151.今もにぶく光るもの
──あの日。
そう、初めて彼女の名を呼んだあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
「〝リンシア〟……〝リンシア・リンドバーグ〟?」
彼女がその白く細い指先で愛おしそうになぞってみせた刺繍の文字を読み上げると、長い睫毛に縁取られた霞色の瞳が、窓の向こうで鮮やかな驚きに彩られた。
「まあ。あなたも字が読めるの?」
「そりゃ……まあ、一応。孤児院じゃ三日に一度、手習いがあるから……」
「孤児院? 孤児院って、サント・グリア女子修道院の中にあるっていう? だけど、あなた……声を聞く限り男の子よね?」
「え? いや、そうだけど、女子修道院の中にあるからって孤児院まで男子禁制なわけじゃない。男だって十五になるまではいてもいいんだよ」
「まあ、そうなの。わたくしはてっきり、あの孤児院は未来の修道女を育てるための学校みたいなものだとばかり……話を聞いたことはあっても、実際に足を運んだことは一度もないものだから。失礼なことを言ってしまってごめんなさいね」
そう言って眉尻を下げ、申し訳なさそうに微笑っていた彼女に曖昧な返事をしながら、まあ、そうだろうなと理由は聞かずとも納得した。
何しろほとんど日を浴びたことなどなさそうな青白い肌や、ひとりでは立って歩くことさえ難しそうな細い両脚は、彼女が外出はおろか寝台から下りることさえ稀である事実を物語っていたから。
だからどこかでこう思ったのだ。ああ、きっと彼女は自分と同じだと。
自分自身の力ではどうにもできない不条理という名の鎖につながれ、ひどく狭くて息苦しい世界に閉じ込められている、そんなかなしい人なのだと。
「だけど本当にありがとう。あなたが偶然通りかかってくれなかったら、この手巾を永遠に失ってしまうところだった……何かお礼ができるといいのだけれど」
「い、いや……礼なんて別にいい。たまたま飛んできた手巾を見つけて拾っただけだし。大事な母親の形見なんだろ。もううっかり風に取られたりするなよ」
「ええ、気をつけるわ。ところで、あなたのお名前を聞いてもいいかしら?」
「え?」
「何のお礼もできないなら、せめて恩人の名前くらい胸に留めておきたいわ。わたくしはリンシア・リンドバーグ。親切な隣人さん、あなたのお名前は?」
麗らかな春の陽射しの中で、そう言って無邪気に微笑んだ彼女を見たとき、己の心臓が奏でた歓呼のような、悲鳴のような音が今でも耳から離れなかった。
だって、孤児院の外で誰かからあんな風に微笑みかけてもらえたのは生まれて初めてのことだったから。ゆえにどう反応すべきなのか分からなくて、ただただ頬の熱さにうろたえるばかりだった記憶が今もある。
「ら……ラウノ」
やがて喉の閊えの奥からどうにか絞り出したのは、町の誰もが憎しみと軽蔑を込めて呼ぶ名前だった。もしかしたら彼女も町一番の悪童の名前くらいは聞いたことがあるかもしれないと──だとしたらここで突き放されて終わりだろうと、諦めに似た感情を心の片隅に用意しながら。
それでもあのとき、とっさに嘘の名前を告げなかったのは、きっと、
「〝ラウノ〟? そう、ラウノというのね」
そう、きっと、
「ふふ……滑らかで呼びやすくって、だけど男の子らしい響きね。とても素敵な名前だわ。ねえ、ラウノ。よかったらまた声を聞かせに来て下さらない? あなたとはとてもいいお友達になれそうな気がするの」
ああ、そうだ。自分はどこかで期待していたのだ。あまりに無知で無防備で、されどだからこそまぶしいほどに無垢なる彼女が呼びかけてくれたなら、真っ黒に塗り潰された自分の存在すらも、陽の下でにぶく光るのではなかろうか、と。
● ◯ ●
「リンシア……!!」
と思わず彼女の名前を叫んだとき、ハミルトンの脳裏をよぎったのは遠い昔に捨てたはずの、そんな苦い記憶の片鱗だった。
けれども思考や感情とは裏腹に体は勝手に動き、長年の戦場暮らしで培われた反射でもって、彼女に食らいつこうとしている醜耆鳥の眼前に自らの腕を差し出す。
直後に瘴気まみれの乱杭歯が皮膚に食い込み、赤い血が噴き出すのを目視しながら、もう一方の腕でリンシアの細い体を守るように掻き抱いた。
「ロッカ!」
次いで自らの副官に合図を送りながら、夢中で肉を食い千切ろうとしている魔物の体ごと右腕を豪快にぶん回す。醜耆鳥に反応する暇を与えず、不気味で醜悪な肢体を全力で床へと叩きつけた。このまさかの反撃に醜耆鳥は「ギッ……!?」とうめいて、衝撃のあまり咥えていたハミルトンの腕を放す。
そこへロッカがすかさず一撃を叩き込んだ。人間の老爺に似た顔を持つ醜耆鳥の頭部が銅を離れて、黒い血を撒き散らしながら転がっていく。
「た、隊長! 腕、大丈夫ですか!?」
「ああ……すぐに止血すりゃ問題ない。だがまずは避難が最優先だ。セリオ殿、あんた、立てそうか?」
「は、はい……っ痛……! た……倒れたときに足を挫いたようですが、あの部屋までなら何とか自力で走れます……!」
「で、ですがセリオさん、その足じゃリンシアさんを背負って走るのは……!」
「大丈夫だ、夫人は代わりに俺が担ぐ。ロッカ、お前はそっちの生存者に手を貸してやれ」
「は、はい……!」
ハミルトンの傷を見たロッカはおろおろしながらも、ひとまずセリオの足を掴んだ負傷者を立たせて肩を貸し、セリオもモニカに支えられて何とか立ち上がった。
彼らがどうにか先へ進めそうなのを確かめたハミルトンは、握っていた剣を捨て「失礼」とひと言断りを入れてから、未だ力なく頽れたリンシアを抱き上げようとする。ところが、刹那、
「──アンブランテ夫人、」
と思わず呼びかけたハミルトンの腕の中で、彼女は魔血まみれの胸もとに抱きつき、声を上げて泣きじゃくった。まるで幼子が親に縋って泣くように。
「……夫人、離れて下さい。次は俺が運びますから、手を」
「ラウノ……あなたはやっぱり、ラウノなのでしょう?」
「……」
「ごめんなさい……わたくしは、また……わたくしのせいで、あなたは……!」
「……いや、違いますよ。今のは美しい婦人のご尊顔を魔物の血で汚すわけにはいかんという、俺の個人的な信条を貫いただけで……分かったらとにかく離れて下さい。臭いでお察しかと思いますが、俺は今、魔血まみれです」
「いいえ……いいえ! だってこの手を放したら、あなたはまたどこかへ行ってしまうでしょう? 傷だらけのまま、たったひとりで……わたくしを置いて……!」
「……夫人、」
「わたくしは、ずっと……ずっとあなたに、謝りたかった……! わたくしが……わたくしさえいなければ、あなたがあんな風に町を追い出されることもなかったのに……なのにわたくしは、あなたに守られてばかりで……最後まで……何もしてあげられなくて……!」
「……」
「本当にごめんなさい、ラウノ……ごめんなさい……!」
「……いや、だから、違うって。ヴィーテには最初から俺の居場所なんてなかったんだよ。あの町どころか、この世のどこにも。だけどあんただけが唯一、こんな俺にも〝生きていてもいい〟と言ってくれた」
瞬間、激しく嗚咽を零していたはずのリンシアが息を飲み、涙をいっぱいに溜めた瞳でこちらを見上げた。どんなに見つめたって、盲目の彼女には自分が今、どんな顔をしているかなんて見えもしないだろうに──なのに懸命に目を凝らしているのが分かるから、本当に相変わらずだなとハミルトンは困り果てて笑ってしまう。
「だから俺は自分の意思で町を捨てたんだよ。あれ以上、あんたが傷つくのを見てられなくて……ま、早い話が逃げたのさ。あの頃の俺はあんたを幸せにしてやれるだけの力も度胸も甲斐性もない、ただの人殺しだったから」
「ラウノ、」
「いや、まあ、人殺しは今もそうなんだが……ただ、犯した罪の背負い方や償い方を教えてくれる恩師たちと出会って、俺もやっと折り合いがついた。自分で自分に〝生きていてもいい〟と言ってやれる自分になれたんだ。あんたのおかげでな」
「わたくしの、おかげ……?」
「ああ。あんたと出会ってなかったら、今の俺は間違いなくここにはいない──そんな大恩人を、みすみす魔物にくれてやるわけにゃいかないんだよ。分かったら言うとおりにしてくれ、リンシア。今度は砂賊の息子なんかじゃなく、黄皇国の軍人としてあんたを守る」
涙で濡れた彼女の頬を血まみれの手で拭うわけにはいかないと思いながら、しかしハミルトンは左手ならば辛うじて汚れていないことに気がついて、そっとリンシアの肌に触れた。するとリンシアは白く整った顔立ちを少女のようにくしゃくしゃにして、再び嗚咽を零し始める。
されどハミルトンの胸もとに頑なに縋りついていた指先の力は抜けていた。それに気づいたハミルトンもすかさず彼女を横抱きにして立ち上がる。あれから既に二十年もの月日が流れたというのに、彼女の体は今もまだ驚くほどに軽かった。
「た……隊長、」
「おう、悪い。待たせたな。行くぞ」
「……」
「そんな顔すんな、全部片づいたらちゃんと話すから。とにかく今は生存者の安全確保だ。隊が到着するまでもうしばらくかかるだろうからな」
物言いたげにこちらを見つめるロッカたちにそう告げて、ハミルトンは皆を促すように駆け出した。そうしてアンブランテ夫妻とモニカ、ついでにペトラともうひとりの生存者を避難所まで送り届けると、右腕の止血を素早く済ませ、すぐさま戦場へ引き返すべく立ち上がる。
「悪いな、モニカ。助かった。あとのことは俺らに任せろ。お前はできる範囲で負傷者の救護を頼む」
「はい、もちろんです。隊長たちもお気をつけて……」
「心配すんな、俺たちゃ天下の黄都守護隊だぜ? この程度の修羅場は慣れっこさ──ん?」
と、手早く適切な応急処置を施してくれたモニカに礼を言い、安心させてから踵を返そうとしたハミルトンの衣装の裾が不意に引かれた。何だと思って振り向けば、そこには泣き腫らした目でこちらを見上げるリンシアの姿がある。
……だからそんな顔するなって、と再び呆れそうになりながら、ハミルトンはため息と共に蓬髪を掻いた。まったくどいつもこいつも──こんなはみ出し者の心配ばっかしやがって。二十年前の俺が聞いたら、ビビるを通り越してたぶん泣くぞ?
あの頃の俺は、自分が生きていてもいいと思える場所なんざ世界のどこにも存在しないと、心の底から信じて疑わなかったんだからな。
「待ってろ、リンシア。必ず戻る」
次はもう逃げない。
そう伝えるつもりで裾を掴む手を取れば、彼女も涙ぐんで頷いた。
ああ、そういう顔をされるとまた攫ってしまいたくなるから、困る。
けれども今の自分はもう〝はみ出し者のラウノ〟ではない。
黄都守護隊第三部隊長のハミルトン・エルキンだ。だから、
「よっしゃ。行くぞ、ロッカ。もうひと踏ん張りだ」
「はい!」
先程投げ捨てた剣の代わりを見つけて拾い上げながら、ハミルトンは振り向かず踏み出した。するとロッカも頼もしく頷いて、迷わず後ろについてくる。
おかげでまたひとつ、何か吹っ切れたような気がした。
自分の背中を追ってくる副官を後目に見やりながら、ふっと口角を上げて思う。
ああ、やはり自分の居場所は戦場なのだ、と。




