56 黒い本
一方で、異変はエリシアの周りでも起きていた。
時間にしてクロエ達が『穴』を発見するより一時間ほど前。
グリモアの治療を済ませ、住居スペースにある自室に戻ってきた時のこと。
仮眠を取ろうとするエリシアだったが、机の上に乗っている物を見てハッとする。
「これ、本棚に戻した本よね。なんでここにあるの?」
それは書物庫の床に落ちていた、タイトルのない不気味な黒い本だった。
エリシアが言ったとおり、自らの手で本棚に戻したはず。
数分前の出来事なのではっきりと覚えている。
……いや、やっぱり自信がない。
たかが数分前とはいえ、意識せずにやったことだ。
あの本とは別の本という可能性もある。
こんな奇特な見た目をした本が二冊もあるとは思えないが……。
「エリシア様、どうかされましたか?」
その時、ユノが部屋に入ってきた。
ユノとエリシアは同室だ。
「ちょうどよかったわ。この本、書物庫に戻してきてくれる?」
エリシアは黒い本をユノに手渡す。
「分かりました。ですがこの本、いったいなんですか?」
受け取ったユノは、手で触れた瞬間から不思議な何かを感じていた。
本自体は気になるものの、エリシアの時と同じように中身を読む気にはなれない。
「さぁ。いつの間にか机に置いてあったの。けどクロエなら何か知ってるんじゃない?」
「そうかもしれませんね。会ったら聞いてみます」
「それじゃよろしくね。私は、ふ、ふあぁぁ……少し寝させてもらうわ」
「最近忙しいですもんねエリシア様は。分かりました、わたしに任せてゆっくりお休みになってください」
そう言うとユノは、黒い本を抱えて書物庫へ向かう。
だがその道中、偶然見かけた二つの人影がユノの足を止めた。
中庭広場に面する廊下。立ち並ぶ柱の陰に、どういうわけかクロエと新入りのグリモアが一緒になって張り付いていたのだ。
ユノは背後から近づいて声をかける。
「クロエ様、それにグリモア様ですよね? 柱に張り付いていったい何を?」
すると二人とも、肩をビクッと震わせた。
ぎぎぎ……と、まるで壊れかけの首振り人形のごとく振り向いてくる。
「え、えーっと……ボク達、ベルディアの剣さばきを観察してたんだよね。ははは……」
「そ、そうだ。こっそり見ているのがバレたらまずい。だから今は話しかけないでくれ」
(ベルディア様のことを見ていらっしゃった……?)
ユノは戸惑った。
中庭にも、あるいは中庭を囲む廊下にも、ベルディアの姿はない。
ここにいるのは三人だけだ。
「あの、わたし達以外誰もいらっしゃいませんけど……」
「え?」
クロエ達は中庭に目をやった。
そしていくつか会話を交わしたのち、二人一緒にどこかへ行ってしまった。
ただ一人取り残されたユノは、抱えていた黒い本を両手に持ってため息をつく。
「……行ってしまいました。クロエ様にこの本のことを尋ねたかったのですが……」
こうなっては仕方ない。
ユノは書物庫へと赴き、黒い本を本棚に返してきた。
再び自室に戻ってきたユノ。
エリシアは睡眠中だったので、静かに行動する――つもりだったが。
「えええっ!?」
机の上に乗っている物を見て、大声で驚いてしまう。
なぜならそれは、ついさっき本棚に戻してきたはずの黒い本だったからだ。
「どうかしましたの? 貴女の声、廊下まで聞こえてきましたわ」
近くを歩いていたライナが部屋に入ってきた。
ユノは震える指で黒い本を差す。
「この本がどうしたんですの?」
「さっき書物庫の本棚に返してきたのですが……どういうわけかここに戻ってきてるんです!」
「……はい?」
取り乱すユノの姿を見て、逆にライナは冷静になっていた。
本棚に返した本が戻ってくるなんて有り得ない。
勘違い、もしくは。
「貴女、夢でも見てるんじゃないですの? そこで横になっているエリシアのようにね」
「……ねぇ、うるさいんだけど」
エリシアがくるっと寝返りを打ってきた。
「あら、起こしちゃいました?」
「とっくに起きてたわ。で、貴女達の話からしてまた本が戻ってきたんでしょ?」
「はい、実は……」
ユノは申し訳無さそうに言う。
そして今度はライナが黒い本を手に取った。
「まったく、ユノはまだしもエリシアまでそんなことを言うなんて……常識的に考えなさい、そんなことあるわけないでしょう?」
「本当ですってば!」
「はいはい。それじゃあ私はもう行きますわ」
ライナはそう言うと、黒い本を机に置いて部屋を出ていった。
……と思いきや、またすぐに部屋に入ってきた。かなり慌てている。しかもその片手には――。
「ど、どういうことですの!? 部屋を出てすぐ何かに躓いたと思ったら……足元にこれが!」
まったくもって見覚えのある、タイトルのない不気味な黒い本が握られていた。
「えっ!?」
ユノはすぐに机に目を移す。
ライナが置いていったはずの黒い本は、いつの間にかなくなっていた。
「貴女が先回りしてこの本を置いた……なんてあるわけないですわね……」
声は震え、余裕も消えている。
不可解な現象を目の当たりにしたことで、さすがのライナも信じざるを得なくなったようだ。
「これで大体分かったわね」
すっ、とエリシアがベッドから立ち上がった。
「分かったって、何がですの?」
「本の特異性よ。おそらくその本は……最後に触った人の元に戻ってくるみたいね」
「えっ、それじゃあ……」
現在本を持っているのはライナだ。
エリシアの考えが正しければ、本はずっとライナを付きまとうことになる。
今までの現象からして、捨てても無駄だろう。
「可哀想だけど今はライナが持っているしかないわね」
「嫌ですわ! こんな気味の悪い物、今すぐにでも捨ててしまいたいのに!」
「……もちろん対処法は絶対に見つけ出す。だからお願い、あとちょっとだけ我慢して」
「……わ、分かりましたわ。貴女には期待していますもの」
ライナは一旦の落ち着きを取り戻した。
頭が冷えたついでに、あることに気付く。
「ところで、お二人はこの本を読んだりはしてませんの?」
「いえ、気味が悪くて読んでないわ」
「わたしも、同じく」
「仕方ないですわね。気は乗りませんが、わたくしが確かめて差し上げますわ。何か手がかりが見つかるかもしれませんし」
ライナは意を決し、本を開く。
だが数秒と経たないうちに、読むのをやめて本を閉じた。
「駄目ですわ。何が書かれているのか分かりませんし、見た瞬間から目眩が……」
「ライナは無理しなくていいわ。対処法なら私とユノに任せて」
「いえ、対処法ならもう見つけましたわ。こんな物……燃やしてしまえばいいんですわ!」
「えっ、ちょっと!?」
エリシアが止めようとするが、ライナの拳はすでに魔法の炎に包み込まれている。
持っている黒い本も一緒に燃え、程なくして灰も残さず消え去った。
「ふぅ。難しく考える必要なんてありませんでしたわね」
一息つくライナを、エリシアは呆然と見つめる。
「貴女……大胆すぎよ」
「褒め言葉と受け取っておきますわね」
そう言ってライナは、今度こそ部屋を後にした。
奇妙なことに巻き込まれたせいで、体も心も疲れ切ってしまった。
こういう時は紅茶でも飲んで一息つくに限る。
そんなわけでライナは自室のドアを開けた。
だが、そこには――。




