160.太陽と共にあれ
自身がかつてルエダ・デラ・ラソ列侯国で体験したすべてを語り終えたあと、エリクは静かにこう言った。
「……ガルテリオ様のお話を伺って、私もようやく理解しました。いえ……やっと自覚した、と言った方がいいのかもしれません。今日まで自分を衝き動かしてきたものの存在と、正体を」
そう告げたエリクが瞼を上げて見やった先には、メイナード邸の談話室に集まったガルテリオやファーガス、コーディ、サユキ、モニカ──そしてこの屋敷の主であるシグムンドの姿がある。
「恐らく私は今も、あの日の自分を許せていないのだと思います。大切な人々を誰も救えず、守れず、ただ怯えて泣くことしかできなかった無力な自分を」
当時のエリクはまだ何の力も持たない、たった五歳の少年だった。
そんな幼子に何かを守れる力などあるはずもないだろうと、人はそう言うかもしれない。されど頭では分かっていても、エリクはやはり許せないのだ。
正義の神子や父の掲げた正義が踏み躙られ、その旗の下に集った人々が次々と傷つけられていくさまを、何もできずに見ているしかなかった自分自身を。
「ですから私はどうしても、今のトラモント黄皇国に背を向けることができないのです。ここで逃げ出せば恐らく私は、死ぬまであの日の悪夢に囚われたまま……けれどそれを克服し、証明してみせたいのですよ。当時父の信じた正義は正しかったはずだと……そして自分はもう弱くて無力な子供ではないと、他の誰でもない、私自身に」
エリクがそう語り終えるまでの間、一同は黙って話に耳を傾けていた。
クッカーニャまでエリクの病状を見舞いに来てくれたガルテリオと共に、黄都ソルレカランテへ戻った日の夕方のこと。エリクが何の前触れもシグムンドの許可もなく保養地を離れ、ガルテリオに伴われてメイナード邸に現れると、屋敷でファーガスと話し込んでいたシグムンドはさすがに驚愕の表情を見せた。
何せ彼に見送られてスッドスクード城を発ってからおよそ二ヶ月ぶりの再会だ。
当然シグムンドには上官の許可なく勝手に休暇を切り上げたことを詰られたが、すぐにガルテリオが取りなしてくれたおかげで、何とか話のできる状況が整った。
而してエリクは屋敷の談話室を借り、皆に自分の過去を打ち明けたのだ。
幻痛症の発作を起こして倒れたスッドスクード城で悪夢と共に甦るまで、ずっとずっと胸の奥深くに封じ込めていた苦い記憶を。
「……なるほどな。お前が二十年前、義勇軍の城に身を寄せていたとは聞いていたが、まさかそこまで深く内乱に関わっていたとは……しかもよりにもよって反乱を先導した側の息子か。そりゃさぞ難儀な子供時代を過ごしたはずだ」
やがて集まった皆の中で真っ先に沈黙を破ったのは、思案顔で顎を摩ったファーガスだった。彼は列侯国が混迷を極めていた時代、最も西の情報が入りやすい国境の軍にいただけでなく、実際に難民として逃れてきたアレグリア姉妹を匿った過去があるから、あの内乱に対しては人一倍思うところあるのだろう。
ちなみに彼がちょうどメイナード邸に居合わせたのは、クッカーニャへ発つ前のガルテリオに「シグから目を離すな」と言われたのを口実に、我が物顔で屋敷に泊まり込んでいたためらしい。
とすればきっとファーガスもファーガスなりに我が上官を気にかけてくれていたのだろう……と思いたいところだが、一連の事情を説明する際のシグムンドが非常に不愉快かつ迷惑そうな空気を醸し出していたところを見るとさすがのエリクも、
(このおふたりって本当に親友同士なんだよな……?)
と、若干の不安を覚えずにはいられなかった。
「うむ……しかしまさかヒーゼル殿が列侯国で左様な仕打ちを受けていたとはな。当時の侯王の悪評は我々も陛下から聞き及んでいたが、そこまでとは……」
「えっ……も、もしかして陛下は、列侯国の王族とも面識があったのですか?」
「いや。我が国とルエダ・デラ・ラソ列侯国とは公の国交が絶えて久しく、よって陛下といえども侯王一族との交流はなかったはずだ。されど当時、陛下はトゥルエノ義勇軍を裏で支援しておられたからな。列侯国の内情にはかなりお詳しかったと見える」
「……そうなのですか?」
「何だ、アンゼルム。お前も知らなかったのか? 当時列侯国はシャムシール砂王国と同盟関係にあっただろう? ゆえに陛下は西側の脅威に対抗すべく、義勇軍と結託して砂王国共々列侯国を潰そうとなさってたのさ。ま、結局はエレツエル神領国の邪魔が入って手を引かざるを得なくなったがな」
「しかし陛下は義勇軍を援護するために、御自ら軍を率いて国境に立ち、一年ほどのあいだ砂王国軍を黄皇国側に引きつけておられた。あの戦いには当時第三軍にいたファーガス殿はもちろん、ガルテリオ様や私も皇太子付きの近衛軍将校として従軍したからな。今でも鮮明に覚えているよ」
「じゃあ、場所は違えどアンゼルムさんのお父さんと将軍方は、同じ目的のために一緒に戦っていたんですね。そう考えると……何だか不思議な感じがします」
とコーディの隣に座ったモニカがぽつりと言ったのを聞いて、エリクも彼女と同じ感慨に包まれた。やはりここにいる将軍たちと自分とは、出会う前から見えざる縁で結ばれていたらしい。だとすればなおのこと黄皇国を離れるわけにはいかないなと、エリクは内心苦笑した。そんな不思議な巡り合わせを感じれば感じるほど、よりいっそう彼らから離れ難いと、心がそう叫ぶのだから。
「だがな、エリク。君の妹が救世軍に奔ったことで、事態はより複雑化したと言っていい。君と妹が敵対する立場になったこともそうだが、それ以上に問題なのがこの手配書だ」
ところがほどなく、シグムンドがそう言って向かいの席から差し出した一枚の手配書に目を落とし、エリクは思わず息を詰めた。
何故ならその紙の中心には、思わず版画職人の腕前を絶讃したくなるほど精巧なカミラの人相書きが掲げられ、じっとエリクを見つめていたからだ。
「こ、これは……サバンさんがオディオ地方から届けて下さったという、カミラさんの手配書ですね」
「うむ。幸いまだ黄都には出回っていないものの、司令部に届けられるのも時間の問題だろう。そしてひとたびそうなれば、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになるのは目に見えている」
「……手配書の内容に目を通せば、手配犯が私の関係者であることは一目瞭然だから、ですね」
「そうだ。ここに記された〝赤い髪〟という特徴は、君を知る者にとっては無視できないものだろう。さらに言えば、実際に血のつながった家族である以上、君の関係者であることを否認し続けるのは不可能と言っていい。こちらがどれだけ疑惑を否定しようとも、保守派の連中がこの好機を見過ごすはずがないからな」
シグムンドの懸念はもっともだった。エリクもエマニュエルに存在するすべての国々を巡って調べたわけではないが、しかし有色髪の中でも赤い髪というのが特別珍しいものであることは、今日まで出会った人々の反応から知っている。
ゆえに手配犯の身体的特徴に目をつけた者たちが、エリクとの関係を疑って調査に乗り出すのは自然の流れだ。そうなればエリクは彼女が妹であることを隠し切れない。加えて今度こそ救世軍との内通を疑われ、自分の命はもちろんのこと、シグムンドたちをも危険に晒すだろうことは火を見るよりも明らかだった。
「こうなった以上、君を守るために取れ得る方策は次のふたつだ。ひとつは君が退官し、速やかに我が国を離れるという策。もうひとつは、事実が公になる前に陛下に謁見を申し入れ──自ら今回の事情を明かし、その行動によって身の潔白を示すという策だ」
「……」
「問題は後者を選んだ場合、今の陛下が聞く耳を持って下さるかどうかだが……まあ、そこは俺たちが如何ようにでも口添えしてやる。今日までお前が我が国のために身を粉にして働いてきたことは、ここにいる全員が知っていることだからな」
「……ありがとうございます、ファーガス将軍」
と、彼の頼もしい言葉に感謝を述べながら、されどエリクは顔を上げられなかった。今回の事件を機に、カミラが郷を飛び出すに至った経緯はファーガスにも説明してある。すなわちエリクが名を変え、カミラに消息を知らせずにいた理由をだ。
それを知ってもなお自分を信じ、力になろうとしてくれる彼らを前に、エリクは忸怩たる思いを拭えなかった。仮に黄皇国を離れても離れなくても、彼らに多大な迷惑をかけてしまうことはもはや避けられぬ未来だと理解したから。
「……しかし、いくら内通の疑いを晴らすためとはいえ、陛下にこの件を打ち明けるのは時期尚早では?」
「ほう。何故そう思う、サユキ?」
「問題のイークという男は、アンゼルムが〝エリク〟であることを知らないようですが、少なくともフィロメーナは気づく可能性があります。何故なら昨年、フィロメーナはロマハ祭の舞踏会で、アンゼルムの赤い髪を目撃していますから」
「あ……! そ、そうです……そうですよ! あのとき、アンゼルム様は地毛のまま仮装舞踏会にご出席されていましたから、カミラさんの髪の色をご覧になれば、フィロメーナ様もアンゼルム様とのご関係に気づかれるはず……!」
「だが仮装舞踏会と言えば、どいつもこいつも馬鹿みたいな色の鬘を被ってくるものだろう。だとすればアンゼルムの赤髪も作りものだと思われたんじゃないか?」
「いえ。アンゼルムの髪が鬘でも染めたわけでもないことは、フィロメーナも直接触れて確認していました。そうだったな、アンゼルム?」
「あ、ああ……確かに、そんなこともあったような……」
「なるほど……つまりカミラが兄を探して村を出てきたと知れば、フィロメーナも〝アンゼルム〟の正体に気づき、彼は黄都守護隊にいる、と伝える可能性があるわけか。さすればカミラやイークは救世軍を離れると思うか、エリク?」
「いえ……正直、分かりません。サユキに指摘されるまで、その可能性は考慮していなかったので……ですがもし〝アンゼルム〟が私であるかもしれないと知れば、ふたりは接触を図ってくるのでは……と、思います。そうなればカミラは素直に救世軍を抜けるかもしれません。ただ、イークは……」
エリクの知る親友ならば、自分とカミラが揃って説得すれば、あるいは考えを変えてくれるかもしれない、と思う。されど昨年、天燈祭の日に目にした彼はフィロメーナに対し、ひとかたならぬ想いをかけているように見えた。
とすればカミラを送り出すことには納得しても、自分はフィロメーナのために救世軍に残ると言い出すかもしれない。そうなればカミラはどうなる?
いや、そもそもエリクが黄皇国にいると知ったとて、カミラも救世軍を離れるとは限らない。イークが救世軍に残るなら自分も、と言い出す可能性は充分あるし、何より今日までエリクが消息を断っていた理由を知れば、失望して背を向けてしまうかもしれない。そうなったときフィロメーナやイークはどう動くだろうか。カミラの存在を口実に再びエリクを救世軍に引き入れようとするのか、あるいは……。
「まあ、確かにそれで事態が丸く収まるのなら万々歳だがな。しかし仮にそうなったとしても、向こうが接触を図ってくるのがいつになるかは誰にも分からん。であればやはり手遅れになる前に、一度陛下にはお伝えしておくべきではないか? 無論、アンゼルムが退官を選ぶのであれば話は別だが」
「いえ、私は……今はまだ退官するつもりはありません。どんなに望みが薄かろうとも、最後まで手を尽くします。内乱の拡大を阻止し、民も家族も守るために」
「エリク」
「何をおっしゃられようとも私の気持ちは変わりませんよ、シグムンド様。そもそも妹が郷を飛び出したと聞いたときから、こうなることも覚悟の上で私は黄皇国に留まりました。とはいえそんな私のわがままのために、将軍方や黄都守護隊に不利益をもたらすことは望みませんので、いざとなればこの首ひとつで事態を収めていただければと……」
「馬鹿を言うな、エリク。先刻ファーガス殿も言っていただろう。君のこれまでの献身は、ここにいる誰もが知るところだとな。ゆえに私も誓ったはずだ。君が黄皇国と共に歩む限り、我が生涯を賭してその忠愛に応えようとな」
「シグムンド様……」
主君の答えを聞いたエリクが言葉を失っていると、俄然、シグムンドの隣に座ったファーガスが声を上げて笑い出した。かと思えば彼はにわかにシグムンドの背後へ腕を回し、不躾に肩をバンバン叩きながら言う。
「そうだぞ、アンゼルム。それでなくともこいつはもはや、お前なしではいられん体になってしまったのだ。ガルから既に聞いたと思うが、ここ数日のシグの取り乱しようと言ったら、記録をつけて後世に語り継ぎたいほどだったのだぞ」
「……でしたら、ファーガス殿。そのご厚意の返礼に、私は貴殿の名が決して後世に残らぬよう手を尽くしましょう」
「まあまあ、落ち着け、シグ。放っておくとお前なら本当にやりかねん。だがな、エリク。君がそこまで覚悟を決めていると言うのなら、我々としても助力は惜しまん。内乱の芽を摘むのはもちろんのこと、君の家族や友を守る上でもな」
「ガルテリオ様、」
「だから我々を巻き込むことを迷惑だとか、不利益だとか思う必要はない。我が国の事情に君を巻き込んでしまったのは、むしろ我々の方だしな」
「おう。何よりクッカーニャでは、ハミルトンやロッカもお前の世話になったそうじゃないか。部下どもの面倒を見てもらった礼に、俺もいつでも力を貸してやる。故郷のことも案ずるな。今回の件を口実に太陽の村へ手を出そうなどという不届き者が現れたなら、ヴォリュプト地方の領主たる俺が容赦なく拈り潰してやるさ」
「ファーガス殿。お志はご立派ですが、ハミルトンやロッカは今や私の部下であることをお忘れなく」
「堅いことを言うな、シグ。というかだな、こないだあいつらと話をしてふと思ったのだが、ラオス老亡き今、あいつらを黄都守護隊に置いておく必要はもうないんじゃないか? 何ならジュードも一緒に返してもらって……」
「えっ。そ、それは困ります、ファーガス将軍! せっかくクッカーニャでロッカさんとも仲良くなれたのに……!」
「ほう。ではお前も一緒に俺のところへ来るか、モニカ? 医務官なら何人いても困らんからな」
「やめておけ、ファーガス。そんな真似をすればプレスティ家のご令嬢が黙っていないぞ。彼女には皇位継承権を持つセドリックでさえ逆らえんともっぱらの噂だ」
「さ、逆らえないどころか、先日も平手を張られていましたね……」
「何? あのセドリックがか? わははは! ただのいい女かと思いきや、なかなか見どころがあるな、ナンシー・プレスティ!」
完全に怯えているコーディとは裏腹に、まったく笑いごとではないのに大笑いしているファーガス。そのファーガスに腕を回されたまま至極不機嫌そうにしているシグムンドと、苦笑しているガルテリオとモニカ。そして呆れたように一同を眺めているサユキ……。エリクの過去や真相を知っても、彼らは何も変わらない。変わらずにいてくれる。それがこんなにも心強いとは思わなかった。おかげで数日前までの不安が嘘のように、気づけばエリクもまた、彼らにつられて笑っている。
(……困ったな。本当にこの人たちは──知れば知るほど離れ難くなるばかりだ)
あまりにもまばゆく、暖かく、太陽のような人たち。
彼らが照らしてくれる道だからこそ、エリクは信じて歩いてゆける。
たとえ一時の暗雲が天を覆い尽くそうとも、必ず雨は上がるのだ。
だから、往こう。改めてそう思えた。彼らとなら今度こそ運命を覆せるかもしれない。ならばモノノケの預言など知ったことか。どんなに無様と嗤われようとも、最後の一瞬まで足掻いてみせるとエリクは決めた。
そうすればいつか許せるだろうか。
あの日の弱く無力だった少年を、この腕に抱き締めて。
(第五章・完)




