115.神を憎む者
「これは一体どういうこと?」
と、ときを経るごとに慌ただしさを増す城内で、ルシーンは自室の窓に鼻を寄せた。そうして外の様子を窺おうとしてみるものの、皇居からはまだ城中を騒がせている〝魔物の大群〟なるものは確認できない。が、確かに南の方角から、膨大な邪気のうねりを感じる。距離こそ遠いが、間違いなく魔のものどもが発する気配だ。
ゆえにルシーンは舌打ちし、苛立ちを隠そうともせずに振り向いた。
そこには騒ぎを聞きつけてやってきたふたりの男が澄まし顔で佇立している。
うち、蝙蝠を思わせる外套に身を包んだ長髪の男はルシーンの疑問に答える代わりに肩を竦め、全身を漆黒の鎧で覆った男はひたすら無言を貫いた。
後者についてはもともと口数の多い男ではないが、この事態に際してもまるで態度が変わらないのが何やら妙に憎々しい。
「ハクリルート。あなたは何か知っているのではないの?」
「……そこはまず、隣の魔人を問い質すべきではないのか?」
「いやいや、私に尋ねられても困りますよ、ハクリルート殿。私はてっきりルシーン様が魔界に何らかの命令を下されたものと思って、その意図をお伺いすべくこうして馳せ参じたのですから」
「私は何もしていないわ。魔物に都を襲わせるだなんて、魔界の連中は一体どういうつもり? 私が黄都にいることを──計画を知っているくせに、何故こんな真似を? まさか今になって掌を返したのではないでしょうね?」
「それはないだろう。魔界とお前の利害は今なお一致している。ならば手を切る理由はない。第一、お前の計画が邪魔になったのだとすれば、街ではなく直接城を襲うはずだ。つまり連中の狙いは他にあるということだな。たとえば……《収斂》の妨害とか」
と、鎧の男が壁にかかった一枚の絵画を見やりながら答えたのを聞いて、ルシーンは全身に粟が立った。男の視線の先にある額縁に飾られているのは、この国の何とかという著名な画家が描いたとされる、黄皇国の建国神話の一場面だ。
そこにはかつて圧倒的な武力と恐怖によって当地を支配したエレツエル神領国を打ち倒し、積み上がったエレツエル人の屍に太陽の旗を突き立てた英雄と、勝利の咆吼を上げる黄金竜の姿があった。
千年前、神界戦争ののちに力を使い果たし、永い眠りに就いた──ということになっている神々の復活。それを国策に掲げたエレツエル人どもを、独立の名の下に大陸から追い出した太陽神の神子。神の野望が神の力によって退けられた歴史は実に滑稽で、ゆえにルシーンはかの絵を気に入り、部屋の最も目を引く場所に飾らせていた。されど──《収斂》?
今、目の前にいる黒い鎧の神子は、確かにそう言ったのか?
神々が描いた計画の最終段階。その妨害のために魔界が動いたということは、
「ハクリルート。あなた、やはり何か知っているのね」
「さあ。今のはあくまで推測だ。あまり真に受けるな」
「ならば何故いま《収斂》なんて言葉が出てくるの? ここ数百年、神々の計画は遅滞して思うように進んでいなかったはず。現に神領国は──」
「──ルシーン様、失礼致します」
ところが男を問い詰めようとしたルシーンの言葉を遮って、刹那、部屋の外から響いた声があった。せっかく邪魔な侍女どもを理由をつけて追い払ったところだというのに、また次の邪魔者がやってきたのか。苛立ちのあまり舌打ちしたくなるのを堪えながら、ルシーンは険のある声で「入りなさい」と命じた。
すると扉の向こうから現れたのは、武装した近衛兵を引き連れた近衛軍第一部隊長のハインツ・ヒューだ。彼もまた普段の軍装の上に胸当てや手甲などの軽鎧を身につけ、いつになく差し迫った面持ちで室内へと踏み込んでくる。
「これはこれは……既にアンギル将軍とハクリルート将軍も駆けつけておいででしたか。しかし貴公らの属する第一軍には、既に出撃命令が下ったはずでは?」
「彼らのことは気にしないでちょうだい、ヒュー詩爵。このふたりは陛下から直接の命を受けて、私の護衛に来てくれたのよ。魔群襲来の話は聞いたわ」
「……左様でしたか。では、どうやら命令に行き違いがあったようですね。私も陛下より直々の命を受けて、ルシーン様をただちに礼拝堂へお連れせよと仰せつかって参ったのですが」
「礼拝堂ですって?」
「はい。皇居の礼拝堂には聖術による魔除けの加護がかかっておりますので、万一魔群が当城へ迫った場合に備えて、そちらへ避難するようにと」
「あら、いやだ。陛下は天下の黄皇国軍が、魔物ごときの進攻を許すとお考えなのかしら。黄都にはまだリリアーナ皇女殿下も第二軍と共に留まっておられると聞いたけれど?」
「無論、魔のものどもが皇居にまで迫るような状況に陥ることは、軍の総力を挙げて阻止する所存です。しかしソルレカランテが魔群の襲撃を受けるなどという事態は陛下が復位されて以来、前代未聞のことですので」
……つまり前例のない事態がどう転ぶか分からないから、今すぐ安全な場所へ避難しろということか。そんな真似などしなくとも、魔界と協力関係にあるルシーンが魔物に襲われる心配などないというのに。だのに何故オルランドは──否、オルランドの肉体を乗っ取った憑魔は、わざわざ自分を呼びつけたのか。
城内の混乱ぶりを見るに、本当にただの行き違いという可能性はある。
あるいは近衛軍が黄帝の命令ということにして、独断で動いているか。
後者だとすれば、大人しく彼らの言を聞き入れてついてゆくのは危険だ。
この混乱に乗じて再びルシーンを排除しようとする動きがないとも限らない。
何せ向かう先が礼拝堂というのはいささか妙だ。
今のオルランドがあの場所に入れるわけがない。礼拝堂にかけられた聖術は確かに本物で、魔界の血を引くものは決して近づけないというのに。
「ゆえに万一の事態に備え、我々が貴女を警固致します。既に陛下は礼拝堂にてお待ちですので、どうかご同行を」
「……」
「ルシーン様。行き先が礼拝堂ならば、残念ながら私はご一緒できかねます。ハクリルート殿もあそこの聖気はお体に障るのでは?」
「長時間留まるのは恐らく無理だな。鎧が溶ければ長居はできない」
「……そうなる前に連中の魂胆を暴きましょう。憑魔が本当に礼拝堂にいるとは思えないわ」
左右から耳打ちしてくるふたりにそう答え、ルシーンは腹を決めた。
これがもし自らを亡きものにしようとする政敵どもの罠ならば、飛び込んでみるのも一興だ。初めからそうだと分かっていれば返り討ちにすることはたやすい。
何しろこちらには魔界と契った吸血鬼と、堕天したとはいえ今なお神の力を操る裁きの神子がいるのだから。
ところがそんな打算によって同行を肯じたルシーンの思惑は、ほどなく見事に打ち砕かれた。何故ならハインツが三人を連れて向かった先は本当に、きらびやかな皇居の最奥にある皇家の礼拝堂だったからだ。途中に潜んでいるのではと思われた刺客の襲撃もなく、物々しい警固の兵に囲まれながら、ルシーンはあっさり辿り着いてしまった。中でオルランドが待っているという、ソルレカランテの至聖所へ。
「どうぞ、中へ」
──一体どういう魂胆だ。
まさか近衛軍は既に自分たちの正体を突き止めたのか?
ゆえにアンギルやハクリルートが立ち入れない聖域へルシーンを誘い込み、孤立したところを襲おうとしている?
疑念が脳裏で渦を巻き、ルシーンは数瞬、礼拝堂の扉の前で立ち竦むことしかできなかった。隣ではアンギルがただでさえ血色の悪い顔をさらに土気色にして首を振り、ハクリルートも顔まで隠す鎧の下で黙りこくっている。
前者は魔界の住人であり、後者は瘴気なくしては生きられなくなった身だ。
この場所の聖気はやはりかなり堪えるらしい。
とすれば大人しくハインツに従ったのは誤りだったか。
今からでも理由をつけて引き返すには──と思考を巡らせる間にも、進み出た近衛兵がルシーンに代わって眼前の扉を開けた。
重々しい軋みを上げて開いた、世にも貴重な神木製の扉の向こうには、歴代の黄帝たちが神への祈りを捧げるために通い続けた小さくも荘厳な聖堂がある。
「来たか、ルシーン」
思えばこの礼拝堂へ入るのはルシーンも、初めて皇居へ足を踏み入れて以来だった。以後は穢れた娼婦の身分を言い訳に近づくことを避け続けてきたが、久方ぶりに訪ねてみても、やはり扉の向こうには衰えることなき聖気が溢れている。
左右の壁には埋め込まれた黄砂岩の柱がそそり立ち、ほんの数人の皇族だけが座ることを許された腰かけの向こうには、彩色硝子を戴く祭壇。
そこに並べられた黄金の燭台には青い火がともり、それを見たアンギルがぶるりと身震いしたのが分かった。かと思えば彼は吐き気を堪えるように口もとを抑え、じりじりとあとずさる。あの青炎は他でもない、神木の実から絞った油でともされた聖火だ。魔人であるアンギルがひと目見て顔色を変えるのも無理はない。
「る、ルシーン様……どうやら我々が呼び出されたのはやはり行き違いだったようなので、私はこれにて失礼致します。ごきげんよう、黄帝陛下」
かくしていよいよ限界を迎えたらしいアンギルは、入り口から祭壇の前に佇むオルランドに礼をして一目散に逃げ出した。礼拝堂の内部にいるのは彼の他、近衛軍を率いる女老将軍セレスタ・アルトリスタと、彼女の腹心と思われる数人の兵士だけだ。内装は美しいものの、多めに見積もっても十数人が入るだけで精一杯と見える広さの礼拝堂には、他に人の隠れられそうな場所はない。
つまり今、この場にあるのはハインツが連れた二十人の近衛兵と、セレスタが従えた数人の兵力だけ。合わせても三十に満たない人数でルシーンを討とうとしているのなら、足りない。聖気の下ではハクリルートが本領を発揮できないとしても、ルシーンとて身を守る術をまったく持っていないわけではないのだ。
「……ハクリルート。あなたは外で待っていてくれる?」
兜の眉庇の向こうから、彼がちらりと視線をくれたのが分かった。
ひとりで行くつもりか、と尋ねているのだろうが、ハインツはあの人数を連れては中に入れない。となれば外で待機するのであろう近衛兵たちが怪しい動きを見せたなら、即座にハクリルートに斬り捨ててもらえばよい。
中にいる人数だけならルシーンひとりでもあしらえるはず。何より礼拝堂の外ならば、ハクリルートも瘴気の鎧を溶かすことなく控えていられるだろう。
そう計算しての差配だったのだが、ルシーンのあてはまたしてもはずれた。
何故なら覚悟を決めて礼拝堂の扉をくぐった途端、オルランドがセレスタに目配せし、人払いをしてしまったからだ。これにはさすがに面食らったルシーンの目の前でセレスタはオルランドに黙礼し、手勢を連れて立ち去った。
ハインツも兵を引き連れて踏み込んでくることなく、主君と寵姫のふたりを残して、当然のように扉を閉める。
「……一体どういうことなの、オルランド」
と、事態を呑み込めないルシーンは、なおも神経を尖らせたまま尋ねた。
すると祭壇の前に佇み、新たな神木製の蝋燭へ火を移していた男が振り返る。
四年前、ヴェイセル・ラインハルトの取り次ぎで初めて対面したときの精悍な面影など既にない、初老の黄帝──オルランド・レ・バルダッサーレ。
最愛の妻に先立たれ、敬愛してやまなかった父代わりの将軍をも喪った彼は今やすっかり老いさらばえて、黒茶色の髪や髭も色艶を失っていた。
おまけにルシーンが人間の肉体を乗っ取り、意のままに操ることのできる憑魔を憑依させてからというもの、オルランドは食事もまともに取らなくなった影響でますます衰え、痩せた肉に干からびた皮を張りつけたような容姿へ変貌しつつある。
そこには既に『金色王』と謳われたかつての威容はなく、深紅の絹と白貂の毛皮で織られた外套を剥ぎ取ってしまえば、貧民街の道端で見かける物乞いとも見分けがつかないのではと思われるほどだ。
(けれど憑魔を宿すはずのこの男が、涼しい顔で聖火を手にしているなんて──おかしい)
魔界における憑魔の序列は、二百年以上ものあいだ魔人として魔力を蓄えてきたアンギルと同程度だ。そのアンギルが入り口から中を見ただけで逃げ出すような空間に、憑魔が平然と立っていられるなどありえない。
ということは、まさか──憑魔の存在を見破られ、祓われた?
だがオルランドの内側には確かに魔物の気配がある。
あれが憑魔でないとしたら一体何だ?
ルシーンは困惑と警戒の眼差しで眼前の老帝を睨めつけた。するとオルランドは手にした聖火を燭台の上へと立てて、改めて向き直ってくる。
「どういうことも何も、城下の状況はそなたも既に聞いたろう、ルシーン。ゆえにここへ呼んだのだ。そなたの身に万一のことがあっては一大事だからな」
「ふざけないでちょうだい。そんな戯れ言を聞かせるために私を呼びつけたの? わざわざアンギルやハクリルートが立ち入ることのできないこの場所へ」
「戯れ言とは心外だな。私は本気でそなたの身を案じたまでだが?」
「どういう意味よ?」
「言葉どおりの意味だ。太陽神の加護厚きソルレカランテが、魔物の群に襲われるなどかつてなかったこと──となれば臣下は皆、こぞって私をここへ押し込めるだろうと予想した。だがそうなれば、私の目はそなたまで届かなくなる」
「……つまり混乱に乗じる輩の存在を危惧した、と?」
「想定し得るすべての危険からそなたを遠ざけるには、そうするのが最も賢明だろう? ここならば魔物の牙は届かず、邪魔者も入らない」
「ならばお前は知っているのでしょうね。魔群が街に現れた理由を」
夜色のドレスをまとった自身の腕を掻き抱きながら、語気を強めてルシーンは尋ねた。が、オルランドの表情は変わらない。まるで生気が抜けたようでいて、そのくせ紫黒色の瞳は炯々と青い灯明かりを弾いている。
「さてな。左様なことは私も知る由がない……が、考えつく理由があるとすれば、近頃私がこの聖堂に足を運ばなくなったからかな。ゆえに神々の加護が遠のき、魔のものどもの接近を許したのやもしれぬ」
「何ですって?」
「日夜神々に国家の安寧を祈るのもまた黄帝の仕事だ。なれど私がそれを怠ったがゆえに、神罰が下ろうとしているのか……」
「何を馬鹿なことを。憑魔、ふざけていないで魔界の魂胆を明かしなさい。ハクリルートは《収斂》がどうのと言っていたけれど、まさか《神々の目覚め》が迫っているのではないでしょうね?」
「ミシュパート──〝神の総攬〟、か」
独白のように呟いて、オルランドは老いた手でそっと黄砂岩の祭壇に触れた。そこには遠い時代に彫り込まれた、シェメッシュの神璽《太陽を戴く雄牛》がある。
額に王冠のごとく太陽を貼りつけた雄牛の肖像だ。かつてトラモント黄皇国を打ち立てた竜騎士フラヴィオ・レ・バルダッサーレの右手にも、同じ紋様が刻まれていたと聞いている。すなわちシェメッシュの魂である《金神刻》が。
「……ルシーン。そなたは神が憎いか?」
「は?」
「この世が再び神の手に委ねられることを、そなたは拒もうとしている。そうであろう?」
「今更何を言っているの? そうでなければ、わざわざ魔族と手を結んだりしていないわ」
「……そうか。そうだな。では、フラヴィオはどうであったのだろう」
「フラヴィオって……黄祖フラヴィオのことを言っているの?」
「ああ。かの英雄は神に選ばれた身でありながら、最後には神子として生きることを拒み《金神刻》を封じる道を選んだ。しかしそれは、神の法に照らして本来あってはならぬことだ。だというのに神意に抗い、人としての余生を望んだ我が父祖も……やはり我々と同じように、神を憎んでいたのだろうか」
言いながらオルランドは静かに面を上げ、今度は頭上の彩色硝子へ目をやった。
燭台の明かりに照らされた七色の硝子は、太陽から生まれ地上を目指す黄金竜の姿を描き出している。
あれがもし、黄祖フラヴィオの騎竜にしてのちに初代黄妃となったオリアナならば、ルシーンの目には竜が太陽に背を向けて去っていく姿のようにも見えた。
何故ならフラヴィオが神子であることを捨てたのは、人間と交わったことで竜の力を失ったオリアナと共に老い、共に死ぬためだったと伝わっているから。
「だがこれが父祖の選んだ道に対する罰だと言うのなら、私もやはり神が憎いよ」
やがて彼がぽつりと零した言葉がオルランドのものなのか、はたまた憑魔の戯れ言なのか、ルシーンには分からなかった。今、目の前にいる男が本当に憑魔に操られているのかどうか判断がつかない。されど意識を凝らしてみると、やはり彼の内側には黒く邪悪な気配が渦巻いているのだ。
(一体何が起きているの)
いつまで経っても全容の見えない焦りともどかしさにルシーンは切歯し、抱いた腕に爪を立てた。オルランドの答えはどこまでも要領を得ない。
しかしルシーンは知る由もなかった。
神々の計画を乱し、その怒りを買った者が、この都にもうひとりいることを。




