第105話『カサンドラの警告』
「ふざけるな、ふざけるなふざけるな!!!」
青年は赤い瞳を憎しみに染めながら目の前の男を力一杯睨み付けた。一方、睨まれた男はどこ吹く風といった様子で、興味なさげに本のページを捲っている。
「騙したな、僕を! お前は最初から、ディラン様を利用するつもりだったんだな……! だから、僕に近付いた!」
「だったら何? シュヴァルツは僕の計画に必要だったんだ。そこそこ役に立ったよ」
「ディラン様を解放しろ!」
「お前は本当に愚かだね」
水色の髪を揺らし、ガルヴァーニは馬鹿にするようにシュヴァルツをせせら笑った。本を閉じて椅子から立ち上がる。
「お前は僕に逆らえない。なぜか分かるか?」
シュヴァルツは懐に忍ばせた短刀に手をかける。殺してやる。絶対に。
「僕がお前の主の始祖だからさ」
常人では目で追えないほど素早く刃を薙いだつもりだった。しかしそれは自分と同じ髪、同じ瞳の色の人物に止められた。
「姉上……っ!」
「シュヴァルツ、私は弟を手にかけたくはない」
困ったような声を出しながらも、それを一切表情に出さないのが彼女だ。弟であるシュヴァルツと鉄壁の無表情はよく似ている。
「遅いよ、ルスト」
「申し訳ありません。仕事が立て込んでまして」
「ちょっとちょっと、いつの間に教師に転職したわけ? お前は僕の側近だろ。僕を守るのが仕事じゃないか」
「おっしゃる通りで」
姉相手は分が悪いと分かっていながら、シュヴァルツの短刀を握る手は怒りに震えていた。侮辱された。自分を、なにより、敬愛する主を、この男に。その感情だけがシュヴァルツを支配していた。
「話そう、シュヴァルツ。弟であるお前と戦うのは本意ではない」
「お戯れを、姉上。僕はそいつを殺します」
「口が過ぎる。そう、己を恥じなくてもいい。私たちリーツィオ家はどうあがいてもガルヴァーニ様には逆らえない。だから、お前の選択は間違っていなかった」
「自分の主を侮辱されてもですか……? 自分の敬愛する主をここまでコケにされて、利用されて、陥れられて、黙っていろっていうのかよ!」
「それに加担したのは他でもないお前だろう?」
「……っぅ、だからっ……! だから、不甲斐なくて怒りが収まらないんです……っ!」
シュヴァルツの実家、リーツィオ家は現在ヴェルメリオ王国でそこそこの地位についている大臣である。しかし、その影は薄く政に関与することは基本的にない。ただ、慎ましく己の領地を守り、淡々と事業を行う。そういう意味ではベルティーアの実家であるタイバス家と似たような境遇であると言えるだろう。
しかし、リーツィオ家の特異さは、その影の薄さであった。政にも関与せず、長い歴史があるわけでも、王家と仲が良いわけでもない。にもかかわらず、大臣の地位に居座り続け、付かず離れずの距離感を上手く保ってきた。
これは、リーツィオ家の初代当主がガルヴァーニの腹心であることが理由であった。遠い昔の契約により、リーツィオ家には地位の保証がされてある。これはガルヴァーニの遺言を初代国王ヴェルメリオが叶えた結果だった。
ガルヴァーニの腹心であるリーツィオ家は彼の血筋の人間にしか仕えない。だからこそ長女のルスト・リーツィオは蘇ったガルヴァーニに仕え、シュヴァルツはその血を引くディランに仕えることになった。
シュヴァルツがディランに仕えることは必然だった。そうなるように、手配された。それでも、"主に尽くす"リーツィオ家の血はシュヴァルツの血液にも色濃く受け継がれている。主を、ディランを慕わないなど彼の選択肢には無かった。
なのに、敬愛する主を、シュヴァルツは再び裏切ってしまった。ただ彼を一番にしたいという願いがとんでもない結果を招き、主に消えない傷を負わせた。もうどんな顔をして主の前に現れればいいのか分からない。どうせなら、この首を差し出したい。それで許されるなら、ディランの心が晴れるのならば命さえも差し出す覚悟だった。
「僕は、馬鹿だ。愚か者だ。ディラン様を、二度も傷付けるなんて……っ。きっともう、捨てられてしまう」
「だから言ったんだ。主の側を離れるな、と」
姉はシュヴァルツの何枚も上手だ。彼女の言うことはいつも正しい。
「主が我々より賢く、尊いことなど、当たり前のことだ。だから、シュヴァルツ、お前は己の主に縋るべきだった。額を床に付け、最善の策を尋ねるべきだった。お前の主は必ず教えをくださっただろうに」
冷ややかな姉のその瞳に、目を反らしたくなる。だけど、反らしては駄目だ。自分の愚かさを噛み締めなければならない。生きて、ディラン様にこの首を差し出す。それまでは、死ねない。
「その前に、お前を殺す。ガルヴァーニ」
「いいね! そういうの好きだよ! 君はかつての側近によく似ていてなんだか懐かしくなるよ。僕が相手になってあげ」
「私が相手になりましょう」
「え、今僕の言葉遮った?」
「ガルヴァーニ様。シュヴァルツは腐っても私の弟。身内の粗相は責任を持って処理致します」
「え、あ、うん。よろしく……?」
ガルヴァーニはしばらくポカンとしていたが、「まぁいっか! ルストの我が儘なんて珍しいもんね!」と軽薄に笑っていた。
「最後の慈悲ですか、姉上」
「甘いことを言うものではない。我が主を殺したければ、私を殺して行くんだな」
「えぇ、もちろん」
主のためなら、同族殺しさえ厭わない。そんな家に生まれたことを姉と対峙して初めて恨めしく感じた。
しかし、その感傷もすぐに消えていく。何も思わない、何も感じない。すべては主のためだ。姉を殺して、ガルヴァーニを殺す。それが、シュヴァルツに残された最期の償いだった。
◇◆◇
姉弟が殺し合う様を、ガルヴァーニはニコニコと見守っていた。
「懐かしいなぁ。ヴェルメリオと殺し合ったころを思い出すよ」
謎の感傷に浸りながら、しかし悲しみなどは生まれない。そんな感情は、もうとうの昔に消えてしまっていた。長い長い封印の過程で、ガルヴァーニの魂は削りに削られている。しかし、ラプラス・ブアメード、この体には適応できた。削られた魂が癒されるような不思議な心地は離れがたいものだ。ガルヴァーニの魂に統合されたラプラスの魂は、まるで消えた穴を埋めるようにぴったりだった。
こんな偶然があるだろうかと、不気味に思いながらも運が良かったとガルヴァーニは思っている。年若いラプラスの人生を、時間を、肉体を、魂を奪ったことに罪悪感など感じたこともない。
ただ、彼が何の抵抗もなく自分に体を明け渡したことは気持ちが悪いと感じていた。
「気にしない、気にしない!」
すべては順調だ。ディランは記憶を思い出すし、ベルティーアも過去の夢に囚われる。なにもかも、思うがまま。国王になれる日もそう遠くない。国一の魔法使いになって、この国を支配する。悲願が叶うのももうすぐだ。
ガルヴァーニは上機嫌なまま、本を読むことを再開した。
「そういえば、クララは大丈夫かなぁ?」
感受性の高い、稀有な能力を持つ娘。感情を持たないように育てた、利用価値のある子供。あれは魔力持ちではないものの、不思議な力を持っている。巡り合わせるように赤子だった彼女を拾ったのは正しく運命だったと言えるだろう。
ディランとベルティーアの様子を見に行かせてからかなり時間が経ったが、帰ってくる様子がない。
その類い希なる能力のせいか、彼女は普通とは言いがたい娘だったので、またどこかで突然眠ってしまったか、空虚を見つめて硬直しているか、はたまた好奇心が刺激されるものを見つけたか。
いづれにせよ心配はいらないだろう、とガルヴァーニは活字に目を滑らせた。




