165.過去の足音
「ほう……ジエン殿がこれを私に?」
「は、はい。副隊長が警邏任務を終えて戻られるまで、シグムンド様に預かっていてほしいと……何でもキム隊長の進退に関わるものだとかで、今までは副隊長が肌身離さず持ち歩いていたようです。隊長とどのような所以のある品なのかは、教えていただけませんでしたが……」
と執務机の前に佇むコーディが困惑顔で言うのを聞いて、シグムンドは「ふむ」と顎を摩った。彼の手の中にあるのはコーディがサラーレにいる間に、第五部隊副隊長のジエンから託されたという謎の首飾りだ。
擦り切れかかった紐の先には、縦横半葉(二・五センチ)ほどの大きさの金属片のようなものが吊られており、三本ほど並んだ切れ込みは銘々長さが異なっていた。うち、最も長い切れ込みは先端が鉤状に曲がっていて、三本で何らかの紋様を表しているように見えなくもないが、それが何なのかはエリクにも分からない。
「ジエン殿はシグムンド様ならすぐに使い方を見つけるだろうとおっしゃっていたようですが、お心当たりはありますか?」
「いや、まったく。ジエン殿がこのようなものを所持していたことさえ、いま初めて知った」
「や、やはりそうですか……ちなみに、先程お話した不審者の件なのですが……」
「ああ。一部の単語の発音が独特で、トラモント人ではない可能性が高いという話だったな。そちらも調べてみないことには、確かなことは言えないが……アンゼルム、君はどう思う?」
「そうですね……ジエン殿が指摘されていた部分を考慮すると、一連の訛りは大陸南部のものではないと思います。シグムンド様も私やロッカ殿の訛りを聞いてお察しでしょうが、ルエダ訛りも一部の特徴を除けばトラモント訛りとよく似ているのですよ。たとえば各母音の発音が画一だったり、〝H〟は発音しなかったり……」
「そうだな。そしてシャムシール砂王国に至っては、訛りなどあってないようなものだ。砂賊の中には世界中から集まった傭兵やあぶれ者も多いからな」
「ええ……とすると、彼らの訛りはやはり北方の訛りなのでしょうか。あるいは他の大陸の……?」
「ふむ……スウェイン」
「はっ」
「ミクマス商会だ。ロカンダの事務所へ、改めて人をやってくれ。くれぐれも慎重にな」
「畏まりました」
「……? シグムンド様、ミクマス商会というのは……?」
「ああ……私が個人的に贔屓にしている商会だ、気にすることはない。して、先程の報告を聞く限り、現地ではまだ支援の手が必要そうだな」
「はい。死傷者の収容についてはこれ以上の援助は不要かと思われますが、地方軍が被った痛手から回復するまでにはもうしばらくの時間を要しそうです。その間、地方軍に代わって外敵の脅威から町を守る戦力を配備した方がよろしいかと……」
「うむ。ではそちらもすぐに手配しよう。サユキ、すまんが至急ブレント殿を呼んできてくれるか」
「……御意」
シグムンドからそう指示を受けると、サユキは軽く一礼し、すぐに執務室を出ていった。しかし彼女がいつにも増して言葉少ななのが気になったエリクは、思わず隣のコーディと無言で顔を見合わせる。縁神の月、戒神の日。サラーレでの任務を終えてスッドスクード城へ戻ったエリクたちはひととおりの報告を済ませ、明日からまた通常業務へと復帰する予定になっていた。城外で非常時対応に当たっていたという理由で、シグムンドからは「午後は休暇を取っていい」と言われている。
ところがサラーレの町で口論になってからというもの、サユキの様子がどうもおかしいのが気がかりだ。右腕の骨折はナンシーの治療のおかげで後遺症もなく無事に治癒したと聞いているが、あれ以来サユキは以前にも増して寡黙になり、エリクと目も合わせようとしなくなった。
そしてどうやらコーディもまったく同じ状況に置かれているようで、何度話しかけても今まで以上に素っ気ない応対をされている。まさに『豚の耳に説教』の状態だ。こうなるとエリクもさすがに言い過ぎたかと思い、二、三日ほど前に謝罪して話し合いの場を設けようとしたのだが、当のサユキは、
「別に私は何も気にしてないし、お前たちと話し合うことなど何もない」
と取りつく島もない態度で、エリクとコーディはここ数日、どうしたものかと頭を痛めていた。
「して、諸君。サラーレでは他に何があった?」
「……え? あ、いえ……ご報告すべきことはすべてお伝えしたかと思いますが」
「そうか。では君たちが城へ戻ってきてからというもの、サユキの扱いに困っているように見えるのは気のせいかね?」
「うっ……」
「やはり図星か。まあ、君たちに限ってそんなことはありえぬとは思うが、よもや彼女の心身を傷つけるような行為に及んだわけではなかろうな?」
「も、もちろんです。ただ、お互いの主張に食い違いが生じてしまったと言いますか……どうも私が過保護に接しすぎたようで……」
「い、いえ、アンゼルム様のせいではありませんよ。恐らく僕が余計な口出しをしてしまったのがいけなかったんです。サユキさんがもう少しご自分を労って下さればと思ってのことだったのですが……」
「なるほど。つまりサユキが独断で不審者を追跡し、負傷したことで揉めたのか」
「はい……サユキさんはあくまでアンゼルム様の従者として、当然の仕事をしただけだと……何より自分は死ぬために軍へ入ったのだから、骨折程度でいちいち騒ぐなと言われてしまいました」
しゅんと肩を落としながらそう話すコーディが、サユキとどんな言葉を交わしたのかはエリクも聞いた。何でもサユキは未だ死ぬことにこだわっているようで、彼女を案じるエリクらと共にいると覚悟がにぶる、と話していたらしい。
(出会った当初に比べたらサユキもだいぶ丸くなったし、黄都守護隊の一員として過ごすうちに考えを改めてくれたんじゃないかと思っていたんだが、まさかまだ死にたがっていたとは……サユキがそこまで頑なに死を望む理由は何だ? コーディの話では、どうもサユキの兄の死が関わっているらしいが……)
『──私にもかつて、兄がいた。血のつながった実の兄だ』
思わずそう思案したエリクの脳裏をよぎったのは、いつかスッドスクード城の聖堂で聞いたサユキの告白だった。
彼女にも兄弟がいたのだと、エリクたちが初めて知ったのはあのときだ。
それまでサユキはただの一度も、自身の過去を語ろうとはしなかったから。
『私は、兄には兄の人生を生きてほしかった。愚かで薄情な妹のことなど忘れて』
あの言葉を聞いたときから、サユキの兄は既に他界しているのだろうということは何となく察していた。けれどもまさか、サユキが死に急ぐ原因が兄の死にあるとは思っていなかった。彼女は故郷の一族に追われる身だというから、エリクはてっきりそちらの方に原因があるのだろうと考えていたのだ。
(だがここまでの話を総合して考えると、サユキが一門に追われるようになったのにも、兄の死が関係しているんだろうか……?)
もしもそうなのだとしたら、彼女が抱える心の傷は、エリクが想像していたよりも遥かに深いのかもしれない。
そして今のエリクたちにはその傷を癒やしてやる術がない……。
「……せめてサユキの過去に何があったのかさえ分かればな。とはいえ本人に直接問い質すのは憚られるし……」
「そうですね……訊いたところでサユキさんが答えてくれるとも思えませんし、何よりサユキさんの性格を思うと、過去を明かすくらいなら隊を出ていくと言い出しそうで……」
「ふむ。そうなってしまうと、我々としても手痛い損失だな。サユキは間諜としてだけでなく、今や軍属としても非常に優秀な人材だ。本人がどうしても去りたいと望むのなら致し方ないが、手放すのは少々惜しい」
「シグムンド様もそう思って下さいますか」
「無論だ。特にこの歳にもなるとな、未来ある若者が死に急ぐさまを見るのはいたたまれないものがある。ジャンカルロ然り、フィロメーナ然りだ」
「若かりし頃は死にたがってばかりいたシグムンド様がそれをおっしゃいますか」
「馬鹿め、その私だからこそ言うのであろう。幼少の頃から世に疎まれてきた私でさえこんな歳まで長らえているのだ。ならば大した生き恥も晒していない若者が、何故憎まれ者の年寄りよりも先に死ぬ必要がある?」
「確かに……そう言われるとそうですね」
「す、スウェイン殿、そこは否定して差し上げて下さい……」
目の前で交わされるシグムンドとスウェインの会話にハラハラしながら、エリクは肩を落として嘆息をついた。されど今のシグムンドの言葉を聞いたなら、サユキも少しは気が変わるだろうかと思いを馳せる。
今や黄都守護隊にいる皆が同じようにサユキを想い、必要としているのだ。何よりエリク自身、サユキが隣にいない日々なんて、もはや考えられそうもなかった。
「まあ、ともかくだ。サユキの件は気がかりだが、深入りしすぎれば余計に彼女を遠ざけてしまうこともまた事実……とすれば、しばらくは様子を見つつ対応を考える他ないだろうな」
「はい……ナンシー先生やモニカもサユキの様子を気にかけておくと言ってくれていますので、今はあのふたりを頼ろうかと……」
「ああ、なるほど、名案だな。それでなくとも我が隊には、サユキと同じで自立心旺盛な女性が多い。同性の彼女らに寄り添ってもらった方が、サユキとしても心を開きやすいかもしれん。少なくとも女心など微塵も分からん鰥夫が猿知恵を絞るよりは、遥かにマシな結果を期待できるだろう」
「確かに、おっしゃるとおりです」
「ですからスウェイン殿、少しは否定して下さい!」
自分も女っ気がないことは認めるが、いくら何でも心外だとエリクが抗議すれば隣でコーディが苦笑した。一方、当のスウェインは「では、早速人を手配してきます」と涼しい顔で告げるや否や、すたすたと執務室をあとにする。まったくこの主従はと呆れながら、エリクは再び嘆息をついた。けれどもやはり、こんな黄都守護隊の日常の中に、これからもサユキがいてくれたならと願わずにはいられない。
「ああ、そうだ、アンゼルム。そういえば君にもうひとつ、伝えておかねばならんことがある」
ところがほどなく、ひととおりの報告を終えたエリクが自身の席に着いた頃、シグムンドが思い立ったように声を上げた。
午後からの休暇に入る前に、不在中の業務の進捗を確かめようと書類に手を伸ばしかけていたエリクは、小首を傾げて「何でしょう?」と聞き返す。
「実は君の留守中に、不審な男の訪問があったと報告があってな。応対した門衛の話によれば、傭兵風の若い男で〝ポジート村のウォルド〟と名乗ったそうだ」
「ポジート村……?」
と、シグムンドが告げた村の名を口の中で繰り返した直後、エリクは図らずも首を傾げた姿勢のままで固まった。……ポジート村のウォルド?
ポジート村のウォルド、だって?
数瞬ののち、その名の持ち主に思い当たったエリクは思わず、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった。おかげで「ガタン!」と鳴り響いた椅子の音に驚いたコーディが視界の端で飛び上がるのが分かったが、謝罪はひとまずあとにして、エリクは急き込みながら口を開く。
「し、シグムンド様、男は確かにそう名乗ったのですか? 〝自分はポジート村のウォルドだ〟と?」
「ああ、そう聞いている。しかし我々が調べた限り、黄皇国内にポジートという名の村は存在しない。ゆえに何者かと正体を訝っていたのだが……どうやら君には覚えがあるようだな」
「は、はい。ポジート村は、ルエダ・デラ・ラソ列侯国の南部にかつて存在した村です。ですが、あの村は……」
と、まったく予想だにしていなかった知らせに動揺し、エリクは言葉を飲み込んだ。──ウォルド。まさか、生きていたのか。
最後に彼と会ったのは確か、エリク一家が列侯国を追放される少し前。エリクが生まれ育った高台の町、セル・デル・シエロに滞在していたときのことだ。
ウォルド・アウダシア・ウエルタ・ポジート。
それは忘れもしない、幼き日のエリクの友の名だった。彼とは父がトゥルエノ義勇軍を率いていた頃に出会い、一年ほどの歳月を共に過ごしたのだ。彼の一家が暮らしていたポジート村は例の内乱に巻き込まれて壊滅的な被害を受け、路頭に迷った村人を義勇軍が難民として受け入れたのが知り合うきっかけだった。
さらに内乱終結後も彼らは住む家を失ったままだったがために、父の師が自らの居城が建つセル・デル・シエロに仮の住まいを与えたのだ。
しかしのちに彼らは己が故郷を再興すべく、ポジート村の跡地へ帰っていった。
エリクの記憶が確かなら、ウォルドの姿を見たのはセル・デル・シエロを発つ彼らを家族総出で見送ったときが最後だろう。
(だがあれからほどなく、俺もセル・デル・シエロを離れて……そのまま列侯国を追放されることになってしまった。そして三年前、カルロス殿に会うために列侯国へ戻ったときには、もう……)
──あのあとポジート村は無事に復興を果たしたが、数年後、またしても魔物の大群に襲われて村人は全滅した。
そう教えてくれたのは他でもない、かの地で二十年ぶりの再会を果たした父の師だった。彼の話を聞いてもにわかには信じられず、直接現地にも赴いたが、そのときにはもう、かつてポジート村と呼ばれた集落は影も形もなくなっていた。
ゆえにかの村で暮らしていたはずのウォルドもまた、助からなかったのだろうと肩を落として黄皇国へ帰還したのだ。けれども彼は生きていた。
既に地図から消えた村の名をわざわざ騙る人間がいるとも思えないから、恐らくは本人だ。加えて彼もまた、二十年も前に別れた自分のことを覚えていてくれた。
そう思うと何とも言えない感慨が込み上げてきて、エリクは今すぐにでも会いに行きたい衝動に駆られた。
「シグムンド様。ちなみにウォルドは今どこに滞在しているとか、そういった話はしていきましたか?」
「いや、生憎滞在先までは聞いていないが、後日、日を改めてまた訪問するというようなことを言っていたそうだ」
「そうですか……」
「ふむ……しかし列侯国の出身ということは、彼は君の旧友かね?」
「はい。私がトゥルエノ義勇軍の拠点に身を寄せていた頃、家族ぐるみの付き合いをしていた友人です。ですがまさか彼も傭兵になっていたとは……確かに当時から血気盛んな悪ガキではあったのですが、いささか驚きました」
「……そうか。ということは彼とは列侯国を離れて以来、連絡を取り合ってはいなかったのだな」
「ええ。取り合えるものなら取り合いたかったのですが、ポジート村は小さな農村でしたから、文字の読み書きをできる者が誰もいなくて……列侯国は黄皇国に比べると、識字率が格段に低かったのですよ。ですから手紙のやりとりもできず……」
「ほう。では君が黄皇国に仕官してから、共通の友人知人と会ったことは?」
「え? いえ……少なくとも黄皇国に戻ってからは、列侯国時代の知人とは誰とも会っていませんが……」
「そうか……では君の旧友は、一体どこで君がエリクだと知ったのだろうな」
「……はい?」
「今の君は黄都守護隊のアンゼルムで、ここではエリクという本名を知る者の方が少ないだろう? にもかかわらず、彼は何故君を訪ねてきたのかと思ってな。赤い髪の噂を聞いて、君の親類縁者やもしれぬと素性を探りにきた可能性もなくはないが、だとすればまるで面識のない相手に〝ポジート村のウォルドだ〟などと名乗るのはいささか妙だ。私ならまず〝昔、列侯国でエリクの世話になった者だ〟とでも告げて、アンゼルムが君を知る人物かどうか探りを入れるがな」
と、淡い金色の顎髭を撫でながらシグムンドが言うのを聞いて、エリクはまたしても固まった。……確かに、言われてみればそのとおりだ。
客観的に考えれば、黄都守護隊のアンゼルムがエリクだという確信がなければ、既に存在しない村の名を使って名乗ったりはしないはず。
むしろ〝ポジート村のウォルド〟という名乗り方は、まるでアンゼルムの正体がエリクであるのか否かを確かめるために、鎌をかけているかのようで──
(……ウォルドの目的は俺に会うというよりも、アンゼルムの正体を確かめることだった、のか? 少なくとも俺の知るウォルドは、そんな回りくどいやり方を好むような性格じゃなかったが……)
いわゆる〝ガキ大将〟という言葉がぴったりの、腕っぷしが強くてやんちゃな少年。エリクの記憶にあるウォルド・アウダシアとはそういう男だったが、まあ、とはいえ二十年もあれば人は変わる。とすればウォルドも傭兵として戦場を渡り歩くうちに、用心深く慎重な性格になったのだろうかとエリクは再び首を傾げた。
そう、このときエリクはまだ想像もしていなかったのだ。
まさか遠い昔の友人が、彼女の使いとして自分を訪ねてきたなんて。




