獅子の娘の枷なるや
今やファングルの獅子の娘にして神の寵愛を欲しいままにしているグラーシアは、キリアラナ王家のみならず
教会の権力を欲する一派にとっても垂涎の存在と価値を増している。
その娘を囲い込む一手と、婚姻を結ぼうと王太子を当てがった王夫妻は
神の不興を買ったというのを傍に置いたかのように、グラーシアの身柄を押さえるだけでなく
アーダル神より授けられた『ヒブツ』なる宝物に気を取られていた。
今は慌ててシナノを取り込まずとも、代を経て王家に吸収すれば良いかと神の興味が逸れた後にでもと
都合の良い思い込みで話を進めようと画策している。
「余人に見せてはならぬとは言え婚約の成った今、私共王家の者なら構わぬであろう。
婚前の身内の晩餐会で披露させては如何か」
「それが良かろう、次代の王妃の持参品の披露とでもすればアーダル神もお許し下さるだろう」
和かにアーダル神がグラーシアに授けた宝物について語る両親を見て、ハインリヒは危機感を募らせる。
如何にもキリアラナ王国の為と口にし、そのように振る舞おうとも
両親の言葉や認識は己が立場や見栄の為だけとしか受け取れないのだ。
父王の言葉からは自分の治世の功績や名声を、母妃からは自らの子飼い、セシールの子である
弟 ユリウスが事の謝罪の言葉も型通りで
既に『ヒブツ』なる未知の宝物へと興味が移っているのは、故国 マムクールの政争の駒となる
ユリウスが王婿と神託が降った安心感からだろう。
マムクール王家での権力の一端を握り、自らはキリアラナ王妃として君臨する強大な権力の万能感に
目が眩んだのか勘違いが加速したのかは理解しかねるが、余りにも不敬が過ぎる。
このままではキリアラナは澱んだ水に活けられた切り花の如く萎れ朽ちる様が想像出来た。
神罰の予感にハインリヒは密かに拳を握る。
そしてアーダル神に神鏡と変じた『ヒブツ』なる宝物を授けられた時のグラーシアを
矮小にすら思える両親と比べるかのように思い返す。
彼女の兄 カルロの家へと度々訪れては顔を合わせていた頃からグラーシアは年に似合わず
落ち着いた貴婦人然とした雰囲気を持った娘であった。
どんな時も僅かに表情を変えるのみで、貴婦人の微笑を浮かべ礼儀正しく振舞う様は
正に生まれながらのハイレディであった。
それが如何であろう、神鏡に写るだろう『ヒブツ』なるものを目にしたグラーシアは頬を薔薇色に染め
固い蕾が花開くように心からの微笑みを浮かべた様は、まるで天上の神々の祝宴を垣間見たような
降り注ぐ幸福に埋もれて憂いも悲しみも知らぬ幸福な子供のように柔らかな笑みで神鏡を抱き締めたのだ。
見知った気心の知れた手近な心易き婚約者だった筈、それが如何だ。
報告から上がってくる様子は世馴れた老女の昔語りと為政者としての手腕に驚きつつ、貴婦人としての慎みを取り払った姿がそれかと思っていたのだが
初めて会ったかの乙女という鮮烈な印象。
良くも悪くも王太子として国の為の損得だけで物事を見る価値観が揺らぐ。
その胸に抱かれた宝物よりも目を惹かれたのがグラーシアの素の笑顔だったのだ。
これが恋心なのか単なる物珍しさからの興味なのかは判らないが、両親の余りに短絡的な思考は
国の害にしかならずグラーシアの笑みを損なうとまで思い至ると
先ずは国の為と、脳裏に描いたグラーシアの微笑みを振り払うように
ハインリヒは密かに二人の暴走を抑える為の手配へと思考を巡らせた。
そして同じ頃、王都の中央大神殿の大会議室。
一堂に会した聖職者達と大司教は、漸く引き取ったグラーシアを"聖女"に担ぎ上げようとした
暴走一派の一人の大演説を半眼で聞き流すように聞いていた。
「故にグラーシア嬢を聖女にお迎えし、授かった『ヒブツ』を神宝として教会が管理するべきであります!」
拳を振り回して唾を飛ばしながら演説する神官は、アーダルが身体へと降りるまで
不老という珍しい個性とコネと幸運だけで大司教の座に在ると
ずっと子供のままのミハエルを軽んじていた男だ。
その一方的な偏見と地位への羨望と嫉妬で
何時かは権力諸々を己が物にと、虎視眈々と狙っての漸くの切っ掛けとばかりに熱弁を振るう。
神鏡を衆目から遮る為にグラーシアへと渡してしまい、肩辺りが心許無いミハエルは
余りにも我欲に満ちた言を断ち切るように、マトラ四星を象ったシンボルを連ねたロザリオを
手の内でチャラリチャラリと鳴らす。
「神がグラーシア嬢への祝福としてあのように授けられた御物を我欲と権勢の為に取り上げるのか?
アーダル神様はグラーシア嬢は聖女に非らずと断じておる、それを偽りを以て祭り上げるとは何たる恥知らずの所業。
既に貴殿等は聖職の任に当たるには余りにも知識が足りず修行に専念せよと申し付けた筈」
「ですが…神よりの賜り物を次期王妃とはいえ占有なさるのも如何かと、民の為にそれこそ教会にて
『ヒブツ』を管理し奉り保護するのが最良の判断では!」
「為らぬ、何よりアレはキリアラナの民にもマトラーンにとっても何の意味も持たぬ。
無論、グラーシア嬢の居たシンシュウとやらでもな」
神降しにてその身をアーダル神に委ねたミハエルは神鏡に写るものが何なのかを知っていた。
遠い地球上でも失われて久しい一葉の写真と呼ばれる精巧な映し絵、其処にぎこちなく並ぶ1組の夫婦。
平たい被り物を被って商売道具を納めた行李を背負って、杖代わりの蝙蝠傘を持つ朴訥な青年と
丸く張り出すよう結われた丸髷と呼ばれる髪に既婚の証の留袖は縞の上田紬。
そこへ前掛けをした姿の新妻と二人は揃いの印半纏を着ている。
新婚夫婦の記念と店の前で撮られたそれは昭和25年の水害で流され失った夫婦の記憶だ。
それはグラーシア、いや染屋イトでしか価値を持たぬ物であり、一世紀近くを生き抜いた女の
未練と意地を通し抜く杖となり支えとなる宝物であって、余人には何の意味も価値も持たぬ鉄くれでしか無かった。
「猊下は『ヒブツ』の正体をご存知なので!?」
ミハエルの言葉に場が騒めくが、静まれとばかりにロザリオの玉が鳴る。
「無論、だからこそ欲に駆られての愚行と言うておる。なれど『ドウソジン』ならこの場に」
傍らに立て掛けてあった権杖を取ると床を一突き、数枚の大理石のタイルが音も無く砂へと変じ
風も無いのに舞い上がるとスルスルと形を成してゆく。
身体のレンタル料とミハエルの内に居た時にアーダルが、困った事があればと
道祖神像の複製許可をしていたのだ。
異世界から本物の道祖神を召喚した訳では無い。
道祖神といえば古くから日本各地で祀られた信仰を深く集める御二柱の夫婦神、そのような事はいくら大司教であろうとも無理である。
あくまでも神像の複製のみで、構成する資材は現世にある岩とか砂と
アーダルの神力と杖の如意宝珠に記録された構成魔法陣、そして魂魄のバランスを補う為に
人間ではあり得ない程蓄えられたミハエルの魔力。
無詠唱で無から立ち現れた神像に、神の奇跡だ!大司教は真の聖者だと驚き騒ぐ新官共と見遣りながらも
ミハエルは、生まれてこの方感じた事も無い身軽さと息のし易さにアーダルがミハエルの魂を納めている身体の強化まで行っていたと知る。
神の僕たる司教の一人なのにここまで為さられるとはと、ミハエルは神の慈悲深さに感謝しつつ
レンタル料にしては貰い過ぎと、神の寵愛を受けたが為に様々な思惑に煩わされるグラーシアへ
恩寵のお零れの返礼と、彼女と彼女の家の為になるようにと神像をどう扱おうかと思案を巡らせる。




