125.望郷の夜
「──〝大穿界〟」
と低く告げたジュードが紙牌を卓上に展開した途端、場の空気は凍りついた。
〝大穿界〟。六枚の手札の中で特定の役を揃え、その優劣を競う遊戯『フレフト』において最強と言って差し支えのない役だ。計四十六枚からなる紙牌の山札にたった一枚しかない『魔王の降臨』と黒の札を五枚揃えることで成立する、世界の終焉を意味する手札。この役に唯一打ち勝てるのは、同じく山札に一枚しかない『母神の祝福』と白の札を五枚揃えた〝新世界〟のみと決まっている。
が、残念ながら『母神の祝福』は現在エリクの手の中にあり、残り五枚の手札で作られた役は〝一神教〟。これは同じ数字の札を四枚揃えた役のことだ。
そして手札に『母神の祝福』がある場合、残りの手札によって構成された役は通常よりも格が上がる。つまり〝一神教〟よりもさらに一段強い〝天神湊集〟と同等の手札が揃い、今度こそ勝てると踏んで三銀貨も賭けたというのに──まさかここで〝大穿界〟が出てくるなんて。
「はい……というわけで……また、俺の勝ち……」
「……おい、ジュード。お前、いくら何でも勝ちすぎだろ。まさかとは思うがイカサマしてるんじゃないだろうな?」
「イカサマは……やろうと思えば……できる……けど……ファーガス将軍がいるのに……使うわけ、ない……」
「いややろうと思えばできるのかよ!? つーかだったらここはそのイカサマを使ってでも負けて、将軍に華を持たせるとこだろ!? なのになんでお前はさっきからボロ勝ちして容赦なく金を巻き上げてんだよ!?」
「それは……病気の妹がいて……」
「見え見えの嘘つくな! 何だかんだでお前とも十年近い付き合いになるが、妹がいるなんて話は一回も聞いたことないぞ!」
というハミルトンの抗議を聞きながら、しかし負けは負けだと認めたエリクはため息と共に自らの手札を手放した。スッドスクード城の迎賓館一階にて、ファーガス及び第四軍出身の面々と飲み直し始めてから早一刻(一時間)。
かつての上官をもてなす酒を別口で用意していたハミルトンの提案により、集まった皆で紙牌に興じ始めたはいいものの、エリクもそろそろ負けが越してきて、手持ちの金がだいぶ怪しくなってきた。
というのもジュードが予想外に博奕に強く、エリクも引きのよさでは負けていないのに、あと一歩というところでどうしても勝てないのだ。それでも何度かは辛勝している自分でさえこれだけ苦しいのだから、まったく勝てていない他の面々はさぞかし弱り果てているだろうと思ったら、案の定ファーガスが、
「だーっ、もうやめだ、やめ!」
と真っ先に匙を投げた。彼は心底うんざりした様子で手札を放り出すや、ハミルトンが自費で取り寄せたという上物の蒸留酒を呷りながら悪態をつく。
「ったく、相手が誰だろうとまるで容赦しないかわいげのなさは相変わらずだな、ジュード。まさかとは思うがお前、シグが相手でもこうなのか?」
「シグムンド将軍は……そもそも、賭けごと……しませんから……紙牌も……牌合わせも……勝負したこと、ない……です……」
「ケッ、優等生気取りのつまらんやつめ。あいつも男なら賭けごとのひとつやふたつ嗜めばいいものを。だいたい博奕も女も酒もやらんとなると、あいつは何を楽しみに生きてるんだ?」
「そりゃやっぱ部下いびりやファーガス将軍に厭味を言うことじゃないですか?」
「ハミルトン。今のは笑うところなのかもしれないが、わりと冗談に聞こえんぞ」
「ま、まあ、ですがシグムンド様もああ見えてお酒はときどき嗜まれていますし、あとは読書や陣取り駒などをして過ごすのを好まれているようですよ。もっとも陣取り駒についてはシグムンド様が強すぎて、最近城内で相手をしてくれる者が減ったと嘆いておいででしたが……」
「うへぇ。あたし、陣取り駒ってそもそもルールが覚えられないんですけど、副長でも勝てないんですか?」
「俺も黄皇国に来てから初めて陣取り駒を知って、今も勉強中ですが、どれだけ練習を重ねてもあの方には勝てる気がしませんね……俺の故郷に伝わる似たような盤戯なら多少は自信があるのですが」
「へえ、太陽の村にも同じような遊びがあるんですか」
「ええ。使う盤の形状やルールは違いますが、手持ちの駒を賽を振って動かして、相手の陣地を攻めるという基本は同じです。あれなら俺も故郷では負けなしだったんですがね……」
「ああ、だが、そうだ、アンゼルム。太陽の村といえば、実はお前に土産がある」
「え?」
「お前を二次会に招いたのもそのためでな──ほら、こいつだ。先日太陽の村から俺宛に届いたものだが、お前がもらった方が嬉しかろうと思って持ってきた。要らなければお前の故郷の品だと言ってシグにでもくれてやれ」
そう言って俄然ファーガスが腰かけの裏から取り出したのは、そこそこ大きな麻の袋だった。一体何が入っているのかとエリクが目を丸くすれば、彼は早速袋の口を開け、中からいくつかの品を取り出してみせる。
そうして卓上に並べられたのは、何のラベルも貼られていない三本の黒い瓶に紙の包み、そして目を見張るほどなつかしいルミジャフタ模様の織物の数々だった。
「わあ~、すっごい綺麗! 将軍、何ですか、このカラフルな織物は?」
「こいつはキニチ織りと呼ばれる、太陽の村の伝統的な織物だ。現地の人間にしか織れない複雑な文様と独特な色使いが売りでな。特に黄皇国内では太陽神シェメッシュの神託の地で織られた品だと昔から神聖視され、結構な値がつくのだ。あと、こっちの包みはどうやらカカワトルのようだな」
「カカワトル?」
「黄都でも滅多に食えん高級菓子のひとつにチョコラータというのがあるだろう。あれの原料だ。太陽の村では加工して飲み物にするのが一般的な木の実らしいが」
「へえ。んじゃ、こっちの瓶は?」
「こいつはそれぞれに別の酒が入ってるようだが、生憎どれがどれだか俺には分からん。だからアンゼルムに味利きを頼もうと思って持ってきたのだ」
「お、お待ち下さい、将軍。そもそも郷の者は何故これらの品を将軍に……?」
「さてな。何でも郷の暦の上で重要な佳節を迎えたから、日頃友好関係にある黄皇国にも祝いの品を贈りたいとか何とか、文にはそんなことが書かれてあったぞ。太陽の村には俺たちが普段使っているハノーク暦とはまた別の暦があるのだろう?」
「え、ええ……確かに、郷の伝統的な祭事のために守られている暦が今もありますが……」
「ま、太陽の村からは、年明けや我が国の建国記念日にも友好の証として進物が届けられるからな。今回もその延長みたいなものだろう。聞けば文を寄越したトラトアニとかいう男は、お前の育ての親だそうではないか」
「……はい。あの……トラトアニ様は将軍に宛てた手紙の中で、私のことを何か書かれてらっしゃいましたか?」
「いや、お前についての言及はなかったが、以前シグからそう聞かされたのでな。お前のような男を育てた戦士と聞いて、少し会ってみたくなったぞ。今までも何度か文や使者でのやりとりはあったものの、直接顔を会わせたことはないのでな」
というファーガスの言を聞きながら、エリクは「そうですか……」と何とか平静を装って答えた。彼の治めるヴォリュプト地方は南の国境をルミジャフタのあるグアテマヤンの森と接しているために、昔からあの郷との交流が多いのだ。
だが郷の暦である天道暦の祭日に、わざわざトラモント黄皇国へ進物を贈るなんて話はエリクは聞いたことがない。
天道暦における祭日とは、あくまでルミジャフタにとって神聖な日として定められたものであって、郷の外まで巻き込んで祝うようなものではないからだ。
ということは、これは恐らくイークが身を置く反乱軍が黄皇国内でついに暴れ出したと知ったトラトアニによる苦肉の外交。
幸いにして今はまだイークの名や出身地は広く知れ渡っていないものの、いずれそれらが明るみに出たときに郷と黄皇国との関係をこじらせないための布石だ。
何しろルミジャフタがいくらトラモント人にとっての聖地とはいえ、黄皇国に反意ありと見なされて政治的に敵対すれば攻撃を受けない保証はない。
特に今の黄皇国の腐敗ぶりについては、トラトアニもエリクの文を通じて重々理解しているだろうから、何が火種となってルミジャフタにまで飛び火してくるか分かったものではないと警戒を強めているはずだ。ゆえに彼は郷と黄皇国の仲介役であるファーガスとの関係を、今まで以上に密にするべく手を打った。
イークの存在が黄皇国の逆鱗となり、たった数百人の民しかいない小さな郷に巨大な牙を剥かれることがないようにと。
(……トラトアニ様も黄皇国との関係には、これまで以上に気を遣われているはずだ。俺がこうしている今も、どうすれば郷を守れるかと心を砕いておられるに違いない。俺がもっと早くにイークを止められていればこんなことには……あの方にはカミラのことも任せきりだし、今のままじゃ会わせる顔がないな)
そんな忸怩たる思いに駆られながらも、エリクは卓に並べられた三本の酒瓶から一本を選び、コルクを抜いてみた。瓶の色が黒いため中身はよく見えないが、この薬草のような独特の香りは恐らく、様々な薬草や香草を加えて作られる蒸留酒の芋酒だろう。さらにもう一本、別の瓶を開けて覗いてみれば、暗い中でも白濁した液体で満たされているのが分かる。やや酸味の強いにおいから考えても、こちらは郷でよく潰した果実と混ぜて飲まれていた樹液酒だ。
(ということは、残りの一本は黄黍酒か。至聖所に奉納する酒を黄皇国に……トラトアニ様が今回の問題によほど頭を痛めておられる証拠だな)
と内心複雑な感情を抱きながらも、エリクは空いていた杯を手に取って三本目の瓶を傾けた。すると黄色く濁りのある液体が、微か甘い香りを放ちながら流れ出してくる。黄黍酒はルミジャフタではコロ芋と並んで主食とされる〝黄黍〟という名の穀物から作られる酒だ。
郷の中では最も古い歴史を持つ酒で、太陽神に捧げるのにふさわしい黄金色をしているからと、数百年前から神聖な儀式に使われてきた。そんな郷の歴史に思いを馳せながら、エリクは黄黍酒入りの杯をファーガスへと差し出す。
同じようにハミルトンやロッカ、ジュードの分も用意しながら、この酒の由来について簡単に説明した。
「黄黍酒は他ふたつの酒と比べて、郷の外の方でもだいぶ飲みやすいと思います。古くはにおいや酸味のキツい口噛み酒だったそうですが、今はクセも少なく日持ちがする酒として生まれ変わっているので……酒精度はさほど強くないものの、あまり酒を飲み慣れていない女性などにもおすすめですよ」
「ほう。しかしシェメッシュのために作られる酒とは縁起がいいな。どれ、では一杯馳走になるとしよう」
と、杯の中をしげしげと眺めて感心しているところを見るに、長年ヴォリュプト地方を治めてきたファーガスでさえも黄黍酒を見るのは初めてらしかった。
郷の中ではさほど珍しい酒ではないのだが、やはりキニチ族にとっては神のための酒であるためか、郷の外へは滅多に持ち出されないのだ。
ところがいざファーガスが手に取った杯に口をつけようとした刹那、突如として談話室に響き渡ったコンコンという音色があった。
驚いた皆が振り向けば、そこには迎賓館の玄関広間へと続く扉がある。
「すみません、遅くなりました。第四軍第三部隊所属のラッカ・アレグリアです」
次いで外から聞こえた女の声にぱっと表情を明るくしたロッカが立ち上がった。
ラッカ・アレグリア。その名前は間違いない。
どうやら噂のロッカの妹がようやくやってきたようだ。




