第52話 『襲来』
自分の荷物を運びながら、早足で廊下を歩く。今日は日直だったことをすっかり忘れていたので連絡もしていないのに生徒会に遅れてしまっていた。
あまりに遅いとディラン様がとても心配する上に、私以外の人はお茶やお菓子を出すということを知らないので、皆お腹を空かせていることだろう。最近は生徒会の秘書というよりもなんだか母親のような立場になっている。一度、遅れた時に生徒会の面々からお茶をねだられた時は軽く眩暈がした。
シュヴァルツならばディラン様の世話をしていたので、一通りのことは出来るのではないかと一度聞いたことがある。しかし、私が出した方がディラン様が喜ぶとかなんとか上手く丸め込まれてしまった。自分でするよりも他人にしてもらった方が楽だと気付いた者の顔をしていたことは黙っていてあげよう。
今日はディラン様に頼まれた手作りのお菓子を持ってくる日である。生徒会みんなにバレたら取られることは間違いないのでひっそりと渡すことにする。以前バレた時にお裾分けしたのだが、ディラン様の機嫌がとんでもなく悪かったのでそれからは隠れて渡すようにしていた。
「もし」
リン、と聞き慣れない鈴の音がして、思わず足を止めた。そして遅れて、透き通るような綺麗な声がする。
自分が呼ばれているとは思わなかったが反射的に振り返ってしまった。
一メートルほど先にいたのは美しい女性。
豊満な胸に視線が釘付けになったが、その顔を見るとさらに胸が高鳴った。
透明感のある白い肌と、溶けてしまいそうなほど艶のある銀髪。肩に羽織った薄桃色の桜の花弁のようなショールも相まって、木の精霊のようだった。一瞬、冷たそうな印象を受けるが、ほわと花が開くように微笑まれる。
「ごめんなさい。急いでいたかしら?」
細々と、存在が消えてしまいそうなほど希薄だ。
「い、いいえ。私に何かご用でしょうか」
アリアとも、シエルとも違う独特の雰囲気。この人は、存在感が違う。
儚げでありながらも、りんと立つ美しさ。銀髪の珍しい髪色など、私は一人しか知らない。
恐らく王太子殿下の婚約者であらせられる、ミラ・シャトレーゼ様だ。
私は少し慄いてしまった。実際に会ったことはないものの、ここまで特別なのかと気後れしてしまう。同じ王族の婚約者でも、こんなに違う。
次期王妃という自覚なのか、受けてきた教育なのかは分からない。しかし滲み出る高貴さは今まで感じたことのないものだった。これが、王族の婚約者になる者の覚悟なのだろうか。
「初めまして。わたくしは王太子の婚約者、ミラ・シャトレーゼと申します。このような格好での挨拶をお許しくださいませ」
ふわりと微笑んで、彼女は軽く会釈した。私も慌てて頭を下げる。隣に立つのも恥ずかしくなるほど綺麗な人である。
「は、初めまして。第二王子の婚約者、ベルティーア・タイバスと申します」
つたない動きで挨拶をすれば、彼女は満足したように頷いた。……今までの人生で一番緊張しているような気がする。
「わたくし、貴女とお話がしたくて参りましたの。どうか、わたくしの話し相手になってはくれないかしら?」
敬語を外して、彼女が囁くように問う。断るなんて選択肢はなく、心のなかでディラン様に謝った。
ここまで丁寧に挨拶をされ、提案されれば外せない用事もないのに断ることはできない。
「よかった。婚約者同士、話したいことも沢山あるの。でも、ごめんなさい。わたくしは体が弱いので……わたくしのサロンで話しませんこと?」
「……サロン?」
聞いたことのない単語に首を傾げると、彼女はリィンと鈴の音を鳴らしながら本棟の生徒会室とは反対側を歩く。着いてきたら分かるわ、と美しく微笑まれれば、着いていく以外の道は無かった。
中庭を抜けて、ベルサイユ宮殿のような特別棟に入る。ここには豪華な本来の生徒会室があったはずだが、入り口は生徒会員のみがもつ専用のカードを像に差し込まなければ開かない。
戸惑っていると、ミラ様はさっさと宮殿の入り口の裏に回る。慌てて追いかけると大きな扉があった。
「……こんなの、前は無かったのに……」
「ふふ、わたくしが通ると現れるようになっていますの。あとはわたくしの愛し子たちが使うときに現れますわ」
愛し子……?
少し引っ掛かりを覚えたが、適当に相槌を打って先へ進む。
「魔法、ですか?」
「先人が残したものだと言われているけれど、詳細は知らないの。ごめんなさいね」
ミラ様はこちらを見ずに返事をして扉を開ける。
「わ、ぁ……」
大きな両開きの扉の向こうにはこの宮殿のような特別棟に相応しい応客室になっていた。
ところどころに咲いてある花はよく見たら鉢植えだが、全体が温室のように花で溢れている。大きなテーブルから小さなテーブルまで趣向を凝らした芸術品のような美しい家具がこの部屋をますます高貴なものにしていた。
中央の机には沢山のお菓子が並べてあって、私は思わず鞄に入った自作のお菓子を奥に詰め込む。
「さぁ、ベルティーア様。お掛けになって」
一番奥の特別大きなソファーの向かいに座るように言われる。私は高そうな家具に触れないようにその席までたどり着く。なんだか心労で一気に老けそうだ、とげんなりとした心地で腰掛けた。
「紅茶も出せなくてごめんなさい。いつもは愛し子たちが出してくれるんだけれど」
どうもわたくし一人では勝手が分からなくて、と彼女は困ったように笑った。
「ベルティーア様は生徒会に入っていらっしゃるでしょう? どのような役職についてますの?」
「えっと、秘書という立場になっています」
「秘書? 何をするのかしら?」
「主にディラン様の仕事の補佐、でしょうか。あとは給仕のような……」
言ってからすぐに後悔した。こんなの、雑用と自ら申告しているようなものだ。
「まぁ、すごい! 貴女はお茶を入れることが出来るのね!」
私の予想とは違い、ミラ様はキラキラと私を見た。ほっとして胸を撫で下ろす。
「雑用みたいなもので、あまり役に立っているようには思いませんが……」
「そんなことないわ。ディラン様もきっと助かっているのよ」
女神のような彼女に微笑まれると、まるで浄化されるような心地になる。気持ちがよくて、体が軽くなった気がした。
「そんな、光栄です」
「わたくしも、ギル様のお役に立ちたいわ」
ミラ様が、ふと声を下げて寂しそうに言う。その表情はどこか晴れなくて、なにかを憂いているようだった。
「……わたくしは、体が弱くてかの方に出来ることは多くはないの。だけどギル様の為になら、なんでもしたい」
彼女はふわりと微笑んで、泣きそうに目を細める。
「貴女もわたくしと同じでしょう? ディラン様を、愛しているのでしょう?」
私ははっとして咄嗟に言葉を返せなかった。
愛しているか。
それはとても重い問いで彼女の前で軽率にうなずくことができない。心から彼を慕っていて、本気で力になりたいと思っているミラ様にどうして嘘が吐けるだろう。
中途半端で曖昧な気持ちを彼女に打ち明けるのがとても恥ずかしいことのように思えた。
「……ベルティーア様?」
「あ、はい。ごめんなさい。少し考え込んでしまって」
薄紫色の瞳にじっと見つめられてたじろぐ。なぜ、こんなに心が乱されるのだろうか。
「よかった」
ぽつり、と呟いたミラ様の言葉がやけに耳に響いた。縫い止められたように彼女から目が反らせない。
「……え?」
「貴女は、ディラン様に愛をお持ちではないのね?」
どきりとして、思わず立ち上がった。
「そ、そんなことはありません!」
「友宜や同情だけでは、お互い苦しいだけではありませんこと?」
ぐっと奥歯を噛み締めて、手を強く握る。図星だった。
「王家の婚約者、というのは王家にとっても国にとっても大きな意味を持ちますわ」
ミラ様はあくまでも冷静に、私を見据えた。
「さぁ、少し落ち着いて。わたくしも踏み込みすぎたわね」
ミラ様はすっと立って、落ち着かせるように私の背中を擦る。は、と息を吐いて、ようやく自分の失態を自覚した。
「申し訳、ありません」
「気にしないで。わたくしも悪いの」
ミラ様はゆっくりと私の頭を撫でた。ソファーに座りなおすと、彼女が私の手を握る。
「……落ち着いた?」
「……はい」
恥ずかしい。こんなことで取り乱すなんて本当に恥ずかしい。
「ご迷惑を……」
「いいのよ。━━ただ、ひとつだけ、お願いがあるの」
握られている手から視線を上げると彼女の美しい銀髪が目に入る。場違いにもそれに見惚れていると、チリンと彼女の腕輪が鳴った。
「貴女がディラン様を愛していないのなら、わたくしに彼をくれないかしら?」
綺麗な笑顔とは真逆の言葉を言われて、私は驚きに声も出ない。ただ、呆然と完璧な微笑を浮かべる彼女を見つめることしかできなかった。




