164.暗い迷路であろうとも
「──だけどさっきキム隊長が言ってたでしょ? 昨日は夜になっても帰ってこないサユキちゃんを心配したアンゼルムさんが、どうしても探しにいくって言って聞かなくて止めるのが大変だったって。アンゼルムさんにとってはサユキちゃんも、そのくらい大切な存在なんだと思うな。上官だとか部下だとか関係なく……」
「……だが忍とは元来消耗品だ。雇う側も雇われる側も、いちいち命に頓着などしない。だというのにあいつは……」
「でも、それは倭王国での話でしょ? ここはトラモント黄皇国だし、サユキちゃんも前に言ってたじゃない。『水を飲んだら礼に従え』って」
「……」
「何よりアンゼルムさんは、サユキちゃんがシノビだから傍に置いてるわけじゃないんじゃないかな。わたしには、サユキちゃんのこともひとりの人間として尊重してるように見えるけど……」
コーディがサユキの病室の前まで来ると、部屋の中からそんな話し声が聞こえることに気がついた。見れば個室の扉は完全には閉まっておらず、わずかばかり隙間が開いている。どうやら病室にはひと足早くモニカが訪ねてきていたようだ。
(そろそろサユキさんも目を覚ました頃だろうと思って来てみたけど、出直した方がいいかな……?)
と、そこでコーディは数瞬悩み、されど意を決して目の前の扉をノックした。
時刻は時神の刻(十五時)。今朝、サユキが負傷して戻ったという知らせを受けてから既に数刻のときが流れている。が、今日は魔物の襲撃もなく、サラーレの様子は比較的穏やかだ。よって今ならアンゼルムの傍を離れても大丈夫だろうと踏んで、コーディはサユキの見舞いに訪れていた。
しかし先客がいたとは想定外だ。クッカーニャでひと月あまり行動を共にしてからというもの、サユキとモニカはかなり親しい関係を築いたようだから、ふたりの時間を邪魔したくはなかった。とはいえコーディもあまり長く持ち場を離れるわけにはいかないので、できれば今、サユキと話をしておきたかったのだ。
そう、彼女とアンゼルムが再び顔を会わせる前に。
「はぁい──あっ、誰かと思えば、コーディくん!」
「お、お疲れ様です、モニカさん。サユキさんの様子を見に来たのですが……お邪魔してしまったでしょうか?」
「ううん、そんなことないよ! サユキちゃんなら、ちょうどついさっき目を覚ましたところ。さ、入って入って!」
と、入隊したての頃から変わらないモニカの明るい声に促され、コーディはおずおずと病室の扉をくぐった。郷庁の一部が町の救護所として開放されている影響で、ここも今は病室という扱いになっているものの、もとは客室として使われていた一室だ。おかげで必要な調度品は初めから一式揃っており、寝台も平兵士に支給されるような、干し草の上に布を敷いただけの粗末なものではない。
その寝台の上に体を起こし、先程起床したばかりだというサユキは相変わらずの仏頂面でそこにいた。少し前まで眠っていたためか、いつもはひとつに結われている黒髪も今は背に流されている。サユキが髪を下ろした姿はクッカーニャでの休暇中に見慣れたつもりでいたけれど、久しぶりに目にすると普段は息をひそめている女性らしさが覗く気がして、コーディは不覚にもドキリとした。
「え、えっと……おはようございます、サユキさん。お加減はいかがですか?」
「……別に、どうってことない。さっき飲んだ散らし薬が効いて、今は痛みも引いているしな」
「そ、そうですか……それならよかったです。モニカさんもサユキさんの傍についていて下さって、ありがとうございます」
「ううん。サユキちゃんの治療をしてくれてるのはナンシー先生で、わたしは食事や薬を運んでくるだけだから、大したことはしてないよ。今も起床後のお薬を届けにきたところだったの。でもちゃんと薬効も確認できたし、わたしはそろそろ行こうかな。次は夕食の時間にまた来るからね!」
救護所の仕事が立て込んでいるのか、はたまた気をきかせてのことなのか、モニカは笑顔でそう言うとほどなく部屋を出ていった。
すると当然ながら部屋にはコーディとサユキのふたりだけとなり、ほうっとため息をつきながら、コーディはひとまず寝台脇の椅子へと腰かける。
「……で、何だ。お前も小言を言いに来たのか?」
「こ、小言って……そんなんじゃありませんよ。本当にただサユキさんのことが心配で……」
「腕の骨折程度、大した怪我じゃないと言ったはずだ。命に関わるような傷ならいざ知らず、お前たちはいちいち大袈裟すぎる」
「いえ、僕が心配しているのは怪我よりもサユキさんの心の状態の方です。……大丈夫ですか?」
「……お前、何を言ってる?」
「いつものサユキさんなら、いくら相手が丸腰だったとはいえ、こんな大怪我をするような油断なんてなさらないでしょう? ですから僕たちの知らないところで何かあったのではないかと心配で……」
「……」
「アンゼルム様には言えないようなことですか?」
「……別に、何もない」
「サユキさん」
「本当に何もない。ただここしばらくのぬるま湯のような生活に慣れすぎて、忍の本分を失念していただけだ。……まったく、自分で自分に腹が立つ」
そう言って忌々しげにそっぽを向いたサユキの横顔は、少なくともコーディには嘘をついているようには見えなかった。しかしこれだけ連日のように魔物の襲撃を受けておきながら〝ぬるま湯のような生活〟とは一体どういうことだろう?
サラーレに派遣されてきてからというもの、コーディはいつまた魔物や湖賊が押し寄せるかとハラハラしっぱなしだというのに、サユキにとっては魔物との戦闘すらも何でもない日常の一部であるらしい。ということは以前の彼女は、単純な命のやりとり程度では生ぬるいと感じるほどに張り詰めた暮らしを送っていたのだろうかと思うと、コーディは思わず息が詰まった。
「……では、本当に油断なさっていただけだと?」
「だからそう言っているだろう。何度も同じことを言わせるな」
「すみません。ですが、そういうことなら……よかったです」
「……は? この状態の何がどう〝よかった〟んだ?」
「あ、いや、どうやら僕の早とちりだったようなので……もしかするとサユキさんも何か困っていらっしゃるのに、今のアンゼルム様に余計な負担をかけるわけにはいかないと、おひとりで抱え込んでいらっしゃるのではと心配していたのですよ。何より怪我の件は災難でしたが……その、最近はそんな風に気が緩んでしまうほど人間らしい暮らしを送れていたということなら、ご自分を責める必要はないと思います。軍人や軍属は片時も心を休めてはいけない、なんて決まりはどこにもないのですから」
と、コーディがやや遠慮がちにそう言えば、たちまちサユキの表情が険しさを増した。ああ、これでもかなり慎重に言葉を選んだつもりなのに、やはり怒らせてしまったかと内心苦笑しながら、コーディは宥めるように続ける。
「いえ、あの、実は、先程のモニカさんとのお話が少し聞こえていたのですが……僕もモニカさんと同じことを思ってこちらに伺ったのですよ。今朝のサユキさんとアンゼルム様の口論を聞いたら、どうしても放ってはおけなかったので……」
「なら、やはりお前も小言を言いに来たわけか。だったらはっきり言っておく。余計なお世話だ」
「サユキさん、」
「お前たちは揃いも揃って勘違いしているようだが、私は平穏な暮らしを求めて狭霧を出てきたわけじゃない。死に場所を探してここへ来たんだ。なのに人間らしい暮らしがどうのと言われても、お門違いだとしか言いようがない。私は最初からそんなもの、欲してはいないんだからな」
突き放すようなサユキの語勢に、コーディは一瞬言葉を詰まらせた。
だが無論忘れていたわけではない。確かにサユキはマルトラ村で出会った当初から、自分は死ぬためにここへ来たと言っていた。同郷の者たちに命を狙われているが、彼らの手にかかるくらいなら少しでも意味のある死を選びたいのだと。
以降、サユキが倭王国を脱出してきた経緯については何となく触れ難く、結局何が彼女を死へと駆り立てるのか、その理由をコーディは知らない。
ただひとつだけ確かなことは、自分もアンゼルムもそうしたサユキの事情を理解した上で「生きてほしい」と願っていることだ。
何故ならサユキと共に過ごした一年半の歳月が、彼女は決して悪人ではないし、むしろ優しく思いやりのある人間だということを教えてくれたから。
(サユキさんは確かに言動が乱暴だし、気難しい人ではあるけれど……反面、義理堅くてとても頼りになる。あまり言葉や態度には出さないだけで、他人のこともよく観察していて、さりげなく気をきかせたり助けて下さったりもするし……)
だから少なくともコーディには、サユキが死ななければいけない人間だとは思えない。というより、何故彼女のような人が死を望むほど追い詰められなければならないのだろうと、理不尽ささえ感じている。
シノビとして生きてきた彼女の半生を思えば、きっと人には言えないような汚れ仕事もたくさん引き受けてきたのだろうが、それはコーディだって同じことだ。
自分も軍人として、この数年で少なくない数の人を斬った。
そしてアンゼルムを守るためならば、自分はこれからも他者の命を奪うことをためらわないだろう──そう、たとえアンゼルムの家族や親友の命であっても。
「……もちろん、サユキさんの目的を忘れたわけではありません。ですが、でしたら逆にサユキさんは覚えていますか? マルトラ村で初めてお会いしたとき、僕があなたに言ったことを」
「……どの話だ?」
「僕も昔は〝何故生まれてきてしまったのだろう〟と思い詰めてばかりいた、という話ですよ。アンゼルム様と出会うまで、僕はずっと自分を許せずにいたんです。何の存在価値もない出来損ないのくせに息をして、何をやっても周りに迷惑ばかりかける……そんな自分のことがとにかく嫌いでした。だけどアンゼルム様が僕を必要としてくれて、どれだけ躓いても決して手を放さずにいて下さったおかげで、最近やっと〝こんな僕でも生きていていいんだ〟と思えるようになったんです。きっと一生、死ぬまでここにいるんだろうなと思っていた暗い迷路から脱け出して、気づいたときには日の当たる場所にいた……みたいな感じですね」
「……」
「サユキさんはどうですか? まだご自分を許せませんか?」
「……私は」
「それでもアンゼルム様はきっと、サユキさんの手も放そうとはしませんよ。サユキさんがその手を振り切って崖から飛び下りようとすれば、アンゼルム様も迷わず一緒に落ちる。あの方はそういう方です。そうなったらサユキさんは、今よりもっと自分を許せなくなるのではありませんか? だって、サユキさんが今もアンゼルム様のお傍にいるのは」
「うるさい。お前に私の何が分かる」
「分かりませんよ。分かりませんが……ただ、サユキさんがどこかでずっとご自分を責めていらっしゃることは、何となく分かっているつもりです。そうでなければ〝死ななければならない〟なんて思い詰めるはずがありませんから」
「……」
「ですが無粋を承知で申し上げるなら、僕はサユキさんにも救われてほしいし……生きていてほしいです。僕にとってもサユキさんは、今では大事な家族なので」
「……家族だと?」
「そうですよ。前にアンゼルム様がおっしゃっていたでしょう? 自分は黄都守護隊を家族のように思っているって。そして恐らくアンゼルム様にとって〝家族〟とは、何と引き換えにしても守りたいものであると同時に、心の支えでもあって……だからその一員であるサユキさんを失うことをあんなに恐れていらっしゃるんですよ。そうしたアンゼルム様のお気持ちも、少しは分かって差し上げてほしいというか……ただでさえあの方は今、とても難しい立場に置かれているので……」
「……だが私は、あいつといると覚悟がにぶる」
「サユキさん、」
「私は死に場所を求めて軍に入ったはずなのに……生きていてはいけないのに、気づけば忍としての自分を忘れて、ただの女になっている。私にはそれが耐えられない。自分が忍でなくなっていくのも、兄さんを忘れていくのも……」
「お兄さん……ですか?」
「そうだ。兄は私のせいで……私が殺したも同然なのに──」
そう言って額を押さえるや否や、サユキは深くうなだれてしまった。そんな彼女の肩が小さく震えていることに気がついて、コーディははっと息を飲む。普段はまるで感情を表に出さないサユキがこんな風に悲嘆に暮れるところを、コーディは初めて見た。けれども同時に、これこそが彼女の本当の姿なのだと悟る。小さくて、弱々しくて、されどそういう自分を必死に押し隠そうとしている異国の少女。
彼女にもかつて兄がいた、という話は知っていた。アンゼルムが妹のもとへは行かず、黄皇国に残ると言った日に、サユキが自ら明かしていたから。
しかしその兄をサユキが殺したも同然とはどういうことだろう?
彼女が今日まで死に急いできたのは、たったひとりの兄のためだとでも……?
「失礼」
ところが刹那、不意に背後で扉を叩く音が聞こえて、コーディははっと我に返った。誰かと思い振り向けばすぐに扉が開いて、思いもよらない人物が現れる。
おかげでコーディは目を見張り、思わず声を失ってしまった。
何故ならそこにいたのはキムの副官であるジエン・ダオレンだったからだ。
「えっ……じ、ジエン副隊長!? どうしてこちらに……!」
「おお、コーディ、おぬしも来ておったのか。急に押しかけてしまってすまんな。なれどどうしてもサユキに確かめたいことがあって来たのだ」
「……私に? 一体何の用だ」
「うむ……改めて聞きたい。おぬしが昨晩まで追っていた不審な男たちのことだ。おぬしは今朝、追跡の最中に彼奴らの会話を盗み聞いたと申しておったな?」
「ああ……生憎式神を通して聞いたせいで通詞がきかず、何を話していたのかまでは分からないがな」
「いや、それでも分かることもある。おぬしは彼奴らの会話から拾えた単語をいくつか覚えておったな。たとえば〝反乱軍〟……おぬしはこれを〝レブ・アーミー〟と発音した」
「……? ああ……私の耳にはそう聞こえたからだ」
「ほう、左様か。では彼奴らはやはりトラモント人ではなさそうだな」
「ど、どういうことです、副隊長?」
「コーディ。おぬしが話しておるのは、貴族たちがよく使う正統ハノーク語であるから気づかなんだようだな。なれど、トラモント人の多くは〝反乱軍〟を〝レブ・アーミー〟とは発音しない──トラモント訛りのある平民は皆〝リベラルミー〟と発音しておるはずだ」
と、指摘されて初めてコーディは気がついた。
確かに自分はもちろんのこと、普段はシグムンドもアンゼルムも極力訛りを排した正統ハノーク語を話しているから意識に留めなかったが、トラモント人の多くはトラモント訛りと呼ばれる独特の癖が乗ったハノーク語を話す。文字で表すと同じ綴りでも、国によって発音がまるで違うというのはハノーク語ではよくある話だ。
現にジエンも〝反乱軍〟を〝レブ・アルミー〟と発音しているが、恐らくこれは大陸北部の訛りであってコーディの発音とは若干異なる。正統ハノーク語における発音はサユキが模倣したのと同じ〝レブ・アーミー〟だ。が、だとすれば例の男たちはトラモント貴族の出身という可能性も捨て切れないのではないか、とコーディが思案していると、そんな考えを見透かしたようにジエンは続けた。
「儂が引っかかったのはそこだけではない。サユキが〝黄都守護隊〟を〝カピタル・デフェンス・フォース〟と発音したのもそうだ。コーディ、正統ハノーク語では〝黄都〟を〝カピタル〟とは発音すまい?」
「は、はい……言われてみれば僕はいつも〝キャピタル〟と発音していますね……シグムンド様や、アンゼルム様も……」
「されどおぬしの耳には〝カピタル〟と聞こえた……そうなのだな、サユキ?」
「……ああ。私には普段、お前たちの話す言葉もすべて狭霧語に聞こえている。だからそもそも〝黄都守護隊〟をハノーク語でどう発音するものなのか、正確には知らなかった。よって自分の耳で聞いた発音を忠実に再現しただけだ」
「……なるほど、相分かった。礼を言おう」
どうやらジエンの言っていた〝確認したいこと〟とはそれだったようだ。彼は束の間目を細めて口を閉ざすと、ほどなく急に自身の襟もとへ手を突っ込んだ。
そうして取り出されたのは、ジエンが服の下で首から下げていたらしい紐だ。
紐の先には小さな板金のような飾りがついていて、ジエンはその首飾りを無言ではずした。かと思えば丁寧に紐をたたみ、にわかにコーディへと差し出してくる。
「コーディ。すまんがこれを持っていってくれぬか」
「え? ぼ、僕が、ですか?」
「うむ。そしてスッドスクード城へ戻ったら、メイナード将軍へ渡してほしい。あの方ならばすぐに使い方を見つけるだろう」
「つ、使い方、といいますと……?」
「今は分からずともよい。将軍に渡す際には〝ジエン・ダオレンが戻るまで預かっていてほしいと言っていた〟と伝えるように。〝キム様の進退に関わる重要なものだ〟ともな」
「き、キム隊長の……?」
「ああ……ちなみにこの件はキム様には内密に頼む。あくまで儂の独断なのでな」
そう告げてほんの少し口の端を持ち上げると、ジエンはすぐに踵を返した。
どうも詳細を語るつもりはないようで「では、邪魔をしたな」と短く告げるや否や、つかつかと部屋を出ていってしまう。結局彼がサユキの証言から何を得たのかも、自分が何を託されたのかも分からないまま、コーディはジエンの去った扉と首飾りとを交互に見比べた。次いで思わずサユキを見れば、彼女も肩を竦めている。
(き、キム隊長の進退に関わるもの、って……一体何なんだろう?)
そう思って目を落とした手の中の板金は、何かの金属片のようにも見えた。
というのも小さな板状の金属には謎の切れ込みが入っていて、もとは何かの部品だったのではとも思えるのだ。されどそんなものがキムとどう関係があるのか、正直さっぱり分からない。ゆえに首を傾げ、疑問符を浮かべるばかりだったコーディは、このときまだ知る由もなかった。
自分が託されたものが、彼の遺言であったことに。




