140.あの悪夢をもう一度
今からおよそ二十年前、遥か西方のルエダ・デラ・ラソ列侯国で父が仕えた英雄の名は、カルロス・トゥルエノといった。彼は由緒正しきトゥルエノ橙爵家の若き当主にして、正義の神ツェデクに選ばれし神子だった男だ。
《義神刻》──剣に赤き蛇が巻きついた姿の大神刻を右腕に刻んだ彼は正義の神子の名に恥じぬ大義を掲げ、弱き者のために戦った。
しかしそうして勃発した内乱は侯王と手を結んでいたはずのシャムシール砂王国の裏切りによって手打ちとなり、泥沼の攻防を繰り広げていた侯王軍と義勇軍は、砂王国の脅威から祖国を守るべく講和の道を選んだ──はずだった。
「……え? ビルト紅爵家からの招待状だって?」
あれは忘れもしない、通暦一四六三年の秋の終わり。
侯王軍と義勇軍が和議を結び、東の国境に攻め寄せた砂王国軍を共に打ち払ってから、間もなく丸一年になろうかという頃のことだった。その日、トレランシア侯領の主都ウルコルニオで、カルロスの生家であるトゥルエノ邸に身を寄せていたエリクと両親のもとに、ある一通の手紙が届いた。母マルティナの父であり、カルロスと同じトレランシア侯配下の貴族であるビルト紅爵からの招待状だ。
当時まだ幼かったエリクには、大人たちの間にある複雑な関係や社交のことはほとんど何も分からなかったが、幼心にも唯一母が実家から──すなわちエリクの祖父母から忌み嫌われているらしいということだけは理解できた。
マルティナは許嫁であったフィデル・ドラード紅爵との婚約を蹴り、どこの馬の骨とも知れない異邦人の父と半ば駆け落ちしたために、激怒したビルト紅爵から絶縁を言い渡されていたのだ。以来マルティナと紅爵家との交流は途絶え、あの招待状が届くまで母は一度も両親と顔を会わせなかった。母自身、ルエダ貴族の間に根強く残る因習や、それに固執する両親を心底嫌っていたから、互いが互いの存在に無視を決め込んで、決して交わろうとはしなかったのである。
そんなマルティナのもとに、数年ぶりに届いた祖父からの手紙。当然ながら彼女はその内容に困惑し、共に晩餐会へ来いと記されていた父に相談を持ちかけた。
手紙には「侯王軍と義勇軍の講和を機に、紅爵もいい加減、娘と和解してはどうか」と主君から命じられたと綴られており、要約すると〝不本意ながら主命に背くわけにもいかないので、まずは互いの家族の顔合わせをしたい〟というような主旨であったらしい。
「あー……まあ、確かに向こうはまだ孫の顔を知らないわけだしな。エリクを祖父さん祖母さんに会わせてやれる貴重な機会ではあるが、しかし今更和解と言われても……紅爵だって侯王の命令だから嫌々従ってるだけであって、別に本気で俺たちと和解したいと思ってるわけじゃないだろ? そういう政治の場にこいつを連れていくのはなあ……」
と話を聞いた父のヒーゼルが、トゥルエノ邸の書斎で困ったように自分を見つめていたことを、今でもはっきりと覚えている。
どうやら祖父は両親を釣り出す口実に「孫の顔を見てみたい」という文句も添えていたらしく、それが余計にふたりを悩ませたようだ。
「そうよね……両親は弟夫婦の間に男児が生まれなくて焦ってるっていう噂もあるし、ビルト家のお家問題にエリクを巻き込まれでもしたらたまらないわ。この子にまで昔の私のような想いをさせるなんて絶対に嫌よ。もしもエリクを跡取り候補になんて話題が出ようものなら、弟が何を仕掛けてくるか分からないし……」
「だが長年決裂していたご両親との関係を修復できる、またとない機会だろう。エリクを跡取りにやる、やらないは別として、私もそろそろビルト紅爵と歩み寄ってみてもいい時期だと思っている。君とご両親が和解すれば、君の元婚約者殿も君たち夫婦に因縁をつけることができなくなるわけだし──今後再び我が国の貴族社会と関わりながら生きてゆかねばならん君たちにとって、そう悪い話ではないと思うがな」
ところが祖父からの招待を渋る両親にそう声をかけたのは、書斎にある執務机に腰かけ、領地の運営に関わる資料を眺めていた銀髪の男だった。
白金を梳いたように美しい髪を後ろに撫でつけ、世にも珍しい緋色の瞳を上げた彼こそ、かつて父が自らのすべてを捧げた正義の神子カルロスだ。当時エリクたちが居候していた屋敷の主であり、ヒーゼルとマルティナの結婚を仲立ちしてくれた恩人でもあるカルロスにそう言われては、さすがの両親も顔を見合わせて黙り込むしかなかったようだった。やはり気は進まないものの「カルロス殿がそうおっしゃるなら……」と、彼のひと声で祖父の招待に応じることを決めたのだ。
かくして迎えた晩餐会の日。あの日、父は朝から憂鬱そうな顔をしていて、母も何だか落ち着かない様子だった。けれども幼いエリクは、実を言うと一度も会ったことのない祖父母や叔父夫婦や従姉妹たちに会えるのが少しだけ楽しみで、自分が彼らに気に入られれば、父や母がビルト家の人々から疎まれてつらく当たられることも減るかもしれない──なんてひそかな野望に燃えていた。
されど事態が思わぬ方向へ転がり出したのは、いよいよ日も傾き始め、そろそろビルト紅爵邸へ向かう準備を始めなければ、という段になったときのことだ。
衣装はどうする、靴は、髪型は、宝飾品はと、トゥルエノ家の使用人たちがエリクを着せ替え人形のように取っ替え引っ替えし、両親がそれを見て苦笑していたところへ突然、カルロスを呼ぶ鋭い伝令の声が聞こえてきた。
ウルコルニオの西に魔物の大群が集結しており、現地の騎士団から救援の要請を受けたゆえ、至急討伐に向かわれたし、と。
「カルロス殿、そういうことでしたら俺も一緒に」
「いや、いい。魔物がどれだけ群れようと、ツェデクの剣をひと振りすればすべて片づく。せっかく義理の両親と和解する好機なのだ。お前は家族と共に行け、ヒーゼル。私のことはツェデクの加護と頼もしい部下たちが守ってくれるが、マルティナとエリクを守ってやれるのはお前だけなのだからな」
そう言って共に行こうとする父を説得し、カルロスは配下のトゥルエノ騎士団と共にウルコルニオを発った。父はそんなカルロスを見送って終始心配そうにしていたものの、主君にああ言われては自分も腹を括るしかない、と思ったらしい。
そうして家族で馬車に揺られ、もう間もなく母の生まれたビルト紅爵邸が見えてくる、と、エリクが胸躍らせて窓に顔を寄せた直後に事件は起きた。
突然の怒声。馬の嘶き。群衆の悲鳴。馬車の扉を突き破り、幼子の小さな体を乱暴に引きずり出した武装済みの騎士、騎士、騎士──
「何のつもりだ、フィデル……!」
あの日起こった出来事についてエリクが今も覚えているのは、そう叫んで馬車を飛び出した父が、味方のはずの騎士に殴り倒されたところまでだ。
エリクを人質に取られたヒーゼルは抵抗もできずに殴る蹴るの暴行を受け、気を失ったところを死体のように引きずられていった。そこから先のことは何も──父を呼ぶ母の悲痛な叫び以外には何も、思い出せない。
「ヒーゼルの処刑が決まった」
そのあとの記憶として思い出せるのは、母と共に囚われてから数日が経った日のことだ。謂れなき罪で逮捕された父の身内として、トレランシア侯直属の騎士団を率いるドラード紅爵の屋敷に監禁されていた母は、父を陥れた元婚約者が部屋へ姿を見せるなりエリクをかばって立ち塞がった。
そんな母を冷たく見下ろし、吐き捨てるように告げた氷のような瞳の男こそ、侯王の腹心であったドラード紅爵家の当主フィデル・ドラードだ。
「やつは昨年までの我が国における内乱は、自分がトゥルエノ橙爵を唆し、侯王に反逆するよう仕向けたのが発端だと自供した。動機は言わずもがな、流れ者のやつが当地での確固たる地位と権力を手に入れるためだ。大方トゥルエノ橙爵が統一国家の王となれば、それを助けた功績で自分も成り上がれるとでも思ったのだろう。いかにも売女の息子らしい、浅ましい考えだ」
「……」
「どうした。やつが犯した罪について、妻として何か釈明してやらないのか?」
「……釈明? 何を釈明しろと言うの? 私があなたに泣いて縋るとでも思っているなら大間違いよ、フィデル。私はあなたのそういうところが昔から嫌いだった。だから彼と結婚したの。ヒーゼルは誰にも、何も恥じることなんてしていない──私の自慢の夫よ」
しゃんと背筋を伸ばして佇んだまま、毅然とそう答えた母は、剣を佩いたフィデルにすごまれたところで怯えも取り乱しもしなかった。逆にフィデルの方が母の言葉に顔を歪めて、激しい憎悪の眼差しを覗かせていたほどだ。されど対する母の双眸には悲しみでも恐れでもなく、ただただ強い意思の炎だけが燃えていた。
「どうりでおかしいと思った。父から届いた招待状もカルロス様のご出征も、すべてあなたたちが仕組んだことだったのね。そしてあの方がウルコルニオを離れている間に、先の内乱の責任をヒーゼルに押しつける計画だったのでしょう。そのために妻子を人質に取り、代わりに罪を被ればカルロス様には手を出さないでおいてやると彼の耳もとで囁いた。まるで騎士の風上にも置けない匪賊のようなやり方ね。何度剣を交えても、あなたが決してヒーゼルには勝てなかったのにも納得だわ」
さらに母が決然とそう言い放った刹那、怒りのあまり顔面を赤黒く染めたフィデルが乱暴に彼女の顎を掴んだ。母が殴られると思ったエリクは「やめて!」と声を上げかけたが、しかしフィデルにもまだ辛うじて騎士としての矜持は残っていたのか、最後まで弱者であるマルティナには手を上げなかったことを覚えている。
「何とでも言うがいい。君が何を喚いたところでヒーゼルは死ぬ。遺された君は罪人の妻としての苦しみを一生背負い続けることになるだろう。あんな男にさえついていかなければ、紅爵夫人としての何不自由のない暮らしが約束されていたというのに、まったく愚かしいことだな」
「それが何? 民の血と涙で築いたまやかしの城であなたに抱かれるくらいなら、罪人の妻として生きる方がよっぽど幸せだわ。ヒーゼルならきっとこう言うはずよ──〝クソくらえ〟ってね」
母がそう告げて不敵に微笑んだのを見るや、フィデルはもう我慢ならないといった様子で踵を返し、荒々しい足音を鳴らして立ち去った。そんな彼の姿が扉の向こうへ消えたあとも、母は決して涙を見せなかったと記憶している。ただ、
「お……お母さん……お父さんは……お父さんは、死んじゃうの?」
泣きながらそう尋ねたエリクを振り向いたマルティナは、何も言わなかった。
ただ黙って跪き、我が子を抱き寄せただけだ。
そうして小さな肩に顔を埋めたマルティナの体は震えていた。
いつまでもいつまでも、エリクを強く抱き締めたまま。
翌朝、母子が監禁されていた客室に再びフィデルが現れた。これからヒーゼルの公開処刑が執り行われるとエリクらに告げるためだった。だが問題はそこからだ。
フィデルは処刑場に連れていくのはエリクひとりだけだと言い、拒む母の腕の中から力ずくで息子を奪い取った。瞬間、初めて取り乱した母を、フィデルに命じられた騎士が数人がかりで押さえつけ、エリクは彼女と引き離された。
やがてエリクが連れ去られても、必死に名を呼んでいた母の叫びが今も耳に残っている。ゆえにエリクはフィデルに取り縋り、懸命に懇願した。
「お願いします、お願いします、どうかお母さんにひどいことをしないで……!」
と。その言葉を聞いたフィデルが、心底憎々しげに自分を見下ろしていた理由が今なら分かる。恐らく彼は、エリクが母を恋しがってみっともなく泣き喚く、無力で愚鈍な子供であることを期待したのだろう。ところがエリクは母に助けを求めるどころか、逆に母を助けてくれとフィデルに泣きついた。
彼はそれが気に入らなかったのだ。ヒーゼルそっくりの顔と赤髪を持つ子供など、そもそも存在自体が疎ましくてたまらなかったのだろうから。
「ではこれより、罪人の処刑を執り行う!」
かくして半ば攫われるように処刑場行きの馬車へ押し込まれたエリクは、現場に到着するや否や、今度は乱暴に引きずり出された。
街の広場に設けられた高さ一枝(五メートル)ほどの処刑台の前では、詰めかけた群衆が稀代の大逆人の顔をひと目拝もうと押し合い圧し合いしている。
「見ろ。そして目に焼きつけておけ。あの男の無様な死に様を」
そうした熱狂の只中に放り出されたエリクはフィデルに髪を掴まれて、思い切り上を向かされた。直後、視界に飛び込んできた光景に思わずヒュッと息を呑む。
「え……?」
次いでそう声を漏らしたとき、あんなに幼かったはずのエリクはいつの間にかすっかり大人になっていた。加えて処刑台の上に視線が釘づけになる。
何故ならそこで縄を打たれ、首斬り台の前に跪かされている男は、他でもないエリクの主──シグムンド・メイナードだったから。
「罪状! ここにいる大罪人シグムンド・メイナードは、七代に渡ってトラモント黄皇国に仕えた翼爵家の当主でありながら、畏れ多くも主君たる黄帝陛下の弑逆を企てた! その余罪は極めて多岐に渡り……」
と、そんなシグムンドの傍らに立ち、得意満面といった様子で罪状を読み上げているのは憲兵隊長のマクラウド・ギャビストンだ。
エリクは当然当惑し、状況を理解しようと慌ててあたりを見渡した。自分の記憶が確かなら、あの処刑台の上にいたのは目も当てられないほどボロボロに痛めつけられた父のヒーゼルで、今にも刑が執行されようとした刹那、読み上げられた罪状へ異議を唱える声が上がったはずだ。父の処刑を阻止したのは他でもないカルロスだった。出征先でトレランシア侯の策略に気づいた彼は、急ぎ馬を返してウルコルニオへと駆け戻り、ヒーゼルに向かって斧を振り上げた処刑人にこう叫んだのだ。
「私は自らの意思をもって旧主たるアルコイリス虹爵夫人を欺き、彼女を利用して《義神刻》を手に入れた。神をこの身に宿したのは他でもない、主君たるカルヴァン・ラビアを出し抜き、我こそが侯王となるためだ。つまり昨年まで民を苦しめ続けた内乱の全責任は、私にある」
と。もちろん彼の証言はヒーゼルをかばうための嘘でしかなかったが、カルロスを排除したがっていた当時の侯王にとっては願ってもみない僥倖だった。
かくて罪の所在はカルロスへと移り、父は処刑を免れることができたわけだ。
そしてカルロスも最終的には神を宿した身であることを理由に命までは取られなかった。されど父とその家族は二度と列侯国の土を踏むことを許されず、カルロスもまた流刑という名の追放を余儀なくされた。
だのに今エリクの目の前に広がる光景は、あの日の記憶とはまるで違っている。
気づけば広場を囲む建物はいずれも黄砂岩造りのトラモント様式のものばかりとなって、処刑台には黄帝の威光を示す黄金竜の旗が翻っていた。
無論すぐ傍にいたはずのフィデルも姿を消しており、先程下りたばかりの馬車すらも今や影も形もない。
「い……一体、何がどうなって──」
「──だから俺のようにはなるなと言っただろう、エリク」
瞬間、自分のすぐ後ろから聞こえた声に、ドッと心臓が縮み上がった。息を呑んで振り向けば、そこにもまた信じられない光景が広がっていることに気づく。
「な……」
燃え盛る炎。血のにおい。なつかしい丸太造りの家の中で、血を流して倒れている母。さらにその向こうにもふたり分の人影が見える。ひとりは血まみれの体を壁に預け、力なく座り込んでいるヒーゼル。そしてもうひとりはそんな父の前で、鮮血の滴る刃物を手に立ち尽くしている、幼い妹──
「か……カミラ……お前、何を……!」
「分かるでしょ、お兄ちゃん」
「え……?」
「私が殺したの。お父さんも、お母さんも……私が殺したの」
「ち……違う。カミラ、いきなり何を言って……!」
「違わないよ。だって、お兄ちゃんもそう思うでしょ? そう思ってるから──私を選んでくれなかったんでしょ?」
「違う!」
勢いを増す炎の狭間に落ちたカミラの言葉に、エリクは全力で叫び返した。
すると、ぴくりとも動かない父を見つめていたカミラが顔を上げる。
そうしてゆっくりとエリクを振り向き、父と母の血にまみれた顔で、笑う。
「そうなの? じゃあ、選んでよ」
「な、何を……」
「決まってるでしょ? 私か、あの人か──もう一度、ちゃんと選んで」
言いながら、カミラはやはり緩慢な動きで腕を上げ、手の中の刃を自らの首に押し当てた。それを見たエリクが戦慄し、妹を止めるべく駆け出そうとした刹那、背後でわっと人々の沸き立つ声がする。
「以上の罪状により、偉大なる黄帝陛下の名の下にこの者を極刑に処す! さあ、処刑人はただちに罪人の首を刎ねよ!」
「ま……待て──」
呼び止めようとするエリクの声は、群衆の熱狂に塗り潰された。
処刑人の頭上高く掲げられた首斬り斧が、台の上に組み伏せられたシグムンドへ狙いを定めてギラリと光る。
「や、やめろ……」
全身の震えが止まらなかった。
カミラが自らの首にあてがった刃が肌に食い込む。
天の火の下でにぶく閃く首斬り斧が、音を立てて振り下ろされる──
「やめろ……!!」




