第109話『狂宴で踊れ』
誰かの心が、グシャリとひしゃげる音がした。
水面に潜っていたようにぼんやりとしていた意識が一瞬で引き揚げられる。
まるで自分が感じたように身体中を痛みが襲った。あらゆる艱難辛苦が、私の心を締め付けた。私がこれだけ苦しみを感じているということは、ディラン様はその倍、この感情を直に感じている。
気が付けばディラン様の記憶は終わっていて、暗い深海のような場所にいた。上も下も、闇ばっかりだ。もしかして、これがディラン様の心の中なのだろうか。
真っ暗で、何もない。悲しいほどに冷たいだけ。
ふと、眼下に光が煌めいた。反射的に下を見れば、ぼんやりとした明かりとそれに照らされる人物。暗闇の中、浮かぶランプに照らされた人がゆっくりと顔を上げた。暗い、暗い瞳が鈍色に光る。
いつもは宝石のように輝く瞳が、闇に沈んだようにどす黒い。
ディラン様!
叫んだつもりなのに、声は届かない。空気が無いみたいに音が届かないのだ。思い切り伸ばした手は、何かに弾かれた。気づいたときには物凄い力で後ろに引っ張られており、ディラン様から遠退いていく。
待って、私はまだ……っ!
◆◇◆
突然、目の前に現れたのは二人の子供。
一人は特徴的な菫色のつり目に、緩やかなウェーブを描く髪の美少女。もう一人は、金髪に碧眼の麗しい美少年。
どう考えても私と王子だった。
ゆっくりと辺りを見渡すと見たことのある庭。秘密基地だと四人で遊んだあの庭だった。バラが咲き乱れ、無造作に草が生えている。テーブルもイスも変わらなくて、数年前にタイムスリップしたみたいだ。
「あーあ。来ちゃったんだ」
ディラン様が突然立ち上がってうっすら笑った。そして少女に手を差し出して立たせて上げる。少女はにっこりと微笑んだまま迷うことなくその手を取った。
私のはずなのに、全然雰囲気が違う。すごく女の子らしいというか……。自分なのに悔しい。
「ありがとう、ベル。でも本物が来ちゃったから」
少女の私は笑ったまま了解したように頷いてすっと消えていった。思わず瞠目する。
「俺の世界へようこそ、ベル」
腕を広げて、演技かかったような声色でディラン様は言った。顔や体格は少年そのものなのに、表情がひどく大人びている。
「だけどねぇ、いくらベルだからって俺の心にはあまり入ってほしくないなぁ」
にこにこと微笑みながら少年は続ける。
「聞かせてよ。ねぇ、何しにきた?」
晴天が一転して曇り空に変わる。王子の心の中だから自由自在のようだ。バラの茎も一気に伸びて逃げ道を無くすように私たちを覆った。私は小さく息を吸い込んで、笑う。
「貴方に会いに来ました。この通り、身一つで」
私も腕を広げて防御力0であることをアピールする。そう。私も精神剥き出しの状態でここにいる。ここで傷付くと精神に響くのかな。分からない。今はただ、ディラン様を連れ戻すことだけ考える。
「あは!」
鋭い笑い声がした。
「あはははは! 馬鹿だね、馬鹿だね馬鹿だねぇ! 俺はディランじゃないよ。ただの管理人。本体はあっち」
少年が狂ったように笑い、後ろにいつの間にか現れた扉を指差した。パチンッと指を鳴らすと扉が開く。扉の奥は真っ暗で、まるで先ほど見たブラックホールみたいだった。
「どう? すごいでしょ。もう真っ黒。堕ちるとこまで堕ちてるの。怖いよね。呑み込まれちゃうよ」
クスクスと愉快そうに笑いながら少年は狂喜を浮かべる。本能的な恐怖を感じた。駄目だと心が警告を鳴らす。確かに、これは耐えれるとは言い切れない。
思いがけず足一歩後ろに引くと、ぐんっと引っ張られた。
「え」
踏ん張る暇もなく、扉の中からのびてきた鎖のようなものに腰や腕を巻かれて引き込まれそうになる。ひっ、と短い悲鳴が漏れた。
「はぁ、落ち着けよ。ホントに弱いなぁ」
ディラン様がもう一度指を鳴らすとバタンッと扉が閉まった。と同時に鎖も消える。
ふらふらと座り込んでしまった私を少年は屈んで覗き込んだ。
「ね? 止めてた方がいいよ。知らない方が幸せなこともあるでしょ? ほら、お帰り。帰り道は用意してあるよ。だいじょーぶ。俺に任せて。いつかきっと、俺だけを見るようになるよ」
だから、俺のことは知らないで?
私の頬を両手で包んで、にっこり笑う。
分からないよ。
ねぇ、ディラン様。
私、言ってくれなきゃ分からない。
知りたいんだよ。ずっと隠そうとするじゃない。何も教えてくれないじゃない。
そんなの、そんなの。
「ズルいです」
ピクリと少年の手が震えた。
「私ばっかり」
じっとディラン様の青い瞳を見つめていると、ゆらりと動揺したように揺らいだ。図星だと確信する。
「本当は自分を知って欲しいんでしょう。でも、怖い。嫌われてしまうかもしれないって恐れてる」
「違う。そんなのじゃない! 俺はただ……」
「守ってばっかりです。保身に走るのは悪いことではありません」
頬に当ててあったディラン様の手を今度は私が両手で包み込む。
「ですが、変わりたいのなら進むしかない。ディラン様、本当にこれでいいんですか? お互いを本当に知らないまま、このまま終わりますか? これは最初で最後の最大のチャンスですよ」
ゆらゆらとディラン様の瞳が潤んだ。
ああ、この眼は見たことがある。
きっと彼は幼い頃から変わっていないのだ。精神が脆弱なまま、大人になった。あるいは『先祖返り』として生まれた宿命か。
ゆっくりと立ち上がって、扉に近づく。
ドアノブに手をかけると開けろと言わんばかりにガチャガチャと震えだした。
「やめて!」
後ろから悲鳴のような声がし、思わず振り返る。
「お願い、俺を暴かないで。だって、ベルだって、俺を受け入れてくれるか分からない。知られて、拒絶されたら恐い。だから、止めて。怖い。怖いよ」
目に涙を浮かべながらディラン様は懇願する。しかし、私も引くつもりは毛頭無かった。だって、貴方を受け入れるために、知るために私はここに来たのだから。
「私だって、自分を犠牲にするつもりで来てますよ。ほら、だって完全に生身ですし」
ここはディラン様の心の中だから、分は確実に向こうにある。私だって、生ぬるい覚悟でここにいるわけじゃない。どうなるか想像もつかないし、当たり前だけど怖い。
だけど、何もしないなんて、それこそ勿体無いから。本当の意味で向き合わなきゃ、きっとこの人は何も変わらない。永遠に誰も信じることができずに、独りだ。一生寂しさにうち震えて生きていくなんて、許さない。
肩を竦めて、少しお茶らけてみるもディラン様は唇を震わせるだけだった。
「もし、もしもベルが……俺を受け入れられなかったら……?」
ぶわりと風が吹いて髪が巻き上がる。
空はいよいよ暗くなり、雨が降りそうだ。
「逃がさない。逃がさないよ。俺から逃げるなんてそんなことさせない!」
一瞬、大人のディラン様と姿が重なった。
「じゃあ、こうしましょう」
私は人差し指を立てて挑発するようにやりと口角を上げた。
「受け止めきれないときは、私も一緒に堕ちてあげます」
ディラン様の表情が一変した。驚きを隠さず、ぽっかりと口を開けている。私もディラン様が好きなんだから、好きな人を知りたいと思うのは普通でしょ? だから、心を暴く分、それに伴う危険も責任も、ちゃんと取る。
ディラン様は硬直したまま動かない。
そんなに信じられないか。
「ふふ、大丈夫です。ちゃんと助けてきますよ。なんたって、私は強いですからね」
ドアノブに手を掛け、がちゃりと回した。
◆◆◆
ベルは迷いなく闇の中へ落ちていった。
俺が指を鳴らさなければ開かない扉は簡単に開き、ベルを呑み込もうと大きく口を開けたまま。
「は、はははは!」
どうしよう。
笑いが止まらない。
どうやら俺はとてつもなく運がいいらしい。
「聞いたか、ディラン!」
大声で叫び、指を鳴らす。
扉が閉まり、勝手にバラの蔓が扉を塞いだ。
これでベルは出てこれない。俺の闇に閉じ込められて、あぁ、精神まで一体になったら素敵だね。圧力で潰して、ボロボロになった所を俺が優しくなおしてあげる。
「めちゃくちゃにしちゃえ」
いいんだ。もう、きっと誰も俺を愛してはくれないから。




