108.熟れすぎた果実
「はあ!? リリアーナ将軍の婿探し!?」
と、優に百年以上の歴史を誇るヒュー詩爵家の食堂で、エリクは思わず素っ頓狂な声を上げた。その声を上げる寸前、リリアーナの次席に座るハインツからもたらされた告白に、時価三金貨はくだらないトラモントワインを盛大に噴き出しかけたことは言うまでもない。
針の筵の上で踊らされているかのような舞踏稽古が果てたあと。
昨日の晩も一昨日の晩もそうだったように、ハインツが手配してくれた晩餐を彼らと共に囲んだ席で、エリクは赤暉石を溶かし込んだような葡萄酒入りのワイングラスをわなわなと震わせた。
「ははは、いやいや、婿探しと言いますか、より正確には、殿下には既に憎からず想い合っている御仁がいる、という噂が立ってくれると、私としては大変有り難いのですよ。ですので殿下が軍務で黄都に滞在しておられる隙に、噂の種になりそうな既成事実をいくつか蒔いておこうと思いまして……」
「そ……それで毎晩、将軍とアンゼルム様を屋敷に招いていらしたのですか? 舞踏の稽古という名目で」
「ああ。そうすればアンゼルム殿も舞踏会で気まずい思いをするのを避けられて、双方に利があるだろう? まあ、もちろん噂の対象にはアンゼルム殿だけでなく、コーディ、君も含まれているわけだが」
「ぼっ、ぼぼぼぼ僕もですか!?!?」
「要するに未婚の若い男なら誰でもいいのだ、この男は。死んでも皇位を継ぎたくない自分の身代わりになってくれるのならな」
「おや、誰でもいいとは人聞きの悪い。こう見えて私も一応、殿下の未来の伴侶と噂されるにふさわしいトラモント紳士を厳選して種を蒔いているつもりですよ」
「つまり、玉座が自分に回ってくるのを防ぐため、という点は否定しないのだな」
「そこはまあ、皇家から〝レ〟の名を下賜されることを公式に拒んでいる以上、今更否定してみたところで詮がありませんから」
と悪びれもせずそう言って、ハインツは白磁の皿に美しく盛りつけられた豚肉の香草焼きを口へ運んだ。
対するエリクはもはや色とりどりの香辛料をまとった豚肉を、より蠱惑的に魅せるために飾られた葉野菜すら喉を通る気がしない。確かに今日まで、何故よりにもよってリリアーナなのかとハインツの人選に疑問を抱いてはいたものの、まさかその狙いが自分やコーディを生贄に捧げるためだとは夢にも思わなかった。
昨年ラインハルト邸で、ルシーンの毒牙からこの身を守り抜いてくれた彼のことは、今や手放しに信頼できる数少ない味方だと思っていたのに。
「で……ですが、ハインツ殿……いくら皇位継承を免れるためとは言え、何故貴殿がリリアーナ将軍の婿探しをする必要が? 将軍に婚約者が現れれば、目下貴殿に向いている世間の注目が余所へと逸れるからですか?」
「まあ、身も蓋もない言い方をすればそうなりますね。何しろ昨年のクーデター騒ぎの記憶もまだ新しいというのに、近頃黄都ではまた皇家の後継者論争が加熱しているのですよ。おかげでいつまた夜道で刺されるかと、小心者の私などは、毎日怯えながら暮らさねばならない状況でして……」
「で、ですがだからと言って、何も我々を巻き込むことはないでしょう? もしも貴殿のもくろみどおりあらぬ噂が立ったりしたら、今度は私やコーディの首が危ういわけで……」
「いやあ、無論私もそこはちゃんと考えていますよ。少なくともシグムンド将軍の庇護下にあるあなた方を考えなしに攻撃できるような命知らずは、如何なソルレカランテ広しと言えどそうはいないでしょうし、何よりアンゼルム殿ならいざというときも、持ち前の武芸と器量で乗り切って下さると信じていますから」
「結局我々任せじゃないですか!?」
「申し訳ございません、アンゼルムさん。ですがどうかご寛恕下さい。主人がこのような振る舞いをするのも、すべてはわたくしや子供たちのためで……」
「やめないか、オリヴィア。これは私と皇家の問題であって、君たちが責任を感じる必要はないと何度も言ったはずだ」
「だけど……」
ところが笑顔でとんでもないことを言い出すハインツと、それに抗議するエリクの間へ割って入ったのは、斜向かいの席に座ったひとりの貴婦人だった。
皇家の血の証明である、リリアーナやハインツのトラモントブロンドにも劣らぬ豊かな金髪を湛えた彼女は、ヒュー詩爵夫人ことオリヴィア・ヒューだ。
持ち主の気性を体現したかのようにまっすぐ伸びたリリアーナの髪とは反対に、穏やかな春の海を思わせる長髪を銀の髪飾りで飾った彼女は、既にふたりの子を持つ母とは思えぬほど若々しく麗しい。夫であるハインツと並ぶとまさに美男美女というハノーク語の見本のようで、いかにも洗練された淑女らしい穏やかな振る舞いは、ハインツともまた違うやわらかさを感じさせた。
「……ではやはり本当なのだな、例の噂は」
「例の噂?」
「昨年のクーデター騒ぎで逮捕を逃れた過激派の生き残りが、皇位を拒み続けるハインツを焚きつけるべく、オリヴィアの生家を失脚させようとしている、という噂だ。まあ、早い話がハインツとオリヴィアを離縁させて、私と婚約させようと画策している、ということだな」
「な……なんですって?」
「過激派はわたくしの一族を人質に取ることで、主人に圧力をかけようとしているのですわ。皇家の後継者問題にカヴァリエリ家を巻き込みたくなければわたくしと別れて、リリアーナ皇女殿下と共にトラモント皇家の正統な血と権威を取り戻すべく尽力せよ、と……」
「そ、そんな……いくら国を守るためとは言え、ハインツさんは皇室に入ることを望んでいらっしゃらないのに、あんまりですよ!」
「だが彼らも今度ばかりは本気のようでね。このままでは妻の一族はもちろんのこと、オリヴィアにまで危害が及ぶかもしれない。というわけで、殿下には既に将来を誓い合った魂の伴侶がいる、という噂が広まれば、過激派も少しは頭を冷やしてくれるのではないかと」
「いや、むしろ激昂して、その魂の伴侶とやらの命を刈り取りに来ますよね?」
「だとしても、相手が名工に鍛え抜かれた鋼であれば、いくら鎌を振り下ろしたところで刃が欠けるだけでしょう。もちろん私としては、ミイラ取りがミイラになってくれる展開が最も望ましいですが」
「つまり二度と鎌を振れないようにしてやれ、と?」
「聞くところによると今も南東大陸の砂漠で時折見つかる古王朝時代のミイラは、大量の金銀財宝と共に埋葬されているものばかりだそうですよ。とすればミイラ一体につき、どれほどの値がつくのかは計り知れませんね」
「……ではもしミイラが自ら現れたなら、こっそりお届けに上がるとしましょう」
「よいのか、アンゼルム。理由はどうあれ、そなたはこの男に無断で利用されようとしていたのだぞ?」
「それはそうですが、ハインツ殿がわざわざリリアーナ将軍を連れて現れた時点で何か裏があるとは思っていましたから。何より私には個人的に、ハインツ殿にお返ししなければならないご恩もありますので」
「まったく人が好いのだな、そなたは。どうりでガルテリオ様が目をかけておられるわけだ」
「むしろ将軍の方こそよろしいのですか? いくら皇家の問題を解決するためとは言え、私のようなどこの馬の骨とも知れない一士官との間に、下世話な噂を立てられるかもしれないなんて」
「案ずるな。ハインツが種を蒔いているのはそなただけではないし、そもそも軍人だった父の跡を継ぎ、自ら軍を率いることを望んだときから黄都の暇人どもには言いたい放題させている。彼奴らとは違って、左様な巷説にいちいち取り合っていられるほど私は暇ではないのでな」
と不敵な笑みを浮かべながら、リリアーナは生まれ持った血を感じさせる優雅さで、宝石のように瑞々しい赤茄子を口へ運んだ。普段司令部で男装に近い格好をしているときはいかにも軍人然として見えるのに、今日のように繊麗なドレスをまとっていると、途端に深窓の姫君のごとく見えるのだから不思議な人だ。
リリアーナ・エルマンノ。正黄戦争で命を落とした皇妹ヴィオレッタ・レ・エルマンノの忘れ形見であり、現在の黄皇国ではオルランドに次いで皇家の血が濃い彼女は、今年で齢二十三だと聞いていた。身分を考えればとうに伴侶を迎え、皇室に連なる世継ぎを生んでいなければならない年頃だ。
ところがリリアーナは今なお北のエグレッタ城に拠る黄皇国中央第二軍の統帥であることにこだわり、決して軍を離れようとはしなかった。
当然縁談の類は次々と持ち上がっているのだろうが、彼女はいずれにも興味を示さず、軍事にばかり夢中になっている。おかげで「皇族としての自覚が足りない」だとか「いつまでもままごと遊びに興じておられる困った姫君」だとか、口さがない貴族たちからは散々に陰口を叩かれているようだ。
それでもなおリリアーナが軍人であることにこだわり続けるのは何故なのか、理由はエリクもよく知らない。ただ三日間彼女と交流してみて分かったことは、どうもリリアーナはハインツ同様、次期黄帝となることを望んではいないらしいということだ。何しろ保守派と革新派が政治の覇権を巡って争い続ける現在の黄皇国は、いつ落ちて潰れるとも知れない熟れすぎた果実。
そんな国を今の状態のまま受け継ぐということは、最悪の場合、祖国を滅ぼした最後の黄帝として歴史に名を残すかもしれないということ……。そのような非業の宿命を背負ってまでこの国の主になりたいと願う人間が、果たしてどこにいるのだろうか。どうにか国を立て直せる未来が見えているならまだしも、今の黄皇国は十年後も国としての形を保っていられるのかどうかまったく見通せない状況にある。
そもそもオルランドによる政治の迷走で、皇家の威光は弱まるばかりだ。
昨年のクーデター未遂事件が保守派の台頭を許してしまったがために、次の黄帝が即位する頃にはもはや皇権などあってないようなものになっていることだろう。
ハインツもリリアーナも、それを分かっているから黄帝の座に就きたがらない。
既に地の底まで押し込められた皇家の力を再び取り戻し、親政によって国家をあるべき姿へ戻すためには、並々ならぬ時間と労力と犠牲が伴うであろうことをふたりもきっと確信しているのだろう。
(だからこそ陛下がご存命の間に、俺たちの手で保守派から政治の主導権を取り戻さなければならない……やつらが次期黄帝の擁立を焦らないのは、既に陛下を手中に収めているからだ。今の陛下はほとんど保守派の言いなりで、やつらはそんな都合のいい操り人形を手放す必要性を感じていない。だからこそ革新派は新帝の擁立に躍起になっているんだろうが……彼らも彼らで欲しているのは利権だけだ。真にこの国の未来を憂いて憤っているわけじゃない……)
革新派ももともと一枚岩ではなかったが、中でも利権ばかりを追い求めてきた連中がついに馬脚をあらわした、といったところか。自らを利するためなら手段を選ばない彼らのやり方は、保守派の貴族たちとまるで同じだ。今や革新派の中でも過激派や急進派と呼ばれる者たちは、エリクたちの味方ではない。むしろ国家再興の道を阻む政敵という認識でいた方が、こちらも足もとを掬われずに済むだろう。
「……ですがひとつ解せませんね」
「……? 解せない、とは?」
「今のお話を聞く限り、過激派は皇家の血による皇権の強化にこだわっているようですが、それであればハインツ殿でなくとも、ご令弟のセドリック殿を将軍の許嫁に当てれば万事丸く収まりそうじゃありませんか? 血統で言えばセドリック殿もハインツ殿と変わりない上に、わざわざ回りくどいやり方で今の奥方との離縁を迫る、などという手間もかけずに済むわけで」
「ああ……まあ、確かにおっしゃるとおりではあるのですが……」
「そうか。アンゼルム、そういえばそなたはセドリックと同じ部隊にいるのだったな。ならばやつがこのハインツのように、佞臣どもが次々と繰り出す戯れ言を笑って受け流せる男だと思うか?」
「いえ、まったく」
「ならばその疑問の答えは既に出ているだろう。あの男は決して他人の言いなりにならないどころか、むしろ牙を剥いて噛みついてくる。そんな男をも意のままに操れると傲るほど、連中も愚かではないということだ」
「ははは……まあ、概ね殿下のおっしゃるとおりです。そもそも愚弟は再婚を望んではいませんからね。これまでも縁談の類は断固として拒否してきた経緯がありますから、過激派もさすがにあれを丸め込むのは無理筋だと、初めから除外していたのではないでしょうか」
「……え? 〝再婚〟?」
「はい。……あ、ひょっとしてセドリックから聞いていませんか? あれは先年、妻を亡くしているのですよ。以来後妻を娶るつもりはないの一点張りでして」
「えっ……と、ということは……セドリック殿は以前、ご結婚されていた……?」
「ふふ。意外かもしれませんが、ああ見えて彼は一途に夫人を愛しておりましたのよ。ですからついこの間も、せっかく屋敷に顔を見せたというのに、主人から縁談の話を振られるや否や出ていってしまって、黄都中探し回って連れ戻すのが大変でしたわ。ねえ、あなた?」
「ああ……そうだな。セドリックは昔から、あまりにも潔癖が過ぎるからな……」
と、オリヴィアに答えたハインツの眼差しが不意に翳ったことに、エリクはそのとき気づけなかった。何故ならあのセドリックが既婚者で、過去に家庭を持っていたという事実があまりにも衝撃的すぎて頭が真っ白になっていたせいだ。
いや、だが冷静になって考えてみれば、セドリックも身分や年齢からしてとうに妻子がいたとしてもおかしくはない。むしろ皇位継承権第九位という地位にありながら未だ結婚をしていない、という方が不自然なくらいだ。
けれどもエリクの頭では何をどう頑張ってみても、セドリックが穏やかな結婚生活を営んでいる図というのがまったく想像できないのだった。
それでなくとも黄都守護隊の主要な将校たちは、既婚者のブレントを除いて全員が未だ独身という女っ気のなさを露呈しているし。
「まあ、とにかくだ。そういうわけで、そなたらもこの男の一計に巻き込まれたからには用心しておけ。ガルテリオ様の信任を得ているそなたらは、ただでさえ敵が多いのだからな。私も黄都にいるうちに伯父上とは話をしてみるつもりでいるが、あまり期待はできぬと思っていてもらった方がいい」
「お、お身内のリリアーナ将軍をもってしても……ですか?」
「ああ、そうだ。……伯父上は母にそうしたように、私にも皇室という名の檻に囚われない自由を約束して下さった。だがそれは裏を返せば、私は皇族としての責務を放棄して、皇家が抱える問題を伯父上ひとりに押しつけたということだ。ゆえに今の私には、黄帝としての務めを忘れた伯父上を咎める資格がない。そして皇室の一員としての発言力もな」
「……しかしせめてゼンツィアーノ将軍がご健在であったなら、お智恵を拝借することもできたのですがね」
と、最後にハインツがぽつりと零した本音が、つとエリクの胸を衝いた。
言われてみれば黄都の政治の混乱は、近衛軍団長であったギディオンが城を去ってからますますひどくなるばかりだ。
革新派や中立派の貴族の中には退役後、忽然と姿を消してしまったギディオンを探し出し、呼び戻そうという動きもあるようだが、爵位も家門も綺麗さっぱり捨て去って消息を断った彼の行方は、今も杳として知れなかった。現役時代のギディオンは幼き日のリリアーナを「姫様」と呼び、大層可愛がっていたと聞いているが、トラモント皇家を愛し守り続けた老将は、もうここへは戻らない。
「ではな、アンゼルム。明日の稽古では本日の練習の成果をしっかりと見定めさせてもらう。今晩眠る前に今一度、よく復習しておくことだ」
「はい……明日も、よろしくお願い致します……」
と、露骨にげんなりした声色で返しながら、その晩、エリクはヒュー詩爵邸からの帰路に就くリリアーナを見送った。彼女を迎えにきた馬車は白い車体に美しい金の装飾をきらめかせながら、エルマンノ家の衛士たちに守られ去っていく。
彼らがヒュー家の庭園を抜け、門の先を曲がるのを見届けてから、エリクたちもヒュー夫妻に暇を告げて屋敷を発った。帰る先はもちろんメイナード邸だ。
シェーンとフラテをメイナード家の厩に預け、もはやすっかり帰り慣れた主人の屋敷の玄関をくぐると、執事のベケットがねぎらいの言葉と共に迎えてくれた。
聞けば今夜は既にサユキが戻っているというので、エリクとコーディはそれぞれ軽い着替えを済ませたのち、彼女の待つ談話室へと足を向ける。
「サユキ」
屋敷の一階に設けられた談話室の扉をくぐると、火の入った暖炉の前にひとり佇むサユキの姿があった。何をしているのかと思ったら、彼女は暖炉の上に飾られた肖像画を眺めていたようだ。床に下ろせば額の高さがエリクの胸もとまで達する大きな絵画の中にいるのは今からおよそ二百年前、武芸ひとつで身を立てたというメイナード家の始祖とその家族──初代当主のアンゼルム・メイナードと彼の妻、そして娘のシェーン・メイナードだ。
「遅くなってすまない。というか、今日は戻るのが早かったな」
「……ああ。そこそこ有益な情報が手に入ったんでな」
と、振り向き答えたサユキは今日も、痩身の少年と見まがうような格好をしていた。暗色の上衣の腰を飾り帯で絞め、脚衣の裾もすっぽりと長靴に収めた姿は機能的でいて目立たず、されど一抹の気品を感じさせる。
ぱっと一見しただけなら、ソルレカランテの北区でよく見かける中流階級の子弟かと、誰もがそう誤解するだろう。異邦人であるサユキの顔立ちは、ひと目では男であるのか女であるのか判別がつきにくいし。
「有益な情報、か。それは報告を聞くのが楽しみだな」
「あまりいい知らせではないと思うが──グアルティエロ・ラヴァッレはやはり、反乱軍と通じている可能性が濃厚になったぞ」
いつもと同じ平板な声色で、サユキはまっすぐにそう告げた。
途端に彼女の足もとで、暖炉の薪がパチンと爆ぜる。
同時に隣でコーディが息を呑むのが分かった。されどエリクは動じない。こうなる予感があったから、毎晩サユキをラヴァッレの周辺へやって情報を集めさせていたのだ。エリクは既に、彼女の間諜としての腕には全幅の信頼を置いている。
「……そうか。じゃ、早速話を聞こう。例の舞踏会までに、一枚でも多く手札を揃えておくためにな」




