第42話 『失態』
あまりの威圧感に、胸が圧迫されるようだった。アリアの表情も緊張で固まっているがその睨み付けるような視線だけは、ずっと私の背後に向いていた。
意を決して振り返る。後ろには、満面の笑みを浮かべた王子がいた。
「王子……」
にっこりと微笑んで佇む王子は、背も私よりずっと高くなって、アイドル感が増している。だけど同時に形容し難い空気も纏っていた。
王子はふっと目元を緩ませて、安心させるように首を傾げた。ゾッとするほど計算しつくされた完璧なその仕草に悪寒が増長される。
「ベル、入学おめでとう。君はベルの友達?」
王子の視線がアリアに向かった。
ピクリと肩が揺れ、アリアの瞳に不安の色が浮かぶ。その様子は王子に会えて嬉しいと言うよりはまるで怯えているようだった。
「……アリア?」
思わず声を掛けると重圧が更に増えた気がした。ちらりと私を見たアリアの眼が余計なことをするなと訴えてくる。
ただ事ではない、と大人しく口を閉じる。
「お初お目にかかります、殿下。アリア・プラータと申します」
ゆっくりと淑女の礼を取る彼女はさっきまでとは別人だった。がさつな彼女がこんな繊細な動きをするなんて。相当努力したに違いない。
「あぁ、君がプラータ家の……」
プラータ家と言えばタイバス家程ではないがかなり上級の貴族である。王子はその言葉を確かめるように復唱して、目を細める。
その表情はヒロインに一目惚れしたようなものではない。笑いながらも、瞳は冷ややかに彼女を見下ろしていた。
「じゃあさ、知ってるよね? プラータ家の当主に忠告されてるでしょ?」
「……勿論です、殿下」
アリアの声は緊張で震えているものの、瞳はずっと王子を睨み付けるように光っていた。
私は内心彼女を称賛する。この空気で屈しない彼女はやはり強い。
「彼にもちゃんと伝えておいてね?」
「……御意に。では、私はこれで。殿下、ベルティーア様、失礼します」
綺麗にお辞儀をして、颯爽と帰ろうとするアリアを私はポカンと見つめる。通りすがりにごめんね、と言われた。正直、今王子と二人きりにして欲しくない。嫌な予感は私を威圧するような空気で感じる。
呆気にとられていると王子がこちらを向いた気配がした。
「さて、ベル。ここで何をしていたのかな?」
「え?」
ふと王子を見上げて、心臓が凍る。
いつも笑顔の王子が笑っていない。そう、真顔なのだ。笑みを浮かべていた形のいい唇は真一文字に結ばれ、優しさを湛えていた瞳の奥は寒気がするほど冷たい。
さっと自分の血の気が引いたのが分かる。
何度か王子が本気で怒った場面を見たことはあったが、少なくとも、私は彼のこんな表情を見たことが無かった。
怒りと、失望と、落胆。沢山の負感情をごちゃまぜにしたような表情をした王子がいる。
「ベル、俺は怒ってるよ」
見たら分かる。王子の怒りは、怖い。王太子と喧嘩したときと同じような雰囲気を感じた。
知らず、私の手は震えていた。王子の雰囲気は普通じゃない。魔力を保持しているからなのか呑み込まれるような恐怖を感じる。
私がガクガク震えていると、王子は打って変わってニッコリと笑みを浮かべた。私にはどうやっても悪魔の黒い笑みにしか見えない。
「ベルの好きな人って彼?」
「へ……?」
彼って、アズのこと?
アズ以外に彼と呼ばれるような人物に私は会って無かったから、そのはずなんだけど。まさか見られていた?
しかし、ここで頷くほど私は馬鹿じゃなかった。見られていようが見られてなかろうがそんなことはどうでもいい。取り敢えずこの場を乗り切ることしか頭に無かった。
「いえ、違います。彼は友達です」
王子が無表情に戻り、瞳が剣呑さを増した。
思わず両手を握りしめる。
「へぇ、友達の彼のことは愛称で呼ぶのに俺のことは一回も名前で呼んだことないよね? 王子、王子って。君のなかで俺は彼よりも下の存在なんだね。それとも友達以下かな?」
「そ、そんな、つもりは……」
そんなつもりはなかった。王子を名前で呼ぶなんて、失礼で図々しいことだと思っていたから。いや……深い関係になるのを恐れていたからかもしれない。実際、王子をディラン様と呼ぶのは側近であるシュヴァルツだけだ。
上手く言葉を見つけられない私に王子は追い討ちをかける。
「しかも、友達なんて、懐かしい響きだと思わない? ━━ベルが、最初に俺に言ったことと同じだ」
何も言えなかった。
「あの言葉を俺にくれたのはベルだろう? どうして他の男に言う必要があるの? 俺に言った言葉は嘘だったの?」
王子の瞳が私を責めている。
偽善者ぶるな、と暗に言われているような気すらした。
図星、なのか。
だからこんなに私は動揺してしまうの?
違う、と何処かで声がする。私は王子と上辺だけで付き合っていたなんて思ってない。本当の友人のように思っていたし、前世の親友と並ぶほど信頼していた。それだけの時間を過ごし、小さな喧嘩をした記憶もある。
なのに、こんなに胸が苦しいのは王子に信じてもらえてなかったからだ。彼の目に、私は偽善者としてしか映っていなかった。それが、途方もなく悲しい。
ショックで俯く私の顔を王子が両手で包み込んだ。恐る恐る上を向くと王子の美しい顔が悲しみで歪んでいるのが目に入り、私はハッと息を飲む。
「ベル、君は美しいよ」
王子は私のアイスグレーの髪を優しく持ち上げて軽くキスをする。
私は呆然とその光景を眺めていた。捨てられた仔犬のような潤んだ瞳が切なくて胸がギュと締め付けられる。
そうだ、何も私だけが悲しいわけではない。王子も彼なりに、思うところがあるのだろう。婚約者である私が未だに名前を呼ばないというのは確かに可笑しなことである。
「……ベルは俺を受け入れてくれたんだと思っていた。でもそれは勘違いだったみたいだね」
「違います!」
咄嗟に反応したのは私だった。
私はアズと友達になりたかっただけで、王子を蔑ろにしようとなんて全く思っていない。
その言葉に、王子はくしゃりと顔を歪める。
「俺ってベルの婚約者だよね?」
王子の年相応の表情なんて初めて見た。
子供が親に縋るように私を力強く抱き締める。
「ベルは、俺のものだよね?」
………ん? それはちょっと違うと……。
抗議しようと顔を上げると、またもや悲しそうな瞳と目が合って、言いたいことが頭から吹っ飛んでしまう。どうすれば彼を慰められるのかと、そちらばかりに頭が働く。
伊達に何年も婚約者やってないし、やっぱり情も移る。彼には幸せになって欲しいから、尚更。
「俺は産まれてから母親に会ったことがない」
ポツリと耳元で王子の声がした。
凪いだ声色だった。
「俺は、いつも独りだ。父上にも兄上にも疎まれて邪険にされる。誰も俺を見てはくれない」
だから、俺、可哀想でしょ?
王子の本心が垣間見えるようで、心が震えた。胸の前で手を握り、王子を下から懇願するように見上げる。
「違います。王子は、独りなんかじゃありません。私がいます。シュヴァルツもいます。ウィルだって、貴方を慕っています」
王子が抱き締める力を緩めた。肩に手を置いて向かい合う。なんとも言えない、残念そうな表情をしていた。
「……そうだね」
俯いて、長めの前髪が王子の顔を隠す。
しかし、不意に肩に力が加わり、凄い勢いで壁に縫い付けられた。背中を軽く打ち付けられ、一瞬息が詰まってうっと声が漏れる。
「なら、言い方を変えるよ」
見上げると王子は不敵に笑っている。だけどどこか寂しさも窺える顔だった。
「俺をちゃんと君の婚約者にして」
一瞬では意味を理解できず、王子を見つめたまま固まってしまった。王子は構わず続ける。
「将来俺と結婚して、子供産んで、死ぬまで一緒にいるってこと、ちゃんと自覚してる?」
品定めされるような視線を感じて、思わず目を反らしてしまった。
駄目だ、動揺している。
アリアが親友だったことも、ヒロインが王子を選ばなかったことも私にとっては大きな問題で、想定外のことだった。
色々整理したいのに、王子からのこの追い討ちをかけるような質問。
言葉を選んでいる暇なんか、与えてくれない。思考を奪うような言葉の数々に私の脳内は白旗を上げていた。
正直に言ってもいいものだろうか。
私は、貴方と結婚する気なんて微塵も無かったのだと。いつかピンク髪の少女と恋仲になり、その行く末を私は端から応援するつもりだったのだと。でも、どうやって言うの? 今の王子にそれを言ったところで火に油を注ぐようなものだ。
「え、っと……」
しかも、言い淀んでいたら更に雰囲気を悪くする。何て言おう。何て言うのが正解なんだ。
「……あ、私は……」
撹乱した頭でも、なんとか自分の言葉を捻り出そうとした時、ふわりと抱き締められて頭を撫でられた。王子の匂いが鼻を擽る。
「ごめんね、困らせちゃったね」
王子の声色から落胆しているのが分かった。
それなのに尋問のような質問が止み、安心してしまう自分にほとほと嫌気が差す。
「す、すみません。新しい環境で慣れなくて緊張していたもので。知り合いがいたせいで舞い上がってしまいました」
今度はゆっくりとはっきり話すことが出来た。王子からは魔法で作られたあの花の匂いがする。
「王子以外の殿方と話してしまったのは、私が軽率でした。すみません」
「二人きりで居るのはちょっと見逃せないかな」
「ご、ごめんなさい」
労るように頭を撫でられてほっとする。
こんなことで許された気になって安心するなんて、我ながら現金なものだ。
「怒ってない。もう怒ってないよ。……だからせめて名前で呼んで欲しいな」
ポツリと呟かれた言葉に私は顔を上げた。
これまでの凍るような視線ではなく、とても暖かい瞳が私に向けられる。
「お願い。呼んで?」
「……ディラン様」
もはや、名前で呼ばないなどという選択肢はない。私の勝手な考えで、王子……ディラン様を傷付けてしまった。これからは決して王子とは呼ばないようにしよう。
一人で決意を固めていると、耳元に口を寄せられた。
「友達を作るのは良いことだよ。彼と仲良くすることも。……だけどね、これだけは覚えておいて欲しいんだ」
ディラン様が囁くように耳元で話す。息が当たって少しくすぐったく感じた。
「あまり仲良くし過ぎると俺、何しちゃうか分からないよ?」
低い低い、聞いたこともないドスの効いた声にゾワッと背中に悪寒が走る。ディラン様を怒らせれば私の命はない、と思わせるほどの威力だった。
私は、コクコクと首振り人形のように全力で首を縦に振ることしか出来なかった。




