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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第4章 迷い子たちのバラッド
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120.斬るものと斬られるもの


 冬の森で、一本の木と向き合っていた。

 幹の太さはエリクの腕でもひと抱えほどはあるだろうか。

 見上げれば頭上にはうっすらと雪を被った黒い枝葉が伸びている。針葉樹は冬の間も葉を落とさないが、やはり春や夏に比べて日照時間が短いためか葉は瑞々(みずみず)しさを失くして黒ずみ、身を固くしながらじっと風の冷たさに耐えているかのようだ。


 日はまだ高いものの、エリクの吐く息も白い。今年の冬もいよいよ本番を迎えようとしている。少し離れた森の中では、馬具をつけたままのシェーンが鼻先で足もとの雪を掻き分け、地表にわずか残った下草を黙々と()んでいた。

 エリクはそうした周囲の状況から意識を切り離し、ふーっと深く息を吐きつつ目を閉ざす。風の音、鳥の声、シェーンの気配──そして、自らの内にある雑念。


 そのすべてを頭から閉め出すと、自分の存在が少しずつ無に近づいていくような気がした。やがて肉体も魂も失くしたような、ひどくあやふやな感覚が全身を支配すると代わりに見えてくるものがある。それが今、エリクと向き合っている一本の木だ。いや、彼の幹の内に通う生命の鼓動と言ってもいいかもしれない。


 ──斬らないでくれ。


 閉ざした(まぶた)の向こうから、木がそう語りかけてくるような気がした。

 耳を澄ませばすっかり無音になった世界に、彼の立てる微かな呼吸の音だけが聞こえる。そうだ。樹木だって人間と同じように息をするのだ。それは彼らが大地に根を張り、懸命に生きていることを示唆している。けれどもエリクは答えた。


 ──いや、斬らねばならない。


 すると木がまた語りかけてくる。


 ──どうしてもか。


 なおも呼吸が耳を打つ。


 ──ああ、どうしてもだ。


 エリクがそう答えると、木はもう何も言わなかった。瞬間、エリクは眼を開くと同時に鋭く踏み込み、両手を添えた抜き身の剣で空間をひと()ぎする。

 ほとんど力は込めなかった。されど振るわれた剣は難なく木の幹をすり抜け、まるで空でも切ったかのように直線の軌道を描く。手応えがないのが手応えだった。

 エリクはもう一度深く息を吐きながら、役目を終えた剣を鞘へと戻す。(つば)と鞘口がカチンと触れ合う音に合わせて、柄の先に結われた羽根飾り(カラリワリ)がゆらりと揺れた。


 一拍ののち、エリクの向き合った樹木がズッと音を立てる。かと思えば木はゆっくりと傾き出し、やがて森を騒然とさせる轟音(ごうおん)を上げながら雪に沈んだ。

 その音と震動に驚いた鳥たちがわっと飛び立っていく。

 曇天の下の騒ぎを見上げながら、エリクはほうっと安堵の息をついた。


 ……よかった。俺はまだ大丈夫だ。


「シェーン」


 ほどなく剣の試しを終えたエリクは、まだ遠くで草を食んでいる愛馬を呼んだ。

 するとシェーンは、森の騒ぎを聞いてもびくともしなかった白い馬体をぶるりと振って頭をもたげる。そうしてピンと耳を立てるや、嬉しそうに歩み寄ってきた。

 エリクもそんな彼女の首を抱き、笑いながら銀の(たてがみ)()いてやる。


「悪い、待たせたな。そろそろ帰ろうか」


 冬の森に溶け込むような黒に近い深緑の外套(がいとう)(ひるがえ)し、エリクはシェーンの背に(また)がった。そこはスッドスクード城から東へ八(ゲーザ)(四キロ)ほど行った先にある名もなき森だ。境神(きょうしん)の月、永神(えいしん)の日。年末を翌月に控えた休日に、エリクはシェーンひとりを連れて気晴らしの遠乗りに出ていた。近頃隊舎にひとりで()もっているとどうにも気がくさくさするので、こうして外出することが増えたのだ。


 と言っても連休でもない限りは、近隣の町へ遊びに行くのも難しい──何しろ城から最も近い町でも移動に丸一日かかる──から、向かう先はもっぱら森かタリア湖畔だ。そうやって自然の中でぼうっと過ごしていると、同じ呆けるにしても部屋にいるよりは気がまぎれる気がする。

 加えて森へ行けば今日のように、樹木ごと余計な雑念を斬り払うこともできた。

 あの技はエリクが父から受け継いだ一子相伝の剣術だ。


 普通、どれほどの剣の使い手であっても、あんな風にひと太刀で木を斬り倒すのは難しい。熟練の木樵(きこり)でさえ、剣より遥かに丈夫で肉厚な斧でもって何度も幹を穿(うが)ち、ようやく切り倒せるものを剣のひと振りで両断するのは実は至難の技なのだ。

 けれども父にはそれができた。思えば父がよく幼いエリクを連れて森へ出かけていったのも、何かを悩んだり迷ったりしていたときだったように思う。そういうとき父はいつも木と向き合い、語り合い、最後にはひと太刀の下に斬り伏せていた。


「斬られる木には気の毒だが、この技が成功するとな。なんかほっとするんだよ。俺の剣は()びついちゃいない、ちゃんと斬れる、まだ戦える……ってな」


 そう言ってどこか心細そうに笑っていた父の言葉の意味が、最近ようやく分かった気がする。というのも父から教わったあの技は、剣に迷いや曇りがあると成功しない。失敗すれば剣が木に食い込んだまま抜けなくなり、最悪使い物にならなくなる。だからあれは()()()()()()()()()()()()()()と、かつて父はそう言っていた。


 俺はこいつができなくなったら戦士をやめるよ、とも。


(だけど、俺はまだ斬れる。まだ戦える──)


 冬空に向かって(そび)()つ『アンカルの壁』に沿って駆けながら、スッドスクード城までの帰り道、エリクは改めて自身の左手に目を落とした。

 あの日、ロマハ祭に沸く黄都(こうと)で、フィロメーナを引き留められなかった手だ。


 先月の始めに、彼女はいよいよ黄皇国(おうこうこく)へ宣戦布告した。


 ジャンカルロ亡きあとの救世軍を率いてパウラ地方の郷庁(きょうちょう)所在地を襲撃し、地方軍の庫から武具や軍糧を強奪したのだ。予期せぬ奇襲に対応できなかった地方軍は、ジャンカルロの弔い合戦に燃える彼らによって瞬く間に蹴散らされ、一時郷庁を明け渡すという大失態を喫した。救世軍はその間に倉から物資を運び出し、さらに郷守(きょうしゅ)の館に保管されていた金品や美術品の類まで根こそぎ奪っていったという。


 おかげで黄都は今、大騒ぎだ。何しろ郷庁で保管されていた物資や徴収済みの税を盗まれただけでも一大事なのに、救世軍は郷庁襲撃ののち、黄都にある帳簿を送りつけてきた。他でもない、占領した郷庁から奪ってきた郷区(きょうく)の徴税記録と、郷守の居館で発見したと(おぼ)しい裏帳簿だ。


 そこには当該郷区の郷守が表向きの徴税額を偽り、実際にはより多くの税を徴収して、国に報告していない分は不正に着服していた事実が克明に記録されていた。

 これはどういうことかと問われた財務局の担当監査官──年に数回地方へ(おもむ)き、徴税が不正なく行われているかどうかを監査する官吏(かんり)──は当初、救世軍による文書の偽造だと主張して言い逃れようとしたようだが、問題の裏帳簿には彼の接待費と号する経費もしっかりと書きつけられていたらしい。


 こういう不正を働く輩が自らの悪事の証拠となり得る帳簿などをわざわざ作成するのは、共犯者がそれの世に出ることを恐れて裏切れないようにするためと相場が決まっている。だから問題の郷守も共犯者の名を帳簿に残し、ご丁寧に偽造された文書でないことを証明する直筆のサインと家印の捺印まで完璧に添えていた。


 おかげでさしもの保守派貴族も「反乱軍が郷守のサインや家印まで精巧に偽造したと考えるのは無理がある」という他派閥の主張を覆せず、財務局には目下捜査の手が入っているらしい。もっとも捜査を担当するのは財務大臣であるヴェイセル・ラインハルトと蜜月の関係にある憲兵隊長(マクラウド)だから、大した成果は期待できないが。


(噂によればヴェイセルも帳簿に名指しで贈賄の記録があったらしいが、部下が勝手にやったことで自分は知らない、とシラを切り通す構えらしいし……とすればマクラウドもその証言を無理矢理通して、最後はトカゲの尻尾切りでことを収めようとするだろう。そして今も保守派が実権を握る黄都で、それに異議を唱えられる勢力はない。だが、もっと深刻なのは……)


 とエリクは駆けるシェーンの背から曇天を見上げて思う。現在黄都を最も騒然とさせているのはフィロメーナの父、エルネスト・オーロリーの失踪だ。彼はフィロメーナがいよいよ正式にジャンカルロの跡を継ぎ、祖国に反旗を翻したと知るや、


「家門の長として娘の凶行を止められなかった責任を取らせていただく」


 と一方的に官位を辞し、爵位と家督もまだ成人前の息子に譲ってさっさと隠遁(いんとん)してしまった。以後黄都でエルネストの姿を見た者はなく、跡目を継いだ息子ですらも行き先を知らないらしい。されどエリクには彼のあまりに迅速な引退劇が、初めから周到に用意されていたもののごとく感ぜられて仕方なかった。


 何しろエルネストがいくらかの『奇跡の軍師(エディアエル)』の再来と褒めそやされる天才だとしても、さすがに手際がよすぎるのだ。むしろあの見事な引き際は最初からこうなることを予見して、フィロメーナが動くと同時に政治の表舞台から姿を消す準備を万全に整えていたのではとしか思われない。


(一部の貴族たちは、やはりオーロリー卿は娘とつながっていて、救世軍に合流すべく行方を(くら)ませたのでは? なんて噂しているみたいだが……やっぱり俺には、フィロメーナを〝道具〟呼ばわりしていた彼の言葉が演技だったとは思えない。だとするとこの状況すらもオーロリー卿の計算の内で……彼はもっと別の目的のために、一時的に身を隠したんじゃないか……?)


 まったく、そんな考えを巡らせるだけでも頭が痛いというのに、交戦から丸一年が過ぎた今もクェクヌス族問題は一向に進展しないし、近頃領内に魔物が増えてその対応にも忙殺されるしで気の休まる暇がない。五ヶ月前、黄都が魔群の襲撃を受けた件もあるから、領内で魔物が急増しているのももしや自分のせいなのでは? という疑惑が拭えないのも余計にエリクを消耗させる。


 あの事件と〝赤い髪の魔女〟の因果関係を調べてくると言ってスッドスクード城を発ったベルントたちが、いつ頃戻ってくるのかもまったくの不明だ。

 何しろ彼らが一度合流して話を聞いてくると言っていたゲヴァルト族は常に世界中をさすらっており、ひとつところに長く留まらない。

 ゆえにベルントも自分の一族が今エマニュエルのどのあたりにいるのかまるで知らないらしく、まずは彼らの居場所を突き止めるところから始めると言っていた。


 だがもしも彼らの調査の結果、例の仮説が裏づけられたら? すなわち父のもとへ〝白き魔物〟を遣わしたという〝赤い髪の魔女〟があの日の魔群襲来にも関わっていたとしたら、自分はこのままここに留まってもいいのだろうか?

 ただでさえ政治的に混乱しているトラモント黄皇国に、自分がさらなる災厄を招くとしたら……いや、だとしても自分にはフィロメーナを止められなかった責任を果たす必要が……しかし万が一〝赤い髪の魔女〟の狙いが自分であるのなら、父の死の真相やその理由を調べなければ──


「あっ……アンゼルム様! お探ししましたよ……!」


 ところがエリクが押し寄せる思考の波に呑まれ、馬上で溺れかかっていると不意に前方から声がした。はっと我に返ってみれば、いつの間にか二(アナフ)(十メートル)ほど先にスッドスクード城の南門が見え始めている。

 無意識にシェーンを走らせるうち、気づけば城まで帰り着いていたようだ。

 目を凝らせば門前には外套を着込み、傍らに愛馬(フラテ)を連れたコーディがいて、こちらに手を振る彼の姿を見つけるなり、エリクは思わず苦笑した。

 ああ、これはまた盛大に叱られるな、と思いながら。


「やあ、コーディ。どうしたんだ、お前までそんな格好をして」

「どうしたんだ、じゃありませんよ! 聞けばまたアンゼルム様がおひとりで外出されたというので、慌てて探しに行くところだったんです! 入れ違いにならずに済んだのは幸いでしたが、お出かけの際には必ず供をおつけ下さいと、あれほどお願いしましたのに……!」

「悪い。ちょっとシェーンを走らせるだけのつもりだったから、わざわざ供をつけるほどでもないかと思って……」

「たとえ短時間の外出であっても油断は禁物ですよ! もしまたおひとりでいるときに魔物に襲われたりしたら、どうなさるおつもりです? ただでさえ最近ますます魔物の出没報告が増えていますのに……!」

「ああ、分かってる、悪かったよ。次からはちゃんと言われたとおりにするから」

「アンゼルム様、確か先月もそうおっしゃっていましたよね!? 本当に反省されてるんですか!?」

「う、うん、もちろん……ただせっかくの休日にまで、お前たちに供をさせるのが忍びなかっただけなんだ。次からは本当に気をつけるから……」


 と憤慨するコーディを(なだ)めつつ、エリクはシェーンの背を下りて謝罪の言葉を繰り返した。過去には何度か、勝手に外出したことがバレずに済んだこともあったから、今回もどうかそうあれかしと期待していたのだが、なかなかどうして思いどおりにはいかないものだ。


 しかしコーディの主張ももっともで、先日あれほど露骨に命を狙われておきながら、護衛もつけずに城の外をうろつくことがどれだけ危険な行為であるかはエリクも当然理解していた。だのにふらりとひとりで出かけたくなってしまうのは、たぶん、ほんの一時(いっとき)でも本来の自分に戻りたいと思う瞬間が増えたからだ。


 すなわち〝黄都守護隊のアンゼルム〟ではなく、何の肩書きも特別な力も持たない〝ただのエリク〟に。


(とはいえ毎度コーディにこれだけ心配をかけてしまうとなると、現実逃避もほどほどにしないといけないな……)


 と改めて苦笑しながら思う。今のエリクにとって〝アンゼルム〟から〝エリク〟に戻る儀式は、いわば息継ぎのようなものだった。

 近頃、ずっと黄都守護隊副長の仮面をつけたままでいると、不意に息苦しさを感じていてもたってもいられなくなるようなことが増えたのだ。軍人として振る舞うことが嫌になったわけじゃない。コーディたちの存在が煩わしくなったわけでもない。黄皇国や黄都守護隊に対する気持ちは、以前と何も変わらない。

 なのに何故かときどき無性に、息ができなくなってしまう。


(……年が明ければ俺も二十二になるっていうのに、今更里心がついたのか? だとしたら我ながら情けないな……)


 あの日、ベルントたちに父の話などしてしまったせいだろうか。あるいは日増しに濃くなってゆく冬のにおいに、常夏の森への郷愁を掻き立てられているのだろうか。ほんの束の間でも構わないから、しばらくぶりに故郷へ帰りたい。

 そしてもう三年近くも待たせてしまっている妹を抱き締めて確かめたいのだ。

 自分が何者で、何のために今も剣を振るっているのかを。


「ブルルッ……」


 ところが刹那、またも思考の波間に沈んでゆくエリクの頬へ、にわかにシェーンが額を擦りつけてきた。ぎょっとしたエリクはそこで再び我に返り、ああ、悪い、お前もそろそろ厩舎(きゅうしゃ)に戻って休みたいよなとシェーンの横面を撫でてやる。


「……そういえば、コーディ。今回はなんで俺がいないのに気がついたんだ?」

「あっ……そ、そうでした。実はさっきスウェインさんがいらして、アンゼルム様のお姿が見えないがどこへ行ったか知らないかと尋ねられたんです。それで僕も一緒に探すことにしたんですが、真っ先に門衛に確認したら案の定、アンゼルム様ならおひとりで外出されました、と言われたので……」

「スウェイン殿が? まさかまた黄都で何かあったのか?」

「い、いえ、そういうわけではないんです。ただシグムンド様から、アンゼルム様を見かけたら呼んできてくれと頼まれたそうで」

「シグムンド様から?」

「はい。何でもアンゼルム様に、折り入ってご相談したいことがあるそうですよ」


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