148.もしも世界に男がふたりしかいなくなって
ああ、これが世に聞く〝壁の花〟ってやつかあ、と、ロッカ・アレグリアは妙に得心のいった気持ちで会場を見回した。今夜、ネデリン家が一手に借り切っているという公共宴館は広い。招待客は優に五十人を超えていると思われるのに、それだけの人数が詰めかけても会場にはまだゆとりがある。
さらに天井にはいくつものシャンデリアがぶら下がり、林立する柱にともされた燭台の明かりもあって、会場内はまるで真昼のようだった。お貴族様方の暮らす世界はやっぱりすごいんだなあと不思議なほど現実感のない心境で思いながら、ロッカは硝子の杯を満たす葡萄酒を口にする。本当は酒なら麦酒や蜂蜜酒の方が好きなのだけれども、ここにそんな庶民の酒が用意されているはずもない。
ゆえに暇を潰したければ大人しく会場の隅に座って、さしてうまいとも思わない高級酒をちびちび飲んでいるしかないというのが現状だ。食卓を画布代わりに描いた絵画みたいな料理の数々も、粗方食べ尽くしてしまっておなかいっぱいだし。
「ねえ、隊長。隊長は前にもこういう夜会に参加したことありましたよね?」
「ああ。エルキン家の養子になったあと、先代に無理矢理引っ張られて二、三回だけな。黄都守護隊ができる前の話だから、もう十年近く前になるか」
「あのときも隊長の土産話を聞いて、自分には一生縁のない世界だなあと思ってましたけど、まさかこんな形で関わることになるなんて……ファーガス将軍が夜会の招待を受けるたびに嫌そうな顔をしてた理由がようやく分かりましたよ」
「だろ? 俺も家督の継承式が終わったら二度と関わらないつもりだったよ。だから屋敷も全部売っ払って、黄都には極力近寄らないようにしてたわけで」
「でも、さすが副長やコーディは場に馴染んでますよね。こうやって見てみると、副長も半分は貴族の血を引いてるって話、本当だったんだな~って思いますもん」
「まあ、あいつの場合は、貴族の血を引いてなかったとしても顔がいいからな。シグムンド将軍に連れられて社交界に入ってりゃ、どのみち引く手あまただったろうさ。女ってのはいつの時代も、どこの世界でも、まず顔で男を選ぶもんだからな。まったく、本物の男ってのは中身で勝負してなんぼだってのによ」
「いや、それを言ったら副長は顔以外にも、腕ヨシ、器量ヨシ、稼ぎヨシの三拍子揃った超優良物件じゃないですか。仮に顔がダメだったとしても、隊長に勝ち目はありませんって」
「フッ、分かってないな、ロッカ。いくら顔も性格も稼ぎもよくたって、あいつは病的なシスコンだ。あと料理と称して劇物を量産するという致命的な欠点がある」
「ドヤ顔で勝ち誇ってるとこ申し訳ないんですけど、その二点を差し引いても、世の女性は副長と隊長なら迷わず副長を選ぶと思いますよ」
「なんでだよ!? やっぱり顔か!? 顔なのか!?」
「いや、むしろなんで中身だけなら副長に勝てると思ってるのか理解不能です」
同じく隣で壁の花になっているハミルトンの主張をバッサリと切り捨てて、ロッカはなおも葡萄酒に口をつけながら、今も会場の中心にいるアンゼルムの背中を見やった。彼は保守派貴族の毒牙からアンブランテ夫妻を守るという名目で、彼らの傍を片時も離れず、周囲の貴族どもの相手をほとんど一手に引き受けているのだ。
他方、少し前まではそんなアンゼルムと行動を共にしていたはずのコーディは、いつの間にか会場の端の方へ追いやられてしまっている。
というのも、彼の実家は政治的対立を続ける保守派にも革新派にも属さない中立派の重鎮アトウッド翼爵家であり、しかも末子のコーディはこれまで、こういった社交の場にはまったくといっていいほど姿を見せなかったためだ。
おかげで歳の近い令嬢たちはみんなコーディに興味津々で、今や一国の親衛隊もかくやという勢いで彼を取り囲んでいた。
革新派の筆頭たるシグムンド・メイナード──その腹心中の腹心であるアンゼルムとの間には巨大な派閥の壁がそそり立っているものの、実家が中立派のコーディなら付け入る余地は充分にある、と彼女らは思っているらしいのだ。
おかげで黄色い声を上げる令嬢軍団に押し囲まれたコーディは、笑顔こそ浮かべてはいるものの明らかに引け腰で、終始たじたじといった様子だった。
しかし一番可哀想なのは、彼のパートナーとして隣にいるモニカだ。
彼女はコーディの傍を下手に離れるわけにもいかず、一緒になって令嬢軍団の檻に閉じ込められてしまっている。だのに令嬢たちからは存在を無視され、まるで空気か何かのごとく、いないものとして扱われているように見える。
やっぱり助けに行くべきだろうか、とロッカは迷った。
貴族以外は人間と思わぬ保守派の令嬢たちに囲まれて、ただ息を潜めて立っていることしかできないなんていくら何でもつらすぎる。それならどんなに退屈でも、自分たちと一緒に壁の花に徹していた方がまだ幾分かマシなはずだ。
けれどあそこからモニカを連れ出すと、今度はコーディがひとりきりになってしまう。ロッカの知る限り、アンゼルムの補佐官になってからのコーディは入隊直後の彼からは想像もできないほど強く立派に成長したが、血に飢えた雌豹のごとき令嬢軍団の只中に置き去りにするにはまだ少し頼りない。
かと言って唯一彼を救出できそうなアンゼルムは別の貴族に捕まって身動きが取れないようだし、どうしたものか。ロッカは逡巡の末、隣の席で何やらぼうっとしているハミルトンの意見を仰ぐことにした。
「あの、隊長。……隊長?」
「……んあ? 何だ?」
「あれ見て下さいよ、あれ。そろそろコーディもモニカちゃんも限界なんじゃないかと思うんですけど、隊長、何とかしてあげられませんか?」
「いや、何とかって言われてもな……俺は夜会が終わるまでの間、余計なことは一切せずに大人しくしてろとアンゼルムから厳命されてるんだよ。副長命令には逆らえないだろ?」
「だけどほっとくわけにもいかないじゃないですか。ほら、さっきあのペトラとかいう娘にしたみたいに、エセ貴族なノリでナンパしに行けば、みんな気持ち悪がって逃げるんじゃありません?」
「ロッカ。お前、女だからって殴られないと思ったら大間違いだからな?」
「はあ? な、何言ってるんですか。隊長は今まであたしを女扱いしたことなんてないでしょ。気味の悪いこと言わないで下さいよ」
「あのなあ。それはお前が……」
と不服そうに何か言いかけて、されどハミルトンは途中でぐっと口を噤んだ。
が、やがて彼は心底不愉快そうにため息をつくや、マーサー商会の人々がせっかく綺麗に整えてくれた蓬髪をがしがし掻いて、にわかにすっくと席を立つ。
「ったく、分あったよ、あいつらを救出してくりゃいいんだろ? ただしあとでアンゼルムから文句を言われても、お前が俺に頼んだからってことにしろよ」
次いでそう吐き捨てるや、彼はいつもののしのしとした足取りで、コーディたちを取り囲む令嬢軍団の方へと向かっていった。やはり姿形は貴族に似せられても歩き方は軍人丸出しだなと思いながら、ロッカはそんな上官の背中を見送る。
(だけど、隊長……さっき何を言いかけたんだろ?)
まるで今日までロッカを女扱いしてこなかったのには、何か理由があったのだとでも言いたげな口振り。少なくともロッカにはそう感ぜられた。
いや、あるいはそうであってほしいという、遠い昔に心の奥底へ封じ込めたはずの感情が、またありもしない幻想を見せようとしているのだろうか。
(ば……バカバカしい。隊長にとってあたしは妹みたいなもので……だから〝女〟じゃなくて〝家族〟なんだって、この二十年で思い知ったじゃない。なのに今更、ひとりの女として見てほしいなんて……ほんとバカげてる。隊長と一緒にいられるなら、別にどんな形だろうと構わないはずなのに──)
──あの日。
今から二十年ほど前のあの日、ハミルトンに拾われた直後のロッカはまだ生きることに必死だった。とにかく妹を守り養える術を手に入れることしか頭になかったのだ。何より当時、ロッカは何度も男たちに騙され、虐げられ、激しい男性不信に陥っていた。ハミルトンのことも、妹と共に娼館から救い出してくれたことを感謝こそすれ、いずれはやはり自分を裏切り、手を上げたり肉体関係を迫ってくるのではないかとひどく警戒したのを覚えている。
ところがハミルトンはロッカを女ではなくひとりの人間として扱い、ラッカ共々不自由なく暮らせるよう世話を焼いてくれた。初めは当時の上官の命令だから面倒だけど仕方なく、といった様子だったが、それが自分たちに余計な気を遣わせないための、彼なりの心配りだったのだと気づいたのはずいぶんあとのことだ。
何しろロッカはそんなハミルトンの思惑にすっかり乗せられて、自分たちを厄介者扱いする彼の態度に気分を害し、一定の距離を置き続けた。
だからすぐには気づかなかった。娼館上がりの女兵士と聞いて、ロッカを性的な目で見ていた周囲の男どもをハミルトンが遠ざけ、万が一にも襲われるなんてことがないようにと常に目を光らせてくれていたことに。
(……変なの。隊長だって相当女好きなくせに、上下関係を利用してあたしを手籠めにしようとした上官にまで逆らっちゃってさ。ファーガス将軍が取りなしてくれなかったら、隊長はあのエロジジイに殺されて、今頃生きてなかったはず。そこまで体を張ってあたしたちを守る理由なんて、なかったはずなのに……)
思えば当時のハミルトンは、どうしてあんなに自分たち姉妹を気にかけてくれたのだろう。過去にも一度理由を尋ねたことがあったけど、彼はちょっと戯けて、
「当時のお前は手負いの獣みたいな目をしてやがったからな。ほっといたらそのうち誰か殺しちまうんじゃないかと気が気じゃなかったんだよ」
と、どこまで本気なのか分からない答えを返してきただけだった。
だが思えばロッカがハミルトンに心を許し、彼を慕うようになっていったのもあの事件がきっかけだったような気がする。そして気づけば妹と離れ離れになってでも、自分はハミルトンの傍にいたいとまで思うほどになっていた。
まったく我ながらどうかしてるな、と思いながら、ロッカはため息と共に自らの顔を押さえる。慣れない化粧の乗った頬が火照っているように感じるのは、きっと酒だけが原因ではないだろう。今日だって本当は、こんな女っぽい衣装を着せられて死ぬほど恥ずかしいと思う一方で、ハミルトンはどんな反応をするだろうとひそかに期待していた自分がいるのだ。けれど、
(さっきまで隊長がぼーっと見てたのって……)
と、思わず彼の視線を辿って、気づいてしまった。
この会場に着いてからというもの、ハミルトンが気づけば目で追っているのは自分ではない。清楚ながらもきらびやかで美しい衣装に身を包み、今も優しい夫に寄り添われているアンブランテ夫人──つまり、リンシアだ。
(……夫人に声をかけられるとものすごく不機嫌そうにするくせに、なんで? そりゃ確かに夫人はいかにも隊長好みな女性だけど……)
線が細くて儚げで、物腰やわらかく慎ましやかな美女。ロッカとはまるで正反対のそんな女ばかりをハミルトンが好むことはとうの昔から知っている。
そしてリンシアはまさしくその典型のような女性だ。
いや、むしろハミルトンはそうした女性たちに、他でもないリンシアを重ねて抱いていたのではないか、とさえ思えるほどに。
(だって、明らかに隊長はあの人を意識してるし、夫人の反応を見ても絶対に、ふたりの間には何かある……)
そう確信しているのに、なかなか真相を聞き出す勇気が出ない。
おかげでやきもきしている間に、またも尋ねる機を逸してしまった。
こうしている今も本当は気になって気になってたまらないのに。なのにこの予感を本人に肯定されてしまったら立ち直れなくなるような気がして、恐ろしくて──
「はあ……あたし、ほんと何やってんだろ……」
酒精でまぎらわせようとしていたはずの堂々巡りに再び陥ってしまい、ロッカはがっくりと肩を落とした。こんなこと、妹のラッカくらいにしか相談できないというのに、彼女も今は傍にいない。まあ、とはいえラッカには相談したところで、
「はあ? お姉ってばまだそんなことでうじうじ悩んでんの? だからさっさと隊長にほんとのこと言っちゃえば? って言ってるじゃん。ていうかぶっちゃけ、アタシは隊長もとっくにお姉の気持ちには気づいてると思うんだよね。それでも突き放さずに傍に置いてくれてるんだから、隊長だってきっとまんざらでもないんじゃん? もっと自信持ちなって!」
と、いつものごとく無責任に太鼓判を押されるに決まっているのだが。
(まったく……ラッカってば、立派な軍人に育ってくれたのは嬉しいけど、男勝りで男女の機微なんて微塵も分からない子に育っちゃって……これじゃ先が思いやられるわ。今はファーガス将軍が目を配って下さってるからいいものの……)
自分を女と思わぬラッカの振る舞いは、姉としては返す返すも頭が痛い。ラッカはロッカと違って体つきも少年っぽく、おかげでかつての自分のような災難に見舞われる懸念は薄いのが救いだが、しかしやはり女なのだ。男に比べれば力は弱く、戦いの世界ではどうしたって勝ち上がるのにも限界がある。ゆえに性差というものをよく理解させた上で、今後の身の振り方をもう少し考えさせなければ──
「フフフ……ねえ、ご覧になって。何度見ても本当に汚ならしい肌ですこと!」
「本当ね。まるで賤しい農夫のように日に焼けて……同じ女性軍人でも、リリアーナ皇女殿下やオルキデア将軍は今も見目麗しくていらっしゃるのに」
「仕方がありませんわよ。何せ将軍方とは生まれも育ちも違いすぎるんですもの。平民の女性なんてみんなああいうものでしょう?」
「確かに満足な教育も受けられない家庭で生まれ育ったからには、淑女としての気品にも教養にも欠けるのは仕方のないことですけれど……」
「だけどあの方のなんて背のお高いこと! 肩幅も広くて筋肉質で、遠目に見ると男性がドレスを着ているみたいで滑稽ですわ」
「おまけに髪もあんなに短くお切りになって……なんてはしたないのかしら」
「生涯髪を伸ばしたことがないというアルトリスタ将軍でさえあれほどひどくはありませんわよね? 本当にわたくしたちと同じ女性とは思えませんわ」
ところが刹那、不意にどこからともなくそんなヒソヒソ話が聞こえて、ロッカははたと我に返った。ちょうど床に視線を落としていたせいで気づかなかったが、いつの間にかすぐそこに何人かの令嬢たちが集まって、珍獣でも見るような目でロッカを観察しているようだ。が、そうと分かっても──否、分かってしまったからこそ顔を上げられない。令嬢たちの聞こえよがしの嘲笑が、今のロッカにはグサグサと刺さって、刺さりすぎて、どんな顔をして前を向けばいいのか分からない……。
(言われなくても……場違いなのはあたしが一番分かってるわよ)
自分も妹のことを言えないくらい女らしくないことも、無教養でがさつな女だということも。されどロッカは、女を捨てなければ生きてこられなかったのだ。女というだけであらゆるものを奪われて、耐えるしかない人生はもうたくさんだった。
だからロッカは女であることを捨てても許されるこのトラモント黄皇国で、新しい生き方を必死に掴み取った。
それほど弱く、貧しく、誰にも守ってもらえなかった女の苦労など、温室育ちの彼女らには分かるまい。分かってほしいとさえ思わない。けれど、
「おい、ロッカ。そろそろ劇が始まるらしいぞ。俺らも移動しようぜ」
瞬間、今にも持ち手を折ってしまうのではないかと思えるほどきつく、きつく杯を握り締めてうなだれたロッカの頭に、突然聞き慣れた声が降ってきた。
ハミルトン。戻っていたのか。見れば彼の後ろには、例の軍団から無事に助け出されてきたらしいコーディとモニカの姿もある。弱々しい笑みを浮かべたコーディは既に疲労困憊といった様子だが、モニカの方はそんなコーディに「大丈夫?」と声をかけ、気遣う程度には元気そうだ。きっと彼女も自分のように、令嬢たちから心ない言葉を投げかけられてつらい思いをしているだろうと思ったのに……。
(ああ……まあ、モニカちゃんはいかにも女の子らしくてかわいいし……一応医者の娘って肩書きがあるから、あんまりひどくは扱われなかったのかな?)
「おい、ロッカ、何ボサッとしてんだ。まさか立てないほど酔ったのか?」
「い、いえ……すみません。さすがにそこまで酔ってはないと思いますけど──」
「ならさっさと立って、胸を張れ。お前も黄都守護隊の一員だろ」
「は……はい?」
「俺らは『黄帝の父』とまで呼ばれたラオス老に見込まれて、ぜひにと引き抜かれた軍人だぞ。あのジイさんはそのために、俺みたいなどこの馬の骨とも知れない孤児に爵位を与えるなんて骨まで折ったんだ。一国の重鎮にそうまでさせた自分を、お前ももっと誇りに思え」
「え……み、孤児って……ていうか、あたしは別にラオス将軍に引き抜かれたわけじゃなくて、隊長のおまけでついてきただけなんですけど……」
「アホ。戦の鬼だったジイさんが〝長年の付き合いだから〟なんて甘い理由で副官を自由に選ばせてくれるほどぬるいわけないだろ。お前が一緒に異動してこれたのはファーガス将軍がお前を推薦してくれて、ジイさんもそれを偽りなしと認めたからだ。つまりお前も間違いなく『黄帝の父』に見込まれた軍人だってことだよ」
「隊長──」
「お前はただガキを孕むためだけに嫁がされて、社交界とかいう狭くて不自由な世界でしか生きられない女どもとは違う。自分で自分の生き方を決められるだけの強さと自由を、自分の力で手に入れたんだ。おまけに毎日体を張って、祖国でも何でもない国の平和を守ってる。同じことをできる女がこの会場に何人いると思う? 俺はゼロだと思うね。だから、胸を張れ」
ああ、そうか。そういう意味かと納得する一方で、ロッカは思わず呆気に取られてしまった。呆れ顔をして突っ立っているハミルトンの後ろでは、さっきまでロッカを嘲っていたはずの令嬢たちが顔を真っ赤にして震えている。
しかもよくよく見ればその集団の真ん中にはペトラ・ネデリンまでいるではないか。公衆の面前で〝子供を生む以外には大した能力も存在価値もない〟と言われたも同然の彼女は憤怒の表情を隠そうともせず、憎悪の眼差しでハミルトンの背中を睨んでいた。ところがほどなく、彼の隣から笑顔のモニカがひょこっと顔を覗かせて、ロッカがまるで予想だにしていなかった言葉を口走る。
「隊長のおっしゃるとおりですよ、ロッカ副隊長。ナンシー先生もよく言ってました。お貴族様と穏便に付き合うコツは、自分を生物学者だと思い込むことだって。で、目の前に次々現れる新種のおサルさんの研究をしてるつもりになれば、大抵のことは〝面白い生態だな〟って思えて、逆に楽しくなってくるそうですよ」
「……え? モニカちゃん? モニカちゃんってそういうキャラだったっけ?」
「いえ、今のはわたしが黄都守護隊に入りたての頃、セドリック隊長とどうお付き合いすればいいのか悩んでたときに、先生が教えて下さったことで……」
「先生ってセドリック隊長のことそんな風に思ってたの!? 幼馴染みじゃないの!? ていうかモニカちゃんもそういう目であの人を見てたの!?」
「もちろん今は違いますよ! セドリック隊長もああ見えて悪い人じゃないし、話してみると意外に怖くないってことが分かりましたから」
「〝今は〟ってことは、最初はそう思ってたんだな……」
さすがのハミルトンもモニカのこの爆弾発言は予想外だったらしく、心なしか蒼白な顔色で彼女を見やっていた。他方モニカは相変わらずにこにこと楽しそうにしていて、傍目にはまったく悪びれていないように見える。さすがはかのナンシー・プレスティの薫陶を受けた優秀な医務官だ。普段はナンシーの方がアクが強すぎて隠れているだけで、モニカも可憐な見た目からは想像もできないほどしたたかな精神の持ち主なのだなと、ロッカは一抹の畏怖の念と共に記憶へ刻みつけた。
「ま、まあ、とにかく、そろそろ僕たちも移動しましょう。アンゼルム様もちょうど会談が終わったところのようですし……」
「だな。おら、分かったら行くぞ、ロッカ。うだうだしてると、お前までモニカに新種のサル認定されるからな」
「そ、そんなことしませんよ! さっきのはあくまで受け売りのたとえ話で……」
と、そこで初めて顔を赤らめ、憤慨し始めたモニカの様子に笑いながら、ロッカは肩からずり落ちかけていた金のショールを引っ張り上げた。
そうして立ち上がろうとしたところで、ん、と気のない声と共に差し出されたハミルトンの大きな手に、思わずドキリとしてしまう。普段はいちいち手を貸したりはしないくせに──と動揺しかけて、いや、そうだ、今日の彼は黄都守護隊のハミルトンではなくエルキン華爵なのだと思い直した。ゆえに女の自分をエスコートするのは当然なのだ。それがトラモント紳士流の、最低限のマナーなのだから。
(さっきはああ言ったけど……もしも世界に男がふたりしかいなくなって、異性として副長か隊長かどちらか選べと言われたら──あたしはやっぱり、この人を選んじゃうんだよなぁ……)
という自分ののぼせ具合にこっそり苦笑しながら、ロッカはそっとハミルトンの手を取った。その手を引き上げてくれた彼の力強さは、二十年前のあの日のまま。
娼館の男たちによる嵐のような暴行からロッカを救い出し、手を引いて歩いてくれた当時から、ハミルトンは何も変わっていない。
女癖が悪くて物臭で、だらしがなくて無神経な男だけれど。
それでもやっぱり、ロッカはハミルトンのことが好きなのだ。
兄として、上官として──ひとりの異性として。




