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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第5章 あの朝を抱き締めて
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138.魔ものが笑う日


 左右から同時に斬りかかってきた新兵をふたり、瞬時に打ち伏せて身を翻した。

 途端に振り向いた先から降ってきた斬撃を(かわ)し、隙だらけの相手の顎に下段から刑棒を突き入れる。その一撃をまともに食らった新兵は仰け反るように吹き飛び、仰向けに倒れて動かなくなった。

 あまりにも綺麗に突きが入ったので、脳震盪(のうしんとう)を起こして伸びてしまったようだ。


「──オラァッ!」


 直後、背後から聞こえた気合に合わせて、脇に差し込むように構えた刑棒を思い切り後ろへ突き出した。瞬間、ドッとにぶい手応えがあり、短い呻き声が上がる。

 ほどなく胸を突かれた新兵が苦悶の表情を浮かべて(くずお)れたのを振り返り、エリクは彼の手から零れた数打ちの真剣を遠く蹴り飛ばした。


「どうした。十人がかりでこの程度か? 日頃の調練の成果が(うかが)えるな」


 と、自分を取り囲むように身構えた新兵たちを見回しながら、エリクは左手に戻した刑棒をくるりと回して握り直す。そのさまを睨んだディーノが忌々しげに顔を歪めるさまを拝むのは、なかなかに気分がよかった。彼から吹っかけられた私闘に応じ、刑罰という体裁で勝負を開始してから約四半刻(十五分)。


 当初十人もいたはずの新兵は既に半数が地に沈んで動かなくなり、辛うじて立っている者も顔や腕を散々に腫らしていた。傍目には見えないが、恐らくは兵服の下も(あざ)だらけになっていることだろう。おかげでぜいぜいと荒い息をつき、汗と砂にまみれている彼らとは裏腹に、エリクはまだ呼吸ひとつ乱れていない。


(こいつらに情け容赦は無用と思って、最初から左手(ききて)を使ってしまったが……さすがに大人げがなさすぎたか)


 と、揃いも揃って切羽詰まった顔色をしている彼らを見やり、エリクはちょっと同情した。相手は十倍の人数で、しかも棒切れ一本しか持たないエリクに真剣で向かってきているわけだからこれくらいでちょうどいいだろうと思ったのだが、いささか見込み違いであったらしい。


(だが、やつらの動きはまったくの素人というわけでもない。多少なりとも戦い方を知っている人間の動きだ。それも軍での教練に則ったものとはまた違う、我流のような……ということはやつらを送り込んだ黒幕も、やみくもに人を雇ったわけではなさそうだな)


 場合によっては、黄都(こうと)の暗部に(たむろ)するゴロツキや食いっぱぐれの下級傭兵──そういう人間を掻き集めて黄都守護隊へ送り込み、最終的にはクーデターでも起こさせるつもりだったのかもしれない。しかしある程度武芸を(かじ)った者なら彼らの戦い方はてんでバラバラで、力量も大したものではないとすぐに気づいたはずだ。とすれば彼らを雇い入れたのは武芸の心得などまるでない、文治畑の人間だろうか。


(あるいはいきなり手練れを送り込んだりすれば、さすがに不審がられると警戒したか……後者だとすれば、黒幕はかなり周到で用心深い人間ということになる。まあ、どちらにせよこいつらにすべて吐かせれば分かることだ)


 思考をそう仕切り直したエリクは、改めて「かかってこい」と促す代わりに刑棒を片手で構えた。それを見たディーノが舌打ちし、左右の取り巻きに向かって「行け!」と顎をしゃくる。

 かくしてふたりの取り巻きは、言われるがままエリクへ向かってきた。

 が、全身をあちこち打たれた痛みのせいか、はたまたエリクの強さに腰が引けたのか、彼らの動きは明らかに精彩を欠いている。おかげでせっかく挟撃の形を取ったというのに、まるで連携がなっていなかった。ゆえにエリクは先走って突っ込んできた左の新兵に素早く一撃を叩き込み、返す刃ならぬ返す持ち手の先端を、一拍遅れてやってきたもうひとりの鳩尾(みぞおち)へ突き入れる。


「ぐぅっ……!」


 呻いたふたりの息は皮肉にも、倒れるときにはぴたりと合った。

 あと三人。エリクがふっと短く息をつきながらそう計算した矢先、破れかぶれだとでもいうように、さらにふたりの新兵が喚きながら迫ってくる。

 エリクはその挟撃をギリギリのところまで引きつけてから、今度は横へ躱した。

 すると勢い余った前方の新兵が上段に構えた剣を振り下ろし、空振りした斬撃はエリクのすぐ後ろに迫っていたもうひとりへと襲いかかる。


「ぎゃっ!?」


 と悲鳴を上げた相方は、すんでのところで仲間の切っ先を回避した。

 が、無事に躱せたとほっとしたのも束の間、安堵のために生まれた隙へ、エリクは容赦なく刑棒を振りかぶる。


「ヒィッ……!?」


 死角に回られたと気づいた新兵が振り向いたときにはもう遅かった。

 太刀筋ならぬ棒筋を瞬時に読まれぬよう、相手の視線を切るように身を屈めて間合いへ踏み込んだエリクは下段から刑棒を振り上げる。

 ヒュッと風を切った棒先はまたしても相手の顎を正確に捉え、衝撃で足が浮くほど飛び上がった新兵は、そのまま白目を剥いて倒れ込んだ。

 問題はそうして倒れた先に、共に挟撃に臨んだもうひとりの新兵がいたことだ。

 直前に仲間を殺しかけ、動揺していた彼は哀れにも反応が間に合わず、喪心した相方の下敷きになった。さらに受け身を取り損ねたのか、ゴンッと硬い音を立てたのちぴくりとも動かなくなる。どうやら不運にも後頭部を強打したようだ。


(よし。これで残るはディーノだけ──)

「──アンゼルム様!」


 ところがエリクがついに本命(ディーノ)を打ち据えるべく、直前まで彼の姿があった方角へ視線を走らせたときだった。この刑罰の行方をサユキと共に見守るコーディが、少し離れたところから鋭くエリクの名前を呼ぶ。

 おかげでエリクもすぐに死角から迫る殺気に気づけた。

 ディーノ。仲間を何人もけしかけておきながら、自分だけはいつまでも安全地帯に留まって、決して踏み込んでこようとはしなかった男──


「オラァッ!!」


 されどあれは単に日和見をしていたわけではなく、こちらがわずかな隙を晒す瞬間を虎視眈々と狙っていたのだ。エリクがそう理解したのと同時に、背後から(えぐ)るような一撃が来た。振り向きかけていたエリクは慣性を利用して身をよじり、すれすれのところで突き出された切っ先を躱す。

 だが渾身の刺突がはずれたと知るや、ディーノは舌打ちと共にさらに踏み込み、軸足で跳ねるようにして体を(ひね)った。そこから全身をぶん回す要領で、自らの体重と勢いを乗せた回転斬りを繰り出すつもりだ。速い。


「ハハッ、死ねや!!」


 しかしエリクもそれ以上は引けなかった。心情的にではなく、()()()()だ。

 何しろさらに下がろうとした右足の(かかと)にぶつかったものがある。先に倒してしまった新兵の肢体だ。彼らが邪魔で後ろへは跳べない。

 かと言ってただの棒切れで真剣は防げないし、斬撃とは逆の方向へ逃れたのでは簡単に動きを読まれてしまう──ならば、エリクが取るべき行動はひとつだけ。


「……っ!」


 息を呑んだコーディが鞘走る音が聞こえた。が、彼の位置から踏み込んだところで間に合わないのは誰の目にも明らかだ。だったら、自分が踏み込めばいい。

 避けるのではなく、前へ──向かってくるディーノの(ふところ)へ。

 そうしながら下段に構えた刑棒を手放した。エリクの判断はディーノにとって、まったくの予想外だったらしい。彼の意識がほんの一瞬、エリクの足もとへ放られた刑棒へ吸い寄せられたのが分かった。その刹那の隙に両腕を()()み、今にも振り下ろされようとしている刃を握るディーノの右腕を絡め取る。

 互いの胸と胸とが触れそうな距離にまで詰め寄ったエリクに、もはや剣は届かなかった。それどころか彼の刃に乗った慣性はたちまちエリクの味方となり、今にも背負い投げられようとしているディーノの長駆(からだ)にさらなる勢いをつける。


(自慢じゃないが──俺に戦い方を教えてくれた(ひと)は剣だけじゃなく、喧嘩もめっぽう強かったんだ)


 内心そうほくそ笑みながら、直後、エリクはひと思いにディーノを地面へ叩きつけた。若き日の父が、自らを「父なし子」と呼んで嘲笑う郷の子らと殴り合いの喧嘩ばかりして会得した体術は、息子であるエリクにも脈々と受け継がれている。

 その体術と剣術を組み合わせた変則的な戦い方こそヒーゼルが最も得意とした戦法であり、エリクが彼から受け継いだ技のひとつだ。


 ただし父の若かりし頃を知る族長(トラトアニ)からは「あまりにも品がない」と苦言を呈されており、これまで人前で披露することはあまりなかった。それがこんなところで活きるとはなと苦笑しながら、エリクはあまりの衝撃に動けなくなっているディーノの傍らに落ちた刑棒を蹴り上げ、くるくると浮いた持ち手を難なく掴む。

 そうして痛みに呻きながらも、何とか体を起こそうとしているディーノの右肩へ棒先を垂直に突き下ろした。まるで地面に縫いつけられるように思い切り右半身を突かれたディーノは「ぐあっ……!」と悲鳴を上げて、再び仰向けに倒れ込む。


「勝負あったな、ディーノ。お前の負けだ。というわけで、早速だが約束を果たしてもらおう」


 なおも棒先でディーノを押さえつけながら、エリクは冷然と彼を見下ろした。

 駆け出しかけていたコーディが背後で呆気に取られている気配がするが、今はいつもの清く正しいアンゼルムではいられない。

 何しろ視線の先で憎しみに顔を歪めているこの男は黄都守護隊の、ひいてはシグムンドの進退が懸かった一大事に深く関与している可能性が高いのだ。

 とすれば慈悲や情けなど垂れてやる義理はない。キムにそうさせてしまったように自分もまた、どんな手を使っても黒幕の尻尾を掴み、隊を守ってみせる──


「イカサマだ」


 ところがエリクがそんな覚悟と共にディーノを拘束しようとした刹那、刑棒に押さえつけられたままの彼が呻くようにそう言った。


「……何?」

「今の勝負は不正だって言ってんだよ! てめえの得物はこの軽い棒切れで、オレたちは真剣だった。ならてめえの方が速く動けるのは当然で、最初から対等な勝負じゃなかったってこった!」

「……あのな。仮にそれがお前たちの敗因だとしても、こっちは俺ひとりで、お前たちは十人がかりだったんだぞ。なのに俺を止められなかった時点で……」

「うるせえ! だったら今度こそてめえとサシで勝負させろ! もちろんお互い同じ得物でだ! そうすりゃ今のがまぐれだったってことを証明してやる……!」

「ほう、面白い。では次は私が相手になろう」


 と、性懲りもなく吠えるディーノを呆れたエリクがあしらうよりも早く、にわかに割り込んできた声があった。瞬間、ぎょっと体を硬直させたエリクは、まさかと思いながら振り返る。事態はそのまさかだった。エリクが慌てて視線を向けた先にはいつの間にか、スウェインひとりを伴ったシグムンドの姿があったのである。


「し……シグムンド様!? どうしてこちらに……!」

「いや、何、文官たちとの打ち合わせが予定より早く終わったのでな。私も久しぶりに本隊の様子を見てみるかと、調練の視察に来たのだよ。だがいざ足を運んでみれば、ずいぶんと興味深い見世物がやっていたので、つい見物してしまった。相変わらず見事な手並みだったぞ、アンゼルム」

「あ、ありがとうございます……お褒めに(あずか)り、光栄です……」


 と想定外の事態に冷や汗をかきながら、エリクはとっさにディーノから刑棒を離し、先端を背後に送るようにして体側に携えた。

 するとようやく体の自由を取り戻したディーノが肩を押さえながら起き上がり、怒りと屈辱に血走った目で馬上のシグムンドを睨み据える。


「おいオッサン、邪魔すんじゃねえよ。オレは今、そこの赤髪と話してんだ」

「ほう、これは失敬。近頃年のせいか耳が遠くなったかな。負け犬の遠吠えは確かに聞こえたが、人間の会話はまるで聞こえなんだ」

「何だと」

「ところで、君の方の耳は聞こえているかね。そんなに正々堂々たる勝負がしたいのなら、私が直々に相手をしてやろうと言っているのだが」

「し、シグムンド様、それは……!」

「一対一で、互いに同等の得物を携えての勝負を所望しているのだろう? 配下の兵を鍛えるのもまた私の仕事だ。剣術指南という形で構わなければ相手になろう」

「お、お待ち下さい、シグムンド様。守護隊長であるシグムンド様が、御自(おんみずか)ら一兵卒の相手をなさる必要はありません。どうしてもとおっしゃるのであれば、私が引き続き彼の相手を……」


 と慌てたエリクが止めに入れば、ちらと視線をくれたシグムンドは口角に笑みを刻んだ。まるでとんでもない悪戯(いたずら)を思いついた悪ガキのような、不穏な笑みだ。


「まあ、そう言うな、アンゼルム。私もここしばらく執務室に()もりきりで、こうして馬に乗ったのも久しぶりだ。ただでさえ(なま)っている老体が、このままでは早晩錆びついてしまう。ならばたまにはこういう形で体を動かすのも悪くはなかろう」

「し、しかし……」

「だいたい、今の勝負で一切手負っていない君が相手をしたのでは、彼の望む対等な力比べにはならんだろう。見たところ彼はだいぶ痛めつけられたあとのようだ。であれば、私のような老いぼれが相手をするくらいがちょうどいいに違いない。君もそうは思わんかね?」

「ハッ……意外と話の分かるオッサンだな。なら、お言葉に甘えて相手をしてもらおうじゃねえか。もちろん公平に一対一で──得物は当然、お互いに真剣だ」

「……! おい、ディーノ! 仮にも守護隊長であるシグムンド様に向かって、なんという口を……!」

「いいだろう。ではスウェイン、私の馬を頼む」

「はっ。(かしこ)まりました」


 そう返事をするが早いか、スウェインは颯爽と馬を下りると、シグムンドが(また)がる黒馬の(くつわ)を取った。彼はシグムンドの突拍子もない思いつきを止めもしないどころか、主を下ろした馬を預かるや粛々と距離を取る。


「す、スウェイン殿! あなたからもシグムンド様にご再考を……!」

「ご心配は無用ですよ、アンゼルム殿。これはあくまで()()ですから、間違ってもシグムンド様が新兵の首を飛ばすことはありません」

「い、いえ、そちらの心配をしているのではなく……!」

「そんなことより、貴殿も早々に距離を取られた方がよろしいかと」

「は、はい?」

「見ていれば分かります」


 そう答えたスウェインはいつもどおりの無表情だったが、そこには一種の悟りのような、諦めのような何かがうっすらと漂っていた。

 それに気づいたエリクが改めて振り向けば、シグムンドとディーノは既に互いに剣を抜き、十歩ほどの距離を開けて向き合っている。


「じゃ、早速始めようぜ、オッサン。言っとくが手加減はしねえからな」

「うむ」

「……どうした? 早く構えろよ。まさか今更怖じ気づいたとか言わねえよな?」


 相変わらず脂下(やにさ)がった笑みを浮かべたディーノは、正眼に剣を構えながら挑発をかけていた。対するシグムンドは剣を右手に携えたまま、だらりと切っ先を地に向けて一向に構えない。一体どうしたのかと、エリクは固唾(かたず)を飲んでシグムンドの様子を窺った。彼が一兵卒を相手に怖じ気づくなどということはまずありえないが、しかしディーノは黄都守護隊の崩壊を狙う輩によって送り込まれてきた刺客だ。


 場合によっては事故に見せかけて、シグムンドに危害を加えようとしている可能性も大いにある。だからシグムンドを止めてくれと頼んでいるのに、スウェインはやはり一(アレー)(五メートル)ほど離れたところから動こうともしない。

 かくなる上は、やはり自分が彼を止めるしかない──そう覚悟を決めたエリクは改めて口を開きかけた。が、次の瞬間、吸い込んだ息と共に肺腑が凍りつく。


「な……」


 と短く声を漏らしたのはディーノだったのか、はたまた自分であったのか。

 シグムンドがゆっくりと剣を持ち上げた直後、それすら認識できなくなるほどのすさまじい殺気が彼の全身から噴き出すのを、エリクは見た。

 そう、まさに()()と形容するのが最もしっくりくるほど濃厚で、質量を伴うかのごとく噴きつけてくる殺気だ。おかげでビリビリと空気が震え、見えざる巨大な神の手に押さえつけられているような重圧がのしかかってくる。

 息を止めて腹に力を込めておかないと、膝を折ってしまいそうだ。肌という肌は針の(むしろ)でくるまれたように痛み、指先をほんの微か動かすことさえできない。


 何故なら、動けば殺す、と。


 シグムンドの全身から立ち上る殺意という名の化け物が、血に飢えた牙を剥き出しにしてニタリと笑い、確かにそう言っているのだ。


(こ、れは……俺も、シグムンド様には何度か剣術の指南をしていただいたが……まさか、こんな魔ものを隠しておられたとは)


 かつて『剣神の申し子』の異名を(ほしいまま)にした神童。


 あの噂の正体が()()なのだと、エリクはこのとき初めて理解した。シグムンドは今までただの一度も、エリクの前では本気を見せていなかったのだ。おかげでまったく知らなかった主君の中の化け物に睨まれ、息ができない。魂の底から引きずり出された畏怖の念が、エリクの生物としての生存本能に訴えかけてくる。


 ──殺される。殺される。殺される。殺される!


 いっそ気を失うか、狂ってしまった方が楽だと思えるほどの圧倒的恐怖。シグムンドの死角に立つエリクでさえその恐怖に屈従し、(ひざまず)いてしまいたい衝動に駆られているというのに、彼に剣を向けられているディーノの心境は如何(いか)ほどか。


「あ……あ、あぁ……」


 そう思ったエリクが目を向けた先で、ディーノは剣を構えたままガクガクと全身を震わせていた。顔は完全に血の気が引いた土気色で、もはや死人の肌色に近い。

 彼もろくに呼吸ができないのか、立っているのもやっとといった様子で、飲み下し損ねた(よだれ)を口の端から垂らしている。


「どうした。かかってこないのかね」


 一拍(一秒)が一小刻(一分)、否、十小刻(十分)にも感じられるほどの重圧の中で、シグムンドが口を開いた。いつもと同じ口調で投げかけられた言葉はしかし、今は地の底から響く邪神の狂笑のごとく思える。途端に「ヒィッ……」と掠れた悲鳴を上げたディーノが、ついに剣を取り落とした。

 彼はそのまま崩れるように尻餅をつくや、既に戦意阻喪した様子で震えている。

 おまけに地面には音もなく、失禁した証が広がっていた。


「……ふむ。どうやら勝負あったな」


 ほどなく目を剥いたまま固まっているディーノの醜態を見やったシグムンドが、退屈そうに呟いて剣を収めた。そこでようやく彼の背後についていた化け物も主という名の鞘へ戻り、凍りついていた空気が夏の陽射しに溶けてゆく。

 おかげでエリクもやっと息が吸えた。あまりの恐怖と緊張に硬直していた肺が呼吸の仕方を思い出すと同時に、全身をどっと汗が濡らす。

 ここに至って、スウェインが距離を取れと言っていた理由がようやく分かった。

 完全に呆けてしまったディーノを見れば一目瞭然なように、シグムンドの殺気に当てられたら、常人は正気ではいられない。


「まったく期待はずれだった。これでは肩慣らしにもならん。スウェイン」

「はっ」

「彼らをただちに拘束し、全員まとめて懲罰房に入れておけ。我が黄都守護隊に弱兵は不要だと、しっかり()()()()()ように」


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