135.彼の理由
普段は部隊長たちが並んで座る軍議室の席の真ん中に、私服姿のまま不機嫌な顔をしたセドリックが、ムスッと左頬を腫らして座っていた。
対座には黄都守護隊長であるシグムンドを中心に、エリク、コーディ、サユキの四名が同じく腰かけている。さすがに四対一となると多少の圧迫面接感が否めないが、セドリックがそれだけの問題行動を起こしたのだから仕方がなかった。
まさか周囲に「休暇だ」と嘘をつき、上官にも無断で行方を晦ませるだなんて。
「して、セドリック。何か釈明があるのなら今のうちに聞いておくが?」
「……」
「何も喋らないということは、三日ものあいだ無断で隊務を放り出し、隠れて城外へ出ていたことを認めるのだな」
「……ええ、そうですよ。バレちまった以上は弁明するつもりもねえんで、さっさと処分を決めて下さいや」
「その口振りだと、三日程度の不在なら我々に露見しないと思っていたようだな」
「まあ、八割くらいは。将軍方が決算前で慌ただしくしてる今ならバレねえだろうと踏んでたんでね。それをあの脳筋クソ野郎が、余計な真似しやがって……」
「ハミルトンは部隊長として至極まっとうな対応をしただけだろう。この忙しいときにシグムンド様の手を煩わせたお前の方がよほど余計な真似をしたと思うがな」
「うるせえ。余所者のちんくしゃは黙ってろ」
「シグムンド様。やつを軍規違反で処刑するなら請け負います」
「さ、サユキさん、あなたが言うと冗談に聞こえないのでやめて下さい……!」
と、青い顔をしたコーディが隣でサユキを諫めているのを聞きながら、エリクは過労や寝不足から来るものとはまた別種の頭痛を覚えていた。とにかく行方知れずだったセドリックが無事に戻ってきたのはいいのだが、医務室で再会してからというもの彼は終始この調子で、まるで悪びれる様子もないのだ。
むしろ開き直って「早く処遇を決めろ」と焚きつけてくるありさまで、一体何をどこから指摘すればいいのやら、頭を抱えたい気分だった。なのでここはひとまずシグムンドに仕切りを任せようと、エリクは黙ってなりゆきを見守ることにする。
「まあ、処分の詳細については追って通達するとして、だ。その前に君が城を出てから三日間、どこで何をしていたのか教えてもらえるかね」
「何って、そりゃ遠乗りですよ。俺だってたまにゃひとりで羽を伸ばしたくなるときがあるんでね。供をつけずに城を出るのも、今に始まったことじゃありません」
「だが単に羽を伸ばすことが目的だったなら、正式な手続きを踏んで休暇を取れば済んだ話だろう。だのに誰にも行き先を告げず、人目を避けるようにして城を出たのは何かやましいことがあったからではないのかね?」
「……」
「なるほど、黙秘か。しかしアンゼルムの話では、医務室長のプレスティ君だけは君の外出の理由を知っていたそうだな。ではここに彼女を呼んで、君の代わりに」
「あー、はいはい分かりましたよ、白状すればいいんでしょ、白状すれば。残念ながらどこに行ってたのかまでは言えませんが──女に会ってました」
「……何?」
「だから女ですよ、女。前々から懇ろな付き合いのある女なんですが、あいつと会うためには誰にも居所がバレねえよう、細心の注意を払う必要があったんです。だから念のためナンシーにだけは行き先を告げて城を出たってわけですよ。こちとら逢い引きするだけでも命懸けなんでね」
「は? たかが情婦と会うだけのことが、どうして命懸けなんだ?」
「てめえには関係ねえよ。ま、けど将軍ならご存知なんじゃないですか? 俺の前妻がどうなったのか」
「……君の奥方が亡くなったのは、不幸な事故が原因だったと聞いている」
「ハッ。そっちの妻じゃねえですよ」
と、シグムンドの発言を否定したセドリックは、顔を歪めて皮肉っぽく笑った。
だがそっちの妻ではないとはどういう意味だ?
セドリックにはかつて死に別れた妻がいるという話は以前、エリクも彼の兄であるハインツから聞いて知っていた。
が、確かあのときの話では、セドリックは妻の死後も頑なに再婚を拒み続けるほどの愛妻家で、もう結婚は考えていないらしいと言われていたのではなかったか。
だのに今のセドリックの口振りは、まるでかつての妻がふたりいたかのようだ。
おまけにこの三日行方を晦ませていた理由も異性と密会するためだというし、一体何がどうなっているのかと、エリクは思わずシグムンドへ視線を向けた。
ところがシグムンドはセドリックの不可解な言動に眉をひそめることもなく、ただじっと彼を見つめて黙り込んでいる。
かと思えば数瞬の沈黙ののち、腕を組んで深々と嘆息するや、
「……なるほど、話は分かった。では、先程言ったとおり、正式な処分については追って沙汰をする。それまでは隊舎での謹慎を命じよう。私の許可があるまでは、決して部屋を出ないように」
と早々に通告した。
てっきりセドリックの傍若無人な振る舞いを叱責し、より詳しい事情を聞き出すものとばかり思っていたエリクは、さすがに驚いて目を丸くしてしまう。
「し、シグムンド様……よろしいのですか?」
「ああ。どうやらこれ以上尋問したところで、意味のある情報は得られんようだからな。であれば互いに無駄な時間を費やすべきではない」
「ハハッ、さすがはシグムンド将軍、話が分かる。つーか逆に訊きてえんですが、今ので話が通じるってことは──将軍、部下のことをどこまで調べてるんです?」
「無論可能な範囲で徹底的にだ。ラオス将軍の人選を疑っているわけではないが、私は自分の目で確かめたもの以外信用しないたちなのでね」
「ハ、おっかねえ。どうりで保守派の連中が手を焼くわけだ。ラオス将軍も敵の多い爺サマだったが、そこまでじゃありませんでしたよ」
「さすがに君には負けるがな。だがいくらハインツを守るためとはいえ、君は少々やりすぎだ」
「兄貴は関係ありません。俺がやりたくてやってることです」
「ならばなおのこと警告しておこう。セドリック、私は直接コンラート殿から頼まれたわけではないが、しかしかつての同志として、君たち兄弟を託されたと思っている。ゆえに、お父上の願いに背くような真似は慎みたまえ。あの方が君たちを軍人にしたがらなかった理由も、今の君ならよく分かっているはずだ」
とシグムンドが告げた刹那、セドリックの片眉がぴくりと跳ねた。が、彼は忌々しげに舌打ちしたのち、明後日の方角を向いて何も言わない。コンラート・ヒュー──それがハインツやセドリックの父の名だということはすぐに分かった。だが彼らの父親は、我が子が軍人になることを望んでいなかったというのも初耳だ。
その理由は彼が保守派に謀殺された事実と何か関係があるのだろうか?
(いや、というより俺は、二年も黄都守護隊にいながら、セドリック殿のことを何も知らない……)
殺された彼の家族のことも、事故死したという前妻のことも、彼とジャンカルロの関係さえも、思えば今日、シグムンドから聞かされるまでエリクはまるで知らなかった。否、知るつもりがなかったのだ。セドリックは入隊当初から平民出のエリクを見下していて、エリクもそんな彼とは歩み寄れないと感じていたから。
けれど思えばセドリックがエリクを毛嫌いしているのも、傭兵出身の余所者が大した経歴も持たないくせに、突然黄都守護隊副長の座に就いたためだった。
まるで脈絡のないエリクの出世を、当時彼は「裏で何者かが手引きしたのではないか」と疑っていたのだ。あれは新入りのエリクがシグムンドから重用されていることに対するやっかみではなく、政敵に家族を殺され、また自身も命を狙われ続けてきた事実に基づく当然の警戒だったのだと今になって思い知った。
そうしたセドリックの言動の裏にあるものを、今日まで何も考えてこなかった自分にエリクはいささか愕然とする。
副長という立場にありながら好悪の情に惑わされ、部下である彼のことを理解しようと努めなかった怠慢が、今になって心にのしかかってくるようだった。
「とにかく、話は以上だ。アンゼルム」
「は……はい」
「悪いがセドリックを隊舎まで連れていってくれ。追って監視の人員を送る」
「……別にひとりで戻れますよ。わざわざ監視なんざつけなくても、今更逃げも隠れもしませんって」
「だろうな。だが形式上、懲罰対象である君をひとりで歩かせるわけにはいかん。正式な処分が下るまでは我々の監視下にいてもらおう。アンゼルム、頼んだぞ」
最後にそう言い残すや、シグムンドはコーディたちを連れて先に執務室へと戻っていった。よりにもよって今、自分がセドリックの護送役を任されるのかとエリクは半ば眩暈がする思いだったが、諸々の事情を知ってしまった以上、彼と向き合うことから逃げ続けるわけにもいかない。
「……では行きましょうか、セドリック殿」
と、可能な限り拒否感が滲み出ないよう、努めて平静を装った声がけに返ってきたのは舌打ちだけだった。その時点で何かが折れそうになるのを堪え、セドリックを連れて軍議室をあとにする。一応監視の名目があるため、逃亡されないようセドリックには前を歩かせ、エリクは三歩後ろに続いた。
城の西側にある第二部隊隊舎を目指す間、当然のように両者は無言だ。
今日まで互いに口もききたくないと思ってきた関係なので仕方がないとはいえ、しかしそこはかとなく気まずい。いや、気まずすぎる。とはいえ何か言葉をかけようにも何をどう切り出してよいやら分からず、エリクは三歩先でゆらゆら揺れる金色の尻尾のようなセドリックの髪を見つめた。正直訊きたいことは山ほどあるが、どれも触れ難い話題な上に彼が答えてくれるとも思えない。二年も同じ城で暮らしていながら、エリクがセドリックについてはっきりと明言できるのはそれだけだ。
(兄上のハインツ殿とはだいぶ打ち解けたから、セドリック殿のことも何となく分かったような気になっていたが……こうして見ると俺たちの関係は、二年前から一歩も進んでいないんだな)
その事実に改めて恥じ入りながら、エリクは足もとへ視線を落とした。今からでも彼に歩み寄れるだろうかと思いながら、やはり妙案が何ひとつ思い浮かばないのがもどかしい。シグムンドやナンシーの話を聞いたあとだと、セドリックの全身は傷だらけの刃物のようで、どこならば触れられるのかまるで見当がつかなかった。
下手に触れば切れて血が流れ、また刃の方もぽっきりと折れてしまいそうで。
「おい、赤茄子野郎」
ところが刹那、前方からつっけんどんな声が聞こえて、エリクははっと顔を上げた。〝赤茄子野郎〟という呼び名を自分のことだと認識して反応するのは不本意極まりないものの、しかしセドリックの方から声をかけてきたのを無視するわけにもいかない。
「……あの、失礼ですがその呼び方はやめていただけますか」
「うるせえ。俺が誰を何て呼ぼうが俺の勝手だろ」
「確かにそこは個人の自由ではありますが、少しでも人間関係上の問題を排除したいなら、相手を不快にさせる言動は慎んだ方がよろしいかと」
「なら、今のところ排除したい問題は特にねえからどうでもいいな」
「……」
「んなことより、てめえにひとつ訊きてえことがある」
「……何ですか」
「てめえと同じ太陽の村出身の──〝イーク〟って剣士を知ってるか」
瞬間、まるで予期していなかった質問に図らずも息が止まった。と同時に思わず立ち止まり、こちらを振り向きもせずに歩くセドリックの背中を凝視してしまう。
するとセドリックも後ろの足音が止んだことに気づいたようで、脚衣の物入れに両手を突っ込んだまま、くるりとエリクを振り向いた。途端に彼の口角が不穏な笑みを刻むのを、未然に阻止できなかったことが悔やまれる。
「なるほど、やっぱりか。その顔は〝知ってます〟ってことでいいんだよな?」
「……どうして、俺の友人の名を知っているんです?」
「友人? そうか、友人ねえ。ならあいつにも教えてやればよかったか。黄都守護隊にもてめえと同じ、ド田舎から出てきたいけ好かねえ野郎がいるんだぜってよ」
また呼吸がうまくできなかった。
されど今度は驚きのためではなく、ズキリと左胸を貫いた痛みのためだ。
いや、ダメだ。今は発作など起こしている場合ではない。何しろ今のセドリックの発言は、まるで──どこかでイークと会ってきたかのようではないか。
「つーか、そもそも野郎の手配書が回ってきた時点で気づくべきだったな。よくよく考えりゃまったく同じだったんだからよ。野郎が頭からこれ見よがしにぶら下げてる趣味の悪ィ青羽根と、てめえの腰の羽根飾りがな」
「……この羽根は俺の故郷に古くから伝わるお守りのようなもので、別に彼と示し合わせて持っているわけでは……」
「だとしてももっと早く気づいてりゃ他に探りようがあった。てめえもあの手配書の存在は知ってるはずなのに、何で野郎の情報を上に上げなかったんだ、とかな」
「……」
「おい、だんまりかよ。今すぐここで、てめえを反乱軍との内通容疑でぶち殺してもいいんだぜ」
「……その前に俺からもひとつ質問があります。あなたがさっき会ってきたと言っていた〝女〟というのは、まさか──フィロメーナ・オーロリーですか?」
確かにセドリックの奇襲には意表を衝かれたが、しかしエリクもそこまで頭が回らないほど動揺してはいなかった。何しろイークのことは公にこそしていないが、上官にも第一軍副帥にも報告済みだ。彼らがそれを世間に開示しないのは、今のセドリックのようにエリクとイークの内通を疑い、ひいてはそんなエリクを取り立てたガルテリオやシグムンドにまで累が及ばないようにするため。
保守派がこの情報を握ればきっと彼らまでもがエリクを通して救世軍とつながっていると疑われ、ありもしない謀反の罪を着せられてしまうことだろう。
だからイークの件については特段問題ではない。
上の事実を盾にすればいくらでもセドリックを説き伏せられる。だが、もし──もしもセドリックが軍規を犯してまで会ってきたという相手がフィロメーナなら。
そう考えれば、唯一事情を知っていたナンシーがあれほどまでにセドリックの身を案じ、されど彼の失踪について口を閉ざしていたことにも説明がつくのでは?
そもそもセドリックは〝女〟が情婦だとはひと言も言っていないし、義従妹であるフィロメーナなら以前から親しく交流していたという話も嘘にはならない。
しかしだとすればセドリックは一体どこで、何のためにフィロメーナと、
「──そうだと言ったら?」
「……は……?」
「俺が会ってきたのはフィロだと言ったら、てめえはどうする? 一緒に世直ししようと勧誘するか? それとも逆に、この俺を内通者として上に報告するとか?」
「な……何を言って……」
「ま、その様子じゃ、てめえは何も知らねえらしいな。ってことはあの青羽根野郎の件を隠してたのは別として、少なくとも本当に救世軍とつながってるわけじゃねえってことか。チッ……もしも連中と内通してたなら、やっとてめえの首を刎ねる口実ができると思ったのによ」
「お……お待ち下さい。では、セドリック殿が会っていたのは別の女性だと?」
「さあな。てめえの好きに考えりゃいいさ」
「いいえ、そういうわけにはいきません。失踪が発覚した直後、シグムンド様はあなたがフィロメーナと親類関係にあることや、ギディオン将軍の件やジャンカルロの死によって、あなたが救世軍へ寝返ったのではないかと案じていました。ですから、あなたがもし秘密裏にフィロメーナと接触していたというのなら──」
「そう言うてめえだってフィロとは何度か会ってんだろ。ま、あいつはてめえにも〝フラれた〟と言って笑ってたが」
「……! では、やはりあなたは……!」
「てめえがどう思おうが知ったこっちゃねえ。ただ、俺は……ずいぶん遅くなったが、結婚して早々未亡人になっちまったあいつにお悔やみを言いに行っただけさ。親戚同士なんだ、別にそれくらい普通だろ」
「普通なわけがないでしょう! 仮にもフィロメーナは、目下トラモント黄皇国にとって最大の脅威と言うべき存在で……!」
「知らねえよ。こんな腐れ切ったゴミ溜めのことなんざ──知ったことか」
「セドリック殿、」
「ま、とはいえシグムンド将軍に迷惑かけんのは俺としても本意じゃねえんでな。言われなくとも……もう二度と会わねえよ」
そう告げた直後、再び踵を返して歩き出したセドリックの横顔をほんの一瞬よぎった暗い影を、エリクは確かに見た。
その正体は失望であったのかもしれないし、後悔であったのかもしれない。ただエリクにも唯一はっきりと理解できたのは、恐らくは彼もまたフィロメーナに別れを告げてきたのだろうということだ。そしてセドリックは再び戻ってきた。自らの家族や親友を奪っただけでは飽き足らず、未来までも閉ざそうとするこの国に。
(……だが、だとしたら彼は、何のために)
そう問いかけたくてたまらないのに、声が出ない。けれど同時に確信もある。
きっと尋ねてみたところで、やはり彼は答えてくれないのだろうという確信が。




