第98話 『孤独の果て』
夏の長期休暇の後は、ダンスパーティーのような大きなイベントごとはない。テストなどが多くなったり、難しい教科がカリキュラムとして組み込まれるため、そんな暇はないのである。
前世の学校よりずっと厳しいこの学園には娯楽が少ない。なので色恋沙汰はよくある話だし、女の子も男の子も噂が大好きだ。人の恋愛をまるで劇でも見るかのように楽しんでいる。
そんな環境に身を置いていれば、私自身も自ずと人の恋愛を聞くのが趣味になっていた。
「ベルちゃんって、どんな人が好き?」
ルスト先生に押し付けられた雑用を、ララと二人でこなしていく。学園を卒業したら絶対にしないようなこんな作業も、生徒であるならば必ずしなくてはならない。
今後の予定がぎっしりと詰まった時間割表を、一人一人まとめていく。マナー講座やダンスレッスン等の実技のある科目は個人で時間帯が微妙にズレるため、把握するのが面倒くさい。
先生がすればいいのに、なんて甘ったれたことを言った日にはルスト先生にこれでもかと睨まれるため、彼女に頼まれた雑用は黙ってこなすのがこのクラスでの暗黙のルールだった。先生も忙しいのだから、これくらいで文句なんて言ってられない。
だから、ララと二人で教室にいるのも、今回ばかりは見逃してほしかった。アリアとアズも先生に頼まれたなら、と納得していたし、ララと何か起こるわけではないのだから。
ただ、恋の話はしてほしいな、なんて思ったり。
誰に言い訳をするでもなく、そんなことを思っていたら、ララから質問をされた。誰が好みなの? 好きな人は? なんて質問はこの学園ならよくされる挨拶みたいなものだった。
「どんな人って、ディラン様みたいな人かな」
「あ、うーん、そうじゃなくって」
ララは困ったように眉を寄せてから、考え込むように腕を組んだ。夕日に照らされる彼の髪は光を浴びて金色のようにすら見えた。その色に、ディラン様の金髪が連想される。
「一般的な、ベルちゃんの好みっていうか、こんな男性がいいな、とか……ある?」
「私にはディラン様がいるのよ? 彼以外の人を好きになるなんてあり得ないわ」
仮にも婚約者のいる令嬢になんてことを訊くのだろう。そりゃあ、一般的に格好いいって思えるような異性はたくさんいるだろうけれど、それを私に尋ねるのはタブーだ。
「へ、へんな意味じゃないよ。ただ、ベルちゃんは僕が話せる唯一の女の子だから、一般的な女の子の好む男性像を教えてほしくて……」
目をうろうろと泳がせながら、口ごもるララに私はとんでもない勘違いをしていたのではないかと急に恥ずかしくなった。彼は私の好みではなく、"女の子の"好みを訊いていたわけだ。
私は誤魔化すように「あぁ! そういうことね!」と普段より大きな声を出した。
「って言っても、好みは人それぞれだと思うけれど」
「参考程度に教えてほしいなぁ」
「そうね。優しい人っていうのは必須条件なんじゃない?」
「優しい……」
ポツリと繰り返すように呟いたララは、すぐにふにゃりと顔を緩めた。
「好きな子には誰だって優しくしちゃうよ」
恥ずかしそうに目尻を下げたララは、端正なその容貌も相まって女性の母性を擽るような表情をしている。表現するなら、可愛い、が一番適切だ。
「恋するって素敵だわ……」
「何言ってるの。当たり前じゃない。僕、あの子を好きになれてから、すごく嬉しいんだ」
ポツリと呟いた私の言葉に、ララは素早く反応した。
「毎日見るだけで心がフワフワするし、話せると舞い上がりそうなほど嬉しい。目が合うと期待してしまう」
目をつぶって噛み締めるように言葉を紡ぐララは本当に幸せそうで、こちらまでドキドキしてしまう。
ララはうっとりと瞳を潤ませたまま、続けた。
「あと、その子が思い人を見つめる姿を見てるとグチャグチャにしたくなるし、いつも笑ってる彼女が絶望する顔も見てみたい。きっと可愛いから」
「え? なんて?」
有り得ないような言葉が聞こえて思わず顔を上げた。ララは相変わらず惚けた表情をしていて、甘ったるいその瞳と声が自分に向けられていることにゾッとした。ここにいるのは自分しかいないのだから、当然なんだけど。
「その子は自分の好きな人を見つめるときが一番綺麗で可愛いんだ。自分の全てを預けるように心を寄せてる彼女を見たら、僕が全部壊したくなってくる」
「え、え……? 待って、ララの好きな人には恋人がいるの?」
「うん? そうだよ」
「な、なのに、その恋人を引き離すの?」
思ってた恋と違う。いや、でも、好きなら、どうしても手に入れたいならそんな手段もある、のか?? だけど意図的に恋人を引き離すって、とんでもないことだ。
「引き離したら駄目なの? 僕は彼女のこと、すごく好きなんだよ」
「駄目っていうか……その子の幸せはその恋人といることなのよ。好きな子には幸せになって欲しくないの?」
私の問いかけに、ララはきょとんとしてから、にやりと笑った。その表情が邪悪で思わず体を引く。
「幸せなら、僕が与えてあげるよ」
「幸せは人から与えられるものじゃなくて、自分が感じるものよ」
「そうかな? 本当に、そう言える?」
心底不思議そうにララは首を傾げた。
「僕は、僕のあげた幸せで満たされる彼女を見てみたい。僕の刃で傷付く彼女を見てみたい。全部、全部僕に翻弄される彼女は、きっと綺麗だ」
「好きだから傷付けるなんて……」
「邪道かな? でもさ、よく考えて。恋とか愛だとか感情だとか、どこにあると思う? 皆胸に手を当ててドキドキするなんて言ってるけど、そこじゃない。ここだよ」
ララは、「ここ」といいながら自分の頭を人差し指で叩いた。そうだった。彼は、"学者"だった。
「恋なんて幻想。愛なんて生きるのに必要ない。ずっと同じ感情を持ち続けるなんて有り得ない。誰かに向けられてる感情が、全部泡になる瞬間が来るかもしれないよ」
"誰かに向けられる感情が、全部泡になる"。
その言葉に思わず体が強ばった。最近ちょっと、思い悩んでいることだった。ディラン様が、いつか私から離れてしまうのではないかという不安。力を持つ彼を完全には理解できない自分への不信感。彼と同じ悩みで一緒に苦しめたら、彼の苦悩も半分になるんじゃないかって。
「ベル。君は優しいね」
水色の瞳を歪めるララは、ひどく楽しそうだった。
「優しくて優しくて、愚かだ。けれど心配しなくていい。そんな愚かな君を、僕は愛するよ。━━━さぁこちらを向いて」
頤を指で持ち上げられるまま、青い瞳と目が合う。吸い込まれるようなその瞳は不思議な輝きを纏っていた。
「可愛そうに。不安で不安で仕方がないんだね。そうだよねぇ、ディランは何も言ってくれない。君がこんなに彼を理解しようとしているのに、ディランは何も君に話さないまま、自分一人で抱え込んで、こう言うんだ。"ベルには分からないよ"ってね」
ディラン様が胸のうちに何か抱え込んでいることくらい、なんとなく理解できた。それは私のことかもしれないし、ガルヴァーニのことかもしれない。自分と同等の力を持ったガルヴァーニに対して、恐怖を抱かない訳がない。それでも、ディラン様は弱音一つ吐いたことはなかった。
━━でも、だけど。すべての感情を理解したいなんて、烏滸がましい。私とディラン様は別の人間だ。全部を理解して受け入れるなんてことは不可能だと分かっている。ディラン様には彼なりの世界があって、その世界に私を踏み入れないだけ。世の中には自分自身のことを話せる人もいれば、ひたすら秘密主義で他人にあまり干渉されたくない人だっている。
仕方がない。仕方がないことだ。
人と付き合っていくというのは、そういうことだ。
「貴方に、ディラン様の何が分かるの」
「ふふ、そうやって自分を納得させてるんだろう? 仕方がないって。優しいんじゃない。君は臆病なだけだ」
「……貴方、もしかして」
「気付いたって何も変わりやしないよ。だって僕は強いからね」
スッと手を眼前に翳された瞬間、意識が飛んだ。
「ディランと君の違いは一つだけ。相手の全てを知りたいと願うか、逃げるか。君が踏み出すその一歩を、ディランが待っているとも知らずにね」
霞んでいく意識の中、ララが何か言っているようだけれど、何も聞こえなかった。だけど、彼の言葉は正直図星で、意識が戻ったってきっと何も言い返せない。
私は臆病だ。ディラン様の心に触れるのを怖がっているから。彼に嫌われることに怯えているから。だって、どんなに考えたって結局ディラン様の本心なんて誰も知らないじゃないか。
嫌われたくないと願うのは、悪いことだろうか。




