124.憧れは今もまぶしく
スッドスクード城西側の兵舎区には、位の高い来客が来たときにのみ使用される迎賓館がある。武骨な石造りの建物ばかりのこの城で唯一華やかなトラモント文化を感じさせる、貴族の小屋敷のような館だ。
エリクたちが黄皇国中央第四、第五、第六軍を迎えた日の夜、その館ではちょっとした歓迎の宴が催されることになっており、直前まで城の女中たちが忙しく支度に追われていた。こういう機会でもなければ城の者さえ滅多に立ち入らない場所なので、エリクも足を踏み入れたことは指折り数えるほどしかない。
「では、祖国の安寧と幸多き新年の到来を祈って──」
「乾杯!」
かくして迎えた縁神の刻(十八時)。
きらびやかな金の燭台で飾られた迎賓館の食堂で、白い掛布のかかった食卓を囲んだエリクたちは、城主であるシグムンドの音頭に合わせて葡萄酒入りの杯を掲げた。そうして皆が食前酒を愉しんでいるところに次々と運ばれてくる前菜は、シグムンドが黄都から呼び寄せたメイナード家の料理長が腕を揮ってくれたものだ。
さらに客人である将軍たちへの給仕を担当するのも、エリクとはすっかり顔馴染みとなったメイナード家の副執事。スッドスクード城には雑役に従事する女中や下男こそいるものの、貴人をもてなす際の作法に明るい人材が少ないため、勝手をよく知る家人たちをシグムンドがわざわざ城へ招いたのだった。
「ほう。ではアンゼルム、お前はその冒険記とやらに出てくる人喰いでない竜人と数ヶ月を共に過ごしたということか。普通ならとんだホラ話だと笑い飛ばすところだが、お前のような生き証人がいるのなら、信憑性のある話だと思っていいのだろうな」
「確かに冒険記って完全なデタラメを書いてるものも多いって言いますもんね。だけどいいなー、アビエス連合国でしか出会えない鼠人や猫人のお知り合いがいるなんて。副長も何気に顔が広いんですね」
「いえ、知り合いと言っても、もう二十年近くも昔のことですから……ですがそういえば、トラモント黄皇国ではあまり獣人を見かけませんよね。三神湖に囲まれた地域には獣人たちの自治区があると聞いていたので、郷を出る前は黄皇国でもきっとたくさんの獣人が暮らしているのだろうと思っていたのですが」
「獣人居住区のことだな。確かにあの土地では何種族もの獣人たちが暮らしているが、我が国とは古くから不干渉条約が結ばれている。そしていつの頃からか、条約の存在が〝人間と獣人は互いに干渉してはならない〟というような誤った解釈をされるようになり、交流が希薄になってしまったことは事実だ。実際正黄戦争の折りにも、居住区の獣人たちは条約を理由に我々への協力を断っているしな」
と、エリクの疑問に答えたのは、副官のコラードと並んで食卓についたハーマンだった。行軍中に身につけていた鎧を脱ぎ、略式の青い上着を着こなしたハーマンの姿は昼間とはまた違った印象を覚える。
今夜の会食は気心知れた身内ばかりを集めた席なので、ハーマンの服装は至って飾り気のないものだったが、それでもさまになっていると感じるのは彼もまた由緒正しき貴族の生まれであるためなのだろう。
「しかし同じ理由であれこれ余計な要求をしてこないだけ、居住区の獣人たちは善良だと言って差し支えないでしょう。彼らは意思の疎通が困難な竜人と違って、ハノーク語も問題なく通じますし」
と、続けて湖魚の包み焼きを切り分けながら告げたのは、ハーマンの向かいに座すマティルダだ。城に到着した直後は軍装に身を包んでいた彼女も、今は髪の色に合わせた絹地の上衣に、乗馬着に似た丈の短い上着を羽織った姿で着席している。
下にはすらりとした脚線美があらわとなる脚衣を穿いていて、ほとんど男装に近いいでたちだ。にもかかわらず、不思議と女性らしい優雅さと気品を感じられるのは、華やかな色合いでまとめられた衣装と、貴族令嬢としての洗練された所作ゆえだろうか。こんな女性が軍人としての職務に忠実すぎるあまり、一部の貴族たちから「男勝りの行き遅れ」などと嘲笑されているのが、エリクにはひどくもったいないように思われた。
「ですがアンゼルム殿のお話にもあったとおり、竜人の中にもハノーク語を解する者がいるのは確かです。私も砂王国にいた頃に、砂都で人間と会話している竜人の姿を見かけたことがありますから」
「えっ……さ、砂王国では竜人が普通に街を歩いているのですか?」
「ええ。彼らは谷に食糧が不足すると、よくシェイタンに奴隷を買いに来ていましたので……もちろん使役するためではなく食用として、ですが」
「実際に砂王国で暮らしていたやつの口から聞かされると生々しいな。しかし冒険記の記述やアンゼルムの話によれば、それと似たような取引をシャムシール人以外ともするようになった竜人がいる、ということなのだろう?」
「はい。私が砂漠で交渉したのはドラウグ族という部族の竜人だったのですが、彼らの支払う砂金と引き換えに人か家畜を提供すれば、隊商は襲わないという話でした。そこで隊商が連れていた予備の家畜を渡したところ、確かに砂金と交換してもらえましたし、隊商が魔物や危険生物に襲われないよう、ひと晩の護衛まで引き受けてくれましたよ」
「ふむ。以前であればラムルバハル砂漠を横断する人間は、彼らに見つかれば手当たり次第襲われていたことを思えば、画期的な進歩だと言えなくもないな」
「そして同じことを今度は国として実現できれば、オディオ地方を守る第五軍の負担が軽くなる……とコラードさんはお考えなのですよね?」
「ああ。現に砂王国は同様の手法で竜人と同盟を結んでいるわけだから、我が国も彼らと友好的な取引ができれば、もう二度と侵攻に怯えなくて済むのではと思っている。もっともそのためには領内の畜産業を助成して、竜人に供給するための家畜を増やす必要があるが……」
「まあ、言いたいことは分からんではない。だが仮に竜人との交渉が可能だとしても、長年やつらの戦力を恃みにしてきたシャムシール人どもが黙って認めるか? 黄皇国から安定して食糧が供給されるとなれば、竜人は砂王国と共に戦う必要がなくなるだろう。そうなれば砂王国にとっては痛手のはずだ。やつらがあの不毛な砂漠で生き延びるためには、近隣国からの略奪が不可欠なんだからな」
と、そこで酒入りの杯を片手に鼻を鳴らしたのは、黄皇国ではあまり見かけない衣装をまとったファーガスだった。
トラモント貴族たちが好んで羽織る絢爛な上着よりも丈が長く、踝まですっぽりと覆う貫頭衣に似たあれは〝ディグラ〟と呼ばれる南東大陸由来の衣装らしい。
何でも軍学校を卒業してすぐ西のイーラ地方に赴任したファーガスは、砂漠化が進むかの地の気候に辟易し、何か少しでも快適に過ごす方法はないかと模索した。
結果出会ったのがディグラというわけだ。やり手の貿易商を父に持つファーガスは、広大な砂漠地帯で暮らす南東大陸の人々の衣装なら、砂漠気候で暮らすための工夫が凝らされているはずだと踏んで取り寄せた。この判断は実に合理的で、何百年ものあいだ砂漠と共に生きてきた人々の智恵の結晶であるディグラはとても軽くて涼しく、以来彼はこればかり好んで着るようになった。
おかげですっかりディグラの着心地に慣れてしまい、今でも非公式な場ではああしてあの服を着てくるらしい。そんな彼の嗜好を指してシグムンドは「横着だ」と呆れていたが、エリクはむしろいい趣味だと思った。ディグラは全体的にゆったりとした作りで着心地がよさそうだし、意匠だって悪くない。
深みのある紫紺の生地の胸もとを飾る銀糸の刺繍も美しく、彼の詩爵としての身分を存分に引き立てているように見えた。
「あー、確かにその問題はありそうですねえ。仮にシャムシール人がゴネて竜人と揉めた場合、原因を作った黄皇国に対して竜人が〝砂王国との仲間割れを狙った策略だったんじゃ?〟って不信感を持つ可能性もありますし、そうなりゃせっかくの取引もご破算だ。かと言って砂王国との同盟を認めたままやつらを餌づけするとなりゃ、今度は黄皇国のお上が利敵行為だとか何とか言って騒ぎそうだし」
「確かに……今の上層部って……そういうこと……言いそう……俺たちにしてみれば……上層部の、言うこと……大人しく聞く方が利敵行為……だけどね……」
「ほう。ハミルトン、ジュード。お前たちもしばらく見ない間に、ずいぶん政治が分かるようになったじゃないか。見直したぞ」
「あんまり褒めないで下さいよ、ファーガス将軍。ジュード隊長はともかく、第三部隊の隊長はちょっとおだてられるとすーぐ調子に乗るんですから」
「なんだ。政治の話はできるようになったのに、ロッカの尻に敷かれてるのは相変わらずか」
「いやほんと、腐れ縁もここまで来るともはや諦めの境地ですよ。これだから乳も態度もデカい女は……」
「ハミルトン。淑女の前だぞ」
「おっと。こいつはお耳汚しを失礼しました、マティルダ将軍」
「シグムンド殿は〝淑女〟が私だけとはおっしゃっていませんが?」
「え? けど今日はエルダさんもサユキもいないし……」
「シグムンド将軍。明日からしばらくうちの隊長が不在になるかもしれませんが、構いませんよね?」
「永久に不在になるのは困るが、まあ、ひと月くらいなら構わんだろう」
「全治一ヶ月って相当な怪我ですよ将軍!? 構いますよね!?」
と、ハミルトンが思わずといった様子で声を荒らげれば、酒席はどっと皆の笑いで溢れた。その後も話題は竜人問題から同様の課題を抱えるクェクヌス族問題、そして反乱軍の動静などに及んだが、せっかくの宴の席の空気が重くなりすぎずに済んだのは、やはり同席した将軍たちの人柄によるところが大きいように思われる。
(ファーガス将軍はさすがハミルトン殿の元上官というだけあって大味な言動が目立つが、商家のご出身だからか利害の計算が早くて政治感覚もかなり鋭い。おまけにハーマン将軍やマティルダ将軍も、話してみると肩書きから受ける印象ほど堅苦しくないというか、むしろ砕けていて親しみやすいくらいだ。やっぱりトラモント五黄将に選ばれるような人たちは、黄都で爵位や階級に胡座をかいているだけの連中とは違うな……)
老若男女、派閥の異なる貴族たちが笑顔の仮面を貼りつけて集まる場では分からなかったが、こうして身内だけで顔を会わせてみると彼らの本質がよく分かる。
中でもエリクが強く感じたのは、正黄戦争を共に戦った彼らの間に通う絆だ。
戦場で互いに命を預け合ったという事実に裏打ちされた絶対的な信頼と、理想を同じくする者同士の深い理解。そんな彼らの関係を見ていると、エリクの胸に抑え難い感情が沸き起こる──ただただまぶしく、羨ましい、と。
(俺もいつかは、本当の意味での同志として認めてもらえる日が来るだろうか)
黄皇国に仕官して、じき丸二年。
思えばエリクが最初にこの国に仕えたいと思ったのも、シグムンドやガルテリオが掲げる理想と、彼らの人柄に心惹かれたからというのが大きかった。
単にシグムンドから受けた恩を返すだけなら他にもやりようはあったし、親友と敵対する可能性が立ち現れた時点で身を引いていたはずだ。
けれどもそうできなかったのは、主君と国家のために命を捧げる彼らへの強い憧れを抱いてしまったからに他ならない。
どうせなら自分も彼らのように生き、彼らのように死にたい、と。
「では、シグムンド殿。今宵はうまい酒と温かい心尽くしを大変ありがとうございました。おかげさまで非常に有意義な時間を過ごせましたよ」
「なんの。こちらこそ新年を共に祝えない分、今夜のうちに酒を酌み交わせて何よりでした。どうぞ残りの旅程に備えて、明日はごゆるりと休まれよ」
「そうさせていただきます。シグムンド殿もよい夜を」
そうして三刻(三時間)近く皆で酒肴に興じたのち、宴席はついにお開きとなった。正直、後学のためにまだまだ将軍たちの話を聞いてみたいという思いは尽きなかったが、彼らも領地からの長旅のあとで疲れているはずだ。
ならば無理に引き留めるわけにはいかないだろう──と思っていたのだが、
「おい、アンゼルム」
と、城主に礼を述べて客室へ引き取ってゆくハーマンとマティルダを見送ったのち、務めを果たしてくれたメイナード邸の使用人たちをねぎらいに行こうかと話し合っているさなかに、エリクはふと名前を呼ばれた。誰かと思って振り向けば、そこには長い砂漠暮らしで日に焼けた頬を酒気で染めたファーガスがいる。
彼の後ろにはハミルトンやロッカ、ジュードの姿も認められた。
スウェインやクラエスは既に隊舎へ戻ったはずだが、彼らはかつての上官と話し込み、未だ迎賓館の玄関広間に留まっていたようだ。
「どうかされましたか、ファーガス将軍?」
「ああ、実はハミルトンのやつが気をきかせて、個人的に買っておいた酒があると言うんでな。これから談話室で二次会と洒落れ込もうと思うんだが、よかったらお前もどうだ?」
「えっ……わ、私もご一緒してよろしいんですか?」
「おう、お前も明日は休みだろう? ああ、だが、シグ、お前は来なくていいぞ。せっかく元部下が自腹を切って用意してくれた酒も、お前の苦り切った顔を見ながら飲んだのではまずくなる」
「言われずとも、最初からお邪魔するつもりなど毛頭ありませんのでご心配なく。深酒は貴族の美徳に反しますからな」
「ほう、そいつは殊勝なことだ。ではお言葉に甘えて、平民は平民同士仲良くやらせてもらうとしよう」
とファーガスは相も変わらず傲然と言い放ったが、灰色の口髭で飾られた口もとが微か引き攣っているところを見ると、シグムンドの吐いた皮肉が思いのほか効いていると見えた。その様子を見て、ああ、このままだとまたふたりの罵り合いが始まるなと予感したエリクは「分かりました」と答えて会話を遮り、ファーガスの誘いに乗ることにする。
ついでにコーディも一緒にどうかと声をかけてみたものの、実を言うと彼はそこまで酒に強くなく、宴席で供された葡萄酒だけで既にできあがってしまったのでと辞退された。サユキはもともと、今夜の酒席は自分には場違いだからと言って来ていないし、そういうことなら今回は自分だけ元第四軍の輪に混ぜてもらうかと、エリクはひとりでついていくことにする。
「ではな、アンゼルム。忠告しておくが、酔ったファーガス殿の話は長くてくどいぞ。あまりずるずると遅くまで付き合わされて、せっかくの休日をふいにすることがないよう気をつけたまえ」
「え、ええ……肝に銘じておきます。コーディ、悪いが隊舎までのシグムンド様の警固は頼んだぞ」
「はい、お任せ下さい」
コーディは笑顔で頷くと、帰る前に使用人たちのいる厨房へ寄っていくというシグムンドに付き従って食堂の奥へと消えた。するとそんなふたりの背中を見送ったファーガスが、フンとさも不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「まったく、いつ会っても不愉快なやつだ。あいつはいつになったら目上の者への敬意というものを覚えるんだ?」
「はは……シグムンド様もファーガス将軍のことは親しい朋輩だと思われている、ということではありませんか? 相変わらず大変仲がよろしいですね」
「馬鹿を言え。あいつのあの態度はどう見ても憲兵隊長や財務大臣に対するのと同じだろう。ワーグマン先生やガルの前では猫を被ってしおらしくしているくせに、ほとほと癇に障るやつだ」
とファーガスはなおも苦々しい顔で悪態をついていたが、エリクにしてみれば、それはシグムンドがファーガスには心を許しているからこそではないのかと思われた。つまりファーガスを相手にするときだけは畏まる必要も上辺を繕う必要もないから、シグムンドも素の自分を出しているに違いないと思うのだ。
まあ、対するファーガスは相手が誰であろうが態度を変えず、言いたいことはずけずけ言う気質の人間だから、シグムンドの変わり身が余計に気に食わないのかもしれない。とはいえ幼い頃から高度な処世術を必要とする貴族社会で育ち、今も黄都ではメイナード家の主、城では黄都守護隊の長として過ごさねばならないシグムンドにとって、対等な立場で話せる相手というのは極めて稀少だろうから、今後も仲良くしてやってほしいとエリクなどは思うのだが。
「まあいい、とにかく今は酒だ、酒。おい、アンゼルム。お前もそこそこ飲めるクチだろうな?」
「ええ……よほど強い酒でなければ、朝までは飲めますよ」
「おう、そいつはいい。お前とは一度、シグの目のないところで話しておきたかったんだ。悪いが今夜は付き合ってもらうぞ」
そう言ってニカリと笑うや否や、ファーガスはエリクの肩に親しく腕を回してきた。そうしてハミルトンに酒の準備を急かす姿は、大将軍というより下町の気のいい親方のようだ。シグムンドにも引けを取らないくらい気難しい一面を見せたかと思えば、利に聡い商家の子息としての顔や、いかにもトラモント人らしい気っ風のよさを見せたりもする。
まさにこの人は掴みどころのない『雄狐』だなと、エリクは内心苦笑した。同時に時折覗かせる子供っぽさが、やはりシグムンドの親友らしいなと思いながら。




