144.リンシアの探し人 ☆
三年前、エリクがラムルバハル砂漠を横断する際世話になった隊商の代表者シュレグは、実を言うとトラモント黄皇国内でも指折りの豪商である。彼が会長を務めるアンブランテ交易商会は、地域を黄皇国北部に絞って言えば一、二を争うほどの規模を持つ一大組織で、特にトラジェディア地方では名を知らぬ者はない。
何しろ地形や気候の影響で民が貧しく、商業も停滞しがちなかの地において、物流の大半を担っているのがアンブランテ交易商会と言っても過言ではないほどなのだ。商会はシュレグの数代前から西のルエダ・デラ・ラソ列侯国と東のソルレカランテとをつなぐ長大な販路を形成しており、その通り道であるトラジェディア地方にも莫大な富を落としてきた。
そんな商会の責任者でありながら、今も現役の商人として自らの足で稼ぎ続けるシュレグにはふたりの息子がいる。うち次男のセリオはソルレカランテにある支店の経営を任されており、普段は黄都の北区──富裕層や中流階級の人間が多く住まう区画だ──にある邸宅で暮らしているそうだった。
「ですが妻のリンシアは、ご覧のとおり目が不自由でしてね。加えて体も強い方ではないので、夏はこうしてクッカーニャへ静養に来るのですよ。目の見えない妻は波を怖がって、あまり海には入りたがらないのですが、最新の医学書によれば海風を浴びるだけでも健康によいそうなので……しかしまさか毎年足を運んでいるこの町で、あのような目に遭うとは思ってもみませんでした」
とセリオが事情を聞かせてくれたのは、エリクがペトラ・ネデリンを追い払い、夫妻を別荘へ招いたときのことだ。
モニカの診察によれば、リンシアは車椅子ごと倒れた際に左手を拈ってしまったらしく、きちんと処置しないと悪化する可能性があるとのことだった。そこでエリクはモニカの荷物──ナンシーが持たせてくれた最低限の医療品が一式詰まっている──のある別荘へふたりを連れていき、リンシアの手当てをさせたのだ。
というのも切り傷のような外傷ならばコーディの神術ですぐに癒やせるのだが、骨折や捻挫といった体の内側の傷は水系神術では治せない。
まったく効果がないわけではないものの、そういった内部の損傷を治療するには相応の知識と技量が必要なのだ。ゆえにエリクは医務官であるモニカに治療を任せた方が、より確実で迅速であると判断した。
が、そうして妻が手当てを受けている間、夫のセリオは手持ち無沙汰だろうと思い、別荘の借り主であるエリクがしばしの話し相手を務めたというわけだ。
「確かに近頃は、血統主義者の多い保守派貴族が政治の中枢にいる影響で、階級間の分断が加速していると聞きますからね……特に先日のペトラ・ネデリン嬢は、保守派の急先鋒であるネデリン将軍のご息女です。とすれば身分や伝統を重んじる父君の思想にすっかり染まっていたとしても、何ら不思議はないでしょう」
「まったく生きづらい世の中になりました。ここ数年、父がよく〝黄皇国を見限って列侯国へ拠点を移そうか〟なんて愚痴を零すようになった理由が改めて身に染みましたよ。あんなに若いご令嬢までもが古い時代の思想に囚われて、新しいものを生み出す努力を放棄しておられるようでは国に未来などありません。……と、仮にも国仕えをしていらっしゃる方の前で口にすべき言葉ではありませんでしたね。失礼致しました」
「いえ、私も概ね同意見ですからお気になさらず。むしろ市民の間にも我々と同じ考えの方がいるのだと知れて安心しました。近頃革新派はどこへ行っても歓迎されないことが多いですから……」
と、今日も今日とて潮風を浴びに海岸へやってきたエリクは、砂浜に椅子を並べて腰かけたセリオに苦笑を投げた。
クッカーニャへやってきてから七日目の昼、すっかり意気投合したセリオに誘われて、アンブランテ夫妻と昼食を共にした帰り道でのことである。セリオの妻であるリンシアの怪我は、モニカの手当てと数日間の安静でもうすっかりよくなったようだった。今日はその治療の礼ということで、彼らに食事を馳走になったのだ。
クッカーニャでも有数の高級料理店に連れていかれたモニカなどは、終始緊張しきりといった様子だったが、粗相もなく無事に食事を終えられてようやく肩の力が抜けたようだった。おかげでいつもの調子を取り戻した彼女は現在、怪我が快癒したリンシアの手を引いて、波打ち際での海水浴を楽しんでいる。
リンシアは相変わらず海を怖がっていたものの、モニカが「大丈夫です、いざとなればうちには泳ぎの達人がいますから!」とサユキを巻き込み、安心させた上で体にいいからと誘ったようだった。おかげでリンシアも少しずつ海に慣れてきたらしく、浅瀬で海水に浸かっているだけではあるものの、楽しそうに笑っている。
傍にはコーディやサユキの他、アンブランテ家の使用人もついているから、多少波を被る程度なら大丈夫だろう。
ちなみに夫妻がペトラに絡まれたあの日の騒動は、セリオが使用人たちにも休暇を与えて、夫婦水入らずで日光浴に来ていたときに起こったものだったらしい。
ペトラが現れたときセリオが不在だったのも、ちょうど切らしてしまった飲み物を買いに行っていた間のことだったそうで、もしかすると彼女たちは最初からリンシアがひとりきりになる瞬間を狙っていたのかもしれない、とエリクは思った。
「ですがこうしてアンゼルム殿とお知り合いになれたのは本当に僥倖でした。おかげさまでここ数日は嫌がらせなどの被害もなく、妻も外出のたびに怯えずに済んでいるようです」
「いえ、それは私ではなく、私の部下のおかげですよ。コーディの実家であるアトウッド家は彼や彼の家族を含め、優秀な軍人を何代にも渡って輩出してきた功臣の家系ですから、貴族たちが一目置くのも当然です」
「ですがアンゼルム殿のご勇名もなかなかのものでしょう。現にコーディ君がお傍を離れている今も、周囲からの視線が痛いくらいですし」
「ああ、いえ、あれは……恐らくは勇名云々というよりも、ほとんどが私の不義理に対する抗議の眼差しではないかと……」
「不義理、ですか?」
「はい……というのも夏場はクッカーニャにおける社交期でしょう? そこへ黄都守護隊の副長が現れたという噂が、例の騒動で一気に広まってしまいまして……おかげで借りている別荘にもひっきりなしに訪問客や夜会の招待状が来るのですが、体調を理由にすべてお断りしているものですから」
「ああ、なるほど……そうなると名が売れすぎるというのも考えものですね……」
「ええ、まったく……もとはと言えば迂闊な真似をした私が悪いのですが、しかしせっかく静養に来たというのにこれでは気が休まりませんよ。まあ、今日はセリオ殿がうまい酒と食事をご馳走して下さったおかげでいくらか気がまぎれましたが」
「ははは、それはよかった。ではまた後日、頃合いを見てお食事にお誘いしましょう。その頃には父も西から戻っていればよいのですがね……」
と、波間で笑う妻の姿をまぶしげに見やったセリオがほんの少し眉根を曇らせながら言うのを聞いて、エリクも同じことを願った。というのも先日、せっかくシュレグの子息と知り合ったのだからと、エリクは思い切って彼にも妹のことを打ち明け、シュレグはいつ頃黄皇国へ戻るのかと尋ねてみたのだ。
ところがセリオ曰く、シュレグの帰国がいつになるのかは彼にも分からないらしい。シュレグは近頃、黄皇国よりも列侯国での商いに力を入れていて、年々かの地に留まる期間が延びているからというのが理由だった。
おかげで息子のセリオでさえも「早ければ秋頃には戻る」としか聞かされていないらしく、父の不在中はボルゴ・ディ・バルカの本店を仕切る兄とふたりで何とか商会を回している状態なのだそうだ。とすれば、シュレグの帰国は少なくとも二、三ヶ月ほど先になると思われ、エリクは内心肩を落とした。
(まあ、シュレグ殿は三年前の時点で、黄皇国の現状にかなり不満を募らせている様子だったからな……何より列侯国もここ数年で、ようやく先の内乱の痛手から立ち直ってきたと聞く。各領の統治体制も様変わりして、北のアマゾーヌ女帝国や東のトラモント黄皇国に対抗できる力をつけようとしているとかいないとか……とすれば何かと入り用なのを嗅ぎつけた商人たちが、列侯国での商いに注力するのも当然だ)
──そうだ。ルエダ・デラ・ラソ列侯国は、エリクがかの地で暮らしていた当時から貧しく、弱い国だった。というのも七人の侯主が絶えず互いの足を引っ張り合い、内紛ばかり起こしていたから、国家としての発展が滞りがちだったのだ。
だが今では、列侯国が周辺諸国に大きく遅れを取っているのは、二十年前に父たちが起こした内乱が元凶であるかのごとく語られている。歴史的な大飢饉を経験し、死に体だったかの国にとどめを刺したのがあの内乱であったのだと。
されど当時の事情を知るエリクに言わせれば、列侯国は飢饉が起きる前から死にかけていた。だから自力で民を救済する力もなく、そうした事態を重く見た父たちが、国の在り方そのものを変えるために立ち上がったのだ。だのに──
『大方トゥルエノ橙爵が統一国家の王となれば、それを助けた功績で自分も成り上がれるとでも思ったのだろう。いかにも売女の息子らしい、浅ましい考えだ』
この十数年、ずっと忘れようと努力してきた記憶がエリクを嘲笑う。あの日の騎士団長の言葉が、母の悲鳴が、父をなじる群衆の怒号が渦を巻いて押し寄せる。
ひと月前、当時の光景を夢に見るまでは忘れられたと思っていたのに。
息が詰まるほど胸を灼く怒りも、憎しみも、焦燥も悲しみも無力感も何もかも。
(……ダメだ。考えるな)
大きな傘の形をした日除けの下でエリクは目を閉じ、そう念じた。
あの日のことを思い出すだけで肺が軋み、心臓が不穏な音を立てる。ゆえに意識して思考の外へ追い出さなければ、また幻痛症の発作を起こしてしまう……。
(くそ……体が弱っているせいで心まで弱ってるのか? 一日も早く病を治して、シグムンド様のところへ帰らないといけないのに──)
「──アンゼルム様」
ところが刹那、不意に至近距離から聞こえた呼び声で我に返った。
エリクの名を呼んだのは、透明で涼やかな女性の声だ。驚いて目を開ければいつの間にかすぐそこに、モニカに手を取られてやってきたリンシアの姿があって、見えていないはずの両の眼でエリクをじっと見下ろしていた。
かと思えばこちらが何か声を発するよりも早く、リンシアの手が伸びてくる。
長い時間海水に浸かっていた白い指先が、ひやりとエリクの頬に触れた。
「り……リンシア、どうしたんだ?」
「いえ……何だかアンゼルム様が泣いていらっしゃるような気がして」
「わ、私が……ですか?」
「ええ。わたくし、目は見えませんけれど、見えないなりに人様のお気持ちや表情を感じ取れるよう、昔から訓練してきたのです。だけど今回は気のせいだったかしら……差し出がましい真似をして申し訳ありません」
「い、いえ……お気遣い下さり、どうもありがとうございます。そのお気持ちだけでも嬉しいです……が、あまりご主人を妬かせてはいけませんよ。リンシア殿はただでさえお綺麗で、周囲の注目を集めていらっしゃるのですから」
「まあ、お上手ですこと。ですがご心配には及びませんわ。わたくしのように病弱で盲いた女を愛して下さる殿方なんて、いくらエマニュエル広しと言えど、今はもう主人だけですもの」
「寂しいことを言うものではないよ、リンシア。まあ、確かに世界中どこを探しても、私以上に君を愛せる男などいるわけがないと自負してはいるけれどね」
「セリオ……」
「……おい。私たちは今、何を見せられてるんだ?」
「こ、こういうときは黙って空気を読むんですよ、サユキさん! というか前々から思っていましたが、サユキさんは男女の機微というものに疎すぎます……!」
「そんなもの、別に疎くたって死にはしない」
「どうしてサユキさんは生きるか死ぬかでしか物事を判断できないんですか!? せめてもう少し寛容さというか、多角的なものの見方というものを──」
「──よお、アンゼルム、探したぜコノヤロー!」
而してすっかりふたりの世界に浸っているアンブランテ夫妻と、いつもの不毛な口論を始めたコーディ、サユキに挟まれたエリクが内心「これはどういう状況なんだ?」と天に説明を求めたときだった。
今度は俄然、背後から男の呼ぶ声がして、思い切り背中を叩かれる。
おかげで危うく悲鳴を上げるところだった。あまりの痛みと驚きに硬直すれば、エリクよりも一瞬早く声の主を見やったモニカがみるみる目を丸くする。
「ああっ!? は、ハミルトン隊長!? それにロッカ副隊長も!」
次いで彼女の口から飛び出したのは、エリクにも馴染みのある──されどここにいるはずのないふたりの名前だった。まさかと思いながら振り向けば、なんとそこには本当に見慣れた男女の姿がある。すなわち、黄都守護隊第三部隊長のハミルトン・エルキンと、彼の副官であるロッカ・アレグリアの姿が。
「な……は、ハミルトン殿!? おまけにロッカ殿まで、どうしてここに……!?」
「あははっ、どうしてって天領警邏ですよ、天領警邏! あたしたち、副長がスッドスクード城を発つより先に警邏任務に出たでしょう? で、今回は西からぐるっとジョイア地方を回ってクッカーニャまで来たんですよ」
「ま、この町も立派な天領の一部だからな。周辺を警戒するついでに、のんびりバカンス中の副長を冷やかしに来たってわけさ。で、どーだよ、楽しめてるか?」
「え、ええ、おかげさまで……ですがまさかこんなところでおふたりに会えるとは思ってもみませんでしたよ。第三部隊の将兵は? 町の外ですか?」
「ああ。部下どもには今、町の近くで野営の準備をさせてる。真夏のクソ暑い中での警邏任務だからな。俺らも二、三日ここで休憩を取ってから次の警邏先へ向かおうって話になって──」
「──ラウノ……?」
そのとき突然、ハミルトンの話を遮って、ぽつんと虚空に浮いた声があった。
今のは恐らくリンシアの声だ。そう気づいたエリクは何事かと彼女を振り返る。
すると曇った硝子玉のようにも見える霞色のリンシアの瞳が、何かを探して揺らめいていた。かと思えば彼女はもう一度声を震わせて、誰かの名前を口にする。
「ラウノ……もしかして、ラウノなの?」
「ど、どうしたんだ、リンシア? というか〝ラウノ〟って……?」
ここにいない誰かの名前を連呼し始めた妻の様子に、困惑顔をしたセリオが立ち上がった。そうしてリンシアを宥めようと肩を掴むも、彼女はそんな夫の制止を振り切るようになおも名を呼び、手を伸ばす。
「ねえ、ラウノ、ラウノなのでしょう? もしそうなら返事をして……!」
尋常ならざるリンシアの剣幕に、エリクもこれは何かあると察した。
ゆえにふと彼女が手を伸ばした先へ視線を向ける。
そして思わず目を見張った。何故ならそこには血相を変えたハミルトンがいて、リンシアを凝視しながら愕然と立ち竦んでいたからだ。
「は……ハミルトン隊長? どうかされましたか?」
「……え、あ、ああ、いや……悪い。実はちょっと急用を思い出した」
「急用?」
「お、おう。というわけで俺は一旦隊のところに戻るから、ロッカ、お前はアンゼルムと一緒にいろ。すぐに戻る」
「えっ? い、いや、隊に用があるならあたしも一緒に行きますけど──って、隊長!? ちょ、ちょっと待って下さいよ、隊長!」
呼び止めるロッカの声も聞かず、ハミルトンはただちに踵を返すや逃げるように立ち去った。が、去り際に見えたハミルトンの横顔は心なしか青ざめて、夏の暑さだけが原因とは思えないほど汗だくだったように思う。あれはどう見ても急用を思い出しただけではなさそうだ。そう感じたエリクは戸惑いつつリンシアを顧みた。
「り、リンシア殿、あなたが先程から呼んでいらっしゃる〝ラウノ〟というのは? 今、この場には〝ラウノ〟という名前の者はいませんよ」
「そんな……そんなはずはありません。今の声は間違いなくラウノの……わたくしが彼の声を忘れるはずがないわ。だって、ずっと探していた──」
そう答えるが早いか、リンシアはにわかに顔を覆ってわあっと泣き出してしまった。そのまま崩れ落ちるように膝をついた彼女を、モニカが慌てて支えている。
が、エリクたちにはやはり何が何だかさっぱりだ。
よってロッカも含めた数人で顔を見合わせ、思わず銘々首を傾げた。
「あ、あの、アンゼルム様。リンシアさんが先程からおっしゃっているのは……」
「ああ。恐らくハミルトン殿のことだと思うが……ロッカ殿、ラウノという名前に聞き覚えは?」
「い、いえ、あたしも初めて聞く名前ですけど……ていうか彼女、どこのどなたです?」
「彼女はリンシア・アンブランテ、あちらにいるセリオ殿の奥方です。おふたりはボルゴ・ディ・バルカに拠点を置くアンブランテ交易商会の関係者で……」
「……ボルゴ・ディ・バルカ? ってことはもしかして彼女、北の出身ですか?」
「妻はトラジェディア地方西部にあるヴィーテという町の出身です。私と結婚するまでは、あの町で暮らしていました」
「ヴィーテの町……!? じゃあ、やっぱり──」
エリクたちの会話が聞こえていたらしいセリオが答えると、ロッカがたちまち顔色を変えた。彼女はちょっと困ったように視線を泳がせるや、ほどなくエリクの袖を引き、こっそりと耳打ちしてくる。
「え、えっと、副長……副長はうちの隊長が、エルキン家の名前を使ってずっとある場所に寄付金を送り続けてるのってご存知です?」
「え? い、いえ、まったくの初耳ですが……〝ある場所〟というのは?」
「そ、それがですね、なんとヴィーテの町にある孤児院なんですよ。もしかしてあの奥さん、そこの関係者だったりしませんかね?」




