114.魔群襲来
グアルティエロ・ラヴァッレが黄都中に張り巡らせていた救世軍支援の網は、想定よりずっと広大だった。
詳しい捜査はまだまだこれからだろうが、調べ尽くせばとんでもない量の埃が出るだろうことが予想される。ラヴァッレ華爵邸での舞踏会翌日、リリアーナの指示で憲兵隊が踏み込んだクーデール商会事務所は既にもぬけの殻だったものの、代わりにラヴァッレの暗躍を示す証拠はいくつも転がっていた。
大部分の証拠は前夜のうちに持ち出され隠滅されたようだが、時間がなくて処分できなかったのであろう証拠だけでも、クーデール商会が不正な商業行為に手を染めていたらしいことは充分に立証できる。そこから救世軍とのつながりを辿り、さらにラヴァッレが似たような手口のために使っていた組織や人を洗い出すくらいのことは、いかに無能揃いの憲兵隊といえどもさすがにやってのけるだろう。
「──なるほどな。つまりロマハ祭前から巷を騒がせていた例の噂も、ラヴァッレ邸での騒動も、そなたがかの者を国の捜査線上に浮上させるべく仕組んだものだったというわけか。そのためにわざわざ舞踏の修練を積んでまでかの家の夜会に潜り込むとは、涙ぐましい忠勤ぶりではないか。そうまでして挙げた手柄を、そっくり私に譲ってしまってよかったのか?」
「いえ、舞踏の修練云々はハインツ殿に無理強いされただけであって、私の意図したところではありませんでしたから……第一、憲兵隊とは犬猿の仲と言ってもいい黄都守護隊が要請したところで、彼らが迅速に捜査へ乗り出すとは思えなかったのですよ。かと言って何の断りもなく憲兵隊の領分を侵し、勝手に捜査などしようものなら、それはそれで角が立つでしょう?」
「まあ、そこは否定しないが」
「ですので我々としても、リリアーナ将軍のお力をお借りした方が遥かに得をする状況だったというわけです。我々の目的はあくまで反乱軍を叩き、内乱の機運を削ぐことにありましたから、そのためにご協力いただいた将軍に手柄をお譲りするのはむしろ当然というもので」
「では、私が偶然黄都に居合わせていなければどうするつもりだったのだ?」
「無論、第一軍副帥のオズワルド将軍を頼るつもりでいましたよ。ですが誰よりも皇家への忠心厚いあのお方のこと、リリアーナ将軍が黄都にご滞在中とあれば、まずは殿下を第一功労者として立てるのが臣としての道義だろう、と諭されるのが目に見えていましたので」
「なるほど。ついでにハインツからなすりつけられたあらぬ噂もうやむやにできて一石二鳥、というわけか。そういう発想ができるあたりは風評どおり、実にしたたかだな、黄都守護隊副長殿は」
「恐れ入ります。しかしやはりどう考えても、私のような身分の者が将軍の未来の伴侶として人の口に上るのは不遜が過ぎますから」
「とはいえ、今回の件を裏で進めていたのがそなただという事実は変わらん。とすれば、ロマハ祭前の私との密会はラヴァッレ逮捕に向けた相談をするためだった、ということにはできても、そなたがシグムンド殿の切れすぎる懐刀だという評が渦巻くのは避けられんぞ」
「要するにシグムンド様もアンゼルム様も、どのみち敵は増えるばかりだというわけですね」
「まあ、だとしても根も葉もない噂のために、恋敵として夜道で刺されるよりは幾分マシだ……と思って自分を慰めることにするよ」
と市門を目指す道すがら、エリクが馬上で肩を竦めてみせれば、リリアーナたちが揃って笑った。ロマハ祭から数日が過ぎたソルレカランテ。
街は既に平時の姿を取り戻し、祭の間は露店や飾りつけで溢れていた目抜き通りも、今やすっかりもとどおりの景観に戻っている。
唯一普段と違う点を挙げるとすれば、領地へ向けて発つべく隊列を組んで市門を目指す中央第二軍の行進を、人々が垣根を作って眺めていることだろうか。
何しろ五十騎からなる壮麗な騎馬隊が掲げる白鳥の旗は、そこにこの国の皇女がいることを示す目印だ。ゆえに市民は麗しの次期黄帝をひと目見ようと、街のあちこちから通りへと集まってくる。そうして民から投げかけられる声援に、リリアーナは時折ちょっと顔を向けて、手を振ったり微笑んだりしていた。
本心では見世物にされているようでいい気はしていないのだろうが、ソルレカランテで暮らす民もまた、リリアーナには若く清廉な次期黄帝としての期待をかけている。特に貴族たちのおどろおどろしい駆け引きなど知る由もない彼らは、最も濃く皇家の血を引くリリアーナこそが次代の黄帝だと純粋に信じているのだ。
そんな民の心情を理解しているからこそ、リリアーナも彼らの前では皇族として振る舞う。本当は皇位継承などまっぴらだと思っていながらも民を安堵させ、皇家の信頼を取り戻すべく毅然とした姿を見せる。
そうした彼女の献身の方が、よっぽど涙ぐましいと感じているのはエリクだけではないはずだ。望んでもいない玉座のために後継者争いに巻き込まれ、敵対する貴族たちからは口さがない言葉を浴びせられながら、それでもなおリリアーナは自らの為すべきことを忠実に遂行しているのだから。
(だが今回将軍がラヴァッレ検挙の功を挙げたことで、小うるさい貴族連中もしばらくは鳴りを潜めるだろう。少なくとも当面の間は、将軍のお振る舞いを表立って軍人ごっこと揶揄することもできないはずだ。裏取りを進めたのは確かに俺だが、捜査初動における将軍の陣頭指揮は的確で、あれが憲兵隊長なら決してああはいかなかったと誰もがそう思うに決まっている。ハインツ殿もそういう評判を積極的に流しておく、と乗り気だったしな)
と市民の歓声に応えるリリアーナの横顔を一瞥しながら、エリクはようやくほっとひと息をつけた気がした。
何しろ例の仮装舞踏会に端を発し、ここ数日は市内の反乱軍狩りに奔走していたから、やっとのことでやるべきことをやり終えた、という実感が湧いてきたのだ。
──あの晩。
ラヴァッレ邸でフィロメーナと訣別し、救世軍と敵対する道を選んだエリクは、事前に用意していた策を使ってグアルティエロ・ラヴァッレの反逆を暴いた。
フィロメーナがいずこかへ去ったあと、すかさず偽のフィロメーナを会場に投入し、憲兵隊がすぐさま屋敷を封鎖するよう仕向けたのだ。
あのとき会場を騒然とさせた偽者の正体は、言わずもがな彼女に化けたサユキで、それによって本物のフィロメーナが逃げ出す前に、彼女を匿ったラヴァッレごと憲兵隊に逮捕させてしまうつもりだった。
が、蓋を開けてみれば結果は空振り。フィロメーナは騒ぎが起きるや否や行方を晦ませたラヴァッレ共々、屋敷から忽然と姿を消した。あんな危険を冒してわざわざエリクの前に現れたからには、恐らくいざというときの脱出計画も入念に練ってきたのだろうと予想はしていたものの、まったく見事な引き際だ。
されどエリクも指を咥えて見送るわけにはいかなかった。ここで彼女を止められなければ、内乱の脅威を取り去ることはできない。ゆえにラヴァッレ邸内でフィロメーナたちを捕らえることができなかったと分かった時点で、すぐに次の手を打った。他でもない、ラヴァッレの投資先であるいくつかの商団の検挙だ。
舞踏会前日までに掻き集めた証拠と情報をもとに、彼らが商団に偽装した救世軍の関連組織だと断定したエリクは、すぐさまリリアーナに掛け合って憲兵隊を動かしてもらった。皇女である彼女がひと声挙げれば、愚鈍な憲兵隊も鞭で打たれたかのごとく飛び出していくに違いないと見越してのことだ。
そう、つまり端的に言えば、リリアーナが偶然黄都に居合わせた僥倖と彼女の威光を利用させてもらったわけだが、おかげで舞踏会翌日の午後には、目星をつけていた商団すべてに憲兵隊を送り込むことができた。ところがそのうちのいずれにもフィロメーナたちの姿はなく、またもあてがはずれたらしい。
特に入念な工作が行われていたクーデール商会と、かの商会とのつながりを持つ会員制クラブはフィロメーナたちが逃げ込む先としてもってこいだと思っていたのだが、結果は虚しかった。同時に検挙するには証拠が足りなかったクラブの方も、憲兵隊が商会を当たっている間にサユキを送り込んだにもかかわらず、何の成果も得られなかったのだから〝してやられた〟と言う他ない。
だが、同時にフィロメーナが見つからなかったことにどこかでほっとしている自分もいて、エリクは複雑な己の心境を持て余した。こうなってもまだ、内乱は止めたいが彼女らを傷つけたくはない──などという世迷い言を吐く我が心には呆れてしまう。それでもついに明確な一歩は踏み出した。
自分は救世軍を討つ側の人間だと示す、二度と引き返せない一歩を。
(ラヴァッレ邸でフィロメーナと接触した事実を隠すために、将軍には嘘の理由を告げるしかなかったが……いずれはこの方にも、真実を伝えるときが来るかもしれない。そのとき、黄皇国の臣として恥じることのないように……何としても内乱は阻止しなければ。彼女が次の黄帝になる可能性もまだ否定はし切れないからな)
今のエリクがまさにそうであるように、本人の望まぬ道であっても歩まねばならないという現実は往々にある。リリアーナも口では皇位を望まないと言いつつも、覚悟は常に心に秘めているはずだ。そう思うとエリクには、リリアーナ・エルマンノというこの国の皇女が、不意に近しい存在に感ぜられた。
ゆえにこうして自らの居城へ帰るリリアーナの供として、途中まで同道することもすんなり受け入れられたのだ。少なくともロマハ祭前までの自分なら、皇女殿下の旅に随行するなど畏れ多いと震え上がって遠慮しただろう。
けれど今回の件を通して、雲の上のお人だとばかり思っていたリリアーナがどんな人物なのか、ようやく見えたような気がする。おかげで初めにあった畏怖の感情は薄れ、皇女と家臣ではなく一個の人間として向き合えるようになった。
マクラウドに代わって憲兵隊の指揮を執ってみせた姿も見事だったし、恐らくは軍人としても相応の実力を兼ね備えた女性なのだろうと思う。
だからこそ今後も軍人でありたいと願う彼女の気持ちに共感する一方で、彼女のような人にこそ次代の黄皇国を担ってほしいと思ってしまうのだが。
「……ところで、将軍」
「うん?」
「今更なのですが、今回の上洛には、副官殿を伴っていらっしゃらなかったのですか? つまり、オスカル殿を、ということですが」
「ああ、オスカルには私が留守の間のエグレッタ城を任せてきたからな。私が治めるトラジェディア地方は、他の地方に比べて気候が厳しく土地も痩せている。ゆえに民は貧しく治安も悪くてな……城主と副官が揃って城を空ける、というのはなかなか難しいのだ」
「そう、なのですね……ですが、オスカル殿は、その……軍人として、どの程度優秀な方なのでしょうか? 将軍のエグレッタ城着任の折り、襲来した湖賊を撃退した功で表彰されていたのは記憶にあるのですが……」
「そういえば我々は去年の親授式で、揃って伯父上から栄誉勲章を賜ったのだったな。まったく奇妙な縁だ。だからそなたもオスカルが気になるのか?」
「え、ええ、まあ……オスカル殿とは歳も近いですし、一軍の副将という立場も同じですので、つい意識してしまうと言いますか……何よりあの方は、かのヴェイセル財務大臣閣下のご令息でいらっしゃいますし」
「そうだな。しかしオスカルはあの狸とは違う──と私は見ている。やつの弟……ちょうどそなたの下にいるクラエス・ラインハルトも、ヴェイセルの種から生まれたとは思えぬほど生真面目な男だろう?」
「ええ、まあ、確かに……」
「オスカルはクラエスほど勤勉な男ではないが、軍人としての才はある。何より腹の底では己の父をあまり好いてはいないようだ。文吏の家に生まれながら無理を通して軍人になったのも、黄都から逃げ出したかったからだと言っていた。つまり、父親の傍にいたくなかったのだとな」
リリアーナが白馬を歩ませながらそう話すのを、エリクは意外な思いで聞いていた。オスカルが実家に対して何らかのわだかまりを抱えているらしいことは、やはりリリアーナも既に気がついていたようだ。が、だからと言って彼を全面的に信頼してよいのかと言われたら、エリクは首を拈らざるを得ない。
何しろ本人がどんなに嫌ったところで、オスカルはやはりラインハルト家の一員で、父が存命である限りその影響下から逃れることはできまい。
今のところヴェイセルは六人の息子の中でオスカルを特に気に入っているようだが、同時に他人が己に逆らうのを黙認するような寛大な男でないことは、普段の言動がありありと物語っていた。
(だからオスカル殿は、父親の前では従順で明敏なよき息子を演じている、という可能性は確かにある。だが……)
それが暴君から我が身を守るための処世術なのだとしたら、オスカルは保身のためならためらわず父の言いなりになる男だ、ということになる。そういう人物を皇族であるリリアーナの傍に置いておくのはやはり気が進まない。第一本心では父親を嫌っている、という点こそ評価に値するものの、化けの皮が剥がれた彼がどんな人物かは、かつて魔物に襲われていた商人たちを救ったときに見たとおりだ。
オスカルは民の命など何とも思っていないし、軍人としての誇りや使命感といったものも持ち合わせてはいない。あれではせっかくの才覚も国のため、上官のために正しく振るわれるとはどうしても思われない。
とすればオスカルにとっての〝軍人〟とは、父親から逃がれるための方便に過ぎないのではないか。そんな甘ったれた考えで身分に胡座をかいているような男を、リリアーナの副官としてのさばらせておくのは、やはり……。
「どうした。得心がゆかぬ、という顔つきだな」
「いえ……オスカル殿が本心では父君を嫌厭されている、という話は恐らく事実だろうと、私もそう思います。ですがあの方は如何せん掴みどころがないというか、腹の内が読めないというかで……」
「確かにオスカルはそなたほど素直で分かりやすくはないからな。私の前で見せている姿も、どこまでが本性なのか正直分からぬ。されど血筋という名の宿命から逃れたがっているところを見ると、どうも放ってはおけなくてな。ギディオンやオズワルドには〝甘い〟と散々叱られたが、まあ、伯父上のお振る舞いを見ていれば周知のとおり、それも血筋だ」
と、皮肉っぽい笑みを口の端に湛えながら、リリアーナはようやく見え始めた市門を映す瞳を細めた。ギディオンやオズワルドに叱られた──ということは、彼女がオスカルを副官に選んだとき、周囲の反応はやはり芳しくなかったらしい。
それでもリリアーナは、重臣たちの反対を押し切ってオスカルを自らの副官に据えた。その事実が物語る彼女の覚悟を前にしたら、エリクは何も言えなくなった。
(そんな安い同情のために、この方はご自身を危険に晒してまで政敵の息子を迎え入れたのか。だとすれば『三鬼将』がこぞって反対したのにも頷ける。だが──)
立場を超えて、救いを求める者には迷わず手を差し伸べる。そういう彼女の姿はかつてエリクがガルテリオたちから聞いた、若き日の英雄と重なった。
リリアーナはそうした自身の甘さを〝血筋〟だと自嘲したのだろうが、確かにそうだ。彼女にもやはりオルランドと同じ竜の血が流れている。人間の魂の貴賤を嗅ぎ分け、尊きもののためだけに戦うと伝承に語られる竜の血が。
「……なるほど。将軍がそこまでの覚悟をもって決められたことならば、私ごときが余計な口を挟む必要はなさそうですね」
「ほう。そなたもてっきりオズワルドらの意見を支持するものと思っていたが?」
「そうですね。それでなくとも黄都守護隊は、閣下には常日頃から煮え湯を飲まされていますから、私怨によって反対したい気持ちは山々ですが……しかし私はオスカル殿のことを肩書きでしか知りません。正直、何度か顔を会わせた印象としては〝最悪〟のひと言に尽きますが」
「ふっ……だろうな。そなたのような男は、オスカルとは特に馬が合うまい」
「ええ。ですが私がオスカル殿と直に言葉を交わしたのはまだほんの数回です。つまり将軍の副官として不適格だと断言できるほどの確固たる材料がありません。そんな状態で差し出がましい口をきくのは、いささか傲りが過ぎるかと思いまして」
「ラインハルト家の血筋で、賭博癖があり、陰でそなたを散々謗っているような男だとしてもか?」
「……三番目については初耳ですが、まあ、私も彼を快く思ってはいないのでおあいこでしょう」
「はははっ、そうか。そなたはやはり面白い男だ。さすが、ガルテリオ様に見初められただけのことはある──恩に着るぞ」
「いえ、将軍に感謝していただくようなことは何も……」
「いや。今のは我が副官に代わって述べたのだ。私もあの男にはしばらくの猶予をやりたい。生涯をヴェイセルの息子として生きるのか、はたまたオスカル・エクルンドという一個の人間として生きるのか……やつがその答えに辿り着くのを、見届けたいのだ。いずれ私も選ばねばならぬ道だからな」
そう言って遠い目をするリリアーナの横顔をちらと見やって、エリクは口を噤んだ。叶うことなら彼女にも自由を選ばせてやりたいと願う。
されどフィロメーナが言っていた。自由を手にした代償に祖国を失った王女の姿で、それを一度選んでしまったらもうあとには引けないのだと。
つまりどちらを選んでも、彼女を待っているのは茨の道だ。
だからこそリリアーナは、せめてオスカルだけでも逃がしてやりたいと願うのだろうか。今も彼女の頭上ではためく軍旗の中の、白鳥の翼を与えて──
「──きゃあああああああっ!?」
ところが俄然、青天を裂かんばかりに響いた女の悲鳴にエリクははっと我に返った。とっさに愛馬の手綱を引いたところで、リリアーナ見たさに集まっていた群衆からもわっと弾けるような悲鳴が上がる。何事かと振り向けば、恐怖に竦み上がった人々が我先にと身を翻して逃げ出すのが見えた。
と同時にエリクらの頭上へ、ばさりと羽音を立てながら巨大な影が落ちてくる。
「なっ……!?」
上空を見上げたコーディが、すぐ隣で息を呑んだのが分かった。
つられて視線を上げたエリクも、思わず我が目を疑ってしまう。何故なら一行の頭上、わずか一枝(五メートル)にも満たない距離に──異形のものが、いる。
「ヤ・ナショル・ツェイ」
紫がかった顔を下に向けて覗き込み、二又の舌をちろちろと覗かせながらそれは笑った。長く尖った耳まで裂ける口から、聞き慣れぬ言語らしき吐息を吐いて。
「ま、魔物だ……魔物が出たぞ……!!」
──ありえない。
逃げ惑う群衆の叫びを聞きながら、されどエリクは、脳が必死に眼前の光景を否定しようとする声を聞いた。だってここは黄都だ。天下の百万都市、黄昏の都と謳われる黄帝膝下のソルレカランテ。そんな街に、魔物?
しかも一匹や二匹ではない。たった今、エリクたちを上空から見下ろす半人半蛇の魔物の背後からは、城壁を越えて次々と飛来する魔の大群の姿が見える。
何故あれほどの魔群がソルレカランテに? 太陽神の加護と城壁に守られるこの街が魔物の群に襲われるなんて話は、古今東西、聞いたことがない──
「──総員、抜剣! ただちに応戦せよ! 魔のものどもから民を守れ!」
瞬間、頬を打ったリリアーナの声で硬直が解けた。そうだ。呆気に取られている場合ではない。押し寄せる魔群の眼下には、戦う術を持たない百万の民。
ならば軍人たるエリクたちの為すべきことは、初めからひとつと決まっている。
「将軍、お下がり下さい! ここは我々が……!」
「馬鹿を申すな、私は皇族である前に一軍の統帥だ! 支援しろ、アンゼルム! 増援が駆けつけるまで、我々で時間を稼ぐぞ!」
馬上で勇ましく号令し、リリアーナもまた剣を抜いた。
彼女の身に万一のことがあっては取り返しのつかないことになる。
ゆえに安全な場所まで逃がしたかったが、リリアーナは聞く耳を持たなかった。
こうなってはやるしかない。
どう甘く見積もったところで、彼女を悠長に説き伏せている時間はなさそうだ。
「コーディ、サユキ、リリアーナ将軍のお傍を離れるな! すぐに城から援軍が来る、それまで何としても将軍をお守りしろ!」
「は、はい!」
続けて鞘走ったコーディが頷き、サユキもすぐさまリリアーナの脇を固めた。
現在、彼女の護衛に就いている兵はたったの五十。
残りの兵力は市門の外で待機していたはずだが、果たして魔物が密集した人の上空を素通りしてくるかどうか甚だ怪しい。とすれば援軍が期待できるのはソルレカランテ城にいる第一軍のみ。保守派による毒が回ったあの軍がどこまで機敏に動けるのか、期待はできないが賭けるしかない。
「雷神よ、其の槍にて魔のものを貫き給え──雷槍!」
刹那、エリクの左手から生まれた雷気が一本の稲妻となり、轟音を上げて上空の魔物に迫った。が、六本の腕の後ろに黒き翼を従えた半蛇の魔物は、やはり赤く裂けた口で笑っている。
「ニヴィラ・ニィ」
直後、魔物の囁きと共に闇が弾け、エリクの神術を打ち消した。
魔物にとって最大の弱点であるはずの神の業が、届かない。




