第59話 『罠』
「……ぴったりだ」
今日はダンスパーティー当日である。
ディラン様に頂いた夜空柄のドレスと揃いのヒールは私のサイズにぴったりだった。なぜ自分の服のサイズを知っているのかとても疑問だが、実家にいる私の侍女に聞けばすぐに分かることである。
ドレスが小さくて入らないよりはマシなのでほっと胸を撫で下ろした。小さくて入りませんでした、なんて恥ずかしくて言えない。
朝起きると爆発している髪のケアをこの一週間は欠かさなかったので、比較的穏やかだとは思うが何せ天然パーマである。15年付き合ってきたこの天パを馬鹿にしてはいけない。
ウィルも油断するとモジャモジャになるから、血筋だと思っている。ちなみにお母様は前髪までくるんくるんだ。
鏡の前でくるりと回るときっちりと巻かれた髪とドレスがふわりと靡いた。整った己の顔を引き立たせるメイクをこれでもかと研究してきた成果が今ここで存分に発揮されている。
濃いめの顔にできるだけ薄い色を乗せて、白い美肌を際立たせるような口紅を選んだ。美しい。きっと私は、今日このダンスパーティーで最も美しい華だ。
日常ではあまり考えないことではあるが、元々ベルティーアは美しい。それに加えて頑張って研究したお化粧とディラン様から送られたドレスを纏えばもう完璧である。濃い藍色とそれに散りばめられる金色がディラン様の色だと気付いた時の私の心情は筆舌に尽くしがたい。
目の色はもっと澄んだ青色かもしれないがそんなことはいいのだ。気持ちが大事。
ダンスパーティーは休日の夜に行われる。日の落ちた頃から、ポツポツと人が集まり生徒会長の挨拶の後で音楽が流れ出す。そして生徒は気ままにパートナーとダンスを楽しんだり、お菓子を食べたり談笑したりするのだ。
もちろん、その間はずっとパートナーと一緒である。
男性は女性をエスコートし、女性は男性にエスコートされる。本当に貴族のパーティーと変わらない仕様であるが、貴族の子供達はいつも学園の規則に縛られている反動でとても盛り上がるイベントなのだとか。
ディラン様はもう会場に行っている頃だ。生徒会長として執行部の指揮を執っているだろう。私やアリア、ハルナの女性陣は支度があるからとパーティー前の準備は来なくていいと言われた。正直助かったというのが本音である。
やっぱり完璧な姿で会いたいじゃないか。
「よし」
さぁ行こうと部屋を出るが、廊下には誰もおらず少し遅れてしまったかもしれないと一人で冷や汗をかく。なるべく早足で廊下を歩き、外に出て大きなホールに向かった。
辺りは暗くて、もう日が沈んだことを知らせている。あぁ、遅刻するならアリアと行けば良かった。アリアのドレスはどんな色だろうと一人でぼうっと思考を巡らせているとドンっとかなり大きな衝撃を感じ、次いで湿ったような感触がした。
「す、すみません!!」
暗くてよく見えなかったが人がいる。その人は怯えるような声を出しながら必死に謝っている。ポツポツとまだらにある街灯の光で薄ぼんやりと今の状況を飲み込む。
「━━え」
足元に転がる樽と、赤黒い水溜まり。樽からどくどくと何かが溢れる音がする。
肩口からドレスの裾にかけて、水浸しになっていた。
「すみませんすみません!! まさかまだご令嬢がいらっしゃったなど露知らず!」
使用人と思われる青年が焦りを多分に含んだ声色で必死に謝ってくるが、私は脳が追い付かない。
いまだに口の空いた樽からは液体が溢れていて私のヒールを濡らしている。匂ってきたアルコールの香りにこの液体がワインであることが分かった。よくパーティーで出される、度数の低い子供も飲めるワインだ。
この国では子供でも15歳からならお酒を飲むことが出来る。ただ、飲める度数は決まっていて、20歳になればさらに飲めるお酒の種類が増えるはずだ。ヒロインもお酒に弱くて、そんな設定があった気がする。
とてつもなくどうでもいいことで現実逃避を図るがそんなことで改善する状況ではない。だって、この人が樽を運んだままぶつかったせいで、私のドレスが、汚れた。
ディラン様から、もらったドレスが。
後ろからぶつかられたのか、背中の方もすうっと風が通るたびに冷たくなっていく。裾の方は濡れて重たくて、もう手遅れだった。
ヒールの中までワインが入ったせいで足先まで冷たい。しかも、髪にもかかった。
━━ふざけないで!!!
そう、怒鳴ってしまいそうなほど頭に血が上った。許されるなら平手打ちでもお見舞いしたい。
だって、これはディラン様からもらった特別なドレスなのだ。大切な、大切なディラン様の色があしらわれたドレス。
それを、こんな不注意で! 使用人ならちゃんと仕事をしなさいよ! 私のドレスのみならず靴も髪も汚してただですむと思ってるの!?
ベルティーアではないが、この時私は本気でそう思った。それほど腹が立ったし悔しさでいっぱいだった。
この人に怒鳴ってもどうにもならない。汚れたドレスは元に戻らないし、アルコールの匂いの染み付いた髪でパーティーになんか行けない。
巻きの取れた髪はしおらしくぺしょんとなっている。
私のドレスを汚した使用人はびくびくと震え、こちらを伺っていた。その顔を街灯の下に晒してあとで取っ捕まえたい。
ぼんやりと薄暗くしか見えないのが悔やまれた。涙を堪えて落ち着かせるように深呼吸をし、ひたすら謝る彼に声をかけた。
「……謝罪は結構です」
そう言うのが精一杯だった。
涙と怒りを堪えて絞り出した声は思いの外固く、掠れていた。それにまた涙が溢れそうになる。
許しを得た使用人は空になった樽を慌てて掴み、その場を逃げるように後にした。
「……どうしよう」
濡れたドレスはひんやりと私の身体を冷し、心まで凍らせる。しばらく放心していたが、ふらふらと光に集まる虫のようにホールの光の方へ足を動かす。
すでにパーティーは始まっているようで、ざわざわと人の囁くような喧騒がこちらまで聞こえた。
ホールに近づけば近づくほどドレスの惨事が露になり、涙が浮かぶ。こんな姿では前に出られないし、ディラン様にも顔向けができない。
たとえ私のせいでなかったとしてもディラン様から貰ったドレスを汚したなんて言いたくなかった。悲しげに笑う彼が容易に想像できる。
でも、行かないなんて選択肢もなかった。私は、ディラン様のパートナーで行かなければディラン様が恥をかくだろう。一人でダンスホールに佇むディラン様を想像して、ぞわりとした。王族の誕生日パーティーの時に王太子の後ろで控えていたディラン様と重なったからだ。
私は重たいドレスの裾を掴んで、ヒールが濡れているのも構わずに走った。そうだ。せめて、理由を話そう。遅れた私も悪かったし、怒られたら甘んじて受け入れる。今は、パーティーに参加せずディラン様を一人にすることの方がずっと問題だ。
走って走って、ホールの扉から中が見えた。
「………っは」
何度も上下する肩が、風に煽られて冷たい。
ホールの真ん中で、舞うように踊る人。金色を揺らして美しくしなやかにリードする。
自分の目が大きく見開かれたのが分かった。ぽろり、と堪えていた涙が頬を伝う。あぁ、最近は泣いてばかりだ、なんて頭の片隅で思った。
金色の、対であるような銀色。
ディラン様と、ミラ様が一緒に踊っていた。
「あ、あぁ」
情けない言葉が自分の口からこぼれたことにすら気づかなかった。それほど、衝撃的で目が離せない。
時折微笑み合う二人がお似合いで、私の入る余地なんかなかった。あの中に飛び出て、ディラン様は私のパートナーです、なんて言う勇気も無かった。だって、ミラ様はあんなに美しい。化粧で着飾った私が恥ずかしくなるほど彼女は美しかった。
ミスすることの無いステップと計算されたように舞うドレス。彼女の纏うショールがまるで天使の羽織る衣のようだった。一つの絵画のようで、神聖な二人。
ディラン様から貰ったドレスを汚して、巻きの取れたベタベタの髪で、私は一体どうしろと言うのだろう。その奥ではアリアとアズが踊っていて、理不尽な怒りや悔しさが私の身を包んだ。
最低だ。私はなんて最低で身勝手なんだろう。
ミラ様に対する嫉妬や羨望。好きな人と踊れるアリアにすら羨ましいと心が叫ぶ。ディラン様はどうしてミラ様と踊るの? 私をパートナーに選んでくれたじゃない。
嫌だ。醜い心が浮き彫りになって、目の前の光景との落差に目眩がする。すぐ目の前にいるはずなのに、信じられないほど遠い。
「こんなの、無理よ……」
震える声でポツリと呟けば、誰かが反応してくれることを期待した。誰も私がいないことに気付かず、楽しげに踊っていることに言い様のない憤りを感じる。
違うだろう。こんな感情は間違ってる。不注意だった私が悪いだけであって、パーティーを楽しむ人は何も悪くないのだ。
くるくると踊るミラ様が、扉の方を向いた。丁度そのようなステップで、不自然ではない。彼女の薄紫色の瞳が一瞬、私を捕らえ━━━━
愉悦に歪められた。
私は弾かれたように走り出し、気がつけばパーティーも放り出して自分の部屋に帰っていた。
「は、はぁはぁ……」
大きく見開いた目からはぼろぼろと涙が溢れていて、自分がどうしようもなくショックを受けていることを自覚した。理不尽な怒りが身を焦がし、あまりにも自分勝手に憤る自分が許せない。自分が、こんなにも嫉妬深い人間だとは。こんなにも我が儘な人間だとは思いたくなかった。
『貴女は、努力をしていない。愛される、努力を。ディラン様に見合うだけの才能も、魅力もない。目を引くような高貴さも儚さも、美しさも、残念ながら二流だわ』
『ディラン様に愛されていることが当然だと思っているでしょう』
『周りがちゃんと貴女を婚約者として扱ってくれることに感謝したことはある?』
こんな時に、ミラ様の言葉を思い出す。皮肉にも、今になって彼女の気持ちが分かる気がした。
「うぁ、ぁぁあっ」
パーティーの終わりを告げる綺麗な花火が、やけに眩しく感じた。




