149.『ジュダとルチャーノ』
トラモント黄皇国には二百年ほど前の史実をもとに創られた『ジュダとルチャーノ』という戯曲がある。これはひょんなことからソルレカランテの貧民街で暮らす青年ジュダと皇子ルチャーノが入れ替わり、互いに相手になりすまして生活するという喜劇だ。ジュダとルチャーノは生まれた身分こそまったく異なるふたりだったが、驚いたことに、顔は双子かと見まがうほどに瓜ふたつだった。
おまけに生まれた年も同じで、背格好までそっくりだったのである。
皇子ルチャーノは聡明で正義感の強い青年だったが、生まれつき体が弱く、病気がちだったためにほとんど城に幽閉されて育った。おかげで外の世界に強い興味を抱き、ある日お忍びで城下町へ出向いた際に出会ったジュダに頼んで、少しのあいだ自分の代わりに城で暮らしてくれないかと懇願した。
他方、貧民の青年ジュダはそのとき盗みの罪でルチャーノに追われ、彼に捕まったところだったから「頼みを聞き入れてくれたら今回の盗みには目を瞑る」という皇子の甘い言葉につられて皇子役を引き受けることにしたのである。
かくして皇族の衣服を身につけたジュダは追ってきた護衛の兵に連れられて城へ戻り、ボロ着をまとったルチャーノはジュダを探しに来た仲間に連れられて貧民街へ足を踏み入れた。そこでルチャーノは、今日食べるものさえ満足に手に入らない貧民たちの暮らしに愕然としながらも、そんな境遇など吹き飛ばすほど陽気で明るい人々に振り回されて日々を過ごす。
一方、ジュダは毎日部屋で大人しくしているだけで運ばれてくる豪勢な食事に歓喜しつつも、家族や家来に正体を暴かれぬよう四苦八苦していた。
やがてふたりは紆余曲折を経ながらも入れ替わり生活を終え、最後は大団円で物語は幕を閉じる。再会したジュダとルチャーノはそれぞれ貧民と皇子に戻っても互いを無二の友と呼び合い、最終的には黄帝となったルチャーノが、ジュダを始めとする貧民街の人々を黄臣として城に呼び寄せるのだ。
かくて物語はめでたしめでたし。ジュダとルチャーノは手を取り合って、トラモント黄皇国を誰もが豊かに暮らせる国にしようと誓い合う──少なくともエリクが以前シグムンドに誘われて観劇した『ジュダとルチャーノ』の顛末はそうだった。
ところが今夜、クッカーニャの公共宴館で上演された『ジュダとルチャーノ』はどうだろう。今回の夜会で余興のために招かれたのは、ネデリン家が後援するそこそこ大きな劇団だった。そして通常演劇というものは、原作は同じでも演じる劇団の解釈や思想によって演出が異なったり、脚本が改変されたりする。
それくらいはエリクとて承知の上だ。しかし、彼らが演じた『ジュダとルチャーノ』の物語はあまりにも原作の内容からかけ離れている。というのも劇の終盤、ルチャーノが入れ替わり生活の終了を求めてジュダに面会を求めても彼は会うことを拒み、果ては家来に命じてルチャーノを抹殺してしまったのである。
「ははっ……はははははははっ! 愚かにして滑稽、されど誰よりも心優しく寛大であらせられたルチャーノ殿下に乾杯! 何せかの御方は、富も名声も持たずに生まれた憐れなこの俺に、皇族としての地位とすべてを手に入れられる権力を与えて下さった! ああ、どうか安らかに、ルチャーノ殿下! あなたの墓碑には満腔の感謝と共に、今日よりは毎日美しい花を備えましょう……おっと! 残念、そいつは叶わないのだったな。何せ貧しく薄汚い平民には、己の墓穴を掘るためのはした金すらないのだから! はははははははは……!」
邪悪な笑い声を上げてルチャーノの死を嘲笑ったジュダは、やがて皇位を継承し黄帝となった。皇子の身代わりとなったのをきっかけに、金と権力に取り憑かれたジュダは当然のごとく暴君となり、前代未聞の悪政により広く民を苦しめた。
が、迎えた終幕ではとんでもないどんでん返しが起こる。
なんと死んだはずのルチャーノが実は生きており、由緒正しき血統を持つ者たちを従えて、国家を私物化したジュダを討つべく攻め入ってきたのである。
かくて暗君ジュダは正義の名の下に成敗され、本物の皇子ルチャーノが黄帝の座に就いた。民衆は諸手を挙げてルチャーノを歓迎し、誰もが喜びに咽び泣く。
「万歳、万歳! ルチャーノ陛下、万歳……!」
「トラモント黄皇国、万歳!」
その場面を最後に公演は幕を引き、最後は舞台上に整列した劇団の役者たちが、万雷の拍手に讃えられながら恭しく一礼してみせた。
共に観劇に臨んだ者たちは皆「素晴らしい脚本だった!」とか「黄都でもぜひ上演してほしいわ!」とか、とにかく上機嫌に劇の内容を褒めちぎっている。
が、当然ながらそんな観客たちの真ん中で、とんだ茶番に付き合わされたエリクたちは憮然と表情を曇らせていた──今の劇が〝素晴らしかった〟だって?
原作や史実を大きく改竄し、露骨すぎるほど露骨に血統主義を礼讃する内容に書き換えられたこの冒涜作が?
「……こんな駄作じゃ豚も食わない」
と思わずルミジャフタ語でひとりごちてから、エリクは深いため息と共に眉間を押さえた。今夜の演目はエリクらが招待される前から上演が決まっていたのだろうが、なるほど、保守派貴族たちはこうして自らの政治的思想を讃美し、日頃から結束を強めているのかと納得する。ネデリン家監修の『ジュダとルチャーノ』は、要は〝身の程を知らない賤民は帝政を狂わせるが、それを正すことこそ正統な血を引く貴族の責務である〟との思想を啓蒙するべく作られたものだ。そして〝賤民〟とは言わずもがな、革新派の中心である平民上がりの新興貴族を指している。
まったく、まさかここまで面と向かって侮辱されるとは思わなかった。どうやら保守派はたとえ死んでも革新派と同じ天は戴かぬ、という心構えらしい。
(つまりどちらかが完全に滅ぶまで殺し合おう、ということか……結局彼らは正黄戦争から何も学ばなかったんだな)
どこまでも無知で蒙昧で、救いようのない連中だ。彼らとはもはや歩み寄ることも、手を取り合って妥協点を探ることもできそうにない。
そう悟った瞬間、エリクは暗澹たる気持ちで眉を寄せ、目を伏せた。
ああ、もはや内乱は避けられないのだなという、確信めいた予感と共に。
「あら、アンゼルム様! もうお帰りで?」
やがて観劇の時間が終わり、再び会場に散った貴族たちが思い思いに食事や談笑を楽しむ中、エリクたちはそろそろお暇しようと帰り支度に取りかかった。
会場で配膳をしているネデリン家の使用人を呼び止め、表にマーサー商会とアンブランテ交易商会の馬車を回してもらえるよう言伝する。ところが伝言を聞いた使用人は、控え室で待機している両商会の馭者より先にペトラへことの次第を伝えたらしく、すぐに彼女が勝ち誇った笑みを扇で隠しながら現れた。今夜は既に何人もの保守派貴族と見えざる剣戈を交え、既に疲労困憊気味のエリクは内心げんなりしたものの、母譲りの微笑の仮面を携えて何ごともなかったかのように切り返す。
「ああ、ペトラ嬢。ちょうど皆でご挨拶に伺おうかと話していたところです。今宵は素敵な夜会にお招きいただき、大変ありがとうございました」
「うふふ、どういたしまして。ですが残念ですわ。夜はまだ長いというのに、皆様揃ってもうお帰りになってしまわれるだなんて。ひょっとして先程の劇がお気に召しませんでした?」
「いえ、とんでもございません。さすがはネデリン家が盛んに後援されているだけはあり、役者の演技も、美術や演出も一流の素晴らしい公演でしたよ。脚本もまったく斬新で、他の劇団には決して真似できないような、実に思い切った改変だったと思います」
「まあ、ありがとう。そうおっしゃっていただけて嬉しいですわ。実は今夜の会はあの新作をお披露目して、皆様のご感想を伺うために開催しましたの。反響があるようでしたらゆくゆくは帝立劇場での公演にも踏み切って、ぜひ陛下にもご観覧いただきたくって」
「そうですか、ぜひ実現するとよいですね。ただし今夜の内容のままですと、陛下は少々難色を示されるかもしれませんが……」
「あら、どうして?」
「正統な皇位継承者ではないにもかかわらず、自ら黄帝を僭称した偽帝を真の皇族が討つという内容は、どうしても正黄戦争を想起させますから。かの戦いで多くのものを失われた陛下がご覧になれば……おつらい記憶を呼び覚ましてしまうやもしれません」
そうだ。そもそも当時『金色王』と呼ばれ、それこそルチャーノ一世の再来とまで讃えられたオルランドが政への関心を失ったのも、原因を掘り下げれば正黄戦争へ辿り着くとエリクは思っていた。あの戦いで黄妃エヴェリーナを救えなかった事実が彼の心に穴を開け、そこにルシーンという名の稀代の悪女が入り込む隙を与えてしまったのだ。さらに後年、心を許していた『黄帝の父』の死や近衛軍団長、黄妃の甥の離反などが重なり、彼の心はほとんど国から離れてしまった。
そして今や正黄戦争直後の彼を飾り立てていた栄光は剥げ落ち、オルランドは静かに死を待つのみの抜け殻のようになってしまっている。そんなオルランドにすべての始まりである正黄戦争を連想させる劇など見せるのは、あまりに酷ではないだろうか。もう二度と戻らない輝かしい日々の記憶はきっと、彼を──
「そうですわね。アンゼルム様のご意見にも一聞の価値があると思います。ですがわたくしの考えはまったくの逆ですわ」
ところが刹那、エリクの沈思を遮って、ペトラが昂然と口を開いた。
我に返ったエリクがはっと目をやれば、扇を閉じたペトラはもはや嘲りの表情を隠そうともせず、なおも自信満々に言葉を続ける。
「だって今回の新作はそもそも、当時の陛下の栄光を改めて讃えるためにお創りしたんですもの。ですから陛下もきっと劇の内容をお喜びになって、今一度、若かりし頃のようにご親政への熱意を取り戻して下さるのではないかしら」
「ペトラ嬢──」
「そうなれば陛下もきっと、戦後復興のために已むなく取り入れられた数々の臨時政策について、見直しを図って下さると思いますの。当時の政策が生んだ歪みを正し、トラモント黄皇国をあるべき姿へ戻すために」
瞬間、ペトラの唇が紡いだ妄言に、エリクは自らの発した神気がざわりとうなじを撫でるのを感じた。何故ならペトラの言う黄皇国のあるべき姿とは要するに、先刻劇中でも過剰に掲揚されていた血統至上主義の再来を意味している。彼らはそうした選民思想こそがかの戦争を招いたことにすら気づいていないのか。
偽帝フラヴィオが勝手にオルランドを廃嫡し、己こそが皇位を継ぐにふさわしいと思い上がったのも、皇族の証であるトラモントブロンドを持たずに生まれたオルランドは非嫡出の皇子だと半ば本気で信じていたためだろう。
ゆえにオルランドは唾棄すべき血統主義という名の伝統に抗い、正黄戦争後も復興促進の名目で身分を問わず、真の実力と愛国心を持つ者たちを黄臣として取り立てた。平民出身のガルテリオやファーガスがトラモント五黄将の一角を担うまでになったのもそのためだ。されどペトラはもはや憚りもなく、そんなオルランドの過去の政策こそが誤りであり、昨今の政治的混乱を招いたと言っている。
だからこそ今一度、彼に自らの過ちを正させるべきだ、とも。
「……ペトラ嬢。あなたは──」
と、不敬という言葉の範疇などとうに飛び越えてしまっているペトラの発言に、エリクがそう答えかけたときだった。突然、会場に設けられた談話席で談笑していた貴族たちがふと天井を見上げ、怪訝な顔で何かを指差し口を開く。
「おい、あれは何だ?」
彼らが発した疑問の声につられ、皆が次々と頭上へ目を向け始めた。
そして異変に気づいた者たちがどよめき出し、エリクらもその段になってようやくあたりの様子がおかしいことに気づく。
「え……え? 一体何事……」
と周囲をきょろきょろ見回したロッカが、彼らがみな一様に天井を見上げていることを知り、同じように視線を上げた。
エリクたちもほとんど同時にそれに倣い、銘々頭上を仰ぎ見る。
途端にエリクは息を飲んだ。というのもこの会場の天井は全面硝子張りになっており、屋内にいながら星空を見上げることができる仕様になっている。
ところがそんな天井を支える梁から下がったシャンデリアの灯明かりが、怪しい影を浮かび上がらせていた。天井の向こう、すなわち硝子板の上に降り立ち、まるで品定めするかのように眼下の人間を見下ろした──
「あ……アンゼルム様、あれって……!」
「ああ、まずい──魔物だ……!」
エリクの言葉を聞いたペトラが、傍らで「えっ?」と調子はずれな声を上げるのが聞こえた。されど一同が状況を伝えるよりも早く、屋上から会場を覗き込んでいたそれがエリクの赤い髪を見つけてニタリと笑う。
「ヤ・ナシェール」
次の瞬間、漆黒の翼を広げたそれが飛び上がり、半枝(二・五メートル)ほども跳躍したかと思えば一散に硝子の天井目がけて落下した。それは両脚に鋭く巨大な猛禽の爪を持ち、その爪でもって轟然と天井を突き破ってくる。
「きゃあああああああっ!?」
雨のごとく降り注ぐ硝子片と共に、それの黒い肢体が会場へと突っ込んできた。
シャンデリアの絢爛な明かりが照らし出したのは、人の姿をした鳥のような、羽毛に覆われた上半身。二本の腕は翼と同化しており、両脚の形はやはり猛禽のそれ。
唯一頭部の造形は人間そっくりであるものの、頭皮にわずかこびりついた毛髪の下には瞼を失って飛び出た両眼と、幾重にも皺がたたまれた灰色の皮膚、そして狂喜に歪んだ口から覗く真っ黒な乱杭歯……。
「お……おいおい、マジかよ……! 逃げろ、醜耆鳥だ!」
ハミルトンの警告に打たれ、会場は一瞬にして恐慌に陥った。
今、この場にいるのは大半が本物の魔物など見たこともない貴族ばかりだ。
一方、突如として夜会に乱入してきたのは、両腕代わりの翼で縦横無尽に飛び回る醜耆鳥。しかもこれが一匹や二匹ではなく、最初の一匹に続いて続々と天井を突き破ってくる──まずい。かなり大きな群だ。
「そ、そんな……どうしてこんなところに魔物が……!?」
「ペトラ嬢、すぐに郷庁へ応援の要請を! それから会場を警備している衛士を集めて、来場者を控え室や休憩室へ避難させて下さい!」
「な……何を言っていますの!? 逃げ場のない室内へ避難するくらいなら、建物の外へ逃げた方がいいに決まって……!」
「相手は空飛ぶ魔物ですよ! 今、屋外へ逃げ出せば、外にいるやつらの餌食になります! だったらむしろ、入り口さえ死守すれば余計な犠牲を出さずに済む袋小路へ逃げ込んだ方が得策です! 仮にも会の主催者ならば、来場者の命を最優先に動いて下さい!」
エリクが思わず語気を荒げてそう言えば、ただでさえ青ざめていたペトラの顔色がさらに血の気を失った。ここで招待客の身に万一のことがあれば、その責任は夜会の主催者である自分にも降りかかるのだとようやく理解したらしい。
だがそうこうしている間にも来場者は次々と魔物に襲われ、騒ぎを聞いて駆けつけたネデリン家の衛士も完全に泡を食っていた。
おかげで見るからに腰が引けている彼らの眼前で、ある者は醜耆鳥の鉤爪に攫われて一枝(五メートル)もの高さから叩き落とされ、またある者は爪で切り裂かれて動けなくなったところを、禿鷲のごとく群がった醜耆鳥に食らいつかれている。
「くそ……! おい、そこのお前! 戦う気がないならそいつを寄越せ!」
次の瞬間、来場者の血と絶叫を前にして立ち竦む衛士の手から、サユキが剣を奪い取った。さすがに武器を帯びて夜会に参加するわけにはいかなかったので、エリクたちも今夜は丸腰なのだ。されど人々を守るためには武器が要る。
ゆえにサユキの行動を見たハミルトンやロッカも、すぐさま衛士の得物を奪って応戦を開始した。他方、武器がなくとも神術を使えるコーディは、モニカとアンブランテ夫妻を避難させるべく「こちらへ!」と声を上げて走り出す。
「あ……わ、わたくしは……わたくしは、どうすれば……!」
「──ペトラ、こっちよ!」
と、そのとき頭を抱えながらガタガタと震え出したペトラをどこからか呼ぶ声があった。見れば数人の衛士に守られたひとりの貴婦人が、談話席に巡らされた天蓋の下で声を張り上げている。顔立ちや衛士たちの警固の堅さを見る限り、恐らくはペトラの母親だろう。彼女の呼び声を聞いたペトラは、魔界で一条の光を見つけたような顔色で彼女のもとへ駆け寄ろうとする。
「ペトラ嬢……!」
ところが刹那、母の腕の中へ駆け込むことしか考えられなくなったと見えるペトラの頭上に、ふっと暗い影が落ちた。「……え?」と声を漏らした彼女が振り向いた先には、シャンデリアの逆光を背にした醜耆鳥の姿──
「ペトラ……!!」
必死の形相で叫んだ母親が伸ばした手は届かなかった。老爺に似た顔をニタァと歪ませた醜耆鳥が、瘴気に染まった黒い鉤爪でペトラへと襲いかかる。
一瞬ののち、満天の星空の下で血が飛沫いた。
ネデリン夫人の絶叫が、地獄絵図と化した宴館に谺する。




