162.王と老将
「……サユキが戻ってこない?」
と、幕舎内にともった灯明かりの中でキムから聞き返されたエリクは、焦燥と共に頷いた。時刻は既に戒神の刻(二十時)を回っている。
サユキが謎の人影を見たと言って追跡に向かったのが聖神の刻(十四時)頃のことだったから、彼女はもう六刻(六時間)あまりも行方不明の状態だ。
サラーレの北東、四幹(二キロ)ほど離れた原野に設営された、黄都守護隊野営地。エリクはそこで駐留中の第五部隊を指揮するキムとジエンのいる幕舎へ駆け込み、状況を説明していた。実は日中、サユキが謎の人物を追っていったあと、エリクらもすぐに彼女に続いたのだが、問題の路地に入ったときには既に怪しい人影もサユキの姿もなく、完全にふたりを見失ってしまったのだ。
念のため周囲も捜索してみたものの、やはり彼女の姿は見当たらず。
結果としてエリクらは、散々迷った末に「先に戻っていろ」というサユキの言葉に従うことにした。放っておくのは心配だったが、サユキであれば信じて任せても大丈夫だろうと思い、彼女が調査を終えて戻るのを待とうという話になったのだ。
ところが日はとっぷりと暮れ、町の灯が落ち始めた今もなおサユキが戻ってくる気配はない。これにはさすがのエリクも何かあったのではという不安を拭えなくなり、いてもたってもいられずにキムたちのもとへ相談に訪れたというわけだった。
「ふむ……困ったことになりましたな。問題の人影というのがただの町人であったなら、サユキも早々に引き返してきたはずです。なれど彼女ほどの手練れが追跡に向かったまま戻らないとなると……」
「……ああ。少なくとも相手はただの町人ではなかった可能性が高いな」
「で、ですがだとすると、サユキさんが追っていった人物は何者だったのでしょうか。まさか本当にライリー一味が偵察に戻ってきたとか……?」
「いや。十人や二十人に同時に襲われたならともかく、サユキは湖賊ごときに後れを取るような手合いではないだろう。となれば他に考えられる可能性としては……アンゼルムを狙った刺客、か?」
「そ、そんな……ではサユキさんは、刺客を排除しようとして返り討ちに?」
と、コーディが青ざめた顔で口にした推測に、エリクは全身からぞっと血の気が引くのを感じた。確かにキムの言うとおり、幼い頃から暗殺者として死すれすれの鍛錬を重ねてきたサユキの実力は、湖賊ごときが数人でどうこうできるものではない。されどもし、相手もまた刺客としての腕前を磨いた人間だったなら?
(……だとしたら完全に俺の落ち度だ。昼間、やっぱりあそこで引き返さずにサユキの捜索を続けるべきだった。一部の過激派貴族が、皇位継承権者であるリリアーナ将軍やハインツ殿と近しい俺の身内から逆賊が出たと知って、神経を尖らせているという話は聞いていたのに……)
なのに何故、サユキならきっと大丈夫だなどと過信してしまったのだろう。
エリクは冷たい汗が背中を濡らすのを感じながら、思わずきつく軍装の上衣を握り締めた。例のクッカーニャでの事件以来、保守派が妙に大人しいのですっかり油断していたが、エリクが目下最も警戒しなければならないのは革新派貴族から分離した過激派と呼ばれる者たちだ。
彼らは二年前、近衛軍団長の退任に端を発したクーデター騒動を受けて台頭してきた一派であり、愚帝と化したオルランドを排し、革新派と思想を同じくする新帝を擁立しようと画策する者たちの集まりだった。そんな過激派が次期黄帝と目しているのが、オルランドの姪に当たるリリアーナ・エルマンノだ。
皇位継承権第一位の座にある彼女は現在、皇家の後継者争いが大規模な派閥闘争に発展する事態を防ぐべく、いかなる派閥にも属さない慎重な立ち振舞いを見せていた。が、そこに目をつけたのが過激派の貴族たちだ。
彼らは近年中立派から革新派への鞍替えを表明したハインツ・ヒュー──第三位皇位継承権者──とリリアーナに婚姻を結ばせ、彼女を革新派に近い新帝として即位させようともくろんでいる。ところが四ヶ月前、エリクがオルランドに拝謁し、妹が反乱軍に加わった事実を明かしたことで新たな暗雲が立ち込め始めた。
というのも、エリクが妹を通じて反乱軍と内通した場合、親密な関係にあるリリアーナやハインツを唆し、反乱軍と共謀する形で帝位を簒奪させようとするのではないか、と彼らは危惧しているらしいのだ。特にハインツは救世軍の指導者であるジャンカルロやフィロメーナとも親しかった過去があり、ジャンカルロを失って未亡人となったフィロメーナとハインツが結びついて、新たな為政者としての正統性を主張し出すことを彼らは恐れているようだった。
(ハインツ殿が既婚者であることを思えば、極めて馬鹿馬鹿しい話だが……しかし彼とフィロメーナは従兄妹関係にありながら、都合のいいことに血はつながっていない。おまけにフィロメーナも現在の皇室からは遠縁とは言え、皇家の血を引いているというし、過激派がハインツ殿とフィロメーナの接近を危惧するのも分からなくはない、が……)
そのふたりの仲立ちとして、エリクとカミラが暗躍する。
過激派はそんな未来がいずれ訪れると根拠もなく思い込んでいるようであり、ゆえに彼らの動向に気をつけろ、と警告してくれたのは他ならぬハインツだった。
とはいえあれから四ヶ月、過激派がエリクに直接接触を図ってくることはなかったのもあって、完全に気が緩んでいたらしい。そうでなければ、あそこでサユキをほったらかして引き返すなんて馬鹿げた選択は絶対に取らなかっただろう。
「とにかく……とにかく、まずはサユキを探さないと……キム殿、申し訳ありませんが、夜間作業に出ている第五部隊の兵の中から何名か、人手を貸していただけませんか。サユキが消えた地点をもう一度念入りに捜索すれば、何か手がかりが見つかるかもしれません」
「いや……どうだろうな。今夜は月もないし、この暗さでは手がかりを探すにしても容易ではないだろう。何よりサユキが追っていったのがお前を狙う刺客だったなら、やつらの標的であるお前が夜間にのこのこ出歩くのは賢明とは思えん」
「しかし……!」
「どうしても捜索しないと気が済まないと言うのなら、夜の間は第五部隊だけで動く。お前は夜が明けるまで陣から出ずに休んでいろ。今夜中に進展がなければ、明朝、お前も捜索に加わればいい」
「いえ、ですが……もしあれが俺を狙う刺客だったなら、サユキは俺のせいで……だとしたら、俺だけ悠長に休んでなどいられません。捜索中は身辺に細心の注意を払うようにします。ですから、俺も……!」
「時間の無駄だ、何度も同じことを言わせるな──〝休め〟」
ところが次の瞬間、鋭い眼光と共に放たれたキムの言葉がすさまじい衝撃となってエリクを襲った。まるで雷にでも打たれたかのごとく全身が硬直し、痺れに似た感覚が頭から爪先までを駆け抜ける。直後、エリクの意識は喪失した。だのに体はくるりと踵を返し、エリクの意思とは関係なくキムたちのいる幕舎をあとにする。
「えっ……あ、アンゼルム様? どこに行かれるのですか、アンゼルム様……!」
と、それを見たコーディが慌てて呼び止める声も耳に入らなかった。
眠ったままの意識を連れて、エリクの体は一路、自身の幕舎を目指す。
● ◯ ●
まるで何の前触れもなく、唐突に歩き去ったエリクを追って駆け出していくコーディを見送りながら、キムは短く嘆息をついた。この力をむやみやたらに使うべきでないことは分かっているものの、エリクの性格上、こうでもしないと絶対にサユキを探しにいくと言って聞かないだろうことは明白だったのだから仕方がない。
「……よろしいのですか、キム様。あれではあとからコーディに〝何をしたのか〟と疑念を持たれそうですが」
「構わん。仮に疑念を持ったところで、未だに俺を見るたび怯えるあいつが詮索してくるとも思えんしな。仮に問い詰めてきたとしても、軽く脅せば諦めるだろう」
「なるほど、左様で」
と、傍らに残った副官のジエンは、苦笑のような微笑のような曖昧な表情を湛えて、ほとんど白くなりつつある口髭を扱いた。昔は彼も北東の民に多い立派な黒毛を蓄えていたのだが、撫でつけられた髪も今や白いものばかりになっている。
されど長年戦場を渡り歩いて身につけた武芸だけは衰えを知らず、齢六十を過ぎた今も矍鑠たる働きをしてくれるのが有り難かった。
ただ同時に、そろそろ潮時かもしれないという思いもある。
これ以上黄皇国を取り巻く騒乱が激しさを増す前に、およそ五十年にも渡って自分に仕えてくれた彼を、家族のもとへ帰してやるべきかもしれないと。
「して、例の件はいかがなさいます?」
「さっき言ったとおりだ。夜の間は俺たちだけで捜索する。できれば今夜中に手がかりだけでも掴めればいいが」
「そうですな。何の成果もなしでは明日以降、アンゼルム殿を説き伏せるのがさらに難しくなりましょう」
「うむ……それでなくともアンゼルムはこのところ、精神的にかなり不安定なようだからな。表向きには平静を装ってはいるが、今のままではいつまた発作を起こすか分からないとあの馬が言っていた」
「あの馬……というと、アンゼルム殿の乗騎のシェーンですかな?」
「ああ。やつは俺の正体に気づいているようだ。おかげで顔を会わせるたびああしろこうしろとやかましくて敵わん」
「ほう、それはそれは。キム様の素性を知りながら、臆面もなくあれこれ要望してくるとは、やはり大した馬ですな」
「アレは恐らく天馬の血筋だ。噂には聞いていたが、実物を目にしたのは俺も初めてだな」
「天馬というと、かつてクェクヌス族が大陸の北にいた頃に友としていたという天翔ける馬ですか。かの一族がエレツエル神領国に敗れた折り、天馬は殺し尽くされて絶滅したものと伝え聞いておりましたが、子孫を遺していたのですな」
「ああ。天馬の血を引く馬は特別賢く、人の言葉をも解すると聞いている。ただし非常に気位が高く、天馬同様、己が主と認めた者以外は背に乗せないともな」
「なるほど……とすれば、百獣の王たるキム様にも容易に屈さぬのにも納得です。では先程、アンゼルム殿に〝休め〟とお命じになったのも?」
「ああ。昼間、あの馬に〝もっとアンゼルムのことを気遣え〟だの〝労れ〟だの口やかましく言われたのでな。とりあえずひと晩だけでも休ませれば、あいつの精神状態も少しはマシになるだろう」
「ふむ……妹御が反乱軍に奔っただけでも一大事だというのに、今のアンゼルム殿はお立場的にもかなり危うくなっておりますからな。その上、当の妹御からは未だ何の接触もないとなれば、気を病まれるのも無理からぬことです」
「……そうだな。あいつのことだ。大方妹から音沙汰がないのは、帰郷を先延ばしにして黄臣となっていたことを知られ、恨まれたからだとか思い込んでいるのだろう。軽薄だった父親とは裏腹に、あいつは思い詰めすぎる」
「確かに。しかしまさかヒーゼル殿のお子たちが、かように数奇な運命を辿ることになろうとは……そういえば、我らがかつてアルハン傭兵旅団としてトゥルエノ義勇軍に雇われ、アンゼルム殿のお父上と共にルエダ・デラ・ラソ列侯国で戦ったことは、結局お話になったので?」
「いや。カルボーネ事件のあと、あまりにしつこく詮索されたので〝忘れろ〟と命じて忘却させた」
「ほほ、左様でしたか。されどそれも已むなしですな。話せばさすがのアンゼルム殿も、かつて列侯国で〝ウォン〟と名乗っていた傭兵のことを思い出してしまうでしょうから」
「ああ……あのときは俺も口を滑らせすぎた。不老の肉体であることを知られるわけにはいかないというのに」
ため息混じりにそう呟きながら、キムはついに胡床から腰を上げた。
そうして寝台の傍らに置かれた槍立てから直槍を手に取り、鞘をはずす。
抜かりなく磨かれた穂先を確認すると、早速サユキの捜索へ向かおうとした。
が、踵を返した刹那、もとの場所に直立したままのジエンが自分を見つめ、意味深な表情を浮かべていることに気づく。
「……どうした。何をにやついている?」
「いえ。ただこの国へ来てからというもの、キム様はずいぶんお変わりになられたと感慨深く思っていただけです」
「どういう意味だ?」
「たった今、アンゼルム殿に代わってサユキを探しにゆかれようとしていることもそうですが……そもそも以前のキム様であったなら、己の過去について不用意に口を滑らせるなどということもなかったでしょう。共に旅するアルスランの民とすら可能な限り交わりを断っておられた頃のキム様からは、想像もできないお姿だと思いましてな」
「……つまり、他人に入れ込みすぎだと言いたいのか?」
「いえいえ、むしろその逆です。某にはキム様がようやく心許せる居場所を見つけられたように思えて、感無量なのですよ」
「馬鹿を言うな。俺が黄皇国に留まっているのは、ラオス殿との盟約を果たすためだ。それが思いのほか長引いているだけで、役目が終わればまた流浪の身に戻る」
「しかしこれほど長くひとつところに留まったのは、旅団の創設以来初めてのことではありませぬか。きっかけは確かにラオス殿との盟約でしたが──いっそこのまま、トラモント黄皇国に根を下ろされるおつもりはありませんか?」
「……何を言っている? ここはエレツエル神領国に近すぎる。俺たちが今も黄皇国に居座れているのは盟約に守られているからであって、アレが履行されなくなれば、留まり続けるのは不可能だろう」
「ええ。なれどたとえ盟約が期限を迎えても、国が存続する限り、黄皇国は神領国の脅威に晒され続けるでしょう。ならば同じ敵に立ち向かう者同士、手を取り合って共存する道もあるのでは?」
「ジエン」
「キム様。お分かりかと思いますが、某の命ももはや長くはありませぬ」
と、直立の姿勢を保ったまま後ろ手を組んだジエンの静かな口調に、キムは図らずも胸を衝かれた。……分かっている、そんなことは。
そう返すつもりが、何故か言葉が出てこない。
「無論、心の内ではまだまだ現役のつもりでおりますが、それもあと二、三年のことでしょう。この老体がキム様の足枷となる前に、そろそろ副官の座も後進に譲らねばなりませぬ。なれどそう思う一方で、老婆心ながら、某なきあとのキム様の御身を案じずにはいられぬのです。今や大戦当時のことを知るアルスランの民は数を減らし、望郷の想いを募らせる者も少なくなりました……ゆえにどれほどの民に囲まれようと、キム様の孤独は増すばかりでしょう」
「……」
「ですからキム様には、王としての重荷を束の間でも下ろせる居場所を見つけていただきたいのです。そして今は黄都守護隊が、その居場所になってくれていると感じております」
「……だが俺は不老の身だ。今はまだ誤魔化せているものの、あと十年もすれば言い訳がきかなくなる」
「ですから、すべて打ち明けた上で根を下ろすのですよ。かつてラオス殿にそうされたように」
「……」
「まあ、今すぐにそうなさるべきとは申しませぬ。キム様のご多幸を願う老骨の戯れ言と思うて、心の隅にでも留め置いていただければ充分です」
「……ジエン」
「はい」
「本当に老いたのだな、お前は」
「ええ、老いました。叶うことなら、キム様の命ある限りお傍に仕えとうございましたが……やはりどれほど武芸を磨こうと、寄る年波には敵いませぬな。となれば残された時間で某にできるのはキム様の露払いと、アルスラン王家への忠誠を受け継ぐ若人を育てることのみです」
「……俺のことはいい。とにかく今はサユキを探すのが先だ。まずは夜間作業班と合流するぞ」
「はっ。しかし人探しとなれば獣の嗅覚を借りるのが有効かと……取り急ぎ郷庁へ人を遣り、猟犬を借り受けて参りましょうか」
「いや、必要ない。獣ならここにいる」
そう言って灯明かりの届かぬ闇の中、金色の眼を光らせたキムを見てジエンは微笑んだ。ほどなくふたりは灯台の火を吹き消し、揃って幕舎をあとにする。
見上げた夜空には、やはり月がなかった。されど雲間から覗くわずかな星明かりが、ちかちかとキムの心に語りかけてくる。




