154.砂賊の子と呼ばれた少年について
ハミルトン・エルキンはかつての名を〝ラウノ〟といい、トラジェディア地方西部の町ヴィーテの孤児院で育った。峻厳な岩山である竜牙山から吹き下ろす風と、タリア湖がもたらす豊かな水の恵みのおかげで年中冷涼な気候が続くヴィーテにはサント・グリア女子修道院と呼ばれる東方金神会傘下の修道院がある。
その修道院に併設された孤児院にひとりの赤子が預けられたのは、今から三十年以上も前のこと。赤子を届けたのはイーラ地方から遥々やってきた老いた産婆で、彼女は名もなき赤子の出自について、ぽつぽつとこう語ってみせたという。
「この子の母親には結婚して間もない夫がいましてね。ふたりは町でも評判の仲睦まじい夫婦でした。ところが昨年、西から攻めてきた砂賊どもに町が襲われて……夫は彼女の目の前で殺され、彼女自身もまた砂賊に凌辱されました。幸い命までは取られずに済んだものの、事件のあと、ほどなく妊娠していることが分かって……彼女は自身に宿った新たな命が、亡き夫の子であることを信じて出産したんです。それだけがあの娘の生きる希望でした。けれどもいざ生まれた子は、夫とは似ても似つかない黒髪で……ひと目で彼の子ではないと分かってしまったんですね。おかげで彼女は産後、すぐに首を括ってしまいました。ですが、いくら砂賊の種から生まれた子とはいえ、私はどうにもこの子が不憫でならなくてね……ですから誰もこの子を知らない土地でなら、生きられる道もあるだろうと連れてきた次第なんですよ。どうかこの子が太陽神様のご加護の下で、優しく健やかな子に育ちますよう、面倒を見てやってはいただけませんでしょうか」
話を聞いたサント・グリア女子修道院の修道女は産婆と同様に赤子を憐れみ、孤児院で引き取ることに決めた。実の母親からは命以外の何も──名前さえ授けられなかった赤子には〝ラウノ〟の名を与え、以後彼の生い立ちについては堅く口を閉ざして他の孤児たちと平等に、分け隔てのない神の愛を注いで育てた。
ところが、いつの頃からだろうか。町ではラウノの出生の秘密がまことしやかに囁かれ始め、憎き敵国シャムシール砂王国の蛮賊の血を引いているという理由で、人々は彼を強烈に差別し迫害するようになった。
初めは幼いラウノにのみ向けられていた憎悪は、やがて彼と共に育った孤児たちにまで投げつけられるようになり、ラウノは居場所を失った。
家族のように育った孤児院の仲間にすら「お前のせいで」となじられ、彼を気遣う修道女たちの言葉もじき届かなくなり、ラウノは次第に孤立を深めた。町では自らを「砂賊の子」と指差して笑う子らと殴り合いの喧嘩をし、止めに入った大人たちからはラウノだけが殴る蹴るの暴行を受け、何度も生死の境を彷徨った。いっそ死んでしまえればどんなに楽だろうと思ったことも、一度や二度ではない。
自分は生まれてきてはいけなかった。何度となくそんな思いに打ちのめされながら、しかし死ぬこともできずに亡霊のごとく生きていた、ある日。
少年はひょんなことがきっかけで、美しい深窓の少女と出会った。
ヴィーテの町長夫妻の娘、リンシア・リンドバーグである。
病弱で生まれつき目が見えなかった彼女は、俗世からその存在を隠すように大切に大切に育てられ、ゆえに外の世界のことをほとんど何も知らなかった。そう──町中の人間から疎まれ、何年も石を投げられ続けた少年ラウノのことさえも。
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「あの当時わたくしは、一緒に暮らし始めた継母との関係がうまくいっていなかったんです。実母とはわたくしが十二の頃に死に別れて……父は母の死後、すぐに後妻を娶ったのですけれど、この方が実は母の生前から父と愛人関係にあったと知ったのはラウノと出会う直前のことでした。おかげでわたくしは毎日ひとりで泣き暮らしていて……そんなとき、母の唯一の形見である大切な手巾をうっかり風に攫われてしまったことがあったんです。目の見えないわたくしには、飛ばされてしまった手巾を探す手立てがなくて……それでもどうにか窓から這い出して、泣きながら必死に地面を探っていたわたくしに手を差し伸べてくれたのがラウノでした。彼は偶然通りかかった道端で手巾を拾って、親切に届けてくれたのですわ」
とリンシア・アンブランテは何も見えていないはずの瞳をなつかしそうに細めながら、春のタリア湖の水面に似た静かな口調でそう言った。夫のセリオ・アンブランテが、こんなこともあろうかと別荘に常備しておいたらしい予備の車椅子に腰かけ、二日ぶりに寝台を下りた彼女の顔色はもうずいぶんよくなったように見える。
公共宴館での魔物襲撃事件から三日目の朝。黄都ソルレカランテへの出立を明朝に控えた第三部隊副隊長のロッカ・アレグリアは悩みに悩んだ末に、なけなしの勇気を振り絞り、クッカーニャの高台に建つアンブランテ交易商会の別荘を訪ねた。
無論、隊長であるハミルトンには内密に、完全なる独断で、だ。
とはいえさすがにひとりでリンシアと向き合う勇気だけはどうしても絞り出せなかったので、事件後、彼女の容態を診るために毎朝夫妻のもとを訪っているモニカに同席を依頼した。リンシアは例の事件で大きな怪我こそしなかったものの、魔血の瘴気に当てられて体調を崩し、この二日ほど寝込んでいたのだ。
ゆえに彼女の往診を請け負い、既に夫妻からの信頼も厚いモニカに事情を話して手を合わせると「そういうことなら」と笑って快諾してもらえた。ただし、
「じゃあ、せっかくですからサユキちゃんにも一緒に来てもらいましょう!」
と、何が〝せっかく〟なのかよく分からない謎の提案をされ、アンブランテ屋敷の応接室には夫妻とモニカ、ロッカの他、本人も何故呼び出されたのか分かっていなさそうなサユキも相席しているという奇妙な図ができあがっていたが。
「え、えっと……じゃあ、リンシアさんがうちの隊長と知り合ったのは、十二のときってことですかね? 確かおふたりは同い年だって隊長から聞いたような……」
「ええ。確かにラウノとわたくしは同じ三〇二年生まれですけれど、出会ったのは十三の春だったと記憶していますわ。当時わたくしは、彼のことを本当に何も知らなくて……何の変哲もない親切な町の少年だと思っていましたの。ただ出会った日の別れ際に〝自分と話したことは他言するな〟と言われたときは、さすがにちょっと不思議に思ったのですけれど……でも、当時のわたくしは同じ年頃の友人を持つことに強い憧れを抱いていて、おまけに継母が家に来てからは礼拝以外の外出を固く禁じられていたものですから、どうしてもラウノを引き留めたくて頷くことにしたんです。父に隠しごとをしたのはあのときが生まれて初めてで、正直とてもドキドキしましたわ。だけど数日後、ラウノが約束どおりまた訪ねてきてくれたときは本当に嬉しかった……」
そう言って膝の上のティーカップを見下ろしたリンシアは、ロッカの手とは似ても似つかぬ白い繊手の指先でそっとカップの縁を撫でた。
その仕草がロッカの目には、ただの香茶のカップではなく、大切な宝物の感触を確かめているように見える。それほどまでに優しく愛おしそうな手つき。
そう気づいてしまったとき、ロッカは心臓がギシギシと不穏な音を立てるのを聞いて、思わずサッと顔を伏せた。自分から〝ヴィーテにいた頃のハミルトンの話を聞かせてほしい〟と持ちかけた手前口が裂けても訊けないが、リンシアの夫のセリオは今、どんな心境で妻の話に耳を傾けているのだろうと思いながら。
「だがハミルトンは、そうしてお前と逢瀬を重ねていたことが露見して町にいられなくなったと言っていた。ヴィーテの町人というのは、そんな理由で孤児を町から叩き出すほど狭量で性根の腐ったやつばかりなのか?」
「いいえ。ラウノとわたくしの関係がのちに知れ渡ってしまったことは事実ですけれど、彼が町にいられなくなった理由はもう少し複雑ですの。ですがラウノは、やはり皆様にも本当の理由を話そうとはしなかったのですね」
「というと?」
「ラウノが町を追い出されたのは……わたくしを守るために、人を殺めたせいなのですわ」
「え?」
「彼は竜牙山の山賊に拐かされそうになったわたくしを助けようとして、彼らから奪った剣で……結果、わたくしたちは無事に町まで逃げ帰ることができたものの、事情を知った大人たちはラウノのことを〝人殺し〟と罵りました。彼が人を殺めたのは、やはり野蛮な砂賊の血を引く証左だと言って……以来、ラウノにそれまで以上の迫害を加えるようになりましたの。彼はただ、わたくしを救おうとしただけなのに……」
瞬間、直前まで大切そうにカップを包んでいたリンシアの指先に、微かな力が籠もるのをロッカは見た。まるでカップの中を覗き込んでいるようでいて、実際には何も見えていないという彼女の瞳には、うっすら涙が浮かんでいる。
するとそんなリンシアの薄い肩へ、隣からセリオが静かに腕を回した。そうして震える妻を宥めるように何度か優しく髪を梳くと、話を引き継いで口を開く。
「……ヴィーテの町の人々は決して排他的というわけではないのですが、イーラ地方と領境を接している関係で、過去幾度となくシャムシール人に攻め込まれていましてね。ですのでたびたび侵攻の憂き目に遭っているイーラ地方の民と同じくらい反砂感情が強いのですよ。おまけにふたりが賊に襲われた当時、運悪く町には地方軍が不在だったそうで……」
「軍が不在? ヴィーテも郷庁所在地なのに……ですか?」
「ええ。ちょうど黄都から地方の巡察に来ていた監査官を迎えるために、郷守がわざわざ軍隊を率いていってしまったとかで。ふたりが遭遇した山賊もそれを見越した上で、今なら町を襲えるのではないかと偵察に来ていたようなんです。まあ、結果として彼らのことはたまたま通りかかった我が商会の隊商が撃退し、ことなきを得たそうなのですが……」
「えっ。しょ、商人の皆さんが地方軍の代わりに戦ったんですか?」
「はは、いえいえ。戦ったのは隊商が連れていた腕利きの傭兵たちですよ。当時その隊商には私の父も同行していたそうで、ヴィーテの町長夫妻にいたく感謝され、そこから家族ぐるみの付き合いが始まったと聞いています。私がリンシアと出会ったのも、そうして結ばれた縁がきっかけなのです。……本当に、縁神のお導きというのは不思議なものですね」
そう言って目を細めたセリオの面輪には、妻へ向かう親愛の色こそあれど、妬みや不信の影はひとひらもなかった。ただ、少しだけ──ほんの少しだけ彼の眼差しが寂しげに見えたのは、今日まで妻が黙して語ろうとしなかった秘密の存在を知ってしまったせいだろうか。あるいはロッカが、彼も自分と同じ気持ちでいてくれたらいいと、どこかでそう願っていたせいだろうか。
「で、でもリンシアさんは当時、お継母さまの言いつけで家の外には出られなかったんですよね? なのにどうして山賊が……確かにトラジェディア地方は〝北の山賊、南の湖賊〟なんて言われるくらい賊が多いって聞きますけど……」
「いえ……実はラウノと親しくなってから、わたくしは修道院の暮らしに興味があると言って、たびたびサント・グリア孤児院を訪ねるようになったんです。継母は教会への出入りだけは制限しませんでしたし、当時からわたくしを修道院へ入れられないかと画策していましたから、むしろ喜んで送り出してくれて……ですからわたくしも、そんな継母の悪意を利用したのですわ」
「悪意を利用?」
「つまり……修道院や孤児院の見学に行くというのは建前で、わたくしは頻繁に外出しても怪しまれない状況を作りたかったんですの。そしてある日、とうとうお付きの侍女の目を盗んで、ラウノとふたりで町を抜け出した……」
あまりにも大胆かつ予想の斜め上をいくリンシアの告白に、一同は呆気に取られた。が、唯一彼女に寄り添うセリオだけは顔色を変えなかったところを見ると、ハミルトンとリンシアの関係については事件のあと、すぐに説明を受けたのだろう。
しかしハミルトンは、少なくともロッカたちには話してくれなかった。
少年の頃に山賊を殺めたという事実はもちろん、リンシアと駆け落ちまがいのことまでしていたなんて。
「……なるほど。要するに、ハミルトンとふたりで町から逃げ出すために何度も修道院とやらに通うふりをして、機会を窺っていたというわけか。だが途中で山賊と遭遇し、町に引き返さざるを得なかった、と」
「ふふ……逃げ出すだなんて、そこまで大それたお話ではありませんわ。ただほんの少しの間、誰の邪魔も入らないところで、ラウノとふたりきりで過ごしてみたいとわたくしがわがままを言っただけです。けれどその一度きりのわがままがラウノの人生を狂わせ、彼を散々に苦しめてしまった……仲間を殺された山賊の報復を恐れた町の人々は、ラウノの首を斬り落として差し出せば許されるのではないか、とまで言い出す始末でした」
「そ、そんな……いくら何でもあんまりです……! 抵抗しなければ隊長はもちろん、町長の娘だって殺されていたかもしれないのに……」
「ええ……ですが、そうなるまでラウノが何者で、町の人からどんな扱いを受けていたのかまるで知らなかったわたくしは、自分の無知と愚かさを呪いましたわ。ラウノは〝すべて自分の責任だ〟と言って、一度もわたくしを責めませんでしたけれど……わたくしは今も自分を許せずにおりますの。ですから最初にエルキン華爵がラウノだと気がついたとき、彼がわたくしを拒絶するのは、当時のことを恨まれているからだと思いました。ですが、彼は……あれから二十年もの月日が流れた今も変わらず、わたくしを守ろうとしてくれていただけだった。本当にどこまでも優しくて……不器用な人」
そう言って微笑んだリンシアの頬を伝った涙は、ロッカが今まで目にしたどんな涙よりも透明で美しかった。神話の時代、いかなる病もたちどころに癒やしたと語り継がれる《神鳥の涙》が実在するのなら、きっとあんなだろうとロッカは思う。
「ですが彼が今も生きていてくれて……もうわたくしの知る孤独なラウノではないと知ることができて、本当によかった。アンゼルム様やあなた方のような仲間が傍にいて下さるのなら、何も心配は要りませんわね。わたくしがこんなことを申し上げるのはおかしいかもしれませんけれど……これからもラウノを──いいえ、ハミルトンさんをどうかよろしくお願いします」




