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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第4章 迷い子たちのバラッド
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110.英雄と姫


 炎の鳥をかたどった仮面をつけて馬車を降りると、不思議と別人になったような心持ちがした。今夜の自分は黄都守護隊(こうとしゅごたい)のアンゼルムではない。

 貸し衣装屋で選んできたのは今からおよそ四百年前、トラモント地方を支配したフェニーチェ炎王国(えんおうこく)の貴族たちが、好んで身につけたという踝丈(くるぶしたけ)の長い上着(コート)

 そして肌を締めつけるほどぴったりとしたその上着の上に、巻きつけるようにして身にまとう一風変わった外套(マント)を羽織っている。


 上着も外套も余分な布が多くて、やたらとだらだらした印象だが、これが当時の貴族たちにとっては富の象徴だったとか。彼らは不必要なほどふんだんに使われた上等な布地を、四百年前にはまだ稀少だった染料で鮮やかに染め上げ、精緻な刺繍を施すことで己の財力と優雅さを誇示しようとしたのだ。


 ──という歴史的背景まで忠実に再現された衣装は、サユキのまとった純白のドレスと並んでみると、より派手派手しさが増して見える。

 (えり)周りに金糸で縫われた草花の刺繍に合わせ、腰にも金の飾り帯を回しただけの細身のドレスは優美でありながらシンプルだ。


 対するエリクは黄金色(こがねいろ)の上着の上に紅緋(べにひ)の外套という配色で、胸もとできらめく太陽のラペルピンに至っては純金だった。おまけに上着の背中には──半分は外套に隠れて見えないが──同じく金糸で縫われた翼の刺繍が輝いている。

 そう、この太陽と翼のシンボルは他でもない、フェニーチェ炎王国の建国者イグナシオ・レ・ソルフィリオの象徴だ。かの王はまたの名をタリアクリという。


 エリクの故郷であるルミジャフタを(ひら)き、グアテマヤン半島の乱を鎮めて、キニチ族の祖になったと伝説に語られる太陽神(シェメッシュ)の神子。


 彼はのちに半島を出て炎王国を築くと、現地の人々の耳に馴染みやすい〝イグナシオ〟の名に改名した──という逸話は、あまりにも有名だった。そんな郷の始祖の威光にあやかるつもりでこの衣装を選んでみたはいいものの、やはりいささか派手すぎただろうか。……などという不安はほどなく、会場に百花繚乱するトラモント貴族たちを目にした瞬間、杞憂(きゆう)だったという確信へ変わるのだが。


「じゃ、行こうか」

「ああ」


 と先に馬車を降りたエリクが手を差し伸べる。するとサユキもその手を取って、危なげなくタラップを降りてきた。エリクの目にはずいぶん(かかと)の高い靴を履いているように見えるのだが、彼女の場合はそれすらも忍術の織り成すまやかしなのだ。

 まったく本当に便利な術だなと感心しながら、エリクはメイナード家の馭者(ぎょしゃ)に礼を述べたのち、いよいよ会場を目指して歩き出した。


「で、本当に踊るのか?」

「う、うん……最初の演奏が俺でも踊れる曲だったらな。けどお前は大丈夫か?」

「問題ない。稽古中に見た皇女の動きを真似るだけなら──」

「あ、いや、舞踏(そっち)じゃなくてだな……お前、こういう人の多い場所は苦手だろ。なのに無理矢理パートナー役なんてやらせてしまって、申し訳なかったなと……」

「……今更だな。だがこれも忍務の一環だ。ならば私は私の役割を果たすまで」

「そう言ってもらえると心強いよ。俺たちの予想が正しければ、フィロメーナは今夜、必ず会場に現れるはずだ。まずはそれを前提に動く。内乱を止める最後のチャンスを、決して無駄にはしたくない」

「分かっている。しかしやつらの目的が本当にお前との接触なら、向こうもどんな手段を講じてくるか分からない。油断するなよ」

「へえ……驚いたな。お前もついに俺を心配してくれるようになったのか」

「違う。しくじるな、と忠告しただけだ」


 と、サユキが前を向いたまま不機嫌に告げるのを聞いて、エリクは自然と笑みが零れた。仮に会場ではぐれてもすぐに互いを識別できるようにと、サユキは現在、仮面だけはエリクと同じものを実物で身につけている。その仮面の下──優雅に広げられた炎の鳥の翼の裏で、彼女は今、どんな顔をしているのだろう。


 そんな他愛もない思考のおかげで、緊張はいくらかやわらいだ。

 ふたりは互いに腕を組んだまま、他の客の列にまぎれて会場へ入る。

 古代の神殿を思わせる造りの玄関には、客の招待状を確認する屋敷の使用人の他に帯剣した憲兵の姿もあった。どうやら憲兵隊も今度こそフィロメーナを見つけ出し、必ずや捕縛してやると息巻いているようだ。


 が、彼らが目を皿のようにして()めつけている招待状には、残念ながら持ち主の名の記載はない。ロマハ祭の仮装舞踏会では、仮装客の正体を暴くことはタブー視されているから、主催者さえも客を識別できないよう招待状は無記名になっているのだ。だというのにただただ招待状を睨むだけで、憲兵隊(かれら)はどうやってフィロメーナを見つけ出すつもりなのだろうか。


 一応、各招待状には名前の代わりに小さく番号が振られており、主催者側はそれによって客を管理しているようだった。しかしフィロメーナは仮にも貴族令嬢で、当然ながらロマハ祭に行われる舞踏会の慣例など知り尽くしているはずだ。


 とすれば彼女が来客名簿に存在しない番号や、重複した番号の招待状を携えて現れるとは考え難い。もしも彼女が噂どおり仮装客にまぎれて外からやってくるつもりでいるのなら、少なくとも実在する客の招待状をくすねるか、譲り受けるかする方法を考えるだろう。そうなれば当然、仮面の下の素顔をひとりひとり確かめる以外にフィロメーナを見つけ出す術はない。もっともエリクは彼女が自ら流したと思われるあの噂は、憲兵隊の目を欺くための陽動に違いないと半ば確信しているが。


「ようこそおいで下さいました。どうぞ、よい夜を」


 ほどなく使用人に案内されたのは、ラヴァッレ邸の中庭に面した舞踏室だった。

 さすがは社交好きで知られる華爵(かしゃく)の邸宅と言うべきか、屋敷の規模に対して不釣り合いなほど広大な舞踏室は、既に招待客で溢れ返っている。

 あちらにいるのは古代ハノーク時代の高名な詩人。

 こちらにいるのは黄祖(こうそ)フラヴィオと共に戦った竜の谷(アラニード)の竜騎士長。向こうに見えるのは黄都の北区にある『歌姫の塔』の由来となった伝説の歌姫か。


 もともときらびやかな衣装を好むトラモント貴族たちの宴は目も(くら)むような景色を織り成すものだが、今夜のそれは一段と無秩序で倒錯的だ。

 エリクは想像を絶する光景にしばし絶句し、隣に立つサユキもまた、仮面の下で何とも言えない表情をしている気配が伝わってきた。


「……前々から思っていたことだが、トラモント人の道楽は理解に苦しむな」

「ああ……俺もそう思うよ」


 と、黄皇国(おうこうこく)で暮らし始めて早一年半になるにもかかわらず、エリクは心の底からサユキの意見に同意する。無数の蝋燭(ろうそく)に照らされた会場も、絵画のごとき様相を呈する料理も、金銀宝飾で飾られた衣装も、そんなに(ぜい)を尽くした余興に(ふけ)る暇と財力があるのなら、何故自らの生まれた国のために使おうという発想に至らないのかまったく解せない。こうしている間にも都の外では民が飢え、彼らの嘆きと憎しみとが、国に内乱という名の嵐を呼び起こそうとしているのだ。


 そうなれば対岸の火事と笑って眺めていた怨嗟(えんさ)の炎は、彼らの命も未来も焼き尽くす大火となって、時代の河を渡ってくるというのに。


「で、この奇天烈な人混みの中からどうやって本命を見つけ出す?」

「そこは俺に考えがあるんだ。ときにサユキ、一曲踊り終わったらさりげなく俺と別れて、まったく別人の姿に変装してこれるか?」

「ああ……その程度のことは造作もないが、誰になればいい?」

「そうだな……誰という指定はないが、できれば()()()()()()()()。そうすれば俺の傍をうろついていても、誰もパートナーだとは思わないだろ?」

「……なるほど。いいだろう。そういうことなら、適当な姿に化けてこよう」


 どうやらサユキは話を聞いてすぐにエリクの意図を察したらしく、会場を見渡しながら口の端を持ち上げた。こういう度胸といい機転といい、まったく頼もしい部下を持てたものだ。それからしばし会場で立食しつつ待っていると、舞踏室の中二階に(いにしえ)の怪盗に(ふん)した男が現れ、盛大に開会の挨拶をした。


 もしやあれがラヴァッレかとも思ったが、主催者が衆目に晒されながら挨拶などすれば、たちまち仮面の下の正体を見破られてしまう。ということは、怪盗の正体はラヴァッレに代わって挨拶を任された別の誰かだろう。

 まったく手の込んだ夜会だなと内心呆れながら、しかしエリクはほどなく、室内の片隅に控えた楽団が舞踏曲の演奏を始めたことに気がついた。

 トラモント黄皇国の中世を代表する音楽家、ヴァレリオ・ジャンマリア作の組曲『神の国より』──その序曲。リリアーナとの稽古で耳に(たこ)ができるほど聴かされた、舞踏会の定番曲が始まる前触れだ。


「あの曲、お前が練習させられていたうちの一曲だな」

「……」

「で、どうする。踊るのか、踊らないのか?」

「踊るよ……踊ればいいんだろ」

「先に踊ると言い出したのはお前だろう」

「分かってる。でも本当にこの一曲だけだからな」


 誰にともなくそう念押しし、エリクはひどい落胆と諦めの境地でサユキに手を差し伸べた。普通、舞踏会でこんなに嫌そうにパートナーを誘えば顰蹙(ひんしゅく)を買いそうなものだが、エリクが不服なのは仮面の下で、サユキが明らかにこちらの反応を面白がっているのが分かるからだ。こうなることが分かっていながら、自分は何故無謀にも「踊ろう」などと誘ってしまったのか。激しい後悔の念に(さいな)まれつつ、エリクはサユキと共に舞台の(そで)へ移動した。短い序曲の演奏が終われば、いよいよトラモント三大ワルツと(うた)われる円舞曲の始まりだ。


(……いつの間に作法を学んだのやら、本当に完璧だな)


 とエリクが感嘆のような、呆れのような気持ちを抱いたのは、いざふたりで舞台へ上がり、互いに向き合って一礼したときのこと。サユキは幻の下ではいつもの男装に近い格好をしているくせに、器用にドレスの(すそ)を摘まみ上げる仕草をして、淑女の礼を取ってみせた。周囲では他の招待客たちもペアを組んで舞台に上がり、準備万端の構えを取っている。それを見てエリクも悲壮な覚悟を決めた。


 結果から言えば、まあ、思ったより上出来だったのではないかと思う。舞踏の技量云々ではなく、曲の終わりまでサユキの足を踏まずに済んだという意味で。


「ていうかお前、なんで本当に踊れるんだよ……」

「だからそう言っただろう。おかげでお前も恥をかかずに済んだのだから、むしろ感謝してもらいたいくらいだ」

「それは確かにそうなんだが、俺にも男としての面子ってものがだな……」

「そんなもの、今更気にしたところで手遅れだと思わないか?」

「おい。いくらシグムンド様に毒を吐かれ慣れてるとはいえ、俺だって人並みに落ち込むし傷つくんだからな?」


 終わりなき拷問に思われた一曲が終わり、舞台を降りると、エリクはたちまち激しい疲労と虚脱感に襲われてがっくりとうなだれた。そこへサユキが情け容赦のない追い討ちをかけてくるものだから、さすがに心が折れかけたことは言うまでもない。実際、踊っている間はリリアーナの動きを完璧に模倣した彼女に助けられっぱなしだったので、反論の余地がないことがさらにエリクの自尊心を傷つけた。


 他方、サユキは失意の底に沈んだエリクを見て、やはり愉快そうにしていたが。


「とにかく、だ。これでお前も気が済んだだろう。私は()()()()()()()()


 しかしほどなく次の曲が流れ始めると、サユキがさりげない様子でそう告げた。その言葉の意味を察したエリクは頷き、休憩室の方へ去っていくサユキを見送る。

 そうして彼女が戻るまで適当に時間を潰そうと会場内をうろうろしていると、何故かあちこちから女性客の視線を感じて閉口した。

 彼女らはエリクがパートナーを連れていないのを目敏(めざと)く見つけて「私を舞踏に誘いなさい」と無言の圧力をかけているのだ。


 されど言わずもがな、エリクは今夜はもう二度と踊るつもりはない。というか叶うことならこの先一生、そんな機会には恵まれないことを願ってやまない。

 ゆえに彼女らの視線を避けるように避けるように移動を続け、ついには当初の予定どおり壁の花になった。やはり舞踏会の会場では、誰にも見向きもされない壁際が一番落ち着く。同じように、最初から踊る気のなさそうな人々が隅の方に集まって談笑している姿を見ると、何やら勇気をもらえる気さえする。


 ところがふと、エリクはそうした壁際族の中にひとり、すらりとした長身に美しいトラモントブロンドを流した男を見つけた。

 仮面のせいで顔立ちこそ分からないものの、立ち姿からして恐らく若い。

 が、ここは舞踏会の会場だというのに、胸には竜の刻印が刻まれた金色(こんじき)の胸当てをつけ、両手には同じく金の籠手(こて)までつけている。


 ──トラモント黄皇国建国の祖、フラヴィオ・レ・バルダッサーレ。


 視線の先の青年が見るからにかの人物を模していることに気がついて、エリクは思わず口角を持ち上げた。間違いない。あれはサユキだ。姿形はまるで変わっているが、顔を隠す火の鳥の仮面だけは先程までと同じものを身につけている。

 どうやらうまく変装を切り替えて来られたようだった。恐らくはあの姿もまた、メイナード邸の食堂に飾られている絵画から着想を得たのだろう。

 しかしトラモント黄皇国の前身となったフェニーチェ炎王国の初代国王と、その黄皇国を築いた初代黄帝(こうてい)が仲良く並んで壁の花か。そんな状況に一抹の可笑(おか)しさを覚え、エリクはつい声を殺して笑ってしまう。ところが刹那、


「シニョール」


 と突然、死角から声をかけられた。シニョール、とはトラモント人が不特定の成人男性を呼ぶ際によく使う、この国の古い言葉だ。


「こんばんは。いい夜ですね。よければ一曲、私と踊っていただけませんか?」


 微笑みを(はら)んだ、たおやかでいて透明な女の声。

 まるで宝石が喋っているかのごときその声に、エリクははっきりと覚えがある。

 天上から降り注いだ神の矢に、心臓を射抜かれた思いだった。エリクが思わず息を呑み、振り向いた先には、栗色の髪を純白の羽根で飾った、傾国の姫がいた。


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