111.私とワルツを
二十二大神のうちのひと柱、自由の神ホフェスにはこんな神話が残されている。
神位第二十二位にあり、神々の末弟とも呼ばれるかの神は、奔放で陽気な神だった。背中に一対の翼を持ち、自由に天界と地上とを行き来できたものだから、数いる神々の中で最も人間に興味を持ち、積極的に関わろうとした歴史を持つらしい。
そんなホフェスがある日、いつものように地上を眺めつつ空を散歩していると、とある王国の城の窓辺にひとりの少女の姿を見つけた。ホフェスは彼女の造形があまりに美しかったので、ぜひ話をしてみたいと気まぐれに地上へ降り立った。
少女の名はヨーナ。他でもない、ホフェスが通りかかった王国の王女である。
ところが身分にも富にも恵まれ、何不自由ない人生を送っているはずの彼女は、話してみるとひどく物憂げな様子だった。聞けば彼女は隣の大国の王に嫁ぐことが決まっており、翌月には祖国を離れる身だという。だが隣国の王は武力にものを言わせて他国を脅す乱暴者で、性格も残虐だという噂があった。
王女はその王のもとへ、人質として差し出される小国の姫だったのだ。
彼女ははらはらと涙を流しながら、己の運命から自由になりたいと零した。
それを聞いて自由の神たるホフェスが黙っていられるはずもない。事情を知ったかの神はヨーナに自由を約束し、王を説き伏せてこようと胸を叩いた。当時は神々の言葉が何よりも絶対視されていた時代だったから、神界に名を連ねるホフェスが命じれば、いかな大国の王といえども承服せざるを得なかったのである。
麗しの姫を我がものとし、隣国を実質的に支配できるともくろんでいた王は、当然ながらすぐには納得しなかった。されど神命には逆らえず、最後にはヨーナを妻として迎えることを諦めた。この知らせを受けたヨーナが泣いて喜び、ホフェスの神僕となることを望んだのは言うまでもない。
願いを聞き入れたホフェスは彼女にも一対の翼を与え、共に大空を翔け回った。
ヨーナは生まれて初めて手に入れた真の自由を心から楽しみ、喜んだという──ところが、だ。妻とするはずだった姫を奪われ、憤怒のあまりますます残虐さを増した王はある日、挙兵してヨーナの祖国へと襲いかかった。
王はホフェスから「姫を手に入れられなかったからといって、隣国に危害を加えることはしないように」と命じられていたにもかかわらず、魔界から現れた悪魔の言葉に惑わされ、ヨーナの故郷を攻め滅ぼしてしまったのである。
ホフェスと共に空を旅し、遥か遠い土地にいたヨーナはその報せを受けるや慌てて祖国へ舞い戻った。しかし彼女が駆けつけた頃にはもう故国は跡形もなくなっており、彼女は激しく嘆き悲しんだ。そうしてホフェスが止めるのも聞かず、祖国が滅ぶ原因となった自らの命を絶って殉じたのだ。
「ホフェス様。あなた様と共に自由を謳歌した日々は、まことに幸せでございました。なれど真の自由とは、人の身で負うにはあまりに重すぎたようでございます」
と、最期にそう言い残して。
つまり、自由には相応の責任が伴う。
ヨーナは死の直前にそう悟ったのだと思う。人には本来どんな道でも選べる自由があり、されど選んだ結果に対する責任は、自らが負う他ないのだと。
(……なのに、よりにもよってそのヨーナ姫の仮装で現れるとは)
と、エリクは言葉にし難い心境で目の前の彼女を見つめた。白と青とを基調とした細身のドレスに、ホフェスの翼を思わせる紗のショール。鳥の羽根をいくつもちりばめた髪の上には、空色の宝石で飾られた華奢なティアラ。
ドレスの裾は床に触れるほど長く、腰から下を覆うレースの布地には、夜空の星を思わせる真珠がいくつもあしらわれている。暗い夜道を照らす星はエマニュエルにおいて希望の象徴であると同時に、天樹に召された故人の魂とも考えられているものだ。とすればそこにあるのは自由への希望か、はたまた自由のために死した者たちへの哀悼か。そんなことを思いながら、エリクは自らを「シニョール」と呼んだ女を──否、フィロメーナ・オーロリーを見据えた。
「……お誘いに与り光栄です。私でよろしければ、喜んで」
そう言って、試すような気持ちですっと手を差し出してみる。すると彼女は、白い翼の形を取った仮面の下で静かに微笑み──迷うことなく自らの手を重ねた。
「……ただし先に言っておきますが、私はあまり舞踏は得意ではありませんよ」
「あら。だからおひとりで壁際にいらっしゃったの?」
「本分は戦士なもので。昔から風雅なものとは無縁なのです」
「構いませんわ。だって、名高きイグナシオ陛下が一緒に踊って下さるというだけで、わたくしは天にも昇る心地ですもの」
……実際に翼を得て天空を翔けたというヨーナの姿で、ずいぶんうまいことを言うものだ。さすがそのあたりは貴族の会話の機微を理解しているなと思いながら、エリクは彼女と腕を絡めて歩き出した。
そうしながら左足の爪先で、さりげなくトントンと床を二度叩いておく。
──フィロメーナだ。
背後に控えたサユキにそう伝えるための合図だった。自らに接近してきた相手がフィロメーナだと確信を持てたときには、そうやって伝えると事前に打ち合わせておいたのだ。これでサユキにもフィロメーナの姿が識別できたはず。あとは彼女も計画どおりに動いてくれることを信じて、振り向かず舞台を目指した。
「……本当は、今夜はもう踊らないつもりだったんだけどな」
ほどなく前の曲が終わり、直前まで舞踏を満喫していた客が袖へ下がると、彼らと入れ違う形でエリクは再び舞台へ上がった。そうしてフィロメーナと向き合ったところでぽつりと漏らせば、仮面の向こうで彼女が不思議そうにしたのが分かる。
「あら、どうして?」
「さっきも言ったろ。舞踏は専門外で、得意じゃないんだ」
「まあ。だけどあなた、巷では文武両道で何でもこなせる俊才だってもっぱらの噂じゃない?」
「噂話の信憑性なんて、所詮はそんなものだってことさ。本人が意図的に流した噂は別として、な」
エリクが言葉尻に含みを持たせてそう言えば、フィロメーナは再び静かに微笑した。そこへ次曲の演奏開始を知らせる管楽器の和音が聞こえ、ふたりは互いに恭しく一礼する。次いで改めて手を取り合い、至近距離で見つめ合った。仮面の目出し穴から覗く灰青色の瞳は一片の曇りもなく、まっすぐにエリクを映している。
──トラモント黄皇国で最も有名な作曲家、アンジェロ・ベレ・ルシェロ作曲『黄昏の王に捧げる円舞曲』。
荘厳な打楽器の音色から始まるワルツの旋律がついに轟き始めた。
まるで冬の眠りから覚めた蝶たちが、次々と花開く春の野から飛び立つように、舞台の上の仮装客が一斉に衣装の裾を翻す。
「あなたならきっと来てくれると思っていたわ」
かくして幕を開けた舞台の上で、互いにゆったりと舞い踊りながら、フィロメーナの唇がそう紡ぐのをエリクは聞いた。
「だけど私が現れても、思ったほど驚いてはくれなかったわね」
「ああ。あんな怪しい招待状が送られてくれば、嫌でもその意図を調べざるを得なかったからな。……最初から俺との接触が目的だったのか?」
「ええ、そうよ。あなたに会うために来たの」
「どうして、あの日たった一度会ったきりの俺なんかに……」
「会いたかったから」
「え?」
「どうしてもあなたにもう一度会いたかったの。いけない?」
そう言って腕の中で悪戯っぽく微笑まれたら、エリクは何と答えるべきか分からなくなってしまった。フィロメーナの言葉のどこまでが本気でどこまでが冗談なのか、とっさに判断がつかなかったのだ。
「とはいえ大勢いる仮装客の中からちゃんとあなたを見つけ出せるかどうか、内心不安だったのだけど……無事にまた会えて嬉しいわ」
「……その言葉が君の本心なら光栄だが、俺が舞踏会に参加すると返事をした時点で、君には会えると分かってただろ?」
「あら、どうしてそう思うの?」
「君が『奇跡の軍師』の末裔だからさ」
「……どういう意味?」
「俺を誘い出すために君が流したあの噂は、半分本当で半分嘘だ。君は仮装行列にまぎれてやってきたわけじゃない。最初からここにいたんだろ?」
「……」
「だから舞踏会が始まると同時に、屋敷の使用人から俺を見分けるための情報を聞き出せた。入り口で客の招待状を確認していた執事殿なら、名簿と番号を照らし合わせてすぐに俺を特定できたはずだからな」
「なかなか面白い推理ね」
「答え合わせをするつもりはないよ。だが国に追われる立場の君が、誰にも見つかることなく会場へ入ろうと思ったら、舞踏会が始まる前から屋敷に潜んでいればいい。それが最も安全かつ確実な方法だろうと思っただけさ」
「あなた、謙遜がお上手なのね。やっぱり噂どおりじゃない」
「舞踏はともかく、罪人を追いかけるのは一応専門だからな」
「そう言うわりには、うっかり罪人を助けたり逃がしたりすることもあるようだけど? おまけに舞踏も思ったより上手だわ」
「俺は」
「しっ。話の続きはこの曲が終わってからにしましょう。今はただ、あなたとのワルツを楽しみたいの」
そう言って無邪気に笑いながら、フィロメーナはエリクの目の前でくるりと優雅に回ってみせた。そんな彼女の笑った顔が、軽やかに舞うドレスの裾が、鼻孔をくすぐる花の香りが──彼女のすべてがエリクの胸を騒がせる。ゆえに爪先を使って器用に回転し、数歩先へと離れた彼女を、つないだままの手で力強く引き寄せた。
すると一瞬驚いたように見えた彼女も嬉しそうに微笑んで、再びエリクのリードに身を任せる。そこからはまるで夢の中にいるようだった。先刻サユキと踊ったときにはガチガチだったはずの体が、自分のものではないかのように自在に動く。
頭で思い描いたとおりに、リリアーナから教わったとおりに。
するとフィロメーナもそれに応えて、楽しげに舞い踊ってみせるのだ。
子供のように無垢でいて、淑女としてのたおやかさと気品も兼ね備えた女性。
実に不思議で心が惹きつけられる。天燈祭の夜には気づかなかった。
けれども恐らくはこちらの方が、フィロメーナの本当の姿なのだ。
(ああ、国がこんな風に乱れてさえいなければ、きっと──)
そんな思いに駆られながら、フィロメーナの足取りを支える指に力を込める。
この手を放したくない、と、記憶の彼方で知らない自分が叫んでいる。星屑のごとくきらめく旋律が、時間が、空間が、永遠に終わらないことを願った。
そうすれば自分と彼女は、気楽で平凡な男女でいられる。
黄皇国も救世軍も関係のない、ただの男と女だ。
「ねえ、本当よ。嘘じゃないの」
やがて楽団の演奏が最後の小節に差しかかる頃、不意にフィロメーナが言った。
「私……ただ、あなたに会いたかった。本当にそれだけなの」
──ああ、分かってる。俺もさ。
舌の先まで出かかったその言葉を、エリクは辛うじて呑み込んだ。
認めてしまえば今度こそ引き返せないような気がしたからだ。
だから代わりに、フィロメーナの背中へ回した腕に力を込めた。
そうして彼女を抱き寄せ、囁く。
「なあ。俺にもう一度、チャンスをくれないか」
彼女の背に触れた右手が、ひと際大きな鼓動を感じた。
フィロメーナは声もなく頷き、最後の一瞬、そっとエリクの胸へ額を預ける。
ほどなく時間を忘れさせたワルツの音色は止んだ。ふたりを包み込んでいた夜の魔法もついには解けて、何も知らない人々の、無情な喝采が降ってくる。




