116.黒きハヤブサ
エリクもこれまで多くの魔物を見てきたが、言語を弄する魔物と遭遇したのは生まれて初めてのことだった。恐らくは、魔族。あれはそう呼ばれるものだ。
無知性で人間を襲っては喰らうしか能のない魔物よりも上位の存在。彼らは魔界の言語を操り、魔術と呼ばれる邪悪な術を行使することができると聞いた。
魔族の中でもより位が高く、魔力に秀でたものの中には、人間の言葉を解するものまでいるらしい。
(よりにもよって、内乱中のルエダ・デラ・ラソ列侯国でさえ見かけなかった魔族が、どうしてここに……!)
とエリクは事態が呑み込めぬまま、続けざまに二発、三発と神術を放った。
が、左手に宿る雷刻が生み出す雷撃はいずれも上空の魔族に届かない。
撃てども撃てども魔族が放つ黒い力に相殺されて、神術が掻き消されてしまうのだ。あれが噂に聞く魔術というものか。
「ウ・ヴェイ・イェゴ」
突如として黄都に押し寄せた異形の大群。
その先陣を切って飛来した半人半蛇の魔族は、やはり魔界の言語らしきものを操り、自らに続く無知性の魔物に何らかの指示を飛ばしていた。
本来魔物は自力で何かを思考する知能や理性を持たないが、魔族はそんな彼らを魔術で操ることができる。つまり言うなれば目下、エリクたちの頭上を覆い尽くす魔物の群は、魔族という名の指揮官に率いられた魔界の軍隊のようなものだ。
ならば大将たる魔族を討てば、魔群は統率を失って弱体化する。
そうと分かっているからこそエリクも執拗に魔族を狙っているのだが、攻撃がひとつも届かない。黒い翼を生やした魔族はなおも遥か高みに浮いていて、飛び道具か神術を使わなければ応戦のしようがないのだ。されど今まさに任地への帰路に就こうとしていたエリクたちに、まともな装備などあるはずもない。
加えて神術は何度やっても前述のとおりに防がれる始末。
そうこうするうち、城壁を越えて飛んできた魔物たちが次々と頭上から降ってきて、魔族ばかりを狙ってはいられなくなる。
本来であれば陸上を馳せる魔物まで飛行型の魔物にせっせと運ばれてくるところを見ると、やはり魔族が明確な意思と計画を持って黄都を襲っているようだ。
「アンゼルム、後ろだ! 回り込まれたぞ!」
ところが刹那、不意に背後からリリアーナの叱声が飛び、エリクははっと振り向いた。すると彼女の警告どおり、そこにはエリクの頭上を飛び越えて背後を取った目玉の魔物の姿がある。ヘドロに似た粘液の真ん中に巨大なひとつ目がくっつき、その下に獰猛な口が裂けたような姿の異形だった。瘴気で濁った結膜は黒く、不気味に赤い虹彩がぎょろぎょろと忙しなく蠢いて──地上のエリクを、捉える。
「アンゼルム様……!」
さらに左右からは、空より降り立った四つ足の魔物。粘液が翼の形を取り、宙を飛び回るひとつ目とは裏腹に、羽を持たず地上を走る獣型だ。全身はやはり真っ黒で、獅子の鬣が顔の真ん中から生えたように頭部をすっぽり覆っている。
不気味な毛玉からちらちら覗く赤い眼は、エリクの他には見向きもしない。
(こいつら──)
初めは気のせいかと思ったが、やはりそうだ。どうも先刻から魔物たちはエリクを狙って殺到している。上空からも地上からも、とにかく多種多様な魔物がエリク目がけて突っ込んでくるのだ。おかげで倒しても倒してもきりがない。
というより、徐々に味方から引き離されている。
(俺が囮になることでリリアーナ将軍を守れるなら願ったり叶ったりだが……!)
しかしこうも自分ばかりが狙われる理由が分からない。
先程から執拗に指揮官たる魔族を狙っているからか? はたまたごく単純に、魔物にとっての脅威たる神術使いであるからか? だがそうであるならば、同じ神術使いであるリリアーナやコーディに魔物が向かわないのはおかしい。連中は彼らがエリクを援護しようとするのを妨害こそすれ、積極的に襲っている風ではない。
リリアーナはどうやらコーディと同じ氷水系神術の使い手のようだが、補助術や治癒術を得意とするコーディとは違いかなり攻撃的だ。元来攻撃には向かないと言われる氷水系神術を巧みに操り、次々と魔物を狩っているところを見るとコーディが刻む水刻より上位の蒼淼刻の使い手かもしれない。
そんな彼女もまた味方を励まし、的確な指示を飛ばす傍らで、隙を見て何度か魔族を狙った神術を放っていた。が、魔族はそれを煩わしげにあしらいこそすれリリアーナには見向きもしない。やつの魔眼が注視しているのはやはりエリクだけだ。
肌が紫色で額から二本の小さな角が生えていることと、その間に縦に裂けた第三の眼があることを除けば頭部の造形は人間によく似ているから間違いない。姿形が人型ですらない魔物とは違い、人間に近いからこそはっきりと分かるのだ。あの魔族の視線は明らかにエリクのみを捉え、地上で必死に足掻くさまを嘲笑っている。
「雷霆瀑!」
今すぐにでもあれを引きずり下ろしてやりたい衝動を堪えながら、刹那、エリクは自身を円形に囲む雷の滝を生み出した。そこへのこのこと突っ込んできた魔物の群が、一瞬で神の力に沈む。だがそろそろ神術で身を守るのも限界だ。
エリクは自身の神力が底を尽き始めているのを感じながら、額に浮かぶ汗を払った。倒しても倒しても襲い来る魔のどもを前に息が上がる。
──城からの援軍はまだか。
もはや何体の魔物を葬り去ったか分からない。真っ黒な魔血にまみれた体はとんでもない腐臭を放っているし、シェーンもきっと限界が近いはず。
彼女は背にエリクを乗せたまま、迫る魔物を蹴倒したり逃げ回ったりしてくれているが、既に息は荒くかなりの興奮状態なのが見て取れた。
気づけばリリアーナたちとの距離は二枝(十メートル)ほども開き、今やエリクとシェーンのふたりだけで押し寄せる魔群と戦っているような状態だ。
味方もそんなエリクを助けようと奮戦してくれているものの、魔物の壁が厚すぎて近づけない。このままでは早晩孤立し、囲まれ、押し潰される──
「プロン・ジエ」
ところが瞬間、エリクの全身にぞわりと怖気が走った。
足もとから脳天に向かって凄絶な悪寒が走り抜け、本能の警鐘が鳴り響く。
──来るぞ!
「シェーン、走れ!」
周囲には群をなす魔物。逃げ道などあるはずもない。されどエリクは戦士の勘が命ずるままに馬腹を蹴り、そして愛馬が駆け出した刹那、するりと鐙から両足を抜いた。と同時に自らの意思で鞍を飛び降り、着地するや否や石畳の地面を転がる。
直後、それまでエリクとシェーンがいた地点の大地を破り、突如闇の槍が突き出した。あと半瞬シェーンが駆け出すのが遅ければ、間違いなく彼女ごと串刺しにされていたはずだ。
(あれも魔術か──)
と、肝を冷やしている暇もなかった。再び足もとから悪寒。二撃目がくる。
そう察知したエリクは瞬時に飛びのき、さらに三撃、四撃と石畳を食い破って襲い来る魔界の槍を回避した。が、五本目が来るかと身構えた矢先、
「ガアアアアアッ!!」
と、背後から異形の咆吼。
しまったと思ったときにはもう遅かった。とっさに振り向き、剣を振ろうとした瞬間にすさまじい衝撃を受けて吹き飛ばされる。顔面を鬣で覆われた例の魔獣が、死角からいきなり体当たりを見舞ってきたのだ。遠くでコーディの呼ぶ声がした。
背中をしたたかに打ちつけたエリクは起き上がる間もなく魔物の四肢に押さえつけられ、鬣の向こうから現れた牙が眼前に迫るのを見る。
(神術を──)
と、理性がとっさに叫んだが、戦士としての本能はとっさに剣を構えていた。そうして魔物に組み敷かれたまま、今にも喉笛に喰らいつこうとする牙に刃を噛ませる。ところが魔物は口の端に刃が食い込むのも構わず、なおも力で押してきた。
胸に置かれた魔物の前脚が爪を立て、衣服ごと皮膚を切り裂くのが分かる。
「……っ!」
その激痛に一瞬、エリクが押し切られそうになった直後だった。突然魔物の横面にとんでもない一撃が食い込み、黒い巨体が鞠のごとく吹き飛ばされる。
一体何が起きたのか、束の間理解が追いつかなかった。が、血の滲んだ胸を押さえて体を起こすと、不意に視界の外から逞しい男の腕が伸びてくる。
「おう、立てるか、軍人サン。自分より先に馬だけ逃がすたあ面白え野郎だな。気に入ったから、特別に前金ナシで助けてやるよ」
次いで聞こえたのは野太く、聞き慣れない訛りを帯びた声。
口調は荒っぽいものの、響きの奥底には揺るぎない自信を感じる。
呆気に取られて見上げると、そこにはまるで知らない男がいた。
身の丈三十八葉(一九〇センチ)ほどもあると思われる、筋骨隆々の大男だ。
「あ、あなたは……?」
「ベルント・シュバルツ・ヴァンダルファルケ、傭兵だ。報酬交渉はあとでいい。金さえ払ってくれんなら、喜んで助太刀するぜ?」
「ヴァンダルファルケ──」
と男が名乗った姓を聞き、エリクは思わず目を見張った。その名には聞き覚えがある。というか、同じ姓を名乗っていた男と過去に会ったことがある。
〝ゲヴァルト族〟。そう呼ばれる流浪の戦闘部族。
確かヴァンダルファルケとは、彼らの内の一氏族の名だったはずだ。
ということはベルントと名乗ったこの大男も生まれながらの傭兵か。
言われてみれば、秋も深まりつつあるというのに露出された男の二の腕には、誇示するように彫り込まれた黒き隼の刺青がある。
あれこそ彼がヴァンダルファルケ族の生まれであることを示す証だ。
右目には鉄板つきの黒い眼帯、肩には柄が長く巨大な戦斧を担ぎ、体つきも装備もいかにも歴戦の傭兵といった風体の男だった。これは頼もしい味方が現れてくれた、と思いながら、エリクも伸ばされた手を掴む。が、
「……!」
刹那、エリクは己を引っ張り上げようとする男の背後に、一匹の魔物が迫るのを見た。先刻エリクが神術で沈めたのと同じ、あの目玉の化け物だ。
上空から急降下して現れたひとつ目は、胴体代わりと思しい粘液から鋭い爪つきの腕を生やし、ベルントの死角で振りかぶった。
そして今にもその爪を振り下ろし、彼の背中を引き裂こうとしている。
「危ない──!」
「──ジルヴィア」
とっさのことで、エリクの神術も間に合わない、と思われたときのことだった。
ベルントは背後の魔物には見向きもせずにひと言、誰かを呼ぶ。
次の瞬間、どこからともなく飛来した巨大な氷柱が、真横からにわかに魔物の目玉を貫いた。魔物は悲鳴を上げる間もなく、というより何が起こったか分からないといった様子のまま絶命し、夥しい量の魔血を噴き出しながら落ちてゆく。
「で? 交渉は成立したの、ベルント?」
「おう、見ろ。こちらさん、歓迎の握手までしてくれてんだろ?」
「あら、やだ。よく見たら今回の依頼人、ものすごい美形じゃないの。これは雇われ甲斐があるわね。どうぞよろしく、美男子さん」
そう言ってエリクらに歩み寄ってきたのは、やはり季節感を無視した露出狂の女だった。歳はベルントと同じくらい、つまり三十がらみといったところか。
大胆にはだけられた襟から覗く胸もとには、やはり黒き隼の刺青。
ということは彼女もベルントの同胞ということか。いや、彼女だけじゃない。
気づけばベルントの背後では、思い思いの装備をまとった傭兵と思しき者たちが魔物を相手に暴れ回っていた。彼らも体のあちこちにヴァンダルファルケ族の証を彫り込んでいるところを見ると、ベルントと同じゲヴァルトの戦士たちのようだ。
「ときに、雇い主。あんた、名前は?」
「え? あ……わ、私は、アンゼルム……黄都守護隊副長のアンゼルムです」
「ほう。アンゼルム、か。こりゃ名前までゲヴァルト風ときたもんだ」
「はい?」
「いや、話はあとだな。とにかくまずは、この邪魔くせえ魔物どもを蹴散らさねえことには始まらねえ。やるぞ、ジルヴィア」
「ええ、任せて」
「久しぶりに歯応えのありそうな仕事だ。あそこで高みの見物決め込んでやがる蛇女共々──張り切って皆殺しといこうぜ」




