60 インクをつくろう
この日、グリモアは主の元を離れていた。とはいえ喧嘩をしたわけでも、二人のどちらかに何かがあったわけでもない。
ただ単純に聖女としての日々の仕事(清掃)をやっているだけである。
そして今、グリモアは大きなゴミ袋を抱えて廊下を歩いている。
すると前の方から、見知った顔がやってきた。
グリモアと共に契りの儀式を交わした仲でもあるユノだった。
「あっ、グリモア様。ここでのお仕事にはもう慣れましたか?」
「いいや、まだ慣れないな。だが……ここでの生活は中々悪くない」
「そうですか。それは良かったです!」
そんな軽い会話を交わし、グリモアは再び歩き出す。
すると、また前の方から顔見知りがやってくる。
グリモアの手の平を治療してくれた、エリシアだった。
「昨日、ボヤ騒ぎがあったらしいけど何か知らないかしら」
「…………。いや、何も知らないな」
「そう。変なこと聞いて悪かったわ」
一言二言交わし、エリシアとは別れる。
今のは分かってて聞いてきたんじゃないのか?という疑問がグリモアの頭をよぎった。
あまりにも鋭い。故にグリモアはちょっとだけエリシアのことが苦手だ。どのくらい苦手かといえば、あの人間と同じくらい……。
そんなことを考えていた矢先、グリモアはあの人間と出くわした。
そう、ベルディアだ。
今日は本当に顔見知りと偶然会う。
「やあ、グリモアじゃないか」
「……むっ」
「前に渡したグロテスタスは元気かな」
「あ、ああ。すごく……元気だ」
「そうかそうか、それなら安心だね」
正確には元気『だった』。
あまりに元気すぎるので、少々の『しつけ』を施したばかりである。
ベルディアにだけは絶対に真実は言うまい。
絶対に、『灰』になったとは言うまい。
グリモアはそう心に誓い、ベルディアを一瞥した。
「……私はこんなところで油を売っている暇はないんだ」
清掃中で大きなゴミ袋を抱えているグリモアではあるが、その足は書物庫の方へと向かっている。
実はこのゴミ袋の中には、魔導書を作る上で欠かせない物が入っていた。
夕暮れの書物庫で、クロエとグリモアは合流する。
グリモアが袋を降ろすと、さっそく話を切り出した。
「さて。先日『インク』と『紙』の素材が手に入ったわけだが、まずは『インク』の方から着手していこうではないか」
クロエは「おおー!」と歓喜する。
当然、グロテスタスの灰だけではインクにはならない。
さらにまた別の素材を足して、一手間かける必要があるのだ。
「ああそうだ、本題に入る前に一つ聞いておきたい。我が主は普通のインクの作り方をご存知かな?」
「確か鉄くずと黒っぽい木の実を煮込めば出来たよね」
「さすがは我が主、実に博識だな。しかしその製法で作られるインクは、今回の場合は使えない」
「え、どうして?」
「酸が強いせいで100年もしないうちに本がボロボロになる」
「そっか、魔導書はずっと残しておかなくちゃいけないからね」
「羊皮紙ならば耐えられるかも知れないがな。あの魔導書もどきは残念ながら植物製の紙のようだ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「よくぞ聞いてくれた。ふふふ……そこでこれの出番というわけだ」
グリモアは得意げに袋の口を開ける。中には、大量の黒い煤がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「ロウソクがたくさんあったおかげで、煤集めには困らなかったな」
「そりゃまあ、ここは大聖堂だからね。けどこれってさ……ゴミだよね」
「ゴミだろうな」
「そうだよね。早く捨ててきなよ」
「うむ、承知し――」
そう言ってグリモアが袋の口を掴み上げた瞬間。ハッと何かを思い出し、パッと手を離した。
「いかんいかん、流されるところだった。我が主よ、これはゴミじゃない……いや確かにゴミだが、インクの素材に使える物なんだ」
「そうなの? へぇ~、知らなかったなぁ」
「ふふふ。それはそうだろう、この辺りでは一般的ではない製法だからな」
クロエでも知らないことを知っていて、何だかグリモアは上機嫌だ。
この製法で作られるインクは、墨汁とも呼ばれている。
酸性はまったくないので本は傷まないが、普通のインクと比べると作成難易度が高いのと、保存性もあまり良くないので一般には普及していない。
グリモアはこれを作ろうと言うのだ。
「ではさっそく取り掛かろう。まずはコイツを鍋で煮る」
グリモアが言ったコイツとは、動物の皮のことだった。
クロエは「そんな物どこで手に入れた?」と疑問に思いつつも、鍋と火を起こせる魔道具を用意する。この魔道具は、前に闇鍋大会を開催した時に使った物だ。
やがて鍋の水が沸騰すると、グリモアは動物の皮を投げ入れる。
「煮えきるまでには時間がかかる。その間に別のことを済ましておこう」
「別のこと?」
「灰をふるいに掛ける」
次にクロエ達はザルを手にする。木組みの底に網を張り付けた簡易的なザルだ。そのザルに灰を落とし、ただひたすらに振って灰を濾していく。
とても地味で大変な作業だが、着実にサラサラした灰が降り積もっていく様を見るのは意外と楽しい。
数十分後、全ての灰の振り分け作業は完了。
あんなに大量にあった灰は、およそ半分ほどの量になっていた。
そして鍋の方も、充分に煮えきっていた。
「よし、そろそろいいな」
グリモアは魔道具をいじって火を止める。
クロエも鍋の中を覗き込んでみた。
「うわぁ、なんか黄色いのがいっぱい浮いてるよ」
それだけではない。匂いもなかなか強烈だ。
「そうだ。その黄色い物こそ、インクには欠かせない物だ」
「え、使うのってこっち!?」
クロエはてっきり、煮た皮を使うものだと考えていた。
グリモアが言うには、この黄色い物はニカワと呼ぶらしい。
ニカワ、煮皮、膠。でも実際は皮ではなく、皮から出てきた謎の物体。
(……うーん、いまいち納得いかないなぁ)
と顔をしかめるクロエをよそに、グリモアは布をかぶせた容器に鍋の中身を移していく。
熱湯は布をくぐりぬけ、ニカワは布の上に残る。
そのニカワを冷水にさっとくぐらせると、プルプルしたゼリーのように固まった。
煤は水に溶けないが、このプルプルを混ぜれば溶けるようになる。
いま作ろうとしているのは特別なインクなので、さらにそこへグロテスタスの灰も加える。
「あとはひたすら捏ねるだけだ。さあやるぞ、我が主!」
「た、たいへん……」
灰の振り分け作業ですでに限界近かったクロエ。
でもこれでラストスパートだそうなので、最後の力を振り絞って頑張ることにした。
煤、灰、ニカワが混ざった謎の物体は、どんどん黒く、どんどん硬くなっていく。
あと、においも……。
「うっ! これは強烈!」
クロエは鼻をつまもうとする。
が、指が真っ黒なのでつまむにつまめなかった。
「確かにこれは耐え難い……何か香料の類はないのか!?」
「そうだ、誰かが忘れてった香水があるよ!」
クロエは香水の小瓶を取り出し、中身を全部謎の物体にふりかける。
においを別のにおいで押さえつけるのはあまり良くないが、幾分マシにはなった。
こうして練り上げた謎の物体は、黒くて四角い物体へと変貌していた。
「何はともあれ完成だ。これを水に溶かせばインクは出来る。お疲れ様、我が主」
「つ、疲れた……」
ボヤ騒ぎ、異臭騒ぎを経て、ついに『インク』が完成した。
ただ、クロエはとても喜ぶ体力など残っておらず、へたり込んでそのまま寝てしまうのだった。




