155.たとえば明日世界が終わるとして
と、最後まで女神か何かと見まがうような笑顔で、されど泣きながらそう話していたリンシアの姿を思い返して、ロッカは本日何度目になるとも知れない呻きと共にふかふかの羽毛枕へ顔をうずめた。そうしながら──勝ち負け云々の話ではないと頭では分かっているのに──執拗に自らを押し潰そうとする圧倒的な敗北感を噛み締めて思う。敗北だ。完全敗北だ。こんなの、どう頑張ったって勝てっこない。
ロッカも今まで軍人として数々の戦場を渡り歩いてきたものの、ここまで絶望的な状況だと感じるのは、かつて祖国に騙されて竜人の巣窟へ放り込まれたとき以来かもしれなかった。だって黄皇国に来てからは、いつも隣にハミルトンがいてくれたから。だからどんなに危機的な状況に陥ろうとも、彼がいてくれれば絶対に大丈夫だと手放しにそう信じられた。なのに──
「あーーーもーダメ、世界の終わりよぉ……どうせ……どうせあたしなんか──オフッ!?」
「さっきからごちゃごちゃやかましい。呻くかひとりごとを言うだけなら、さっさと自分の部屋に戻れ」
「ちょ、ちょっとサユキちゃん! 気持ちは分かるけど暴力はダメだよ! ロッカ副隊長は今、必死に煩悩と戦ってるんだから!」
「だからそんなのはひとりでやれと言っている。というか、そもそも何故私までお前たちと同じ部屋に泊まる必要があるんだ? この暑いのにひとつの蒲団で三人川の字になって眠るなど、もはや狂気の沙汰だぞ」
「だってせっかく女三人で過ごせる最後の夜なんだよ? サユキちゃんは知らないかもしれないけど、黄皇国には女同士が友情を深め合うためのパジャマパーティって文化があるの。でもスッドスクード城の寄宿舎じゃ、部屋も寝台も狭すぎてこんなことできないし……」
「……トラモント人のやることはつくづく面妖だな。だが私のことは女扱いするなと、何度もそう言っているだろう」
「じゃあいっそコーディくんも呼ぶ? そしたら男女比が揃ってサユキちゃんも安心でしょ?」
「……どこから指摘すべきか分からないから敢えて触れずにおくが、とりあえず言えることは、ここにあの軟弱者を呼べば間違いなく泣くぞ」
「そうかなぁ。確かにコーディくんはまだちょっと頼りないところもあるけど、入隊当初に比べたらかなり見違えたと思うよ? いつの間にかうんと背も伸びたし、剣術だって上達して、かなり男の子らしくなったっていうか……」
「あ、あのさ、モニカちゃん……さっきから微妙に話が噛み合ってないのは、さすがにわざとだよね?」
とロッカがついに顔を上げたのは、サユキに枕で殴られるという理不尽に耐えかねたからではなく、真面目な顔をして斜め上の会話を繰り広げるモニカへの不安のためだった。
そこは休暇中のアンゼルムが滞在しているマーサー商会の貸別荘。その二階にある客間の一室に女三人で泊まり込むこととなったロッカはしかし、今朝アンブランテ屋敷で聞いた話が頭から離れず、呻いては枕に沈むを繰り返していた。
というのもハミルトンとリンシアの関係を今一度確かめたくて自分から話を聞きにいったはいいものの、どうやらふたりは想像よりも遥かに深い信愛で結ばれているらしいという現実を目の当たりにしてしまい、大いに打ちのめされたのだ。
(どうりで隊長はあたしになんか見向きもしないはずだよ……)
と、改めて寝台に四肢を投げ出しながら思う。
ハミルトンは確かに女好きだが、昔から不思議と特定の異性に入れ込んだり、結婚願望をほのめかしたりといった素振りを見せたことがなかった。
ゆえにロッカは、彼もまた恋多きトラモント人の典型であり、個人ではなく女という生物そのものが好きなのだろうと長年そう思っていたのだ。
ところがリンシアの話を聞いて、ロッカは自分が致命的な誤解をしていたことに気がついた。ハミルトンが今日まで特定の誰かを選んでこなかったのは単に好色だからではなく、既に心に決めた相手がいたからだと。そうとも知らずにもう何年も彼の隣でやきもきしていた自分があまりにみじめで、憤ろしかった。
(……隊長のことはあたしが誰よりもよく知ってる、なんて、ほんとにとんだ思い上がりだったわ)
と。
「はあ……とにかく、どうしてもと言うなら今夜だけは我慢するが、しかしいつまでも隣でうーうー呻かれては眠れるものも眠れやしない。ただでさえ熱帯夜で寝苦しいというのに……」
「うん、だからパーティを開いたんだよ、サユキちゃん。ロッカ副隊長がひとりでこんなに悩んでるのに、わたしたちだけすやすや寝てちゃかわいそうでしょう?」
「いや、知らないが……そもそもこいつの悩みは、私たちが一緒に泊まり込んだところで解決するものじゃないだろう」
「あ、よかった。ということはやっぱり、サユキちゃんも副隊長の気持ちには気づいてたんだね」
と、涼しげな白の長衣をまとった姿で枕を抱えたモニカがにこりと笑い、これにはロッカも少々驚いた。いや、無論ロッカとて、一緒にアンブランテ夫妻の話を聞いてくれないかなどと持ちかけた時点で彼女らに理由を隠すつもりはなかったからそれはいい。ただ意外だったのはモニカがそんな自分を気遣い、サユキまで巻き込んで相談に乗ろうという姿勢を見せたことだ。
とすると今朝のアンブランテ夫妻訪問にサユキを連れてきたのも最初からこうするつもりだったからかと、思わず目を丸くしてモニカを見つめてしまった。
「も、モニカちゃん……あたしなんかのためにわざわざありがとう。でもサユキの言うとおりだよ……この件はあくまであたしの問題であって、ふたりにまで迷惑かけるつもりは……」
「何言ってるんですか。ロッカ副隊長は明日から任務に復帰するんですよ? なのに今のままじゃ、もしまた魔物に襲われても気が散って戦いに集中できないじゃないですか。そうなったら副隊長はもちろんのこと、隊のみんなも危険に晒すことになります。だとしたら黄都守護隊の医務官として、放ってなんかおけません」
と、やはり真面目な顔をしたモニカにぴしゃりと言われて、ロッカはますます意表を衝かれた。まさかモニカがそこまで見越した上で今夜の集まりを催したとは夢にも思っていなかったのだ。ということはさっきまでの脈絡が怪しい会話も、自室へ戻ろうとするサユキを煙に巻いて引き留めるための策略だったのだろうか。
確かモニカはまだ十七、八歳くらいだったはずと記憶しているが、何とも末恐ろしい少女だった。軍人とはまた違った意味で人の命を預かる医務官という仕事は、やはりこれくらい肝が据わっていないと務まらないのだろうかと思いながら、ロッカはそんなモニカと自分のていたらくを比べてまた落ち込みそうになる。
「まあ、だとしても私が呼ばれた理由が依然として謎なんだが」
「それは、わたしと副隊長とでは立場が違いすぎるから、男性の補佐官をしてるサユキちゃんの方が的確な意見をくれるかなと思って……あと、わたしは恋の病に関してはまったくの専門外だから、今回の症例では絶対役に立たない自信があるんだよね!」
「そこはドヤ顔で胸を張るところなのか?」
「い、いや、だけどモニカちゃんだって年頃の女の子なわけで、しかも軍属の看護師ともなればぶっちゃけ引く手あまたでしょ? なら、ちょっとくらい〝この人いいな~〟って思うことないの?」
「うーん……実はよく同じ質問をされるんですけど、これが全然ないんですよね。別に男性が嫌いだとか、恋愛に興味がないってわけじゃないんですよ? ただスッドスクード城にいる人たちはみんな〝患者さん〟って見方しかできなくて……だって今はどんなに健康でも、戦になればみんな怪我をしたり、最悪、命を落とすことだってあるわけですから……」
と、なおも枕を抱きながらうつむきがちに零したモニカが、そのとき初めて表情を翳らせたのを見てロッカははっと胸を衝かれた。
そうか。二十年も軍に身を置いてきたせいで感覚が麻痺していたけれど、確かに軍人なんていつ命を落とすとも知れない職業だ。
特に黄都守護隊は中央軍の中でも国境を守る第三軍と並んで出動回数が多く、三日前の事件のような突発的な戦闘に巻き込まれることも少なくない。
とすれば将兵の命を守る最前線に立つ医務官が、平時でさえも彼らを未来の患者としか見られないのも無理からぬことだった。
「そ、そっか……モニカちゃんは誰とでも仲良くなれるタイプだし、部隊の垣根なく色んな人と顔見知りだから、そう考えるとつらいよね。無神経なこと言っちゃってごめん」
「いえ、わたしのことはいいんです。今はロッカ副隊長の話ですよ。副隊長は」
「待った。あたしたち、一緒にお貴族様の夜会にまで潜入した仲なんだし、これからは普通に名前で呼んでくれていいよ」
「じゃあ、ロッカ……さん?」
「うん。にしてもまさか妹より年下のふたりにこんなに気を遣われちゃうなんて、年長者としてちょっと恥ずかしいなぁ。隊長の件は正直、墓まで持ってこうと思ってたんだけど……」
「何故だ?」
「え?」
「お前はハミルトンと夫婦になることを望んでいるんだろう? 自分がどうしたいのかはっきりしているのなら、何故さっさと行動に移さない?」
「め、め、め、夫婦って……!」
と、ロッカがあからさまに動揺して見やった先には言わずもがな、寝台の上に片膝を立てて座ったサユキの姿があった。モニカと同じ上品な亜麻布の長衣──恐らくはマーサー商会が用意してくれたものだろう──をまとった彼女はしかし、女性らしさを演出する衣服の意匠とは裏腹に、下着が見えるのも構わずくつろいだ姿勢を取っている。サユキが常々口癖のように「私を女扱いするな」と言っているのはロッカも承知しているものの、まさか彼女は本当に男として扱われることを望んでいるのだろうか? あるいは倭王国では女もコレが普通とか……?
「い、いや、簡単に言ってくれるけど、いくら素直に自分の気持ちを伝えたって相手が受け入れてくれるとは限らないでしょ? 第一そのせいで隊長との関係がギクシャクしたり、傍にいられなくなったりしたらと思うと、あたしはそっちの方がつらくて……」
「ふうん。ならますます理解できんな。お前の願いが〝夫婦でなくてもいいからハミルトンの傍にいたい〟ならば、既に叶っているだろう。そしてお前がやつの副官である限り、目的は半永久的に達成される。だったら何を悩む必要があるんだ?」
「そ……そう言われると、そうなんだけど……」
「たとえハミルトンが余所で所帯を持ったって、やつが軍に身を置く限り副官はお前だけだ。さらに言えば既に夫がいて、肉体的にも精神的にもお前と同じ役割など務められるはずもないリンシアと自分を比べて落ち込むなんて、あまりに不毛で非合理的だとしか言えん。それともお前は、ハミルトンがいつか軍を退役したあと、リンシアのもとへ帰るんじゃないかと恐れてるのか?」
「う……そ……そう、なの、かも……あ、あたしは……あたしはいつか隊長が、あたしのことを必要としなくなる日が来るのかも、って……というか、何なら今も昔もあたしが一方的に隊長を必要としてるだけで、もしかすると隊長は仕方なく傍に置いてくれてるだけなんじゃ、とか……だって隊長はあたしみたいなガサツな女、絶対好みじゃないし……ならもしかしてあたしって、隊長にとってお荷物でしかないんじゃない? とか、いつか離れていっちゃうんじゃないか、とか思うと、やっぱり、怖くて──」
我ながらまったく情けないと内心自嘲しながら、しかし一度溢れた本音は留まることなく次から次へと口から零れた。そうして心に巣食った黒い靄に言葉を与えてやると、どんどん質量を伴って重く胸に溜まってゆく。おかげで肺や心臓がギシギシと悲鳴を上げるのを聞きながら、ロッカは腕に抱いた枕に再び顔をうずめた。
──ああ、そうだ。自分は怖くてたまらないのだ。
いつかぽつねんと取り残されて、彼のいない人生をたったひとりで歩む日が。
「ロッカさん。それは違いますよ」
ところが刹那、自分を呼ぶ声を聞き、ロッカはうっすら滲んだ瞳を上げた。
するとそこにはいつになく真剣な面持ちをしたモニカがいて、まっすぐにロッカを見つめている。
「ロッカさんは絶対にお荷物なんかじゃありません。だって隊長が言ってたじゃないですか。ロッカさんはラオス将軍にも認められた軍人なんだから胸を張れって」
「モニカちゃん……」
「少なくともわたしの知るハミルトン隊長は、確かにちょっとだらしないし面倒くさがりでいい加減ですけど、でも、どんな人の話も親身になって聞いてくれて、下手な気休めなんて言わない人です。いつも本音で相手とぶつかるから、何度もナンシー先生の機嫌を損ねたりもして……だけどわたしはそんな隊長が、単なる馴れ合いや惰性で副官を選ぶとは思いません。隊長がそういう人だってことは、わたしなんかよりロッカさんの方がずっとよく知ってるんじゃありませんか?」
そう告げたモニカの翡翠色の双眸に映る自分を見つめて、ロッカは束の間言葉を失った。と同時に甦るのは三日前の晩、自分にはあまりにも場違いだったきらびやかな会場で聞いた声。
『お前はただガキを孕むためだけに嫁がされて、社交界とかいう狭くて不自由な世界でしか生きられない女どもとは違う。自分で自分の生き方を決められるだけの強さと自由を、自分の力で手に入れたんだ。おまけに毎日体を張って、祖国でも何でもない国の平和を守ってる。同じことをできる女がこの会場に何人いると思う? 俺はゼロだと思うね。だから、胸を張れ』
ああ、そうか。そうだった。
生まれや過去がどうであれ、ロッカの知るハミルトン・エルキンとはそういう男だ。だからこそ自分は今もなお、彼の隣にいたいと願っている。ならばこれからも今までと同じように、彼を信じて寄りかかってもいいのだろうか?
「まあ、確かに……今日聞いたリンシアの話を振り返ってみても、ハミルトンは一度心を許した相手を守るためなら手段を選ばないところがあるらしい。あいつが軍で『百人斬り』などという分不相応な異名を取っているのも、正黄戦争中、敵に囲まれた味方を逃がすために、一人で百人以上の敵を斬り倒すという狂気じみた戦果を挙げたのがきっかけなんだろう?」
「う、うん……そういえばそんなこともあったけど……」
「なら足手まといだと感じた時点で、ハミルトンはとっくにお前を戦場から遠ざけているはずだ。そうすることでお前を守れるのなら、あの男はたとえ恨まれると分かっていても迷わず突き放しただろう。だが二十年もの間、変わらずお前を傍に置いているという事実が何よりの答えだと私も思うが」
「……」
「そもそも私に言わせれば、ハミルトンが何をどう考えていようが関係ない。本心からやつの傍にいたいと願うなら、たとえ拒絶されようが逃げられようが、地獄の果てまで追いかけて隣に居座ってやればいい。そうすれば何も恐れる必要なんてないだろう?」
「え……い、いや、それは別の意味で怖いと思うんだけど……」
「何が? 私がお前の立場なら、自分の命が尽きるとき〝やはり意地でもハミルトンについていくべきだった〟と後悔しながら死ぬ方がよほど怖いが」
「後悔……?」
「ああ。私は幼い頃から常に〝どう生きるか〟ではなく〝どう死ぬか〟を問われながら生きてきた。忍にとっては自分の死も他人の死も、ごく身近な日常の一部だからだ。ゆえに今も毎日、自分は明日死ぬかもしれないと思いながら生きている。どう死にたいかという望みさえ明確ならば、今日をどう生きるべきかも自ずと見えてくるからな」
と、サユキが開け放たれた窓の向こうを見つめながら告げた言葉が、痛みのない刃のようにすっとロッカの胸を衝いた。そして改めて、
(ああ……そっか。やっぱりあたし、どこかで麻痺してたみたい)
と思う。何せ軍人で在り続ける限り、明日命を落とすかも知れない身の上なのはロッカとて同じだ。なのに自分は今日も明日も明後日もこんな日常が変わらず続いていくのだろうと、漠然とそう思っていた。けれど、
(もしも明日が、自分の人生最後の日なら──あたしはやっぱり隊長の隣で、隊長のために死にたい)
刹那、心に浮かんだその声がすべての答えだとそう気づいた。まったくサユキの言うとおりだ。〝自分はどう死にたいか〟という問いかけは〝自分はどう生きたいか〟という自問と表裏一体だった。而して迷いの霧は晴れる。人生の最後の瞬間、この心を満たすのが真っ暗な後悔だけなんて、そんなのはロッカとてごめんだ。
「……うん。うん、そうだね。ありがとう、サユキ、モニカちゃん」
やがて顔を上げたロッカの口から零れたのは、あの胸を押し潰す硬くて苦い想いではなかった。そうして目の前にいるふたりに笑いかけ、同時に眉尻を下げながら男のように短い黒髪を掻く。
「いや、さすがのあたしも嫌がる隊長を地獄の果てまで追いかけたりはしないけどさ。でもふたりの言うとおりだわ。あたしは隊長が許してくれる限り傍にいたい。でもってうちの隊長は、確かに野暮で無神経でどうしようもないくらいぐうたらだけど──それくらいのわがままは聞いてくれる人だよね?」
「……! はい!」
と、弾んだ声で答えたモニカの笑顔が、何だか妙にまぶしかった。
まぶしすぎて、正直ちょっと目に沁みる。けれどおかげでやっと勇気が湧いた。
これなら明日からはもう一度、胸を張ってハミルトンの隣に立てそうだ。




