142.主従のかたち
北へ向かうエリクらを門前で見送ったのち、シグムンドはスウェインのみを伴って城壁に登った。そうして門の左右に聳える物見の塔の上に立てば、街道を北上していく彼らの後ろ姿が見える。日の光を浴びて輝く白馬の背にはエリクがいて、それぞれの馬に跨がったコーディたちと何やら談笑しているようだ。
が、当然ながら彼らの姿は既に遠く、何を話しているのかまでは聞こえない。
それでもシグムンドはじっと目を凝らし、耳を澄ましてエリクらの姿を見つめていた。真夏の生ぬるい風が、塔の屋根に翻る黄金竜の旗を微か鳴らしている。
今日もまた、暑い一日になりそうだ。
「……スウェイン」
やがて長い長い思案ののち、シグムンドはようやく決心して、背後に控える己の従者の名前を呼んだ。するとスウェインはいつものように「はっ」と短く応答するや、もともとよすぎるほどの姿勢をさらに正した気配がする。
「例の件についてだが、ピヌイスの商工組合支部長から返事はあったか?」
「いえ。残念ながら、まだ何の返答もありません。どうもこのところ、リチャード殿とは連絡が取りにくい状況が続いていますね。先方もなかなか忙しいようで、ピヌイスを留守にしていることも多いと聞きます」
「そうか。では今回も望み薄かな」
「我々が城を発つ明後日までにとなると、いささか難しいやもしれません。しかし組合上層部とリチャード殿は、もともと折り合いがよくありませんからね。今回の件についてはあまり有用な情報は期待できないのではないかと思われます」
「まあ、そうだな。となるとやはり黄都を直接つついてみるのが手っ取り早いか。今期はガルテリオ様も上洛されると伺っているゆえ、あまり騒ぎを起こしたくはなかったのだが」
「むしろガルテリオ将軍が黄都にいらっしゃる間に手を打った方が、黒幕も尻尾を出しやすいのでは? 将軍とシグムンド様が揃って黄都にいる機を狙い、一網打尽にしようと功を焦った結果、思わぬボロを出す可能性も高いかと」
「この私にガルテリオ様を餌にしろと言っているのか? いくら黒幕を釣り出すためとはいえ、あの方を巻き込むような真似は……」
「お言葉ですが、シグムンド様。今回アンゼルム殿が倒れられたのは、我が身を挺してでもシグムンド様をお守りしなければと思い詰めすぎたのが一因でしょう。そしてシグムンド様は、そんなアンゼルム殿の自己犠牲的思考を諫めるために此度の休暇をお与えになったものと理解しておりましたが」
「……つまり、何が言いたい?」
「いえ。ただ部下は自ずと上官に似るものだと、改めてそう思っただけです」
……なるほど、確かにスウェインの言い分にも一理ある。たったいま彼が披露してみせた、あの厭味たらしい迂遠な物言いなどはまさにシグムンドが得意とするトラモント貴族のそれだ。平民出身のスウェインがそういう話し方をするようになったのもまた、上官に似たせいだと言われれば反論のしようがない。
ゆえにシグムンドは深々と嘆息したのち、やれやれと小さく首を振った。
「そうだな。しかし今の仮説が正しいとすると、いずれ彼もお前のような鉄面皮になってしまう可能性があるということか。想像するだけでぞっとするな」
「ではシグムンド様がお変わりになる他ありませんね。私のような部下がふたりもお傍にいたのでは、さぞや息苦しいでしょう」
「ああ。お前はまるで女っ気のないところまで私に似てしまったからな。彼までその後追いをして、いよいよ本当に男色の噂など立てられては困る」
「確かに、そうなってはミレーナ様に会わせる顔がありませんからね」
「ちなみに、スウェイン。左様に哀れな上官のために、お前もそろそろ所帯を持つつもりは?」
「シグムンド様かアンゼルム殿がご結婚されたら考えます」
「なるほど。やはり死ぬまで独り身を貫く覚悟は変わらんか」
「アンゼルム殿に失礼ですよ」
と、やはり表情ひとつ変えずにスウェインが告げた刹那、既に豆粒のごとく遠い騎影の上で、エリクが盛大なくしゃみをした……ように見えた。
だがどこへ行っても女たちの黄色い声に迎えられるエリクほどではないにしろ、シグムンドに言わせればスウェインも見目や気立ては悪くない。平民の出でありながら翼爵家の人間に重用され、賜姓まで受けている点を考慮しても、異性の歓心は充分に買えるはずだ。そんな男が自分のために、己の生涯を擲とうとしている。そう思うとわずかに心が翳って、シグムンドは思わずエリクらを見送る瞳を細めた。
「……ときに、スウェイン。お前は何故私のような平壊者に仕えてくれている?」
次いで思わずそう尋ねると、珍しくスウェインが即答してこない。
突拍子もない質問に驚いているのか、はたまたすぐに答えられるほど明確な理由がないのか。不意に訪れた沈黙の意味がそのどちらであるのか、振り返って確かめるのは何となくためらわれて、シグムンドは言葉を続けた。
「私がお前の才を見出だし、立身を助けたことに恩義を感じてくれているのなら私としても鼻が高い。しかしお前はもう充分私に報いてくれたはずだ。ゆえに他に望む道があるのなら、いつでも巣立ってくれて構わんと前々から勧めているにもかかわらず、お前は今もここにいる。何故だ?」
「……今更それをお尋ねになりますか。私がお傍に留まる理由など、シグムンド様ならとうに知悉しておられると思っていましたが」
「ほう。では恩義以外の理由があると?」
「ええ。私がシグムンド様にお仕えする理由は、シグムンド様がガルテリオ将軍にお仕えする理由と同じです」
「……」
「そして恐らくは、ガルテリオ将軍が陛下にお仕えする理由も同じでしょうね」
「……分からん。いや、お前の言わんとしていることは理解できるのだが、少なくとも私には、陛下やガルテリオ様ほどの仕え甲斐などあるまい。何しろどこへ行っても人徳がなく疎まれて、おまけに口も性根も悪い。金払いも決していいとは言えぬしな」
「ご自覚があったんですか」
「ああ、あったとも。ゆえに分からん。私はお前たちのような前途ある若者が、すべてを擲ってまで忠誠を奉じるに値する男か?」
「……どうやらシグムンド様は、我々をいささか買い被っておられるようですね」
「何?」
「我々とて、仕える価値のない相手に軽々と命を預けられるほど奇特でも酔狂でもありません。他にもっと理想的な主を見つけたならば、とうに転属願を出して去っていますよ。しかし誠に残念ながら、今のところはシグムンド様以上に我が命を預けるにふさわしいお方は見つけられておりません」
「……そうか。確かにそれは残念だな」
「ええ、とても残念です。シグムンド様より高潔で機智に富み、なおかつ世の清濁を併せ飲めるほどの器量をお持ちの貴人などいくらでもいそうなものですが、どういうわけだか一向に見つからないのですよ」
「ふむ……お前は少々理想が高すぎるのではないか? だからいつまで経っても所帯も持てずにいるのだろう」
「今のご質問をされたなら、アンゼルム殿もきっと同じことをおっしゃると思いますがね」
「いや。彼の場合は妻とする女性云々以前に、妹以外の異性は眼中にないらしい。とすると〝理想が高い〟というのとはまた違う気がする」
「ではやはり早々にご令妹を見つけて差し上げねば。妹の心配をしているうちは、なおさら他の女性になど見向きもされないでしょう」
「そうだな。私の名誉のためにも必要なことだ」
「さすればミレーナ様の前でも顔が立ちますからね」
いつまでも妻子を持たないことを毒づかれる仕返しとばかりに、かつての婚約者の名を繰り返し口にするスウェインに、シグムンドは舌打ちしてやりたい衝動を堪えた。どうもこの男は、やはり自分に似すぎた気がする。一兵卒の中から見出だして引き抜いたばかりの頃は、もう少し殊勝で可愛いげもあったはずなのだが、いつの間にこれほど面の皮が厚くなってしまったのだろうか。
されどそんな彼を忌々しく思えば思うほど、エリクにまでこうなられては困るという危機感が募る。自分が気づいてやれなかったばかりに、幻痛症などという厄介な病を抱えさせてしまっただけでも気が塞ぐというのに、あのまっすぐで穢れのない人格まで歪めてしまったらと思うと、彼の父親でありシグムンドの恩人でもあるヒーゼルに顔向けできないというものだった。
(エリクには、幻痛症は生命に関わる病ではないと伝えたが……正確には、あれは事実ではない。プレスティ君の話によれば病そのものによって患者が死亡することはないが、いつ来るとも知れぬ痛みへの恐怖と発作中のあまりの苦しみに耐えかねて、自死を選ぶ者も少なくないとか……おまけに幻痛症は、一度発症すれば二度と治らない。適切な処置さえすれば症状を押さえられるが、今後似たような状況に陥れば何度でも再発するという……)
エリクが眠っている間にナンシーから聞かされた幻痛症という病の詳細は、単なる気の病と言って楽観視できるほど軽々しいものではなかった。医学史上、これまでに確認された患者の証言によれば、発作の間は心臓に太い錐を刺され、ぐりぐりと抉られ続けるような激痛に襲われて、のたうち回らずにはいられないという。
そんな病を二ヶ月以上も前に発症していながら、ひとり耐え続けていたエリクの心中を思うと、シグムンドの思考は忸怩たる想いに塗り潰された。ナンシーも今まで周囲に気づかれずにいたのが奇跡だと──普通の患者なら発作のたびに絶叫し、とても黙ってなどいられないはずの病だと言っていたから、エリクは驚異的な忍耐力と精神力でもって痛みに耐え、沈黙を貫いていたということだろう。
彼をそこまで追い詰めてしまった己の不徳を、シグムンドは恥じた。やはり無理にでも郷里へ帰すべきだったのではないかと、未だに思うときもある。
しかし同時に、それでも自分に仕え続けたいと言ってくれたあの日のエリクの眼差しを今も忘れられずにいるのだ。彼のような部下を持てた喜びを──守ってやりたいと願うこの心を、人は〝親心〟と呼ぶのだろうか。
(……だとすれば、生涯子を持つことなどないであろう私には無縁の感情だと思っていたのだがな)
そう思いながら見やった街道の先に、エリクたちの姿は既になかった。
だがそれでいい。これ以上、彼らに余計なものは背負わせない。
エリクはシグムンドのためなら手を汚しても構わないと思っていたようだがまったくの逆だ。濁り切った国の中にあってなお穢れを知らぬ彼の手こそ、汚されるべきではない。そういう仕事は老い先の短い自分のような人間が負うべき役目だ。
ガルテリオや彼の愛する祖国のため、何度も血にまみれさせてきた両手など、いくら汚れても今更気にならないのだから。
「……さて。では我々もそろそろ行くとしようか、スウェイン」
「はっ」
と、いつものように短い従者の返事を聞きながら、シグムンドはついに踵を返した。エリクがクッカーニャへ行っている間に、何としても黒幕との決着をつける。
少しでも希望ある未来を若者に託せるように。そう誓いを新たにしながら、シグムンドは去り際に塔の天辺で翻る黄金竜の旗を仰ぎ見た。
かつて若き日の自分を導いた光が、まだそこにあることを祈りながら。




