第70話 『悪魔の喝采』
男はハットを深く被り大きなマントに身を包むことで、容姿も体格も隠している。かろうじて声で性別が男だというのは分かった。
「魔法道具の魔力を分散させて配ったのか。中々頭が回るじゃないか」
男の近くに転がっていたミラ様の愛し子を見て、にやりと嗤う。愛し子の腕にはミラ様がつけていた腕輪と同じようなものがついていた。
「ミラに、一体何をしたんだ」
王太子の硬い声色に、その場の空気がピリピリと緊張感を帯びた。男の目が帽子の下からちらりと覗く。その瞳は輝くような青色だった。
「僕は協力しただけだ。彼女がどうしても願いを叶えたいと言ったからな」
男はさらに続ける。
「だが、残念だ、ミラ・シャトレーゼ。お前は僕が思ったよりずっと甘かった。これは僕の落ち度だな。期待しすぎた」
パチンッと男が指を弾いた瞬間、ミラ様の腕輪が音を立てて割れた。ミラ様の口から苦しげなうめき声が漏れる。
「貴様……!」
「その腕輪が必要なくなったから魔法を解いただけだ。証拠があると困るからな。殺さないだけ有難いと思えよ。ついでに彼女の記憶も消しておいたから、僕に関することも全部忘れているだろうよ」
ミラ様は先ほどよりも顔色が悪く、ヒューヒューと喉から空気の漏れるような音がする。
「魔法は万能じゃない。精神魔法、攻撃魔法はあっても回復魔法なんて神掛かった魔法は昔から存在しないんだよ。つまり、削られたその女の生気も元には戻らない。残念だ」
その言葉に弾かれたようにミラ様に駆け寄った。まさかと思って脈をはかると、確かに弱々しい。元々、ミラ様は病弱だ。その上魔法で生気を削られたとなったら、命が危ないはず。
「王太子殿下、早くミラ様を医者にみせるべきです!」
「だが、今ここを離れれば……!」
悔しそうに顔を歪めた王太子を、男が嗤った。
「僕を追えなくなる、とか? 面白い冗談を言うんだな。そもそも、王太子、お前はどこから入ってきた? 王家の関与できない学園に無断侵入などこちらが訴えてもいいくらいだ。その権限が、僕にはある。なんせ、学園長だからね」
王太子は言葉に詰まったように奥歯を噛み締めた。
「この学園は、教会と同じ扱い、というのはさすがに知ってるだろ? ここは神聖な学園なんだから」
神聖な、学園。
この男は、この学園の正体を知っている。ガルヴァーニの大きな墓だという、その真実を。
男は自身を学園長だと言っていた。つまり彼はガルヴァーニの子孫であるということだ。さらにさっきの言い方だと、ミラ様に精神魔法を教えた張本人で間違いない。
そこから導き出されることはただ一つ。
学園長は、この男は、数百年前の王族であるガルヴァーニの可能性が高い。正確に言うのならば、ガルヴァーニに憑依された人間。
であれば、指パッチンだけで記憶を抜いたり、魔法を使えない人間に魔法道具を与えることも可能だ。だって、数百年前の王族など、どんな力を秘めているか分からない。
王太子も、ディラン様も顔を強張らせていた。私がこの結論を導き出せたということは、おそらく二人も気付いていたのだろう。
「自分が言ったことが、分かっているのか」
「お前たちが今気づこうが、後で知ろうが関係ない。圧倒的力の前では皆無力だ。そうだろう?」
その時、男からぶわりと溢れた殺気に、ゾッと背筋が凍る。そして自分の意思に反して体がガタガタと震えた。抱く感情は畏怖に近い。圧倒的強者を前にしたときの震えとよく似ている。
「ベル」
ディラン様に手を引かれて、ミラ様の側から離れた。そして守るようにぎゅっと抱き締められる。
「ディラン、そのままベルティーア嬢を放すな」
「言われなくても━━」
瞬間、自分の目を疑った。ディラン様の目の前に、男が現れたからだ。あんなに距離があったのに一瞬で詰められた。
ヒュッと喉の奥で空気を吸う音がする。
「ふぅん、この体の魔力でも足りないのか。震えてもいないし威圧にも負けない」
男のマントから、するりと腕が伸びてくる。黒く塗った爪が男の白い肌によく映えて不気味だ。私は、魅入られたように動けなくて、ディラン様にしがみついているのが精一杯だった。
男の指先がディラン様に触れようとしたその瞬間、ディラン様がハエを叩くかのようにパシンッと男の腕を叩き落とす。男は驚いたように目を見開いた。ディラン様はすかさず男の顎を手のひらで殴り上げ、鳩尾を蹴り飛ばす。
その一連の動作が速すぎて、気がつけば男は廊下の奥の方へ吹っ飛ばされていた。さっき男がいた位置よりもずっと離れた場所に倒れている。
「……ぇ」
私は、驚きすぎて声も出ず、痛いほどの静寂がその場を支配した。
「グラディウス、ハルナ! 拘束しろ!」
王太子の吠えるような声に、固まっていた二人が弾かれたように走り出した。
「あはっ! あはははは! すっげぇ!! 最高だ!」
グラディウスとハルナが驚いたのか、ピタリと止まる。ゆらりと起きた男は二人の隙をついて目にも止まらぬ速さで弾き飛ばした。グラディウスとハルナは受け身も取れずに壁に叩きつけられる。
「魔力なしが今の僕に敵うわけがない。あぁ、だがさっきのは良かった! やはり君は最高だよ、ディラン!」
なぜ、ディラン様の名前を知っているの?
底知れない不気味さを感じてディラン様にしがみつく。王太子も眉間に皺を寄せて苦い顔で唇を噛み締めていた。
「君の魔力は海のように美しく、広大で、深い! さらに洗練されれば、より美しい化け物になる!」
「余計なお世話だな」
ディラン様の冷たい声は、男の興奮した声色とは対照的だ。男は言い返されるとは思っていなかったようで、ぱちくりと驚いたように瞬きした。
「俺は自分の魔力も、魔法も、興味ない。ベルがお前に怯えていたから、邪魔だっただけだ」
冷えきったその表情は、男の殺気と同じほど威圧感があった。
「なるほど……君は本当に素敵だ。ただ一人の女性を思い続けるなんて、とても紳士じゃないか」
白々しく男はそう言ってから、私を見る。ドキリとして一歩後退した。男は何か心得たようににんまりと嗤う。
「じゃ、そろそろ僕は消えることにするよ。ディランにも会えたことだし。ミラ・シャトレーゼも早くしないと死んでしまうよ。手遅れかもしれないけどね!」
ばいばーい、とふざけたように手を振って、男は闇に溶けて消えた。ディラン様が、深呼吸するように息を吐いた。
「……色々気になりますが、俺はとりあえず学園の後処理をします。兄上は早く義姉上を治療してください。グラディウスとハルナはこちらでみます」
ディラン様がハキハキと指示を出す。さっきまであの男と対峙していたのが嘘のようだ。
「兄上はもう生徒じゃないので、この学園にいるのは少し立場が悪いかと」
「……あぁ、分かった。だが一つだけ、ディランとベルティーア嬢に言いたい」
王太子は考えるようにうつむいてから、ぽつりと話し出した。
「学園長は、ガルヴァーニと見て間違いないだろう。そして私が推測するに、奴はディラン、お前を狙っている。お前の、器を」
器……。つまり、ディラン様に憑依したいってこと……?
「……えぇ、それは、なんとなく感じました」
「決して油断するな。学園は奴の庭だ。まともに相手をするだけ無駄だぞ」
王太子はミラ様を抱えて、私の方を向く。
「お前もだ。ディランの側を離れるなよ。利用されたら、それこそ終わりだ」
「……はい」
きっと私は、ディラン様の弱点になりうる。なぜかそれだけは確信できた。
「取り敢えず、学園が休みの時……長期休暇の間は手を出してくることはないだろう。アイツが自由に動けるのは学園内だけだ」
「わかりました」
「それと、協力してくれたこと、感謝する」
王太子はそれだけ言うと、ミラ様を抱えてそのまま去っていった。解決したと思った出来事が、またとんでもない問題を抱えてきてしまったと深いため息を吐く他無かった。




