157.月下の来訪者
その日、エリクらが町での買い出しを終えて別荘に戻ると、意外な来客が待っていた。上官であるシグムンドと共に黄都に滞在していたはずのスウェインだ。
幻痛症と呼ばれる病の症状をやわらげるべく、保養地での静養を命じられてからひと月が経った頃。当初シグムンドから、
「一ヶ月の休養ののち、病状が寛解していると判断できた場合には隊務への復帰を許可する」
と言いつけられていたエリクは、言われたとおり一ヶ月をクッカーニャで耐え忍び、ついに約束の日を迎えた。医務室長の代理として同行してくれていたモニカによる診察の結果も良好で、あとはシグムンドからの連絡を待つのみだったのだ。
ゆえに皆で先んじて土産物を見繕いに行った帰りに、スウェインが訪ねてきたと聞いたときにはついにスッドスクード城へ帰れるのだと浮き足立った。
ところがいざスウェインの待つ談話室へ足を向けたのち告げられたのは、エリクがまるで予期していなかった知らせだ。
「……アンゼルム殿、お探しのご令妹が見つかりました。彼女は先日、オディオ地方の郷庁を襲撃した反乱軍と共に地方軍と交戦し──その後、同じくアンゼルム殿がお探しだったイークという名の剣士に連れられて現地を離れたとのことです」
スウェインからそう告げられた直後のことは、あまりよく覚えていない。
現状分かっている限りのことを、彼は慎重に言葉を選びながら伝えてくれたが、話は途中から頭に入ってこなかった。唯一思い出せるのは、スウェインからすべてを聞き出す前に胸の激痛に襲われて倒れ込み、そこで意識を失ったことだけだ。
「クッカーニャに来てからは、ほとんど発作も起きていなかったのに……」
「……とにかく、ことの次第は私からシグムンド様へ報告する。次の沙汰があるまで、アンゼルム殿の隊務復帰は見送るように」
「どうして……どうしてアンゼルム様ばかりこんな目に──」
以降は浅い眠りと曖昧な覚醒を繰り返しながら、枕もとで交わされるそんな会話を聞いたような気がするばかり。
そうして次にはっきりと目が覚めたとき、別荘にスウェインの姿はなかった。
カミラはイークとの再会を機に救世軍に加わった可能性が高い、と聞かされた日から、エリクは丸二日寝込んでいたそうなので無理もない。
「黄都ではシグムンド様が引き続き、カミラさんの情報を集めて下さっているそうです。最後にカミラさんが目撃されたオディオ地方でも、サバンさんが事実確認を急いで下さっていると……ですからアンゼルム様も、今はご静養に専念なさって下さい。スウェインさんも、もうひと月ほど様子を見た方がいいとおっしゃっていましたから……」
エリクの意識が戻ってから、そう説明してくれたのはコーディだった。
ひと月の間ほとんど治まっていたはずの発作が再発し、しかも昏倒するなどという失態を演じてしまったのだから、さらなる療養が必要だと判断されるのは当然のなりゆきだ。おまけに一度倒れて以来幻痛症の症状は悪化の一途を辿るばかりで、エリクはほとんど寝台の上から動けない日々を過ごした。
(俺は……やっぱり、間違えたのか……?)
来る日も来る日も寝台に身を横たえながら、答えのない自問を繰り返す。
──カミラ。きっとどこかで無事でいるはずだと、祈るように信じていた。
その甲斐あってのことなのか、彼女が生きて発見されたことは素直に喜ばしい。
おまけにイークと再会し、今は彼の傍にいる可能性が高いというのなら、身の安全は保障されたも同然だろう。イークは態度にこそ出さないが、カミラのことは実の妹のように気にかけてくれていたし、彼女が行方不明の自分を探してたったひとり郷を飛び出してきたと知れば絶対に放ってはおかないはずだ。
けれど問題は、そんなイークと自分が今、敵対する関係にあるということ。
そしてもしカミラもまた、救世軍と共に黄皇国と戦うことを選んだなら──
「……っ!」
スウェインが別荘を去ってから数日後の夜。
風を入れるべく開け放たれた窓から射し込む月明かりの中で、ふと目が覚めたエリクはまたしても発作に襲われた。直前まで眠っていたせいで時刻は判然としないものの、月の高さから見て既に真夜中と思しい。
ということはコーディたちも銘々部屋で寝静まっているだろうし、使用人も通いで来ている者は帰って、執事の他一、二名のメイドが残っているだけだろう。その彼らも夜の間は地下で寝泊まりしているため、二階から呼びに行くには遠い。
(く……薬、を……薬さえ、飲めば……っ)
スッドスクード城を発つ際に、ナンシーが持たせてくれた鎮静薬。
これは幻痛症を治療する薬ではなく、脳の働きを一時的ににぶらせて症状を抑えるものだとナンシーは言っていたが、対症療法としての効果は覿面だった。
一度服用すると数刻の間、ひどい眠気やだるさに見舞われるのが難点ではあるものの、いつ止むとも知れない胸の痛みにひたすら耐えるよりは数段マシだ。
(確か……モニカが、昼間……このあたりに……)
何度経験しても慣れることのない激痛に喘ぎながら、エリクは叫び出したい衝動を噛み殺して手を伸ばした。そうして脇棚の上に置かれているはずの薬を手探りで掴もうとする。ところがいざ左手がそれらしきものに触れたと思った直後、手もとが狂って掴み取るよりも先に落としてしまった。
痛みに呻きながら目を凝らしてみれば、窓辺に置かれた書きもの机の足もとに、巾着から飛び出した薬包が散らばっている。あれを何とか拾い上げなければと寝台の上から手を伸ばそうとして、次の瞬間、エリクは床へと転がり落ちた。
にぶい痛みと衝撃が全身を打ち、胸を押さえながら横ざまにうずくまる。
まずい。もはや薬は目の前にあるというのに、痛みのあまり体が言うことを聞かない。おまけに呼吸するたび心臓が軋みを上げるので、息が、できない──
「苦しいですか、エリク?」
刹那、朦朧とする意識の中で響いたその声に、エリクは焦点の合わない視線を向けた。
「フフ……どうやら早くも報いを受けているようですね。愚かにも神々に刃向かった報いを」
「い……イ、ヴ……?」
そう。エリクが床に倒れながら目を向けた先には、見覚えのある少女がいた。
年端もいかない幼子のようでいて、同時に人ならざる者の気配をまとった月白色の髪の少女。最後に彼女と会ったのは確か去年の年明け直後、ウィルやリナルドと共に気晴らしの狩りに赴いた冬の森でのことだ。
「だから言ったでしょう。真理を理解する頃には、すべてあとの祭だと」
「イ、ヴ……どうして……お前、が……っ……!」
「何度も同じことを言わせないで下さい。我々はおまえのことなら、どんな些細なことでも知っている。いつ、どこにいようとも、我々の眼から逃れることなど不可能なのですよ」
そう言って憫笑を浮かべた少女──イヴは、倒れたエリクの頭上に位置する机に腰かけ、組んだ足に頬杖をつきながらこちらを見下ろしていた。すぐそこでエリクが痛みに喘いでいるというのに、手を差し伸べて助けようとする素振りもない。
だがそれも当然だ。何しろエリクはあの冬の森で、イヴと訣別する道を選んだ。
何故なら預言者を自称する彼女は、神々の望みはエリクが救世軍へと奔って黄皇国を解体することだと言い、ゆえにシグムンドを裏切ってフィロメーナのもとへ行けと命じてきたのだ。されどエリクは彼女の預言を拒み、可能な限りの手を尽くして、黄皇国もイークもフィロメーナも守り抜く方法を探してみせると豪語した。
そう、確かに豪語したはずだ。けれど、今の自分は、
「それで? あれからおまえの言っていた、上官も親友も救う道とやらは見つかりましたか?」
「……っ」
「まったく無様なものですね。再三の警告を無視し、傲り高ぶって神々を愚弄した結果がこれですか。ですがおまえのような思い上がった人間には、そうして地に這いつくばり、天に許しを乞う姿こそふさわしい」
「ぐあっ……!」
せせら笑いながらそう告げた直後、イヴが何かの合図のように右手の人差し指をくいと上げれば、ひと際激しい痛みがエリクの心臓を貫いた。
そのあまりの激痛にはさすがのエリクも悲鳴を上げ、床の上をのたうち回る。
──何故だ?
いっそ気絶してしまえたらどんなに楽かと思いながら、されどエリクは、頭の中にいる冷静な自分が疑問を投げかけるのを聞いた。だって、今のはまるで、イヴがこの発作を意のままに操っているようではないか──
「とはいえ、今更どれだけ許しを乞おうが手遅れです。おまえは昨年、神々が与えた最後の機会さえもふいにしましたね。あそこで心を入れ替えて、フィロメーナと手に手を取り合っていれば、妹が救世軍に入ることなどなかったのに……」
「ぐ、ぅ……っなん、だと……?」
「おまえたちが『ロマハ祭』とか呼ぶ祭日の、舞踏会でのことですよ」
「ちが、う……っ……い……妹に……何を、した……!」
「フフフフ……愚かな。これはおまえの選択の結果だと言っているのですよ、エリク。おまえは自らの意思に従って、神々の描いた運命を塗り替えた。ゆえにもっと誇りなさい。おまえは以前、己の意に添わぬ運命など打ち壊してみせると、そう嘯いていたのですから」
「ば……かな……づ、ぁッ……!」
再び胸を貫く激しい痛みに悶え、全身を汗で濡らしながら、しかしエリクは苦痛とはまた別の絶望が心臓を締め上げるのを感じた。
何せ今のイヴの言葉を信じるならば、カミラが救世軍に加わったのは、エリクが自らの望みを押し通して運命を書き替えたから、ということではないか。
ならば大人しく神々の計画に従い、フィロメーナの手を取って救世軍に寝返っていればこんなことにはならなかった? イークやカミラと敵対することも、シグムンドを苦しめることも、魔群の襲来で多くの人命が失われることも?
「ですが、わたしがかつて与えた第三の預言に変わりはありません。おまえの真の望みは今後も決して叶わない。おまえに選ばれた者は栄え、選ばれなかった者は滅びる……どういう意味かは、改めて説明するまでもありませんね?」
「……!」
「おまえは妹を選ばなかった。つまりはそういうことです、エリク・ビルト・バルサミナ・セル・デル・シエロ──いいえ、《魔王》と契りし一族の末裔よ。これよりおまえに降りかかるのは、その血が宿す罪業の報いです。何故ならおまえは、一族の罪を雪ぐ機会を自らの手で葬り去ったのですから」
──何、を、言って、いる?
《魔王》と契りし一族? 血の罪業?
一体何の話だと問い質したいのに、もはや痛みのあまり言葉を発することもできない。それどころか意識も明滅を繰り返し、自らの身に起きていることが夢なのか現実なのかも分からない。
(ダメ……だ……頭が……)
すべての思考は苦痛に塗り潰されて、もう何も考えることができなかった。
体が鉛のように重い。息が苦しい。
ああ、今度こそ自分はここで死ぬのかと思うほどの──
「──アンゼルム!」
瞬間、闇へと沈んでゆく意識の真ん中で、誰かの呼び声が弾けた。
おかげで喪心を免れたエリクは、しかし依然として身動きが取れないまま、視線だけを月明かりの中に彷徨わせる。
「サユ……キ……?」
そう、今の声は恐らくサユキのものだった。朧気な意識の中でエリクがそう思った刹那、辛うじて押し上げた瞼の向こうで閃光が走り、次いで轟音が鳴り響く。
「破術の貳、雷遁!」
サユキが翳した符から生まれた雷撃が、まるで神術のごとくイヴを狙って放たれた。文字どおり光の速さで迫った雷は逃げる間もなくイヴを打擲するかに見えたが、直後「バチン!」というすさまじい音と共に、イヴが振り上げた右手によって掻き消される。さては神術による相殺かと初めはそう思ったものの、すぐに様子がおかしいことにエリクも気づいた。
何故ならサユキの忍術を打ち消したイヴの右腕から白い靄のようなものが立ち上ぼり、ジ、ジジ、と異音を立てて、肉体の輪郭がブレるのを目撃したからだ。
「貴様……さては物ノ怪か!」
そう叫んだサユキが間髪を入れずに無人の寝台の上へと飛び乗り、寝床の弾力を利用して、目にも留まらぬ速さでイヴへと斬りかかった。踏み込みざま、居合いの要領で鞘から振り抜かれた刀はしかし、月光で濡れた虚空を斬り裂いただけに終わる。イヴがすんでのところで開かれた窓から飛び出したためだ。
しかも彼女はなんとそのまま落下することもなく、窓と同じ高さにふわりと浮かんでみせた。かつてエリクが幻覚かと疑った翼もなしに、だ。ただし肉体は未だジジ、ジ、と異音を奏でており、月下に浮遊する姿はさながら幽鬼のようだった。
「おのれ……不軌の民か」
呻くようにそう呟き、サユキを睨んだイヴの眼差しは、幼女の風貌からはおよそ想像もできないほどの憎悪に燃えている。が、対するサユキは怯みもせずに刀を構え直すと、逆にイヴを睨み返して言った。
「フン……まさか大陸にも人に化けられる物ノ怪がいるとはな。國ツ神に対する信仰がない国にも、人を祟る神はいるのか」
「……口を慎みなさい、島の邪教徒よ。わたしはまがいものの神ではなく、おまえたちが『天神』と呼ぶものの使いです」
「ハッ……どうせ人を化かすなら、もっとまともな嘘をつけ。天ツ神の使いが人間の姿を借りて現れることなどあるものか。これだから物ノ怪は魔物よりもタチが悪い──さっさと失せろ!」
眦を決してそう一喝するが早いか、サユキは腕に巻いた鞘袋から暗器を引き抜き投擲した。すると艶消しされた切っ先がイヴの額に突き立つかに見えた刹那、彼女の姿はたちまち霧散し、白い光の塵となって消失する。標的を失った暗器は当然のごとく闇に吸い込まれ、やがて遠くでカランと地を打つ音がした。仕留め損なったと知ったサユキは舌打ちしながら刀を収め、すぐさまエリクへ駆け寄ってくる。
「おいアンゼルム、しっかりしろ! まさかあの物ノ怪に祟られたのか?」
「い……いや……それ、よりも……お前……どうして……」
「地祇がざわめくのを感じて目が覚めた。そうしたら屋敷の中に人ならざるものの気配を感じて、またお前を狙う魔物でも現れたのかと……だがまさか、今度は物ノ怪のお出ましとはな。とにかく今は薬を飲め。話は落ち着いてからでいい」
言うが早いかサユキはエリクを抱き起こし、床に散らばる薬包を手に取った。
そうして自らの膝を枕代わりにエリクを寝かせるや、開いた薬包の中身をサラサラと器用に口へ注いでくる。
「アンゼルム様! 先程の雷鳴は……って、サユキさん! い、一体何があったんです!?」
ほどなくエリクの寝室には、コーディやモニカだけでなく別荘の使用人たちまで駆けつけた気配があった。が、もはや自力で起き上がることもできないエリクに代わり、サユキが指示を出す声がする。
「説明はあとだ。まずは水を──モニカ、そこにある水差し──アンゼルムに薬を──と──」
口の中いっぱいに広がった薬の苦味と粉っぽさに咳き込みながら、されどエリクの意識は次第に遠のき出していた。サユキに訊きたいことも、考えなければならないことも山ほどあるのに、瞼が下りてくるのを止められない。
(モノノ、ケ……人間を……祟る、神……? まさか……)
やがて意識が途切れる間際、エリクの脳裏にぽつりと浮かんだのは、いつか故郷の長から聞いた言葉だった。
『白い魔物だ』
『エリク。お前の父を殺したのは──人の姿に化けた、白い魔物だ』




