134.『狂犬』と翼爵令嬢
──という顛末があって、何の因果か医務室長のナンシーには、エリクが話を聞きに行くことになった。
コーディ、サユキ、スウェインも念のため、それぞれ別のところへ聞き込みに行くことになっている。今は少しでも手がかりがほしいと、シグムンドが手分けして情報を集めることを提案したためだった。だがまさかナンシーのところへ派遣されるのがよりにもよって自分だとはと、エリクは内心肩を落とす。
かと言って下手に拒否すれば理由を問われるに決まっているから、今回は黙って引き受けるより他になかった。よもやシグムンドは何もかも見透かした上で医務室行きを命じたのではあるまいなという薄ら寒い不安もあるものの、少なくとも例の発作のことはまだバレてはいないはずだとエリクは己を宥めすかす。
(まあ、今朝もコーディに顔色が悪いと指摘されてしまったし……疲れているのは一目瞭然だろうから、シグムンド様が〝ついでに診てもらってこい〟という意図を込めて俺を指名したんだとしても不思議はないか。しかしこうなったらいっそのこと、この機に不眠や発作のことも先生に相談してみるか? いや、だがただでさえセドリック殿が行方知れずで隊が混乱しているときに、さらなる騒ぎの種を撒くのはな……)
と、第一医務室のある本棟一階を目指して階段を下りながら、エリクは腕を組んで呻吟した。聞いたところによれば、ナンシーはセドリックの親戚であると同時に幼馴染みでもあるらしい。とすれば彼の失踪を知ったナンシーが取り乱してしまう可能性もあるし、やはり自分のことはまた別の機会に相談すべきか……などと思いながら最後の一段を下り終えると、ときに階段室の外、廊下の角を曲がった先からパタパタと、ひとり分の足音が駆けてくるのが聞こえた。
ずいぶん軽い足音だなと気づいたエリクが、角を出たところでぶつからないよう脇に寄れば、ほどなく死角から小柄な人影が飛び出してくる。
「わっ……!? あ、アンゼルムさん!」
と、途端にエリクを見つけて驚きの声を上げたのは、薄桃色の医務官服に身を包んだ少女だった。コーディやサユキと同じくらいの年頃と見える彼女は、第一医務室でナンシーの助手をしている看護専門の医務官だ。名をモニカといい、やわらかそうな胡桃色の髪と、どこか幼さの残る顔立ちが印象的な少女だった。
当然エリクも何度か面識があり、コーディが補佐官になりたての頃はよく彼女の世話になっていたのを思い出す。
「やあ、モニカ。どうしたんだ、そんなに慌てて」
「あ、あ、あのっ……! わたし、ちょうどシグムンド将軍かアンゼルムさんを呼びに行こうとしていたところで……い、今、少しだけお時間いいですか……!?」
と、弾んだ呼吸を整えるように胸を押さえたモニカの答えを聞いて、エリクは目を丸くした。医務室つきの彼女がわざわざ守護隊長執務室へ赴こうとしていたなんて、一体何があったのか。まさかセドリック絡みのことだろうかとにわかに緊張を覚えながら、エリクは慎重に問い重ねる。
「ああ、実は俺もちょうどナンシー先生のところへ行く途中だったんだ。何かあったのか?」
「そ、それが……」
と、ようやく呼吸が落ち着いてきたらしいモニカは、屈んでいた体を起こしながら困惑気味に目を泳がせた。ほどなく事情を聞き取ったエリクは、またひとつ問題が増えたなと額を押さえながら、彼女と共に医務室を目指すことにする。
「──あなたたち、何度も同じことを言わせないでちょうだい。私もこう見えて暇じゃないのよ。分かったらさっさと持ち場に戻ってくれる?」
「えぇ~っ、そう冷たいこと言わないで下さいよぉ、ナンシー先生。オレらは腹痛で動けないって言ってるじゃないですかあ」
「そんなにお喋りする元気があるなら、自力で隊舎に戻るくらいできるでしょ。どうしても痛みが引かないのなら、今日は上官にその旨を報告して休みにしてもらいなさい。部屋で一日寝て過ごせば、じきに薬が効いてよくなるはずよ」
「けど、部屋に戻ってからまた悪化したら困るじゃないスか~。だからオレらはナンシー先生につきっきりで看護してほしくて……」
「あのね……あなたたちの隊舎にも常駐の医務官がいるはずでしょう。あとのことはそっちを頼ってちょうだい」
「まあまあ、そう言わずに……」
……という会話が医務室の扉を開ける前から漏れ聞こえてきて、把手に手をかけたエリクは深々と嘆息した。実は城に新兵がやってくると、毎年こういう問題が起きる。生来恋多き民族であるトラモント人の血がそうさせるのか、ときと場所もわきまえずに城の女中や女性医務官を口説こうとする新兵が現れるのだ。そういう手合いは大抵の場合、隊の風紀を乱すという理由で厳重に罰せられ、そこでようやく〝軍隊というのは新しい恋を見つけるための場所ではないのだ〟と気づかされる。
が、さすがに医務室長の地位にある翼爵令嬢を口説こうとした新兵は、エリクの知る限りこれが初めてだ。身分も才能も美貌さえも併せ持つナンシーに一方的な憧れを抱く将兵が多いことは知っていたが、まさかこんな強者が現れるとはな……と呆れながら、エリクはいよいよ覚悟を決めて扉を開いた。
「先生、失礼します」
そう声をかけながら入室すると、室内の視線が一斉にエリクを向く。
……モニカから事前に聞いたとおりだった。
室内には部屋の主であるナンシーと、新兵と思しき男が五名。
既に始業時刻を過ぎているから、後者はいずれも兵服に身を包んでいる。
そんな彼らの肩を飾る六つ星の肩章は、困ったことにシグムンドやエリクの配下である本隊所属の兵の証だ。だからモニカも守護隊長執務室へ駆け込もうとしていたのだろう。とても具合が悪そうには見えない新兵が医務室に屯して、一向に出ていこうとしないと助けを求めるために。
「あら、アンゼルム。ちょうどいいところに」
「おはようございます、ナンシー先生。何かお困りごとですか?」
「ええ。実はあなたの隊の兵士が五人揃っておなかを壊したらしくてね。恐らく食あたりだろうってことで、必要な薬は既に処方したのだけれど、あとは隊舎で安静にするようにと言っても聞かなくて……」
「それは部下が失礼しました。お前たち、そもそも医務室なら隊舎にもあるのに、どうして居住区から一番遠い第一医務室にいるんだ?」
とエリクはあくまで偶然立ち寄った風を装いつつ、壁際の執務席にいるナンシーが、自分を見るなりほっと愁眉を開いたのを見逃さなかった。
が、対する五人の新兵は、直属の上官が現れたと知るや顔を見合わせて忌々しげに舌打ちする。なるほど、入隊から五ヶ月も経っているというのに、未だに軍の上下関係というものを学んでいない連中らしい。
「あー、すいやせんね、副長殿。オレら、ちょうど練兵場へ向かう途中で腹が痛くなったもんで」
「そうか。この暑さで体調を崩すのは仕方がないが、しかし謝るつもりがあるのなら、正しい言葉遣いは〝申し訳ありませんでした〟だ。礼儀作法の基礎は入隊直後の座学で教わっているはずだが」
「ああ、ハイハイ、申し訳ございませんでしたぁ。オレらみんな平民出で学がないもんで、物覚えが悪いのは大目に見て下さいやぁ」
と、上官を見ても椅子から立ち上がりもせずに肩を竦めてみせた丸刈りの兵の胸もとへ、エリクはちらと目をやった。
そこには〝ディーノ〟という名前の刻まれた名札と、軍の最小単位である〝班〟の長であることを示す五角形の徽章が確かに縫いつけられている。
(新兵の入隊以降、本隊の教練はほとんど将校任せにしていたのは事実だが……いくら何でもこれはひどいな)
基本的な礼儀作法はおろか、人間として最低限の良識すら持ち合わせていないとでも言いたげな態度。こんな連中を野放しにしておくなんて、本隊の将校たちは一体何をしているんだと呆れながら、エリクは再びため息をついた。
「……そうだな。黄都守護隊では慣例的に、基礎教練が完了する六ヶ月目までは新兵の粗相にもある程度目を瞑ることになっている。よって今回は処罰の対象にはしない。分かったら今すぐ隊舎へ戻って──」
「キミさぁ、モニカちゃんって言ったっけ? ひでえなあ、オレたちが腹痛で苦しんでるってときに、患者をほっぽり出して副長にチクりに行くなんてさぁ」
「えっ。わ、わたしは……」
ところが刹那、ディーノはエリクの言葉を堂々と遮って、突然後ろのモニカに矛先を向けた。口もとは笑っているものの、まるで見下すように顎を上げたディーノの恫喝にモニカは肩を竦めて怯えている。
「……彼女はここへ来る途中、たまたま見かけて私から声をかけたんだ。くだらない言いがかりをつけている暇があったら、さっさと言われたとおりに行動しろ。さもないとここから先は大目に見てやれなくなるぞ」
その様子を見たエリクはすかさずディーノの視線からモニカを隠す位置に立ち、今度は一段低めた声でそう言った。すると新兵たちもこれ以上はごねられないと察したらしく、さも不承不承といった様子で腰を上げる。
「そんじゃ、今日のところは隊舎で大人しくするとして、具合が悪くなったらまた来ますね~、センセ。そんときはもちっと優しくして下さいやぁ」
ほどなく妙に目立つ犬歯を見せて笑ったディーノは、そう言いながら班員と思しき取り巻きを連れて医務室を出ていった。上官であるエリクには敬礼も目礼もないどころか、一瞥すらくれずに立ち去ったところを見るに、向こうもほとんど年の変わらないエリクに敬従するつもりはないらしい。
「はあ……もう二度と来なくていいわよ。手間をかけさせたわね、アンゼルム。来てくれて助かったわ」
やがてディーノらの足音が遠ざかると、くたびれた様子で執務机に片肘をついたナンシーが額を押さえながらそうぼやいた。
そんな彼女に「いえ」と苦笑で応えながら、朝から災難だったなと同情する。どうやら今日は厄神ホレヴの機嫌がいいのか、あちこちで問題が起きる日のようだ。
「こちらこそ、隊の教育が行き届いておらず申し訳ありません。モニカ、君も大丈夫だったか?」
「は、はい……でも、すみません、アンゼルムさん。わたしのこと、かばっていただいてしまって……」
「いや。俺が医務室に来る途中だったのは本当だし、仮に君から事情を聞いていなくても同じ対応をしただろうから問題ないよ。それにしても今年の新兵は全体的に質が悪いとは聞いていましたが、まさかここまでとは……」
「入隊時の適性検査のときには、素行に問題のありそうな兵はほとんどいなかったんだけどね……新しい環境にだいぶ慣れてきたせいか、最近になってああいうバカをやる新兵が増えてきたって、この間ブレントさんがぼやいてたわ。おかげで第五部隊隊舎からは毎日のように〝応援に来てくれ〟って要請が飛んでくるし、本当に勘弁してもらいたいわね」
「第五部隊隊舎から、ですか?」
「ええ。何でもキムが質の悪い新兵を片っ端から叩きのめしてるみたいで、怪我人があとを断たないのよ。彼の部隊の訓練は毎年死傷者が続出するんだけど、今年はその数が例年の比じゃないっていうか……」
なおも気怠げに額を押さえたまま、机上の資料を捲ってナンシーは答えた。
確かに彼女の言うとおり、黄都守護隊内でも別格の強さを誇る第五部隊は調練がとりわけ厳しいことで知られているが、しかし隊舎つきの医務官がナンシーに泣きつくほどひどいというのは一体どういう状況なのか。まさか新兵教育の現場がそんなことになっていたなんて、公務や妹の安否確認に追われるあまり、各部隊の現状がまるで見えていなかった自分に改めて気づかされたエリクは思わずぞっとした。
とにかく今のナンシーの話が事実なら、すぐにでもキムに話を聞きに行かなければならない。いくら新兵の質を高めるためとはいえ、上層部が口角泡を飛ばして軍備の拡充を叫んでいるときに増員として送られてきた新兵を次々と殺されてしまっては、問題になるに決まっている。
場合によっては欠員の補充を口実に、エリクらが必死に阻止した追加徴兵をやはり年央に実施する、なんて無茶を言われる可能性だってあるだろう。
弱り目に祟り目とはこのことかと、本日何度目になるとも知れないため息をどうにか堪えながら、エリクは左胸で微か蠢く痛みをやりすごした。
「……確かにそれは少々問題ですね。先程の件も含め、シグムンド様にも早急に報告した上で、何らかの対応を講じたいと思います」
「ええ。今のままじゃ医療品の調達費用も馬鹿にならないし、そうしてもらえると助かるわ。ところであなたも私に用があって来たみたいだけど、どうかしたの?」
と頬杖を解いたナンシーが、白衣にかかる黒髪をさらりと後ろへ流しながら尋ねてきたのを聞いて、エリクはようやく本来の目的を思い出した。
そうだ。今はキムの暴走を止めるのも急務だが、セドリックの行方が分からないというさらに大きな問題がある。
エリクは白い衝立と寝台が並ぶ医務室内をざっと見渡すと、ナンシーとモニカと自分の他には誰もいないことを確認し、改めてナンシーへと向き直った。
「実は、ナンシー先生に少々お尋ねしたいことが……第二部隊長のセドリック殿のことなのですが」
「セドリック? あら、そう……私はてっきり、あなたもどこか診てほしいところがあって来たのかと思っていたのだけれど」
「えっ?」
「あなた、少し前まではしょっちゅう頭痛止めをもらいに来てたのに、最近ぱったり姿を見せなくなったじゃない? だからようやく症状が改善したのかしらと思ってたのに、こうして見るとお世辞にも健康そうとは言えないわね」
「え、っと……はい……た、確かに近頃、決算前のゴタゴタやら何やらで寝不足気味ではあるのですが、今は私の体調の話ではなくてですね……」
「そう。だけど寝不足だけが問題には見えないわね。ちゃんと食事は取ってる? 眩暈や耳鳴りの症状もあるんじゃない? 脈を見るから、ちょっとここに座って」
「い、いえ、ですから今日は──」
「あなたは人一倍頭を使う分、脳や精神の疲れが体に出やすい体質だと前に警告したはずよ。だから毎日三食しっかり食べて、最低限の休養だけでも常に心がけなさいと言ったのに、どうして医者の言うことが聞けないのかしら。その様子だとしばらく医務室に顔を出さなかったのも、私に会えば不摂生がバレて今度こそ寝台に縛りつけられるって自覚があったからみたいね?」
「……」
「せ、先生、先生、アンゼルムさんが本気で怯えちゃってますから、やめてあげて下さい……」
「あら、心外ね。私だって本気も本気よ?」
「余計悪いですよ! 先生、この間もそう言ってハミルトン隊長を神術で氷づけにしてましたよね!? アンゼルムさんにまでアレをやったら、今度こそ死んじゃいますからね!? むしろ隊長がご無事だったのが奇跡なんですからね!」
「バカね、モニカ。あれは相手が脳筋馬鹿だからできた荒療治であって、アンゼルムにはアンゼルムに合った荒療治を用意するに決まってるじゃないの」
「どうして選択肢が荒療治しかないんですか!? 先生は将来皇家に仕えるお医者さまなんですから、普通に治療して下さい!」
というモニカの必死の説得のおかげで、エリクは寝台に拘束され、そのまま監禁されるという憂き目を辛くも回避できた。だからここへ来るのは嫌だったんだと胸裏で泣き言を言いつつも、しかしこれ以上ナンシーの機嫌を損ねれば今度こそ何をされるか分からないという恐怖に屈従して彼女の前に着席する。
そうして言われるがままに脈を取られたり、あちこち触診されたりしながら、ナンシーの気が済むまで固い沈黙を貫いた。ひょっとするとこの診察で例の発作のことがバレるのではと内心ヒヤヒヤしたものの、ひととおり体を診終えたナンシーが列挙した症状の中にそれらしきものはなかったのが唯一の救いだ。
「──というわけで、結論を言うと過労と栄養失調の症状が絶讃進行中よ。貧血や不整脈についてはある程度薬で改善できるけど、どれだけ服薬しようとも、根本から生活を見直さない限り一時凌ぎに過ぎないわ。分かったら本当に倒れる前に、自分をもっと労りなさい。忙しいのは分かるけど、本格的に体を壊せば業務自体こなせなくなるのよ」
「はい……そのあたりは今朝、コーディやサユキにも散々叱られましたので……可能な限り、善処はしたいと思います……」
「ええ、そうしなさい。とりあえず必要そうな薬を五日分出しておくから、毎日就寝前に服用すること。全部飲み終えたらまた健診にいらっしゃい。五日を過ぎても顔を出さなかったら、ハミルトンの二の舞になると思った方がいいわよ」
「え、ええ……私も一応命は惜しいので、必ず伺うようにします……あの、ところでそろそろ本題に移ってもよろしいでしょうか……?」
「本題?」
「はい。先程も言いましたが、セドリック殿のことでお話が……」
「ああ、そうだったわね。また彼に因縁でもつけられたの?」
と、診察簿に記録をつける手を止めぬまま、ナンシーはこちらを見もせずに言った。セドリックの問題行動は先代守護隊長の代から常態化しているそうだから、たとえ幼馴染みであっても〝また何かやらかしたのか〟程度の感想しか湧いてこないのかもしれない。が、これだけ反応が薄いということは、やはりナンシーもまだセドリックの失踪に気づいていないのだろうか?
シグムンドの話によると昨年、親友の訃報を知ったセドリックが部屋に引き籠もってしまったときには、彼のことをかなり案じている様子だったというが……。
「いえ、実は、その……今からする話はまだ内々にしておいてほしいのですが」
「どうすればセドリックを暗殺できるかって話なら、残念だけど諦めた方がいいわよ。さすが『狂犬』と呼ばれるだけあって、彼、そういうことには鼻がきくから」
「……つまり、過去にもセドリック殿の暗殺を試みて失敗した輩がいるということですか?」
「やだ、まさか本当に毒殺の方法でも訊きに来たの?」
「違います。今もセドリック殿のお命を狙う輩がいるのかと訊いているんです」
まるで自分がセドリックの暗殺を企んでいるかのようなナンシーの質問をしっかり否定してから、エリクは差し出された香茶のカップを受け取った。
というのもエリクが診察を受けている間に、気を利かせたモニカが疲労回復に効くという茶を淹れてくれたのだ。そんなモニカの気遣いに礼を述べながら、エリクは早速湯気の立つカップの縁に口をつけた。
が、薬湯にも似た渋味と苦味の中に、溶かし込まれた蜂蜜の微かな甘味を感じた刹那、ナンシーが発した衝撃的な回答に思わず香茶を噴きかける。
「もちろん、セドリックを殺したいと思ってる人間なんて黄皇国には巨万といるわよ。実際、毎年のように食事に毒は盛られるし、何度も夜道で刺されかけてるし、刺客はしょっちゅう送られてくるし」
「……っはい!?」
「ま、ラオス将軍がこの城に招いて下さってからはいくらかマシになったけど、今も彼の暗殺を企てている輩はいくらでもいるでしょう。皇家の血を引いてるってだけでも問題なのに、セドリックの場合、あちこちで人の恨みを買っているから……正直言って、今も生きてるのが不思議なくらいよ」
「で、ですが私が赴任してきてからは、そのような話は一度も……」
「大抵はセドリックが自分で何とかしちゃうからね。彼も命を狙われるのに慣れすぎて、急に襲われても冷静に返り討ちにしちゃうし、毒も盛られすぎてかなり耐性がついてるから……だけど一番の問題は本人がそれを問題だと認識してない点よ。だから周りが何を言っても聞かなくて、自分から危険に飛び込んでばかり……」
と、そこまで言ってから、再び頬杖をついたナンシーは「はあ……」と深いため息を漏らした。すると彼女を気遣うようにおずおずと香茶を差し出したモニカが、一瞬ためらう素振りを見せてから意を決した様子で言う。
「そういえば、ナンシー先生……何日か前にもセドリック隊長と口論なさってましたよね? わたしがお使いから戻ったら、怖い顔したセドリック隊長が医務室から出てくるのが見えて……」
「……モニカ、あなた、あの口論を聞いてたの?」
「い、いえ、おふたりが何を話されていたのかまでは知りません! ただすれ違うときに一応ご挨拶したら、隊長から〝しばらくナンシーを頼む〟って言われて……それでわたし、またおふたりが喧嘩なさったのかと……」
後ろめたそうな上目遣いでそう言いながら、モニカは淹れたての香茶をナンシーの執務机の上へと置いた。だが今の彼女の話はかなり重要な証言だ。
〝しばらくナンシーを頼む〟と行方を晦ませる前のセドリックが確かにそう言っていたならば、しばらくというのはつまり自分が城を留守にする間、という意味ではなかろうか。ということはやはりセドリックは、自分の意思で消息を断った可能性が高いということか?
先程ナンシーが明かしてくれたような刺客に襲われて、エリクらの目が届かないところで殺されてしまった可能性もゼロではない。しかしこれまでも大抵のことはセドリックがひとりで乗り切ってきたというのなら……。
「ナンシー先生。セドリック殿と口論をされたのは何日前のことですか?」
「何日って……確か三、四日前のことだったと思うわ」
「では、それからセドリック殿とはお会いになっていない?」
「ええ……そうね。会ってない」
「では先生も、セドリック殿がどこへ行かれたのかはご存知ないのですね」
「え……え? セドリック隊長、どこかにお出かけされたんですか?」
「……」
「……ナンシー先生?」
向かい合って座るエリクとナンシーに挟まれた位置に立ちながら、困惑した様子のモニカが両者を交互に見比べた。が、ナンシーは何故だか黙り込んで答えない。
そこでエリクはようやく理解した。
ナンシーはセドリックが消えたことも、恐らくはその理由も知っている。
だが話したくない、あるいは話せないがために話題を逸らしたり、戯けたりしてみせていたのだ。シグムンドやスウェインの読みは当たっていた。セドリックとナンシーの関係は、どうやらエリクたちが思う以上に深いものらしい。
「ナンシー先生」
「……………はあ、やっぱりダメね。セドリックには〝誰にも言うな〟と口止めされたけど、このまま放ってはおけないわ」
「ではやはり先生はセドリック殿の行き先をご存知なんですね? 教えて下さい、彼は今どこにいるんです?」
「ごめんなさい。私も具体的な行き先は知らないの。ただ五日経っても帰ってこなかったら、そういうことだと思えって……」
「そ、そういうこと、って、どういうことです?」
「……つまり──」
まるで話が見えないらしいモニカの問いかけに、ナンシーは口を開きかけた。
しかし深紅の口紅で彩られた唇は微か震えるばかりで、二の句が継げない。
ややうつむいた彼女の表情は眼鏡の反射に隠れて見えず、エリクはそこにあるのが不安か恐怖か読み解けなかった。
いや、あるいはナンシーは、そのどちらをもひとりで抱えて──
「つまり、セドリックは」
と、やがて彼女がそう口を開きかけた直後だった。突然医務室の入り口が勢いよく蹴り開けられて、とんでもない轟音が静寂を劈いていく。されど驚いたエリクらが揃って飛び上がった刹那、場違いなほど柄の悪い男の声が室内に響き渡った。
「よぉ、ナンシー。お前があんまりうるせえから、お望みどおりとっとと帰ってきてやったぜ……って、あ? なんでここに赤茄子頭が居やがるんだよ?」
唖然としたエリクらが振り向いた先。
そこにはいつもの軍装ではなく、貴族というよりは中流階級の子弟が好んで身につけそうな砕けた私服に身を包んだセドリックがいた。〝赤茄子頭〟とは言わずもがなエリクのことだろうが、今はそんな侮辱的な呼び方をされたことに憤る余裕もない。当のセドリックもまさか目の前にいる三人が、ちょうど自分の行方について話し合っていたところだなどとは夢にも思っていないのだろうが──
「セドリック!」
ところがエリクが面食らうあまり椅子の上で固まっていると、にわかに彼の名を呼んだナンシーが立ち上がった。かと思えば彼女は靴の踵を鳴らしながら戛々と、足早にセドリックへと近づいていく。
「おい、ナンシー。感動の再会を喜ぶのはいいが、その前にだ。あの赤茄子頭が邪魔だから、まずは野郎を追い出して──って、いってえ!?」
次の瞬間、まるでいつもの調子で振る舞うセドリックの左頬にナンシーの平手が炸裂した。パンッと鋭く響き渡った殴打音と、途端にセドリックが上げた悲鳴に、モニカが隣でびくりと肩を竦めている。
「この馬鹿! あんなに心配させておいて、どの面下げて帰ってきたのよ!? 無事に帰ってきたのは何よりだけど、当分ここには来ないでちょうだい! 今は顔も見たくないわ!」
と声を荒らげるが早いか、ナンシーはセドリックを廊下へと押し出して光の速さで扉を閉めた。そうしてしっかり鍵までかけたあげく、ふん、と鼻を鳴らした彼女はセドリックの無事を喜ぶどころか、さも腹立たしげに腕を組んでいる。
そんなナンシーの後ろ姿を呆然と見やりながら、このときエリクは確信した。
いかにエマニュエル広しと言えども、あの『狂犬』に思い切り平手を張れる女性など、きっと彼女を置いて他にはいまい、と。




