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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第5章 あの朝を抱き締めて
145/175

143.ひと夏の思い出に ☆


     挿絵(By みてみん)





「わあ~っ! アンゼルムさん、見て下さい! 海ですよ、海!」


 と、ひと際弾んだ声を上げるか早いか、浜辺に向かって駆け出したモニカを追って、エリクも一歩やわらかな砂を踏み締めた。今日も燦々(さんさん)と夏の太陽が照りつけるクッカーニャでは、波打ち際にたくさんの海水浴客が集い、浜辺を賑わせている。


 シグムンドから一ヶ月の休養を命じられ、スッドスクード城を発ってから十日目の朝。休暇中の供として連れてきたコーディ、サユキ、そして医務室長(ナンシー)の助手であるモニカと共に海辺へ繰り出したエリクは、想像以上の人出に驚きながらもきらめく大洋のまぶしさに目を細めた。一行がジョイア地方最大の保養地であるクッカーニャに到着したのは昨日の昼過ぎのことだ。


 黄皇国(おうこうこく)中央第四軍の統帥(とうすい)であるファーガスの実家、マーサー商会は他でもないこの町に本拠を置く組織で、エリクらが一等地に佇む事務所を訪ねると、ファーガスの義兄だという商会長が自ら出迎えてくれた。何でもファーガスの父が商会長だったのは四年前までのことで、高齢を理由に商会長の座を退いた今は、悠々自適の隠居生活を満喫しているらしい。彼の跡目は本来なら嫡男(ちゃくなん)であるファーガスが継ぐはずだったのだが、軍人になると言って家を飛び出してしまった弟に代わって、姉が商会の跡継ぎとなる婿養子を取ったのだという。


 その商会長がエリクらに用意してくれたのは、クッカーニャの町を一望できる高台に建てられた庭つきの小屋敷だ。泰平洋(たいへいよう)に向かって()()した絶壁の上の平地には、貴族の別荘が建ち並ぶ〝小貴族街〟とでも呼ぶべき景観が広がっており、マーサー商会の所有する貸別荘もそこにあった。もとはどこかの下級貴族が建てたものだったそうだが、数年前に競売にかけられ、それを商会が買い取ったらしい。


 クッカーニャの別荘街はかつては生粋の貴族ばかりが出入りする土地だったものの、近年は中流階級の富裕層も貴族を真似て納涼に来ることが増えているようだ。

 おかげでそういった客層に別荘を貸し出す事業が好調なのだと、ファーガスとは似ても似つかぬ小柄な商会長は、業績の安定を物語る腹を揺らして笑っていた。


「ふふ……そういえばモニカさんは海を見るのは初めてなんですよね。僕も初めてクッカーニャに来たときは、波の音や風のにおいに驚いた記憶があります」

「はっ……! そ、そっか、コーディくんはお貴族さまだから、クッカーニャにも来たことあるよね。わ、わたしは海からずぅっと遠い内陸で暮らしてたから……アンゼルムさんやサユキちゃんは海、来たことありますか?」

「ああ。俺は小さい頃に、ルエダ・デラ・ラソ列侯国(れっこうこく)で中央海沿岸の町に行ったことがあるきりだが……サユキはそもそも倭王国(わおうこく)から海を渡ってきてるしな」

「ああ。第一、四方を海に囲まれた島国では、海を知らない方が珍しい」

「そ、そ、そうなんだ……じゃあ、はしゃいでるのってもしかしなくてもわたしだけ……? だ、だとしたら恥ずかしい……」


 と、白い砂浜の真ん中で耳まで赤くしたモニカは、麦わら帽子の大きな(つば)をぐいと引き下げて赤面を隠した。そんな彼女がここにいるのは黄都守護隊(こうとしゅごたい)所属の医務官として、ナンシーから療養中のエリクの看護と経過観察を命じられたためだ。

 すなわちこの休暇が当初の予定どおり、ひと月で終わるかどうかはモニカの診察にかかっている。もしも彼女がエリクの病状を見て〝もうしばらくの静養が必要〟と判断した場合には、スッドスクード城へ帰れる日がさらに遠のくというわけだ。


 ゆえに休暇中は何があろうとも、決してモニカの機嫌だけは損ねてはならない。

 エリクは己にそう厳命し、城を出た直後からモニカの一挙手一投足には細やかに気を配っていた。昨日は一日、慣れない馬の旅で疲労困憊していたモニカを休ませるために別荘で過ごし、今朝ようやく元気を取り戻した彼女が「海を見てみたい」と言えば、こうして颯爽と浜辺へエスコートするという具合だ。


 無論、いくらモニカの機嫌を取ったとて、自身の体調がよくならなければ努力は水泡に帰すわけだから、療養という本来の目的も忘れてはいない。

 が、エリクも発作さえ起きなければ健常者と同じように過ごせるわけで、有り余る時間を何もせず無為に消費するのはかえって落ち着かないのだった。


「あははっ、大丈夫ですよ、モニカさん。モニカさんもこの機に目一杯羽を伸ばしてくるようにって、ナンシー先生もおっしゃっていたじゃありませんか。アンゼルム様ほどではないにせよ、モニカさんも黄都守護隊に配属になってからは、ずっと働き詰めだったからと……」

「う、うぅん……でも、わたしが今回コーディくんたちと一緒に来たのも一応お仕事だし……はしゃぎすぎてナンシー先生の代理で来てるってことを忘れないようにしないと……」

「相変わらず真面目だな、モニカは。こんなときくらい羽目をはずして、仕事のことなんか綺麗さっぱり忘れたっていいんだぞ?」

「ダメですよっ! そんなこと言って、アンゼルムさんは早くスッドスクード城に帰りたいだけでしょう? だけどわたしも医者の娘ですから、お父さんの名に懸けて、患者さんの管理を怠ったりはしません!」


 直前までの恥じらいはどこへやら、涼しげな貫頭衣(かんとうい)の腰に手を当てたモニカは、今度はびしりと胸を張ってエリクの誘惑を()()けた。これはクッカーニャを目指す道中で聞いた話だが、何でもモニカはイーラ地方の小さな町で町医者をしていた父親のもとに生まれ、幼い頃から自然と医術に触れて育ったらしい。


 ところがその父が先年、近隣の村を巡って往診しているさなかに魔物に襲われ、命を落とした。大黒柱を失った家に残されたのはひとり娘のモニカと彼女の母、そして足の悪い祖母だけだった。高齢の祖母はほとんど寝たきりで、母の介助なしでは生活もままならないため、ふたりを養うにはモニカが働くしかない。

 よってモニカは黄都へ出稼ぎに行くことを決意し、そこで偶然出会ったナンシーに医術の腕と知識を買われて現在に至るのだそうだ。


 そんな生い立ちのためか彼女は非常に生真面目で、常に患者のことを一番に考えている。最後の瞬間まで、ひとりでも多くの傷病者を救うべく働いていた父の生き様は、娘のモニカにもしっかりと受け継がれたようだ。加えて彼女は年が近く、一時期医務室通いが続いていたコーディとは特に親しい。ゆえにナンシーもそうしたモニカの人柄と来歴を見込んで、エリクの休暇の供にと選んでくれたのだろう。


「……しかし妙な光景だな。トラモント人は服を着たまま海に入るのか。おまけに全員突っ立っているだけで、誰ひとり泳いでいる者がいない」

「え? 俺はむしろトラモント人が好んで海に入ろうとすることに驚いてるが……列侯国ではわざわざ海に入るために遠方から来る客なんていなかったからな」

「そうなんですか? わたしは実際に見るのは初めてですけど、海水浴には病気の治療や体力の回復を助ける効果があるって聞きました。海とは神々の碧血(へきけつ)を薄めたものですから、健康な人も海水に浸かれば病魔が遠のくって……だから黄皇国では避暑も兼ねて、夏は海水浴に来る人が多いんですよ」

「……なるほど。つまりトラモント人は湯治感覚で海に入っているということか」

「トウジ、ですか?」

「倭王国は火山の多い国だからな。国中あちこちに出湯(いでゆ)があって、その湯に浸かると様々な効能を得られる。そうして病や傷を癒やすことを湯治というんだ」

「へえ……! でも、じゃあ、倭王国の人は海には入らないの?」

「いや。〝潮浴(しおあ)み〟と言って、海に入る習慣はある。トラモント人のように着物を来たまま海水に浸かったりはしないが……」

「えっ……じ、じ、じゃあもしかして倭王国では皆さん、裸で海水浴をされるんですか……!?」

「腰巻きくらいは身につけるが……まあ、ほとんど裸と言って差し支えないな。でないと泳ぎにくいだろう」

「そ、そもそも海水浴って、泳ぐためのものじゃありませんよ!? あくまで海水で体を洗う、くらいの感覚ですから……」

「……なら、まさかお前、カナヅチなのか?」

「か、カナヅチ?」

「水中を泳げない者のことだ」

「と、トラモント人の大半は泳げないのが普通だと思うけど……水辺で暮らしてる人以外は、そもそも水に入ること自体滅多にないし」

「……呆れた。どうりで軟弱そうな連中が多いわけだ。倭王国では(シノビ)でなくとも、大抵の者は子供のうちから泳ぎを習うというのに……そんなことでは到底、津波や洪水は生き残れないぞ」

「ど、どうして話が災害に遭うこと前提なんですか?」

「いや、サユキの言うことにも一理ある。俺の故郷のルミジャフタでも泳ぎを習うのは必須だったよ。グアテマヤン半島は雨が多くて、よく川が氾濫(はんらん)するから……あとうっかり川や池に落ちたとき、急いで岸まで逃げないと(わに)や蛇の餌食になるし」

「か、過酷すぎます! 倭王国も太陽の村も、人が生きるには過酷すぎますよ!?」


 日光を遮るものなど何もない炎天の下だというのに、エリクやサユキの話を聞いて青ざめたコーディは全身に粟を立てていた。エリクにしてみればトラモント人の大半はまず泳げないという事実の方が驚きなのだが、しかし言われてみれば列侯国にも水に入って泳ぐという習慣はなかった気がする。


 現にエリクが泳ぎを習ったのも、家族でルミジャフタへ移住したあとのことだ。

 列侯国では夏の暑さを(しの)ぐために水辺で涼むことはあっても、わざわざ溺れる危険を冒してまで水に浸かることはなかった。それには黄皇国や列侯国が、水害とはあまり縁のない土地であることも関係しているのだろう。


(だが、そういえば……昔、列侯国にいた頃に母さんが夏の酷暑で体調を崩して、エスペロ湖へ涼みに行ったことがあったような……ルミジャフタ出身の父さんは当然泳げたから、俺にも泳ぎを教えてやると言って……だけど泳げない母さんは水をひどく怖がって、必死に父さんを止めてたっけ。結局母さんはルミジャフタへ移住してからも、水には絶対入らなかったもんな)


 ところが刹那、コーディたちとの会話がなつかしい記憶を運んできて、エリクは思わず水平線の彼方へ目を向けた。きらきらと瞬く海原を眺めていると、ひとつひとつの光の中で、あの日のまぶしい思い出がさざめくような気さえする。

 されど次の瞬間、ひと際大きな波音がある群衆の叫びを呼び覚ました。

 (とどろ)くような怒声。悲泣。罵声に野次。ひと月前、スッドスクード城で病が見せた悪夢(ゆめ)の光景が、エリクの視界いっぱいに広がっていたきらめきを塗り潰す──


「アンゼルムさん?」


 一瞬、意識を誰かに持ち去られたような気がした。

 しかし呼び声ではっと我に返ってみれば、エリクより四(アレー)(二十センチ)ほども背の低いモニカが、帽子の下から覗き込むようにこちらを見上げている。


「アンゼルムさん、大丈夫ですか? 何だか顔色が……」

「あ……ああ、いや……すまない、大丈夫だ。この陽射しのせいか、少し眩暈(めまい)がしただけで──」

「──きゃあっ!?」


 そのとき突然、取り繕おうとしたエリクの言葉を遮って、どこからか女性の悲鳴が聞こえた。かと思えばガシャン、と何か大きなものが倒れる音もして、驚いたエリクたちは何事かと振り返る。


「ああら、ごめんあそばせ。ちょうど日傘の陰に隠れて見えませんでしたわ。まさかこんなところにみすぼらしい病人がいるとは夢にも思わなくって……お怪我はありませんこと?」


 次いで聞こえてきたのは直前の悲鳴とはまた別の、若く甲高い女の声。見ればエリクらの背後、一(アナフ)(五メートル)ほど離れた場所に、砂にまみれて倒れた女性とそれを見下ろす三人の少女がいた。後者は銘々いかにも高級そうな造りの日傘をさしているところを見るに、消夏にやってきたどこかの貴族の令嬢のようだ。


 他方、倒れ込んだ女性の方は妙齢で、砂地に立てた日除けの下で涼んでいたところを令嬢たちにぶつかられたか何かしたようだった。しかも彼女の傍らでは、両脇に車輪のついた風変わりな椅子も一緒に倒れている。エリクも以前黄都で見かけたことがあるのだが、何でもあれは〝車椅子〟と呼ばれる可動式の椅子らしい。

 名前のとおり、椅子に座ったまま車のごとく移動できる代物で、体が弱ったり不自由だったりする者が足の代わりに利用する道具だと聞いた。


 と言っても一般に普及しているものではなく、例によって貴族や富裕層でなければなかなか手に入れられない珍しい品なのだそうだ。ということは倒れた女性もまた相応の身分であることが(うかが)えるが、車椅子ごと地に伏しているところを見るとエリクと同じ、避暑を兼ねて療養にやってきた病人か怪我人なのだろう。

 そんな彼女を見下ろしてくすくす笑う令嬢たちは、この暑さだというのに身なりを派手派手しく着飾り、意地悪く歪んだ口もとを広げた扇で隠して言った。


「あら、いけませんわ、ペトラ嬢。病気の平民と口をきいたりしたら、ペトラ嬢にまで病が伝染ってしまいましてよ」

「まあ、大変! 確かにペトラ嬢はお見かけどおりか弱くていらっしゃるから……まったく、近頃は成り上がりの平民風情が貴族(わたくしたち)の真似ごとばかりしたがって、本当に迷惑ですわ。おかげでペトラ嬢まで病に(かか)ってしまわれたら、一体どうなさるおつもりかしら」

「──リンシア!」


 ところが刹那、不意に令嬢たちの悪態を遮って、倒れた女性のもとへ駆け寄った人影があった。慌てて彼女を助け起こしたのは、中流階級風の身なりをした若い男だ。車椅子の女性は名をリンシアというようで、男が手を差し伸べるや、その手に(すが)るようにしてようよう体を起こした。

 肌は白く、流れるような金髪もかなり色素が薄いのか、日の下だとほとんど白髪のように見える。まるで病弱という言葉が人の形を取ったかのごとく細い肢体は、今にも夏の陽射しに溶けてすうっと消えてしまいそうだった。


「リンシア、大丈夫か? どこか怪我は?」

「だ……大丈夫よ、セリオ。砂浜がやわらかかったおかげで、幸い体はどこも──いたっ……」

「や、やっぱりどこか痛めたのか……!?」

「あら、いやだ。さっきまでは痛いとも苦しいともおっしゃらなかったのに、殿方が駆けつけるなり痛がり始めるだなんて……」

「あ、あなた方は、妻に何をしたんですか!? 彼女は生まれつき目が見えないんです! だから自分の身に何が起きたのか、すぐには理解できなかったんですよ!」

「まあ、そうでしたの。そうとは知らず失礼致しましたわ。ですが盲目の奥方をひとり置き去りにして席をはずしてしまわれるだなんて、平民男性はエスコートの仕方もご存知ないのかしら。だいたい病気のご婦人を連れて歩かれるなら、せめて侍女くらい同伴させるのが常識ではなくて?」

「うふふ……まったくペトラ嬢のおっしゃるとおりですわ。それとも身分不相応な別荘を借りるだけで精一杯で、使用人を雇うお金もないのかしら?」

「……っ私は──!」

「──何やら大きな物音がしたようですが、大丈夫ですか?」


 瞬間、令嬢たちの侮辱に顔を真っ赤にした男が今にも挑発に乗せられそうなのを見て取って、エリクは思わず声を上げた。

 すると突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に驚いたらしい一同が、目を丸くして振り向いてくる。


 ……ああ、やってしまった。


 その段になってようやく、エリクは考えるよりも先に口を動かしてしまったことを激しく後悔した。療養という名目で来たからには、クッカーニャでは極力厄介ごとには関わるまいと思っていたのに、到着早々これである。

 我ながら意思薄弱にもほどがあるなと、エリクはため息と共に肩を落とした。

 が、そんなエリクの反応を自分に対する非難だと勘違いしたらしい令嬢が、カッとなった様子で金切り声を上げ始める。


「い、いきなり何ですの、あなた? 見てのとおり、わたくしたちは取り込み中ですのよ。外野が余計な口出しなど──」

「せっかくの休暇をお邪魔して申し訳ありません、ペトラ・ネデリン嬢。ですがそちらのご婦人がどこかお怪我をされたようでしたので、放ってはおけず……」

「なっ……あ、あなた、何故わたくしの名前を……!」

「ペ……ペトラ嬢、ペトラ嬢! お待ち下さい、あの方は……!」


 先程から左右の取り巻きにペトラ、ペトラと呼ばれているのは、トラモントブロンドよりもやや赤みの強い金髪を縦巻きにして、ふたつに結い上げた少女だった。

 そして、実を言えばエリクは彼女を知っている──ペトラ・ネデリン。

 他でもない、救世軍総帥ジャンカルロ・ヴィルト誅殺(ちゅうさつ)した手柄で最近将軍へと上り詰めた、黄皇国中央第一軍所属の翼爵(よくしゃく)デレク・ネデリンの愛娘である。


 確か彼女は去年の謁見式で社交界入りを果たし、その後ソルレカランテ城で開かれた年賀舞踏会でも脚光を浴びていた。当時はまだ第一軍の正軍師だったエルネスト・オーロリーが健在で、父親のデレクが彼と蜜月な関係にあったがために、ネデリン家と(よしみ)を通じたい家門の子弟がひっきりなしに彼女を舞踏に誘っていたのだ。

 おかげでエリクも彼女の顔を記憶しており、取り巻きに名前で呼ばれていたのもあってすぐにデレクの娘だと確信した。とはいえ直接言葉を交わすのは今回が初めてだから、向こうは自分のことなど知る由もないだろう──と思っていたのだが、


「な……な……何ですって!? ではあの方が黄都守護隊の……!?」


 と取り巻きから耳打ちされたペトラが広げた扇の陰で喫驚しているのを見て取って、まあこの赤髪(かみ)じゃバレるよなと、悟りの境地で諦めた。

 だがエリクが意外に思ったのは、自分の正体が一瞬で露見したことよりも、令嬢たちの会話を漏れ聞いた男の反応だ。確か(リンシア)にセリオと呼ばれていた男は、黄都守護隊という単語を耳にするやはっとした様子でエリクを振り向いてきた。

 が、エリクがそんなセリオの反応に気を取られているうちに密談を終えたらしいペトラが、明らかに動揺した様子で──されどそれを(さと)られぬよう、必死に虚勢を張りながら──言う。


「あ……あらあら、まあまあ、これはご無礼をお許し下さい、シニョール。まさかお忙しい黄都守護隊の副長様が、かようなところにいらっしゃるとは夢にも思わなくって、ご挨拶が遅れましたわ。いかにもわたくしはペトラ・ネデリン、()()()()()()()()()デレク・ネデリン将軍の長女です。どうぞ、以後お見知り置きを」

「こちらこそ、将軍のご息女が避暑にいらしているとは知らず失礼しました。ところでそちらのご夫妻が、令嬢に何か非礼を働いたようですが」

「ええ、そうですの。この方々は爵位もない一般庶民であるにもかかわらず、人よりちょっと裕福だからという理由で、まるでご自分を貴族か何かと勘違いなさっているようですのよ。でなければ貴族の保養地であるクッカーニャを、恥ずかしげもなく我が物顔で歩けるわけがありませんものね。ですから本物の貴族であるわたくしたちが、無教養な方々に最低限の礼節というものを教えて差し上げようと……」

「左様でしたか。しかし私の記憶が確かなら、クッカーニャは歴代黄帝(こうてい)の直轄領であり、そこに出入りする者を定めるのもときの黄帝陛下であらせられます。とすれば陛下が町に庶民の立ち入ることを許可されている限り、彼らがここにいることに問題はないのでは?」

「わ……わたくしが申し上げているのは、そういうことではありませんわ! 確かに庶民が町にいること自体は、法的には何の問題もないでしょうけれど、クッカーニャは伝統的に貴族の保養地とされてきた暗黙の了解というものがあって……!」

「なるほど。つまり一部の貴族の間では、皇家の領地であるクッカーニャを()()()()()()()()()()()()()()()のが暗黙の了解となっているわけですか。寡聞(かぶん)にして存じ上げませんでした、申し訳ございません」

「なっ……!」

「おい、コーディ。俺は黄皇国では新参の余所者なんだから、そういうことは先に教えておいてもらわないと困るぞ。おかげで危うくアトウッド将軍のお顔にまで泥を塗るところだったじゃないか」

「えっ? あ……ああ、も、申し訳ございません、アンゼルム様。で、ですが我がアトウッド家では、そういった教えは受けてこなかったもので……」

「あ、あ、アトウッド家ですって……!?」

「は、はい……ご挨拶が遅れて申し訳ありません、レディ・ペトラ。僕はアトウッド家の四男で、コーディ・アトウッドと申します。軍ではいつも父や兄がネデリン将軍のお世話になって……」

「い……い、いいいいいいえ、こちらこそ……ま、まさかこんなところでアトウッド将軍のご子息にお会いできるとは思いませんでしたわ。あ、ああ、せっかくならこの機会にゆっくりご挨拶差し上げたいところですけれど、わたくしたち、これから用事がありますの。で、ですので今日のところは失礼させていただきますわ、ご機嫌よう……!」


 コーディの父親であるバリー・アトウッドは、家格も軍での経歴もデレクの遥か上をいく重鎮だ。ゆえにコーディがそのバリーの息子だと知るや、真っ青になったペトラはそう言って逃げるように立ち去った。それを見たふたりの取り巻きもドレスの(すそ)(ひるがえ)し、慌ててペトラのあとを追う。相手が平民出のエリクだけならば彼女たちも強気に出られたのだろうが、黄都でも指折りの血統貴族として知られるアトウッド家の子息の前では、さすがに醜態を晒すことを恐れたのだろう。


「はあ……休養に来た先で、また面倒な相手と出会ってしまったな。だがとっさに話を合わせてくれて助かったぞ、コーディ。お前にアトウッド将軍の息子を名乗らせるのは本意じゃなかったんだが……」

「い、いえ、お役に立てたならよかったですよ。一応、僕がアトウッド家の人間なのは嘘じゃありませんし、僕が名乗り出なければ、今度はアンゼルム様が標的にされていたでしょうから……」

「そうだな。休養先で自分から厄介ごとに首を突っ込む馬鹿を自粛させるには、ああするのが一番だったろう」

「あー、ところでモニカ、そちらのご婦人の怪我を診てやってほしいんだが……」

「は、はい、分かりました! えっと、倒れたときに手首を痛められたみたいですね……ちょっと失礼します」


 サユキから送られてくる棘々(とげとげ)しい視線と言葉をやりすごすべく、エリクは医務官であるモニカに話題を振った。するとモニカはすぐにリンシアへ駆け寄って、未だ砂浜に座り込んだままの彼女の前に膝をつく。そうして自己紹介しながら手首の様子を診てやっている彼女を後目に、ふと傍らで立ち上がった人影があった。

 他でもない、セリオと呼ばれていたあの男だ。

 こうして面と向かってみると、年はエリクより少し上といったところだろうか。

 彼は束の間じっとエリクを見つめると、ほどなくつかつかと歩み寄ってきて──そして突然両手でエリクの手を取るや、親しげにぎゅっと握り締めた。


「お初にお目にかかります、アンゼルム殿。先程は我々をかばっていただき、大変ありがとうございました。本当に、父から聞かされていたとおりのお方ですね。お会いできて光栄です」

「え? あ、ええと……も、申し訳ありません、お父上というのは……?」

「ああ、これはご挨拶が遅れました。私はセリオ……セリオ・アンブランテと申します。『アンブランテ交易商会』という名に聞き覚えはございませんか?」

「アンブランテ交易商会、というと──えっ……で、ではまさかあなたは……!?」


 その名前を聞いた途端、面食らって硬直したエリクの手を握ったまま、セリオはにこりと微笑んだ。彼の柔和そうな笑顔は、記憶にある気難しそうな父親のそれとはまるで似ても似つかず、おかげで余計に混乱してしまう。


「はい。私はボルゴ・ディ・バルカに本拠を置くアンブランテ交易商会の会長、シュレグ・アンブランテの次男です。その節は父が大変お世話になりました」


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