吐き捨てた。私は可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「ベルティーア嬢以外に無関心なのはいいが、つまらない真似だけはするなよ」
釘を指すようにそう言えば、ディランは肯定することも否定することもなく仮面のような笑顔のままぴくりとも動かなかった。
言いたいことはそれだけだ、と言い残して部屋を後にした。




