169.すべての謎をつなぐもの
ナンシーからは、キムの容態が持ち直したとの報告があった。
意識はまだ戻っていないものの、峠は越えたと思っていいとのことらしい。
一緒に医務室に運ばれたサユキも、過労に似た症状があるだけで今のところ深刻な変調は見られず、しばし休ませれば目を覚ますはずだというのがナンシーの見立てだ。どちらも当面のあいだ注意深く見守る必要はあるだろうが、シグムンドは彼らのために手を尽くしてくれたナンシーとモニカをねぎらい、今夜は他の医務官を手配してふたりは休むよう伝えた。
キムたちを襲った謎の集団に関しては、現在ハミルトンとジュードが部隊を動員して行方を追っている。サラーレには駐留が難しくなった第五部隊に代わり、ブレント率いる第一部隊を派遣した。しかし依然として状況は混迷を極めたままだ。そもそも何故キムたちが狙われたのか、襲撃者たちの目的も正体も見当がつかない。
そんな中、唯一引っかかるのは、サユキがサラーレで目撃したという不審者の存在。そしてキムを守って死んだジエンは、サユキがもたらした情報から何かを察していた様子だった、というエリクたちの証言だった。
「……スウェイン」
「はっ」
「頼んでおいた例の件だが、キムの経歴の洗い直しは完了したか?」
「はい。過去の資料にはすべて目を通し、何か見落としがないか入念に精査しましたが、やはり目新しい情報は出てきませんでした」
「そうか……とすると、やはりラオス殿かな」
「はい?」
「私もキムの身辺調査書には黄都守護隊へ赴任した直後にひと通り目を通したが、傭兵出身というわりにはどうも記録が簡略すぎるというか……綺麗すぎるという印象を受けた。黄皇国出身の傭兵ならばいざ知らず、アルハン傭兵旅団は大陸の北から流れてきた傭兵団だ。だというのに踏み込んだ調査もなく、おざなりに済まされた感があるというかだな」
「……なるほど。確かに大陸北方といえば、現在はエレツエル神領国の占領地……とすれば敵国の間者がまぎれている可能性も考慮して、もっと慎重な調査を要したはず、ということですか」
「うむ。いくら正黄戦争で真帝軍に貢献した功労者とはいえ、傭兵として雇うのと黄臣として召し抱えるのとでは、いざというときに負う危険度が桁違いだろう。ましてや陛下の直轄である第一軍の将官として登用するのだぞ。それをあのような杜撰な調査で済ますなど、ラオス殿に限ってありえぬ」
「ですがそうなると、他に考えられるのは──フラクシヌス将軍が意図的にイーリイ隊長に関する資料を改竄した可能性、ということですか」
「ああ。そして私は、陛下も委細承知の上でその行為を黙認されたのではないかと思っている」
「フラクシヌス将軍が、我が国で最も陛下の信任厚い人物だったからですか?」
「うむ。加えて昨日、医務室で一時的に目を覚まし、最悪の事態を想定したキムが部下にこう言っていた。〝ラオス・フラクシヌスの名を借りて、オルランド殿を頼れ〟とな」
境神の刻(二十一時)。自分とスウェイン以外誰もいなくなった守護隊長執務室で、シグムンドはコーディから預かったジエンの形見を眺めながらそう告げた。
すると灯明かりの中に佇むスウェインは、こちらの言わんとすることをすべて察した様子で押し黙る。されど気になることは他にもあった──〝アルタグ邨〟。
昨日、キムが医務室で譫言のように漏らした土地の名だ。そこにジエンの家族がいると話していたことから考えるに、恐らくは集落の名なのだろう。
だがシグムンドの知る限り、黄皇国内にそのような名前の集落は存在しない。
これはちょうどつい最近、エリクを訪ねてきた怪しい男──どうやら本当に彼の知人だったようだが──の出身地を調べたばかりで記憶も新しいから間違いない。
しかも問題の集落があるらしいのがカプラ山だ。
カプラ山といえばレーガム地方の東の端、沿岸部に連なるプリタ山脈の中で最も標高が高い山で、昔から街道を往く旅人の目印として有名だった。ところがあの山に人が住んでいるなどという話はついぞ聞いたことがない。何しろプリタ山脈を越えた先には絶壁と海しかなく、ゆえに山脈の奥地は人の寄りつかぬ未踏の土地だ。
カプラ山はそんな山脈の最奥に聳え立つ山で、到底集落があるとは思えない。
が、もし本当にアルタグ邨が存在するのなら、それは領地中の集落と住民を掌握し、税を徴収する義務を負う行政にすら把握されていない隠れ里ということになるだろう。当然ながら法的に言えば完全に違法であり、住民は皆、徴税逃れと領地の不法占拠の罪で裁かれなければならない。まったく頭の痛い問題だった。
(守護隊長着任直後の調査であまりに何も出てこなかった時点で何かあるとは思っていたが……どうやらアルハン傭兵旅団というのは、予想以上に大きな秘密を抱えているようだ)
なれど今追うべきは、やはりキムを襲った輩の正体と目的だ。
そこさえ明らかになれば、キムを取り巻く謎についても自ずと解明されるかもしれない。されど目下シグムンドのもとにある手がかりは、ジエンが遺していったこの奇妙な首飾りのみ。ならば為すべきことはひとつかと嘆息をついて、シグムンドは指先で弄んでいた首飾りの金属片を手の中に握り込んだ。
「……スウェイン。これの使い道についてだが」
「はっ」
「キムが目を覚ましてから尋ねるべきかとも思ったが、それだといつになるか分からん。ジエン殿の私室を改めたい」
「……そうおっしゃるかと思い、鍵は既に入手してあります」
「さすが、仕事が早いな」
「今すぐに向かわれますか?」
「ああ。悪いが付き合ってもらえるか」
「もとよりそのつもりでおりましたので、ご安心を」
まったく勤勉で聡い部下を持つと助かるなと口の端を持ち上げながら、シグムンドは早速ジエンの形見を懐に収って立ち上がった。
城は終業時刻を迎えて久しく、既に静まり返っている。現在城内に留まっているのはシグムンド麾下の黄都守護隊本隊と、セドリック率いる第二部隊のみだ。
おかげで今夜のスッドスクード城はいつにも増して閑散としており、秋の夜の気配が濃かった。各隊が不在の間、夜間の警備には本隊と第二部隊が交互に当たることになっていて、今夜は後者が哨戒に立っているようだ。そのあたりの手配はエリクに一任してしまったから、明日改めて確認を取らねばならないなと思いながら、シグムンドはふと本棟の一階、第一医務室のあるあたりを顧みた。
医務室にはナンシーの代理の医務官がキムのために泊まり込んでいるはずだが、今夜は恐らく、サユキを案じたエリクやコーディもあそこで夜を明かすのだろう。
「こちらです」
ほどなくスウェインひとりを伴って、普段キムたちが起居している第五部隊隊舎を訪れたシグムンドは、最上階に位置するジエンの部屋の前に立った。
故人がつい先日まで使っていた部屋に上がり込み、勝手に物色するのは少々気が引けるものの、こうでもしなければ何の手がかりもないのだから仕方がない。
「開けてくれ」
シグムンドがそう命じればスウェインはこくりと頷き、事前に入手しておいたという鍵で目の前の扉を開けた。主を失った部屋は暗く、しんと静まり返っていて、スウェインが角灯の明かりを差し入れてもなお闇がのしかかってくるかのようだ。
「ふむ……六年もここで暮らしていたわりには、ずいぶんと物がない部屋だな。いかにもジエン殿らしい」
「……私にはシグムンド様のお部屋と大差ないように見えますが」
「ほう。ではジエン殿もまた無欲で清貧を重んじる好人物だったということだな」
「というよりは、いつ傭兵に戻るとも知れないお立場でいらっしゃいましたので、いつでも当地を発てるよう、常に身軽でおられたのでしょう」
とスウェインが振り向きもせずに、得意の貴族的婉曲表現でもってこちらの意見を否定するのを聞いて、シグムンドは思わず半眼になった。
が、今は部下の不遜な態度に小言を言っている場合ではない。ここにあの首飾りの謎を解く手がかりがなければ、あとはもうキムの回復を待つ他ないのだ。
しかし尋ねたところで彼が素直に答えるかと言われれば、自信がない。
「──へえ、こりゃ驚いた。将軍自らガサ入れですかい? んなもん育ちの悪い連中にやらせりゃいいのに、ご苦労なこってすね」
ところがジエンの部屋に置かれた灯台に火を入れ、早速スウェインと手分けして調査を始めた矢先に、俄然入り口から声がした。虚を衝かれて振り向けば、開け放しておいた扉の枠にもたれかかるようにして佇んだ人影がある。
廊下の松明が照らし出したのは、第二部隊長のセドリック・ヒューだった。
何故彼がここにいるのかとシグムンドは一瞬眉をひそめかけたが、そういえば今夜の当直は第二部隊だ。とすればセドリックもまた夜通し部隊長室に詰めていて、見張りから〝こんな時間に守護隊長が第五部隊隊舎へ向かった〟との報告を受け、念のためかはたまた興味本位か、様子を見に来たのだろう。
「……セドリックか。我々に何か用かね」
「いえ、用ってほどの用はねえんですが、おふたりは何をしてらっしゃるんで?」
「実はジエン殿から少々難解な遺言を託されてな。その謎を解く鍵を探しているのだ。……これに見覚えは?」
「何です、それ?」
「分からないから訊いている。どうも我々はこれの正体について知る必要があるようでな。だが今のところ手がかりはなく、何か知っていそうなキムもあの状態だ」
「なるほど。で、わざわざ深夜にガサ入れですか」
「うむ。君も手が空いているようなら、共に謎解きに興じてみるかね?」
「あー、いえ。俺には野郎の寝室をあさる趣味はねえんで遠慮しときます。ただひとつ、将軍のお耳に入れておきたい話がありましてね」
「何だね?」
「将軍がミクマス商会に送り込んだ密偵のことですよ。野郎、死にましたぜ」
瞬間、セドリックがこともなげに告げたのを聞き、真っ先に反応を示したのはスウェインの方だった。
彼は書棚を改めていた手を止めて振り向くや、珍しく血相を変えている。
「ヒュー隊長、どうしてあなたがそのことを……」
「いや、何、あの商会は俺もにおうと思って張ってたんでね。そしたら同業と思しき人間が連中と接触を始めたってんで、ちょいと調べさせたんですよ。ま、最後は自分から〝シグムンド将軍の手の者だ〟と白状したらしいですが」
「まさか、捕らえて尋問したのですか?」
「違う違う。俺らがどうこうする前に、尾行してたら目の前で怪しい連中に刺されちまったんですよ。で、ウチのが慌てて助けに入ったときにはもう手遅れで、死に際に〝シグムンド将軍にこのことを伝えてくれ〟と頼まれたそうです」
「……ということは、下手人はミクマス商会の関係者か?」
「確証はありませんが、恐らくは。ウチの連中もあそこの調査中に何度か似たような目に遭ってますし、将軍の密偵を殺した輩が、商会関係者がよく行く酒場に出入りしてるって話もあります。とすりゃそこで何かしらの間接的な手段を使って、商会とやりとりしてんじゃねえかってのが俺の見立てです」
「なんという……」
と呻くように零したきり、スウェインは口もとを覆って黙り込んだ。確かにシグムンドもミクマス商会を臭いと睨んではいたが、しかし調査に向かわせた人間が殺されたというのは想定外だ。何しろシグムンドが密偵として派遣したのはもう十年来の付き合いになる熟練の情報屋で、実力も人柄も信頼に値する人物だった。
その彼がこうもあっさりと正体を見破られ、抹殺されたとなると、相手も並大抵の嗅覚ではない。セドリックの話が事実なら、商会の内偵をしていたのがメイナード家ゆかりの人間だというところまでは露見しなかったと思われるが、これは今後に響くなと、シグムンドは思わず眉をひそめた。
「しっかし、将軍もミクマス商会を探ってたとは驚きですよ。いつから連中に目をつけてたんで?」
「……彼らを最初に怪しんだのは、黄都守護隊長に着任して間もなくのことだ。あることがきっかけであの商会について軽く調査したところ、黄都に拠点を構える本部が、エレツエル神領国と頻繁に交易している事実を掴んでな」
「へえ。ってことは、最初は神領国とのつながりを怪しんで調べ始めたわけじゃなかったってことですかい。だったらなんであんな弱小商会の調査なんか?」
「ジエン殿だ」
「はい?」
「ジエン殿がたびたび人をやり、ミクマス商会の動向をひそかに探っていると知って気になった。商会が神領国と取引している事実を掴んだのはそのときだ」
とシグムンドが端的に答えれば、これにはさすがのセドリックも目を丸くしてみせた。シグムンドがジエンによる商会の監視を知ったのは、黄都守護隊への赴任直後、キムの身辺について探りを入れていたときだ。しかし当時は結局、ジエンが何故あれほどまでに商会の動向を気にしていたのかは分からずじまいだった。
というのも三百年前、黄祖フラヴィオに率いられ、エレツエル神領国の支配から独立したトラモント黄皇国は現在も神領国と敵対関係にあるものの、民間人の交流までは規制されていない。歴史的な理由からトラモント人の反エレツエル感情は今も根強く、ゆえに好んで関わろうとする者は民間にもあまりいないと聞くが、だからと言ってかの国との交易や遊学が罪に当たることはないのだ。
よって当時のシグムンドは、ミクマス商会を〝黄皇国内では極めて不人気な神領国産の商品ばかり取り扱う物好きな商会〟程度にしか認識していなかった。
ところが今回、そのミクマス商会を改めて調査すべきだと直感した理由もまたジエンだ。きっかけは先日、エリクたちから受けた報告の中にあった。
サラーレの町でサユキを負傷させた不審者について、ジエンがしきりに彼らの訛りを気にしていたというあの話だ。
(ジエン殿が指摘していた一連の訛り……あれは恐らく神領国で使われている神聖ハノーク語だ。神聖ハノーク語は我々トラモント貴族が正統ハノーク語と呼んでいる言語よりもさらに原初のハノーク語に近く、一部の文字の発音が異なるという。そこからジエン殿が神領国とつながりのあるミクマス商会を調べていたことを思い出し、再度人をやって内偵させたわけだが……サユキに手傷を負わせ、さらにはキムやジエン殿まで窮地に追いやるほどの手練れならば、密偵に気づいて始末するなど造作もないことだろう)
つまり今回の事件とミクマス商会は、やはり何らかのつながりがある。少なくともシグムンドの直感はそう告げていた。さらに言えば商会を隠れ蓑にした神領国の暗躍という可能性すら考えられる──というよりむしろ、そう考えた方がしっくりくるほどだ。何しろエレツエル神領国は、暗殺や裏工作といった非人道的な手段を積極的に行使する諜報員をばら撒いて世界の情勢を操っていると噂されている。
神領国の目的は、二十二大神の復活による《神々の目覚め》の実現。
そのためにエマニュエル全土を支配する統一国家を築き、二十二の大神刻をすべて手中に収めんとする彼らは、計画の妨げとなるものは一切の情け容赦なく、徹底的に排除することで有名だった。
「あー、なるほど? そういやあのジジイ……というか第五部隊の人間は、大半が大陸の北の出身でしたっけ。確か六十年くらい前の戦争で神領国に滅ぼされた、ナントカって国の遺民だとか」
「アルスラン獅子王国だ。かつては〝北の金獅子、南の黄金竜〟と、我が国と並び称されるほどの栄華を誇った大国でな。同盟国の裏切りさえなければ、今も北の防波堤として神領国の侵攻を食い止めていただろうと言われる国だ」
「へえ。だからジジイは故郷を滅ぼした神領国を恨んでて、エレツエル人を相手に商売してるミクマス商会を探ってたってことですかね? だけど今回、ついにそいつが露見して商会に消されちまったとか?」
「ほう……ではミクマス商会は何か、外部に知られるとまずい秘密でも抱えているということかね? ゆえにそれを探っていたジエン殿や情報屋を始末したと?」
「まあ、そう考えるのが妥当でしょうね。そんでその秘密ってのは十中八九、神領国絡みでしょう。ひょっとするとミクマス商会ってのは、トラモント人の皮を被ったエレツエル人の巣窟かもしれませんぜ」
「ふむ……なかなかよい読みだ。だが彼らの狙いは果たしてジエン殿だったのか、そこがいささか疑問だな」
「というと?」
「今回、襲撃の現場に居合わせた第五部隊の将兵の証言によれば、ジエン殿はキムをかばったがために命を落とされたという。そして何より気になるのが、襲撃者たちが極めて稀少で入手困難なはずの呪刻を所持していたことだ。わざわざあんなものを用意していたのは、標的の息の根を確実に止めようという強い殺意の表れだろう。されど呪刻を刻まれたのはジエン殿ではなく、キムだ」
「……つまり襲撃者の狙いはダオレン副隊長ではなく、イーリイ隊長だったと?」
「ほーん……けどそうなると、なんで商会に探りを入れてたジジイの方じゃなく、あの傭兵崩れが狙われたんです?」
「その謎を解く鍵が、恐らくこれだ。ジエン殿はこの首飾りが今後のキムの進退に関わると話していたらしい。ちなみに、セドリック。君はキムやジエン殿……かつて『アルハン傭兵旅団』と名乗っていた者たちについてどこまで知っている?」
「さあ? たぶんご期待に添えるほどの情報は持ってねえですよ。将軍なら既にご存知でしょうが、連中は叩いても埃どころかダニ一匹出てきやしません。情報がなさすぎるんですよ。どうも自分たちの痕跡をひとつひとつ、丁寧に消して回ってるようでしてね。おまけに異様なまでの秘密主義ときたもんだ」
「ふむ、そうか……君の情報網をもってしてもか」
「まあ、俺ァどっちかってーと、アングラ方面の情報専門だからってのもありますがね。……つーか、将軍。前々から思ってたんですけど、俺が飼ってるキツネのこと、いつからご存知だったんで?」
「はて、何のことかな。君がキツネを飼っているとは初耳だが」
「とぼけないで下さいよ。今のだって明らかに全部知ってて訊いてる口振りだったじゃねえですか。別に将軍に知られるのはいいですけど、他の連中には言いふらさねえで下さいよ。でないとのちのち面倒なことになるのは目に見えてるんで」
「そう思うならいつ手を噛むとも知れないキツネなどさっさと野に帰して、平常な暮らしに戻ったらどうかね。ハインツを守る方法なら他にいくらでもあるだろう」
「だから兄貴は関係ねえと言ってるじゃないですか。俺は俺のやりたいことをやりたいようにやるだけで──」
「……シグムンド様。これは何でしょうか?」
ところがシグムンドとセドリックがそんな言い合いをしていると、途中で部屋の探索に戻ったスウェインが話に割り込んできた。何だと思って目をやれば、彼の手の中には幅四葉(二十センチ)ほどの、横長の小さな箱がある。
一見した限りでは、特筆すべき特徴は何もない留め具つきの木の箱だ。
シグムンドはそれを受け取ると、まじまじと全体を眺め回しながら言った。
「ふむ……形状からして恐らくは文箱だろうが、これがどうした? 中に妙なものでも入っていたか?」
「いえ、そうではなく……開かないのです」
「何?」
「見たところ鍵穴や変わった仕掛けもありませんので、この押釦を押して開閉するのだろうと思ったのですが、何度試しても蓋が開かず……」
「中の留め具がバカになってるだけじゃねえですかい? 何なら俺が神術でぶっ壊しましょうか」
「待て。左様に手荒な真似をすれば、中身ごと焼失してしまうだろう。しかし、独特な暗い色味と波状の木目……恐らくは漆檀製の文箱だな」
「漆檀……ですか?」
「うむ。数ある材木の中で最も硬く、加工が難しいと言われている木だ。鎚で叩いたり鋸を当てたりしても容易には破壊できん。だが加工品がほとんど出回らぬことで有名な漆檀の文箱とは……よほど重要な書類が保管されていると見えるな」
それでなくとも漆檀を用いた木工品は、その稀少さゆえに非常に高価で、貴族にとっても垂涎の品だ。そんな高級品を、長年清貧を貫き、これほど質素な暮らしを守り続けたジエンが所持していたというのもどこか不自然で引っかかる。
そう思ったシグムンドはスウェインから預かった文箱を改めてしげしげと眺め、さてどうすれば蓋を開けられるかと思案した。
が、そうして観察を続けているうちにふと気づく。というのも留め金の押釦を押し込むと、土台となっている板状の金具がわずか上に持ち上がるのだ。
初めは中の留め具と連動して、蓋の固定を解除するための仕組みかと思ったがどうやら違う。されど小さな灯火の明かりだけではよく見えない。そこでシグムンドは留め金を注視したまま目を細めるや、振り向きもせずにセドリックを呼んだ。
「セドリック。悪いが火をくれないか」
「え? やっぱ燃やすんですか?」
「そうではない。神術の火であれば灯台よりは明るかろう」
「ああ、そういう……」
と納得したような声を上げるや否や、セドリックはシグムンドの傍まで寄ってきて、パチンと右手の指を鳴らした。すると彼の指先にたちどころに火がともり、周囲を明々と照らし出す。実を言うとセドリックは、左右の手にそれぞれ火焔刻と雷霆刻を刻んだ二刻使いだ。
複数の神刻──しかも上位刻をひとつの体で使いこなせる人間というのは極めて珍しく、彼は神術使いとしては稀代の天才の部類と言えた。
「で、何か見つけたんです?」
と、人の頭ほどもある炎を景気よくともしたセドリックが、興味深げにシグムンドの手もとを覗き込んでくる。さっきは〝野郎の寝室をあさる趣味はない〟などと言っていたはずが、箱の中身が俄然気になり出したようだ。
そんな彼のおかげで、見えた。押釦を押すと持ち上がる真鍮の金具の下。
そこに横に細長い謎の穴が開いている。これだ、とシグムンドは直感した。
ゆえにすぐさまスウェインを呼び、箱を手渡しながら言う。
「スウェイン。私がいいと言うまでその押釦を押し込んだままでいろ。セドリックは引き続き、我々の手もとを頼む」
そう言いながら一度懐に収ったあの首飾りを取り出したシグムンドは、紐の先に吊られた例の金属片を箱の穴にあてがい、差し込んだ。すると案の定、金属片と穴の大きさがぴたりと一致する。さらに奥まで押し込み、金属片に設けられた奇妙な溝が鉤状になっている方向へ滑らせれば、カチリと噛み合う手応えがあった。
途端に箱の蓋が小さく音を立て、ほんのわずかに浮き上がる。鍵が開いた。
珍しく目を見張り、息を飲んだスウェインから再び文箱を引き取って、早速中身を改めてみる。収われていたのはただ一通の、亜麻紙製の封筒だった。
「これは……」
と、慎重な手つきで取り出した封筒にはしっかりと封蝋が押され、一度も開封された形跡はない。だがシグムンドが何より驚いたのは、封筒の表面に宛先として記されているのが、他でもない自分の名前だったことだ。
ほどなくその場で封を切り、披見した手紙の冒頭にはこう書かれていた。
『親愛なるメイナード将軍、まずは非礼をお詫びすると共に、深く感謝申し上げます──貴公ならば必ずやこの遺書を見つけて下さると、堅く信じておりました』




