159.光のみちしるべ
すぐに着替えて応接室へお通しします、というエリクの申し出を、ガルテリオは鄭重に断った。聞けば今回、クッカーニャに赴いたのはガルテリオと数人の供のみで、その供を今、応接室で待たせているらしい。ならばクッカーニャ訪問の目的は、とさらにエリクが尋ねれば、ガルテリオは破顔して、
「もちろん、君の見舞いのためだ」
と答えた。黄都では夏期決算に関わる会議等はすべて終了し、あとは領地へ帰るのみとなったので、ジョイア地方を離れる前に一度エリクの顔を見ておこうと、こうして訪ねてきてくれたのだという。
「ご多忙のところ、わざわざお気遣いいただいて申し訳ございません。ですがまさか、一国の大将軍に見舞っていただける日が来るとは……」
「何、今回は事情が事情だからな。知らぬ顔をして領地へ帰るわけにもゆくまいと思ったのだ。何より今のシグを放って黄都を離れるのは少々不安でな」
「と……言いますと?」
「実を言うとここ数日、ソルレカランテでは君の身を案じるあまり、シグまで倒れてしまうのではないかというありさまだったのだ。ゆえに私が戻るまであいつから目を離すなと、ファーガスに念押ししてきたので大丈夫だとは思うが……」
「え……し、シグムンド様が?」
「うむ。そのくせ本人は〝エリクに会わせる顔がない〟などとのたまって、いつまでもぐずぐずしているものだから、ならば私が代わりに様子を見てこようと黄都を出てきたわけだ。まったく、どうでもいい相手のことはところ構わず斬りつける凶刃のような男が、こうなると途端になまくらと化すのだから困ったものだよ」
と、人払いがされたエリクの寝室で、寝台の傍らに座ったガルテリオは呆れたように笑ってみせた。が、まさかシグムンドがそんな様子でいるとは夢にも思っていなかったエリクは、思わずぽかんとしてしまう。
(いや、何ならシグムンド様のことはもはや心配していなかったというか……例のアルニア養蜂商会との一件も、ペトラ嬢のおかげで無事に解決しそうだと、先日スウェイン殿から聞いていたし……)
保守派から革新派へ寝返ろうとしているケネス・イートンを始末するために、シグムンドを利用しようと画策された一連の騒動。
あの件はペトラがシグムンドに提供すると約束した証拠のおかげで、一旦の決着を見たとスウェインは言っていた。というのもエリクが先日手紙を送った時点で、シグムンドはやはり〝今回の一件はケネスが仕組んだことである〟との情報を掴まされており、その事実関係の裏取りをしている真っ最中だったというのだ。
ところが保守派の陰謀の一部始終を伝えるエリクの手紙とペトラの迅速な行動により、最大の危機は回避された。彼女が届けた証拠を携え、極秘にケネスと会談したシグムンドは保守派が彼を抹殺しようとしている事実を伝え、ケネスを守る代わりに保守派の悪事に関わる証拠を譲り受けるという約束を取りつけることができたそうだ。ゆえにひとまず喫緊の問題は解決し、シグムンドも幾分か動きやすくなったはずだとエリクは安堵し切っていた。
というかそもそも彼が人前で取り乱す姿など想像できないのだが……とエリクが考え込んでいると、それを察したらしいガルテリオがなおも笑いながら言う。
「にわかには信じられん話かもしれないが、本当だぞ。そもそもクッカーニャに魔物の群が襲来したという第一報を聞いたときもひどいものだった。地方軍の伝令が駆け込んできたとき、我々は軍部の予算会議の真っ最中でな。そこで事件のあらましを知り、さらに襲撃された会場には君も居合わせていたと聞くや否や、シグは血相を変えて会議室を飛び出していってしまったのだ。ファーガスや私が止めるのも聞かずにな」
「あ……あのシグムンド様が?」
「うむ。あいつがあそこまで取り乱す姿を見たのは、三十年近い付き合いになる私も初めてだよ。まあ、とはいえ地方軍とは別口で来ていたハミルトンの部下から君たちの無事を聞き、すぐに冷静さを取り戻したようだったがな。その証拠に、あとからシグの慌てぶりをからかったファーガスはしっかり報復を受けていた」
「な、なるほど……そこはいつもどおりのようで安心しました」
「ああ。だが君が懇意にしているという行商人から知らせが届いたときも、シグは大雨の中を馬を飛ばして知らせに来てな。〝こうなると分かっていれば、意地でも君を郷里へ帰していたのに〟と珍しく弱音を吐いていたよ」
「……」
「君の方はどうだ、エリク。やはり今からでも軍を抜けて、家族のもとへ帰るべきだと感じているか?」
「私は……」
「もしも君がそうしたいのなら、シグも私も止めはしない。こんなことになってしまったのは君を黄皇国に引き留め、また政治の混乱も防げなかった我々の責任だからな。しかし君が決断を下したくとも、自分の存在が足枷になってしまうのではないかとシグは案じているのだ。だから代わりに私が来た」
「……シグムンド様のお顔を見れば、私の意思がまた揺らいでしまうかもしれないから、ですか」
「うむ。シグも私も君を苦しめることを望んではいない。ゆえに〝帰れ〟とも〝留まれ〟とも言わぬ。君は君の望むまま、君のために生きるべきだ。シグや私が今日までそうしてきたようにな」
落ち着き払ったガルテリオの言葉は、砂漠に注ぐ慈雨のごとくエリクの心に沁み入った。されど少なくともエリクもまた、ガルテリオの言うように自らの望むまま生きてきたはずだ。黄皇国に仕えることを選んだのも、シグムンドについていくことを決めたのも、間違いなく自分の意思だと胸を張ってそう言えた。けれど、
(昨日のイヴの言葉が真実なら、俺が俺の望むまま生きるには、大いなる代償が伴うのかもしれない……)
エリクに選ばれた者は栄え、選ばれなかった者は滅びる。つまりエリクが黄皇国に留まれば救世軍は滅び、救世軍を選べば黄皇国が滅ぶ……。
そう考え始めると、もはや自分が何を望めばいいのかすら分からない。いや、あるいは自分のような人間が何かを望むのは、罪なのかもしれないとさえ思う。
「……ガルテリオ様」
「うん?」
「ガルテリオ様やシグムンド様のお気持ちは、身に余るほどの幸いです。ですが妹の消息を知ってからというもの、私はもはや、自分でもどうしたいのか分からなくなってしまって……」
「エリク……」
「……実は私も、無礼を承知でひとつお尋ねしたいことがあります。ガルテリオ様は正黄戦争の折り、どうしてご家族よりも陛下を選ばれたのですか?」
こんなことを尋ねたら、さすがのガルテリオも気分を害するかもしれない。
そうと分かっていながらも、しかしエリクは尋ねずにはいられなかった。
何せガルテリオはその選択が原因で最愛の妻を亡くしている。それでも彼が国を選び、今なおオルランドに剣を捧げているのは何故なのか……。
「……そうだな。そう言われてみると、あの頃の私と今の君とは、少し状況が似ているのかもしれん」
やがて数拍の沈黙を経て、ガルテリオはふと窓の外へ視線を送りながらそう言った。かと思えばすぐまたエリクに向き直り、ふっと淡く笑ってみせる。
「ときに、エリク。君は船に乗ったことはあるか?」
「……え?」
「川や湖を走る船とは違う、海を渡る船だ。君の体調が許せばの話だが──よかったら一度、船上から海を眺めてみないかね?」
● ◯ ●
白波を割って進む船は、エリクの予想よりも揺れが少なく、甲板に立つと潮風が心地よかった。海の船はとにかく揺れるものという先入観があったのだが、快晴で船も大型となると、意外に乗り心地は悪くないらしい。
「わあ~! コーディくん、サユキちゃん、見て、見て! ほんとにカモメがいっぱい集まってくるよ!」
「おい。餌づけをするのはいいが、餌を船の上にまで撒くなよ。でないと船も私たちも糞まみれになる」
「さ、サユキさんは本当に情緒というものが欠落していますよね……こんなときにわざわざ糞の心配とは……」
「は? ならお前は海鳥どもの糞で全身真っ白になりたいのか?」
「そういうわけじゃありませんけど、せめてもう少し言い方とか、タイミングというものが……!」
と、船尾の方でコーディたちがまた揉めているのを聞きながら、エリクは思わず苦笑した。ガルテリオがクッカーニャに現れた翌日のこと。
現在エリクたちは彼の誘いに乗り、マーサー商会が所有する遊覧船『アルバ・ドラータ号』を借り切って、束の間の船旅を楽しんでいた。
遊覧船とは客を乗せてクッカーニャの近海を巡り、海上に点在する島々やそこで暮らす野生動物の様子を眺めることを娯楽とする船だ。マーサー商会は貸別荘事業だけでなくこの遊覧船事業にも力を入れており、現在モニカが夢中になっている海鳥への餌やり体験も、観光客に人気の商売なのだという。
「ですが申し訳ありません、ガルテリオ様。我々のために、わざわざ船を丸ごと一隻借り切っていただくなんて……」
「いや、構わんさ。私も外洋船に乗るのは二十年ぶりだからな。どうせなら邪魔者のいない、快適な船旅を楽しみたかったのだよ」
「確かにガルテリオ様の領地は海とは無縁のイーラ地方ですしね……ですがグランサッソ城へ赴任される前に、ご家族でクッカーニャへ避暑に来たりはなさらなかったのですか?」
「ああ。残念ながら我が家はクッカーニャに別荘など持っていないし、当時は別荘を貸し出す事業というのもあまり盛んではなかった。何より私はもちろんのこと、妻も筋金入りの貴族嫌いでな」
「あ……なるほど。夏場に避暑になど来ようものなら、否が応でも社交場に引きずり出されますからね」
「うむ。まさしく先日の君のようにな」
と船縁に立ったガルテリオが悪戯っぽく笑うので、エリクも苦笑を返しつつ、同時に少しほっとした。
昨日あんな不躾な質問をしてしまった手前、若干の今更感はあるものの、ガルテリオの口から亡き妻との思い出を語らせるのはやはり後ろめたい気がしたからだ。
しかし肝心の質問の答えは未だ得られず、船の話題でうやむやにされてしまった形で、再度同じ問いを投げかけてもよいものかどうかエリクは迷っていた。
いや、そもそもガルテリオも当時のことを語るのには抵抗があり、ゆえにやんわりと拒否する意思を示すために遊覧船への乗船など勧めてきたのかもしれない。
だとすれば改めて問い質すのは、野暮を通り越して無礼というものだ──とエリクが遠い水平線を眺めながら逡巡していると、同じ方角を見つめたガルテリオが不意に目を細めて言った。
「ちなみに私も海船に乗るのはこれが二度目でな。一度目は立太子されて間もない頃の陛下に誘われて乗ったのだ」
「えっ……へ、陛下にですか?」
「うむ。当時このクッカーニャには皇室の離宮があってな。私はまだ妻と出会う前のことだったが、陛下は今は亡きエヴェリーナ妃──当時はまだ妃殿下とお呼びしていた──と仲睦まじく過ごされており、妃殿下をよく離宮へ連れて来られていたのだ。特に第二皇子をご出産された頃から妃殿下は体調を崩しがちになり、離宮での暮らしは療養に持ってこいだったからな」
「陛下が立太子されて間もない頃というと、ガルテリオ様もシグムンド様も近衛軍に在籍されていた時代ですね。ですが黄妃陛下は、その頃から病に臥されていたのですか」
「ああ。当時は第二皇子のご出産が難産であったことが原因とばかり思われていたが、今にして思えば、妃殿下のお命を奪った病の兆候があの頃から出始めていたのやもしれん。ふたりの皇子ものちに同じ病で夭折されてしまったしな……」
と、なおも遠い目をして告げるガルテリオの横顔を一瞥し、エリクも思わず沈黙した。そう、実を言うとオルランドは、生前の黄妃エヴェリーナとの間に、かつてふたりの男児を授かったのだ。そしてほどなくオルランドも立太子され、彼が皇位を継いだのちは、ふたりの皇子のうちいずれかがトラモント黄皇国を負って立つのだろうと未来を嘱望されていた。
結局はどちらも幼くして世を去り、また第三子を流産したエヴェリーナが心身を病んで子を産めなくなったことが原因で、帝政は乱れ始めてしまったのだが。
「ともあれそんなわけで、当時は私も陛下の御啓の供としてクッカーニャで過ごすことが多くてな。だがあるとき、いつものように離宮の警備に当たっていた私に陛下がこうお尋ねになった。〝船に乗ったことはあるか〟とな」
ところが次いでガルテリオが語ってみせた回想に、エリクは図らずも目を丸くした。何せ彼がオルランドから投げかけられたという質問は、エリクが昨日、ガルテリオから尋ねられた内容とまるで同じだったからだ。
「しかし当然、平民上がりの若造だった私が船に乗ったことなどあるはずもなく、な。それを知った陛下はにっこり笑われたかと思うと〝では乗ろう〟とおっしゃって、次の日には海軍所有の帆船を丸ごと一隻、私のために手配して下さった。近臣にとって陛下の気まぐれはもはやいつものことだったが、あれには度肝を抜かれたよ。しかも療養中の妃殿下ではなく、私とふたりきりで乗るとおっしゃって聞かないのだからな」
「い、今の陛下からはあまり想像もつかないお振る舞いですが……当時の陛下は、その……皇太子としての威厳と茶目っ気を兼ね備えておられたのですね……?」
「うむ……婚約を拒否していたギディオン将軍とセレスタ将軍を騙して結婚させたり、お忍びで視察に行ったはずの軍学校で気に入らない士官候補生を勝手にしつけたりと、茶目っ気と呼ぶには少々度が過ぎていたような気もするが……ともあれ陛下は元来そういうお方なのだ。そしてさらに厄介だったのは──そうした陛下の気まぐれの裏には必ず、周囲の者には計り知れないご深謀があったということ」
「ご深謀……ですか?」
「ああ。陛下はご自身の考えていることを周囲には明かさず、いきなり行動に移すものだから、我々には突拍子のない言動として映るのだ。されど終わってみれば結果として救われた人々がいたり、問題が解決していたりする。おかげで振り回されている間はどれだけ恨み言を並べていても、誰もが気づけばあのお人柄に惹かれてしまっているのだから、まったく、つくづく不思議なお方だよ」
「……ではもしや、陛下がガルテリオ様を船旅に誘って下さったのも?」
「そうだ。実は当時、私は父を亡くして間もなくてな。表向きには平然と職務を遂行していたつもりだったのだが、陛下はそんな私の傷心を見抜き、気遣って下さったのだ。生まれて初めて船上から眺める大海原に感激する私に〝世界とはこんなに広いのかと思うと、我が身に降りかかる不条理などあまりにちっぽけで、乗り越えられぬはずがないと思えてくるだろう?〟とおっしゃってな」
瞬間、そう言ってなおも細められたガルテリオの瞳には、陽の光を浴びて輝く水平線のきらめきが宿っていた。おかげでエリクは言葉を失う。何故なら今日、どうして彼がこの船旅に自分を誘ってくれたのかようやく理解できたから。
「……これはシグやファーガスにも話したことがないのだがな」
と、きらめく海原に視線と想いを馳せながら、続けてガルテリオは言った。
「私には昔、四つ年の離れた兄がいたのだ。名をティルベルトといい、優しくしっかり者の兄だった。だが兄は、私が十になる前に帰らぬ人となってしまった。幼い私が街中で馬車に轢かれそうになったのを、とっさにかばったのが原因でな」
「……!」
「そのとき兄を撥ねた馬車に乗っていたのは、とある華爵家の当主だった。しかしやつは〝子供を轢いてしまった、医者へ連れていかなければ〟と慌てる馭者を叱りつけ、目の前でこう言ったのだ。〝平民などいくら死んでもまた増えるのだから問題ない、放っておけ〟とな」
「な……なんという……」
「そうしてやつを乗せた馬車は走り去り、当然兄は助からなかった。話を聞いた両親はあまりのことに怒り狂い、問題の華爵のもとへ抗議に赴いたが、やつは謝罪するどころか悪びれもせず、汚物でも見るような目で両親を見下ろしていたよ。で、ようやく口を開いたかと思えばこう言ったのだ。〝大方、我が子の死を利用して貴族から金をせびろうと言うのだろう。これだから賤しい下民は〟とな」
彼の語るところによれば問題の華爵はそう吐き捨てるや、屋敷の前で泣き伏すガルテリオの両親に数枚の金貨を投げ渡したらしい。そして最後まで謝りもせず「これで満足だろう」と鼻で笑いながら立ち去っていったのだそうだ。
この事件がきっかけでガルテリオの母は心身を病み、ほどなくして亡くなった。
遺されたのは当時まだ幼かったガルテリオと、黄都の職人街で金物職人をしていた父テオドールのふたりだけだった。
「では……ガルテリオ様は以降、お父上とふたりきりで?」
「ああ。だが母が亡くなってからというもの、父はにこりとも笑わなくなり、口数も減った。加えて現実から逃げるように工房に籠もりがちになってしまってな。家に帰ってくるのはいつも私が眠る頃で、朝が来れば私が起き出すよりも早く仕事へ行ってしまう。そうなると自然、父子の会話は途絶えた。おかげで私は嫌でも悟ったよ。父はきっと、兄と母の死の原因を作った私が憎くてたまらないのだ、とな」
さらにもうひとつ、ガルテリオにそう確信させた出来事があった。
それは父のテオドールから、ある日突然手製の模擬剣を渡されたことだ。
実はテオドールは若かりし頃、兵役に出て下級将校まで上り詰めた実績があり、魔物との戦闘で右足を失うまでの十年近い歳月を軍人として生きていた。
ゆえにテオドールはふたりの息子にも「いずれは軍学校へ入って、おまえたちも立派な軍人になりなさい」と言い聞かせていたらしい。ティルベルト亡きあともその意思だけは変わらなかったようで、テオドールは工房で自作した模擬剣をガルテリオへ手渡すと「軍学校へ入るために剣術を身につけなさい」と言った。
しかし貧しい職人の家の子が高額な学費を必要とする軍学校を目指すとなると、いくら剣術を学ばせるためとはいえ、道場に月謝を払っている余裕はない。
よってガルテリオは独学で剣を学ぶことを求められ、指南役にはテオドールがついた。テオドールは月に三回ある休日だけは家でガルテリオに剣術を教え、ガルテリオも言われたとおりに素振りや型の練習を欠かさず続けた。されどいざ稽古となると、父はまるで容赦がなかったとガルテリオは言う。彼の指導はもはや稽古の域を超えた嵐のような暴行で、前の休日に受けた傷が癒える頃にまた次の休日を迎えて全身傷だらけになる、という日々を延々と繰り返したのだそうだ。
「いま思い返してみても、よく生き延びたものだと思うほどあの日々は過酷だったな。痛みのあまり動けずにうずくまっていたら、食事も与えられないまま丸一日放置されたこともあった。そのとき私はこう思ったのだ。ああ、父はやはり自分が憎いからこんな仕打ちをするのだろう、とな」
「……ですがガルテリオ様は、それでも稽古を続けられたのですか?」
「ああ。何せ当時の私は、父に許してもらうためには軍学校への入学を果たす他ないと信じ込んでいたからな。そして何より、私が父に打たれるのは当然だと……むしろもっと虐げられるべきだと、本気でそう思っていた。兄と母を死なせた罪はそうすることでしか償えない、とな」
「そんな……」
「ふふ……だがな、エリク。やがて私はとんでもない思い違いをしていたことに気づいたのだよ。軍学校への入学が決まった日、受け取った合格通知を見るや否や突然父が泣き崩れ、よくやったと、痛いほどに私を抱き締めてくれたおかげでな」
と、ガルテリオがなつかしそうに微笑みながら言うのを聞いて、エリクは目を丸くした。そう、テオドールは最初からただの一度も、ガルテリオを憎んだことなどなかったのだ。むしろ彼の怒りと憎しみは、愛する妻と子を奪った貴族という生き物にのみ向けられていた。ゆえに生き残った下の息子を厳しく鍛え、何が何でも軍学校へ入学させることで、もう二度とあんな悲劇が起こらぬよう、弱きを守る立派な軍人になってほしいと願ったのである。
「まったく、我ながら愚かな思い違いをしていたものだよ。父が朝から晩まで工房に籠もり、血の滲むような思いで鎚を振るっていたのも、私を避けるためではなく学費を捻出するためだったというのにな。父はそのためにあれほど好きだった酒も断ち、かつて兄を殺した華爵から投げ渡された金にも一切手をつけていなかった。あの金と父の稼ぎがあったから私は軍学校へ入り、陛下と巡り会うことができたのだ。だが私が一端の将校となり、ようやく親孝行ができると思っていた矢先に、父は体を壊して呆気なく逝ってしまった……孫の顔を見せてやれなかったことが今でも心残りだ」
寂しげにぽつりとそう呟いたガルテリオの横顔にはしかし、郷愁に似た気色こそあれど、後悔や悲愴の影はなかった。そうした暗い情念には、きっとオルランドが大海へ誘ってくれた遠い日に訣別を告げたのだろう。けれどまさかガルテリオが軍人となった背景にそんな過去があったとはと、エリクは驚きを隠せなかった。
とすれば彼の貴族嫌いも、血統主義の保守派貴族どもとは馬が合わないからなどという単純なものではなく、かつて家族を虫けらのごとく扱った彼らへの潜在的な怒りと憎しみが今も燃えているためなのだろう。
「……ちなみに、ガルテリオ様」
「うん?」
「もし差し支えなければ、兄上を見殺しにした貴族の名を伺っても?」
「ふふ、それを知ってどうするつもりだ? まさか私に代わって兄の仇討ちをしてくれようと言うのではなかろうな」
「いえ、ただシグムンド様を見習って、陰湿な嫌がらせのひとつくらいはしてやっても罰は当たらないだろうと思っただけです」
「ははは。ただでさえ最近リナルドがシグに似てきて困っているというのに、君までアレそっくりになってしまってはウィルが泣くぞ。何より気持ちは有り難いが、残念ながら兄の仇はもういない。陛下がとうに家門ごと取り潰し、一族の首も刎ねてしまったからな」
「えっ……へ、陛下が?」
と、エリクが思わず聞き返すと、ガルテリオは深く頷いた。聞けば今から二十年前、初めて海船に乗った日にもガルテリオはこうして己の過去を明かしたそうだ。
すると話を聞いたオルランドは、そこからふた月と経たないうちに問題の華爵を反逆罪で吊し上げ、弁明も聞かずに処刑してしまったらしい。
反逆罪、ということは当然、一族郎党皆殺しとなる大罪であるから、結果として華爵家は断絶し、家門の血はただの一滴も後世に残らなかったという。
「まあ、実際、陛下が身辺を調べてみると、例の華爵家は裏で極秘にエレツエル神領国とつながり、我が国の機密を売り渡していた売国奴であったらしい。もとは陛下の兄皇子を皇太子にと推していた家門だったのが、兄皇子の失脚を受けて行き場を失い、保身のために神領国の後ろ楯を得ようとしていたようだ」
「……ではガルテリオ様のお話を契機に陛下が調査に乗り出されたことで、偶然にも敵国の間者を炙り出せたというわけですか」
「うむ……私も陛下から〝やつを捕らえて投獄した〟と聞かされたときは面食らったがな。その上で陛下は、臨時の処刑人として私を指名して下さった。つまり処刑台でやつの首を刎ねたのは他でもない、この私だ」
「……!」
「処刑当日……私は華爵に兄のことを覚えているかと尋ねたが、やつの記憶にあったのは〝我が子の死を口実に金の無心に来た賤しい夫婦〟のことだけだった。それを聞いて私はむしろ安心したよ。おかげで何のためらいもなく、ひと太刀でやつを魔界に送れたからな」
かくてガルテリオの復讐は成った。されど彼は、今では兄を死なせた華爵に感謝しているという。何故なら兄の死があったからこそ、父も自分も心の底から悪を憎み、弱者のために戦う決意を固められた。そしてあの日の決意こそが、自分とオルランドを引き合わせてくれたのだから、と。
「……というわけで、以上が君の質問に対する私なりの答えだ」
「え?」
「昨日、君は私に尋ねたろう? 正黄戦争の折り、私が家族よりも陛下を選んだのは何故かとな」
「あ……」
「無論、私も〝お前の選択は本当に正しかったのか〟と問われれば自信がない。妻を守ってやれなかったことを、今でも悔いぬ日はないしな……そのせいで、息子や養女たちにもずいぶん寂しい思いをさせてしまった」
「ガルテリオ様……」
「だが同時に、陛下や皇女殿下を守り抜いたことを誇りに思ってもいるのだ。私の軍人としての原点はやはり、民を人とも思わぬ貴族どもへの怒りと失望だったからな。もしもあのまま偽帝が天下を取っていれば、民が兄のような仕打ちを受けるのが当然の世が訪れていただろう。ゆえに私は陛下を選び、妻を見殺しにした業を今も背負っている……エヴェリーナ妃をお救いできなかったこともまた然りだ」
と、ガルテリオが目を伏せながら告げるのを聞いて、エリクははっと胸を衝かれた。そうか。彼が今も祖国に剣を捧げ、オルランドへの忠誠を曲げずにいるのは、
(償い……なんだな。亡き黄妃陛下と奥方を守れなかった罪から逃げないための)
愛する妻を犠牲にしてまで選び取った道。
その先に待ち受けていたものが、自らの思い描いた理想とかけ離れていたからと言って投げ出すことをガルテリオは己に許さなかった。
だから彼は今も戦っているのだ。オルランドがかつての彼に背を向けてしまったことすらも、エヴェリーナを救い出せなかった自分の責任だと思い定めて。
「して、エリク。君はどうだ?」
「……え?」
「君が剣を握った原点はどこにある?」
「私は……」
「今の話は、君にまで私と同じ生き方を強いるためにしたわけではない。ただ、どうしても答えが見つからないというのなら、一度原点に立ち返ってみるのもひとつの手だと伝えたかった。人の想いは移ろうものだが、しかし過去は決して変わることなく、心に嵐を呼ぶこともあれば、灯台となることもまたあるのだからな」
そう告げたガルテリオにつられて、エリクは再びきらめく海原を見やった。
そのきらめきのひとつひとつに自らの記憶が宿り、選択を促すようにキラキラとさざめいている。故郷でイークと共に育った日々。初めて妹を抱いた日に感じた喜びと愛しさ。父を永遠に失った夜。旅立ちの日。
そしてトラモント黄皇国へ来てから出会った人々の、まばゆい笑顔……。
(ああ……だけど俺の原点は、きっと、)
そう思ったとき、エリクの脳裏に甦ったのはやはり、あの日の群衆の怨嗟と怒号だった。
『見ろ。そして目に焼きつけておけ。あの男の無様な死にざまを』
そう言って髪を掴まれ、ボロボロに傷ついた父の姿を見せられても手を振り払うことすらできなかった、あまりに無力でちっぽけな……。
「エリク」
やがてそう名を呼ばれ、ふと我に返ったとき、エリクは自らの頬をひと筋の涙が伝うのを感じた。ガルテリオもそんなエリクの様子に気がついたらしく、気遣わしげな視線を投げかけてくる。されどエリクは、微笑んだ。
何故ならそのときにはもう、答えは決まっていたからだ。
「……ガルテリオ様。無理を承知で、ひとつお願いがあるのですが」
「何だね?」
「実は、私も……ガルテリオ様やシグムンド様に、まだお話していないことがあるのです。ですがこの機にすべて告白したいと思いますので──今すぐ私を隊務へ復帰させるようにと、共にシグムンド様を説得してはいただけないでしょうか?」




