130.彼女たちの未来のために
サバンが部屋を取っている城内広場の宿泊所へ向かう道すがら、エリクは今までのことをぽつり、ぽつりと洗いざらい彼に話した。すなわち自分がルミジャフタへ帰ることをためらってきた真の理由──親友の存在についてだ。
サバンもイークの名前自体は、カミラから聞いて知っているようだった。
が、彼が今、フィロメーナの右腕として反乱軍を率いる立場にあることは、今日まで打ち明けられずにいたのである。
「なるほど……これでようやく合点がいきました。アンゼルム様は単に義心や使命感によって我が国に留まられていたわけではないのですね。実はずっと不思議だったのですよ。いくら黄皇国の建国に携わった太陽の村のご出身とはいえ、この方がここまで熱心に我が国に尽くして下さるのは何故なのだろう、と……」
それが類稀なる志の高さから来るものではなく、ごく個人的な事情も孕んでいたためだったのだと知って、少しだけ安心しました、とサバンは笑った。
彼は自国の汚濁のためにエリクが故郷に帰れずにいるのだと思い、トラモント人としてずっと忸怩たる思いを抱えていたというのだ。
そしてイークとの関係についてもエリクの思う以上に深い理解を示してくれた。
故郷で彼について話していたときのカミラの様子を思えば、イークがエリクら兄妹にとってほとんど家族同然の存在だということは容易に想像できる、と。
「ですがだからこそ余計に、おひとりで村を飛び出してしまわれたカミラさんのお気持ちも分かります。大切な家族を一度にふたりも失ってしまったら、せめて生死だけでも確かめたいと願うのは無理からぬことです。アンゼルム様もご存知のとおり、私の家は代々行商を生業としておりまして、父も当然行商人でしたからね。商いに行ったまましばらく音沙汰もなく、いつ帰ってくるかも分からないということがたびたびあったのですよ──今の私がまさにそうであるように」
そう言って苦笑してみせたサバンも、幼い頃はいつも首を長くして父の帰りを待ち侘びていたと言った。父は商人のくせに寡黙で筆無精な人だったから、出先から便りを寄越すことも少なく、生きているのか死んでいるのかさえ分からないことが何度もあったのだと。そのたびに自分も家を飛び出して、父を探しに行きたい衝動に駆られたものだとサバンは言う。けれど彼がそうしなかったのは、同じように父の帰りを待つ母やふたりの妹がいたためだ、とも。
「要するに、私には守るべきものがあったから踏み留まれた……とでも申しましょうか。父の不在中は私が唯一の男手として家族を守らなければならないと、そう思うことでどうにか不安を封じ込めていたのです。しかしカミラさんには、彼女を村に引き留めておくものが何もなかった……これはやむを得ないことで、決してアンゼルム様のせいではありませんよ」
「……」
果たして本当にそうだろうか。サバンの心遣いは有り難かったが、エリクにはいくつも折り重なった不運はすべて自分が招いたことではないかと思えて仕方なかった。たとえばサバンたちと共にラムルバハル砂漠を越えて黄皇国へ戻った日、ガルテリオに会いにいく選択をしなければこうはならなかったのではないか?
あのときは結果的にシャムシール砂王国の侵攻から彼らを守ることができたからいいとしても、その後、共に黄都へ上らないかというガルテリオの誘いを断っていれば? あるいは黄都で憲兵隊とことを構えたあと、大人しく故郷へ逃げ帰る道を選んでいたら──?
(……思えば何度も引き返せる場面はあったはずだ。なのに俺は結局、自分の夢を捨てられずに……)
父のように生きてみたいだとか、シグムンドから受けた恩を返したいだとか。
そんな御託を並べた結果、エリクが手にしたのは兄弟同然の親友を敵に回し、最愛の妹までも危険に晒す未来だった。おまけに自分さえいなければ、シグムンドは今もガルテリオの副官を続けられていたかもしれない。
彼がにわかに黄都守護隊長の任命など受けたのは、エリクをマクラウドから救うために取った行動が因で保守派に目をつけられたためなのだから。
(結局俺が黄皇国で為し得たのは、周りを振り回すことだけだったんじゃないか? 自分のわがままのために、誰も彼もを巻き込んで……)
考えれば考えるほど、エリクの中には後悔と懺悔ばかりが降り積もる。
やはり自分は間違えたのか。正しいと信じて選び続けてきた道は、すべて自分の利己心が作り出した都合のいいまやかしだったのか。
だとすればこれからどうすればいい? どうすればこの罪を償える?
三年ものあいだ父との約束に背き、妹をひとりにして、あまつさえシグムンドやガルテリオや、たくさんの人々の人生を狂わせた罪を──
「アンゼルム様」
ところが刹那、そう呼び止めるサバンの声が数歩後ろから聞こえた。
そこではたと我に返り、立ち止まって振り向けば、サバンも足を止めている。
どうかしたのかと尋ねようとして、しかしエリクは、自分を見つめる彼の眼差しがいつになく真剣なのに気がついた。いや、サバンは普段から商人とは思えないほど誠実で、真正直で、どんなことにも真摯に取り組む男ではあるのだが──あるいはひょっとすると今、彼は何かに憤っているのではないかと思えるほどに。
「ど……どうかされましたか、サバン殿?」
「……アンゼルム様。これだけは申し上げておきます」
と、彼が樺色の鍔広帽を脱ぎ、息が詰まるほどの眼差しを寄越して言ったのは、ちょうどスッドスクード城の北門と南門を貫く街道へ出るための、通用門が行く手に見え始めたときのことだった。かの門を抜け、街道を南へ下ればすぐに宿泊所が見えてくる。だというのにサバンはエリクを貫くように見据えたまま、動かない。
「アンゼルム様が今、ご自分の歩まれてきた道をどのように感じておられるのかは私ごときには量りかねます。されどひとつだけ確実に申し上げられることがあるとすれば、あなた様がこの国へ来て下さらなければ私は今、生きてはいなかったということです」
「サバン殿」
「あの日、魔物に襲われていたところをあなた様に助けていただかなかったら、今の私はありませんでした。もちろん私だけではありません。砂王国であなた様が助け出されたラヴィニアさんも、コーディ君もサユキさんも、きっと今とはまるで別の道を歩んでいたか、あるいはとうに命を落としていたことでしょう」
「……ですが、私は──」
「まだお分かりになりませんか。今のトラモント黄皇国には、あなた様に救われた人間が大勢います。これは命ばかりの話ではなく、文字どおり身も心も救われたのです。ですがあなた様が今日まで歩まれてきた道を否定なさるのならば、あなた様に救われた私たちが今、こうして生きていることもまた間違いですか? あなた様に出会うことなく、死んでいればよかったとおっしゃいますか」
瞬間、サバンが叫ぶように告げた言葉が、一条の見えざる矢となってエリクの心臓を貫いた。違う。彼らを助けたことまで、すべてが間違いだったとは思わない。
こんな自分でも誰かを確かに救えたのなら、それは喜ぶべきことだ。
しかし、ならば自分はどこで間違えた? どうすればよかった?
どうすれば国も家族も親友も、大切なものすべてを守れたのだろう?
「……サバン殿、私は……」
「いいえ、今は何もお答えいただかなくて結構です。ただしこれだけはお伝えしておきます。あなた様と出会えたことは私にとって至上の幸福であり、我が人生において最も輝かしい誇りでありました、と」
胸もとに押し当てた帽子をくしゃくしゃになるまで握り締め、瞳に涙を浮かべてサバンは言った。そんな彼の視線と共に注がれる熱が、想いが、先刻からエリクの中にある硬くて冷たいものを、わずかだが揺り動かそうとしている。
「アンゼルム」
そのとき不意に背後から呼びかけられてはっとした。振り向いた先には以外な人物の姿がある。普段は城内で擦れ違っても滅多なことでは声をかけてこない、第五部隊長のキムだ。平時だというのに今日も如才なく槍を携えた彼の眼光は鋭く、縦に古傷の入った黄金の右目はまっすぐにエリクを映していた。
まさかとは思うが、彼ももう何か聞きつけてきたのだろうか?
いや、普段からまったくと言っていいほど他人に興味を示さない彼に限ってそれはない。とすれば何か、先程の会議の席で言い忘れたことでもあったのか──
「……今日はお前に客が多いな」
「え?」
「北門に、お前に会いたいという客が来ている。今は都合が悪いようなら宿泊所に通しておくが、どうする?」
「お、俺に会いたいというと……どなたです?」
「名前は知らん。が、お前も会えば分かるはずだ」
と、いつもどおりまったく表情を変えずにキムが言うので、困ったエリクは思わずサバンへ目をやった。すると彼は「構いませんよ」とでも言うように頷き、エリクに選択を委ねてくれる。
「……では、ちょうど今から宿泊所へ向かうところでしたので、途中で北門に寄っていきます。門衛の詰所へ行けばよろしいですか?」
「ああ、客もそこに通してある。何かあれば歩哨に立っている俺の部下に言え」
「はい……ありがとうございます」
言われてみれば今日の警備担当は彼の部隊だったなとエリクが思っているうちにも、キムは何事もなかったかのように去っていった。その様子に若干の肩透かしを食らいながらも、遠くなってゆく彼の背に一瞥をくれてエリクはふと思い出す。
(ああ……そういえば去年の今頃、俺はキム殿にも叱られたんだったな。戦う覚悟がないのなら去れ、と……)
あの日、まるで迷いのないキムの槍に散々に打ちのめされた痛みを再び全身に感じながら、エリクは無言で歩き出した。サバンもそれを見て何も言わずについてくる。そうして通用門を抜け、言われたとおり北門の衛兵詰所へ顔を出すと、待っていた第五部隊の兵がエリクに気づき「こちらへ」と待機室へ通してくれた。
普段は警備担当の兵が歩哨に立つまで体を休めたり、仲間と過ごしたりするのに使われる部屋だが、入り口の傍まで行くと不意に聞こえるはずのない声がする。
楽しそうにキャッキャッと笑う子供の声と、幼子をあやすような女の声だ。
「あ……!」
ほどなくエリクが開かれた扉をくぐると、中にいた人物が打たれたようにぱっと立ち上がるのが見えた。つられてそちらへ目をやると同時に、エリクは思わず眉をひそめる──あれは誰だ? キムは会えば分かると言っていたが、エリクが視線を向けた先に佇んでいるのは、まるで見覚えのない女だった。
年はまだ若く、エリクとほとんど同年代に見える。
服装は見るからに平凡な平民のそれで、長く伸ばされた癖のある髪を、女の腕に抱かれた赤子が玩具のように掴んで振り回しているのが見えた。
「あ、あ、アンゼルムさま、大変ご無沙汰しております……!」
ところが女はエリクを見るや、花のように頬を染めてそう声をかけてくる。かと思えば慌てた様子で傍らに座る男を見やり「あなた、ほら、あの方が……!」と小声で何か言っていた。彼女が声をかけたのは、同じく平民らしい衣服に身を包んだ若い男だ。しかしエリクはそちらにも見覚えがない。
(一体何だ? 北門から訪ねてきたということは、レーガム地方の住人じゃなさそうだが……)
と、ますます不審に思ったところではたと気づいた。
それは女が、つられて立ち上がった男に腕の中の赤子を預けたときだ。
まるで宝物を扱うように子を差し出した女の右手には、指が足りなかった。欠けているのは小指と薬指。瞬間、エリクの脳裏に雷撃のごとく甦った記憶がある。
「あ……あなたは、カルボーネ村の……」
と、エリクがそこから先の言葉を継げずにいると、またもぱっと振り向いた女がいっそう頬を赤らめた。そうだ、間違いない。彼女は昨年黒竜山で起きたカルボーネ事件で、エリクがドルフ率いる賊軍に占拠されたカルボーネ村に潜入した際、拷問の見せしめとして指を切り落とされてしまった娘だ。
一ヶ月にも及ぶ監禁生活で窶れ切っていた当時とは別人かと思うほど、まるで印象が変わっていたためすぐには気づけなかった。
何せ傷と痣にまみれていた彼女の肌はすっかり張り艶を取り戻し、鑿で削がれたように痩けていた頬も、見違えるほど肉づきがよくなっていたから。
「はい、そうです。あのときあなたさまに助けていただいた者です」
ほどなくそう答えた女の声は震えていた。エリクを映す深緑の瞳にはうっすらと涙が浮かび、彼女が再会を心から喜んでいることを伝えてくる。
とすると後ろの赤子は彼女の……とエリクが思わず目をやると、今度は男の方が頭を下げた。年も彼女と近そうだし、恐らくは彼が赤子の父親なのだろう。
「よかった……こうしてお会いできるのを、ずっと心待ちにしておりました。あ、で、ですが、お忙しいところに押しかけてしまってすみません……!」
「い、いえ……それは構わないのですが、どうしてここに?」
「実は例の事件のあと、もともと結婚の約束をしていた彼と家庭を持ちまして……村もこの一年で、事件の痛手からようやくいくらか立ち直れたのです。そして今年の初めに、わたしにも無事子供が生まれて……当時の傷はまだ完全に癒えたわけではありませんが、それでもこうして母子共に元気でいることを、どうしてもアンゼルムさまにご報告したくて。そのために村を代表して、改めて御礼を申し上げに参りました」
緊張しているのだろうか、どこかたどたどしい口調でそう話してくれた彼女はしかし、本人の言うとおりとても元気そうだった。事件の直後は、カルボーネ村の者たちがドルフに植えつけられた恐怖や絶望から立ち直れるだろうかと案じたものだが、少なくとも彼女はすっかり母親の顔をしている。
夫の方も、もともと結婚の約束をしていたということはカルボーネ村の人間なのだろう。天領警邏の際、村に立ち寄って復興の経過を見守るよう頼んでいた部隊長たちからは、やはり事件の悪夢に耐えられず村を去ったり、自死を選んだりした村人も少なからずいるようだと聞いていたが、彼らはそうはならなかった。
きっと夫婦ふたりで支え合い、人生で最も暗い夜を共に乗り越えたのだろう。
そしてそこに我が子という名の太陽を授かった。年の初めに生まれたということは、時期を逆算すれば間違いなく夫の子であることが分かるし、きっとこれからはあの子が彼らの人生を明るく照らしてくれるに違いない。
「……そうですか。それはよかった。実は私も、カルボーネ村のことはずっと気にかかっていたのです。経済の基盤である坑道も事件のせいで埋まってしまいましたし、何より村の皆さんが受けた心の傷は、あまりに深すぎたのではないかと……」
「はい……実際に事件のあと、立ち直れなかった人たちも大勢います。ですがわたしには彼と、アンゼルムさまからかけていただいたお言葉があったからここまで来ることができたのです。今も村の再興を目指して頑張っている人たちは、みんな同じ気持ちだと思います。その節は本当に……本当にありがとうございました」
なおも瞳を潤ませながらそう告げた彼女は胸に手を当てて、深々とエリクへ頭を下げた。後ろでは彼女の夫もまた、妻と共に頭を垂れている。
そんな彼の腕の中から、母親似の翠眼を真ん丸にした赤ん坊が、興味津々といった様子でじっとエリクを見つめていた。
知らない人間が珍しくてたまらないのか、少しも視線を逸らそうとしない彼──あるいは彼女──の無垢な表情に、エリクも思わず口もとがゆるむ。
「……おふたりとも、どうか頭を上げて下さい。我々はただ、この国を守る立場にある者として当然のことをしたまでです。何よりおふたりが今日まで再生の道を歩んでこられたのは、我々のおかげというよりも、他ならぬあなた方自身の強さと努力があったからこそでしょう。こちらこそ、お元気そうな姿を見られて安心しました。ありがとう」
「アンゼルムさま……」
「おふたりが村の代表として訪ねてきて下さったことは、シグムンド様にもお伝えしておきます。慣れない長旅でさぞやお疲れでしょうから、今夜は城内に宿をご用意しましょう。宿泊費は隊の方で負担しますので、どうぞ気兼ねなくお体を休めていって下さい」
「あ……ありがとうございます。本当に、何から何まで……シグムンド将軍にもどうかよろしくお伝え下さいと、ブライアンさんからも伝言とお手紙を預かってきました。軍の管轄が違うので、なかなか直接ご挨拶に伺えないことを心苦しく思っています、と……」
「ブライアン、というと、カルボーネ村を守る地方軍分隊の……そうですか。ではハーリー分隊長も相変わらずご壮健でいらっしゃるのですね」
「はい。シグムンド将軍からの村への多大なご支援を、大変有り難く思っていますともおっしゃっていました。このご恩はいずれ必ずやお返しします、とも……」
そう言って差し出された手紙を受け取りながら、そういえば黄都守護隊からカルボーネ村への資金提供はすべてシグムンドの名義で行っていたのだったなと、差出人であるブライアン・ハーリーの名前を見ながらエリクは思った。もちろんシグムンド本人も私財を切り崩し、村の復興資金を提供しているのだが、エリクやジュードもどうせ目的が同じならと、シグムンドの名を借りて出資してきたのだ。
が、ジュードの出資に関してはシグムンドの許可を得ず、彼が勝手に名を借りて続けているようだから、ブライアンからの手紙の内容如何によってはその件を詰められるかもしれないなと、エリクは内心苦笑した。
けれども同時に、そんな想像は自分がこれからも黄都守護隊に身を置くことを前提としたものだと気がついて、手紙を持つ指先にわずか力を込める。
「……あの、ところでひとつ、つかぬことをお訊きしてもよろしいですか?」
「は、はい。何でしょう?」
「そちらのお子さんのお名前は?」
「あ……こ、この子の名前は、アンゼリカ……アンゼリカ、と申します」
「……アンゼリカ、ですか?」
「は、はい。その、あ、厚かましいかとは思ったのですが、どうしても村を救って下さった方のお名前を子供につけたいと思いまして……そ、それで、アンゼルムさまのお名前を勝手に拝借してしまいました。い……いけませんでしたか?」
「い、いえ……ちょっと驚きはしましたが、いけないということはありませんよ。むしろ光栄です。ですが名前がアンゼリカ、ということは女の子なのですね。もし差し支えなければ私も一度、抱かせていただいてもよろしいですか?」
「は……はい! 村の恩人であるアンゼルムさまに抱いていただけたなら、この子もきっと喜ぶと思います……!」
嬉しそうに頬を染めた母親の許可を得て、エリクは父親からアンゼリカと名づけられた赤子を預かった。が、いざ腕に抱いてみると、思ったよりずっしりとしている。首は既に据わっていて、御包みから覗くふくふくとした手や頬は健康そうだ。
知らない人間に抱かれても、泣きもしなければ暴れもしない。未だ興味深げに見開かれたまんまるな瞳は鏡のようにエリクを映し、キラキラと瞬いて見えた。
実にかわいらしい女の子だ。あやしながら見下ろせば思わず笑みが零れ、同時に腕に感じるなつかしい重みに、エリクは思わず目を細めた。
ああ、そうだ。そうだった。今から十五年前、自分は妹が生まれたときにもこうして彼女を抱いたのだ。息を引き取る前の母と、嬉し泣きしていた父と、妹の誕生を祝うべく駆けつけてくれた親友に囲まれながら。
「あ……アンゼルムさま?」
刹那、瞳からぽろりと零れ落ちたひと粒の雫が、アンゼリカのやわらかな頬に当たって弾けた。その小さな衝撃に驚いたのか、腕の中の彼女はぱちぱちと目を瞬かせるや「あぅ……」と声を発して手を伸ばしてくる。そうしてエリクに触れようとぱたぱたと振られる手の動きまで、あの日のカミラにそっくりだった。
本当に、自分はどうしてあの子を選んでやれなかったのだろう。初めて妹をこの腕に抱いた瞬間の喜びも、ぬくもりも、こんなに鮮明に覚えているのに。
「あ、アンゼルムさま、大丈夫ですか?」
「ええ……すみません。少し、故郷の妹のことを思い出してしまいまして……」
「い、妹さんがいらっしゃるんですか。きっとアンゼルムさまに似て、とってもかわいらしい妹さんなんでしょうね」
「はい。カミラは……あの子は私にとって、本当に大切な宝物でした」
そう告げて、エリクはアンゼリカを両親のもとへ返した。
在りし日の妹の姿と重なる彼女は、父親の腕の中へ帰ってもなお小さな手をぱたつかせていたが、求める指先に背を向けて、エリクはサバンを顧みる。
「サバン殿」
「はい」
「先程のご質問について……今は答えなくていいとおっしゃっていただきましたがやはり言わせて下さい。あなたや彼らのような善良な民を救えたことは、私にとってもかけがえのない誇りです。これまでも──そして、これからも」
エリクがそう答えた途端、部屋の入り口に佇んだサバンの双眸がわずか見開かれた。かと思えば彼はほどなく、年のわりにつぶらな瞳を潤ませて再び帽子を胸に当て、深々と頭を垂れる。そんなサバンに頷いてから、エリクは隅で待機していた第五部隊の兵を呼んだ。彼らには自分に代わって、ここにいるひと組の家族とサバンとを宿泊所まで送ってもらうことにする。
「申し訳ありません、サバン殿。シグムンド様からは私が宿までお送りするよう仰せつかったのですが、急ぎやらなければいけないことができたので、一旦失礼させていただきます。のちほど改めて宿を訪ねてもよろしいですか?」
「はい。私でお力になれることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
依然瞳に涙を浮かべたサバンに礼を言い、エリクは待機室をあとにした。最後に一度だけ振り向いた先で、自らの指を咥えたアンゼリカがなおもエリクを見つめている──どうか彼女の生きる未来が、平和で満ち足りたものであるように。
そのために自分は戦うと決めた。
他のどこでもない、このトラモント黄皇国で。




