107.なにがどうして
──で、何がどうしてこうなったのか、誰か説明してほしい。
「おい、アンゼルム」
「は、はい」
「また腕の位置が下がっている。足捌きにばかり気を取られすぎだ」
「も、申し訳ありません」
「それからまだ動きが硬い。もっと次の動作を意識して滑らかに。動きがしなやかであればあるほど、不馴れでもさまになって見える」
「は、はい……頭では分かっているのですが……」
「いくら知識として理解していても、実践できなければ意味がなかろう。学んだことは頭ではなく体に覚えさせろ。どうもそなたはひとつのことを注意されると、そちらに気を取られすぎて他のことが疎かになる傾向があるようだな」
「……おい、コーディ。さっきから音が乱れてるぞ。というか笑いすぎだ」
「す……すみ、すみません……ち、ちょっとだけ、落ち着く時間を下さい。もう一度初めから演奏させていただきますので……」
と、いよいよ我慢の限界に達した様子で、顔を真っ赤にしたコーディが、ついにヴィオラを下ろして思い切り笑い出した。いや、何なら最初から笑いっぱなしなのだが、さすがに演奏中は声を上げるのをこらえていたようで、それゆえ激しく腹筋が痙攣し、さっきからワルツの音色があちこちに飛んでいたのだ。
おかげで稽古の続行は不可能だと判じたエリクは、まったく不本意であり不愉快だという意思表示としてのため息をつき、ついに彼女の手を放した。そう、まばゆい黄金の髪をあでやかに結い上げ、城では滅多にお目にかかれないドレス姿を披露した、トラモント黄皇国の第一皇位継承者──リリアーナ・エルマンノの腕を。
「やあやあ皆さん、参上が遅くなりました。練習の成果は如何ほどですか、アンゼルム殿? ……と、どうしたんだい、コーディ。そんなに苦しそうにして」
「い、いえ……ぼ……僕は大丈夫ですので、お気遣いなく……今夜もお世話になります、ハインツさん」
ところがエリクが、極度の緊張からくる重い疲労と、慣れない稽古に対する嫌気と、悩ましすぎる頭痛のために額を押さえてうなだれていると、すべての元凶とも言うべき男が晴れやかな笑顔を湛えて舞踏室へ現れた。
他でもない、現在エリクが軟禁されている屋敷の主、ハインツ・ヒューである。そこは黄都ソルレカランテの貴族街で、最も歴史ある区画に佇むヒュー家の邸宅。
六日後に迫ったロマハ祭の仮装舞踏会に出席するため、三日前、コーディとサユキのふたりを連れて黄都に到着したエリクは以前第一軍副帥の仲介で面識を得たハインツと再会し、そして今、まったく経験のない舞踏の稽古を強いられていた。
というのは、エリクがグアルティエロ・ラヴァッレなる人物の招待を受けて舞踏会に出席すると聞いたハインツが、
「ではいくら市井のご出身とは言え、アンゼルム殿もそろそろ舞踏の作法を学ばれなくてはなりませんね」
と笑って提案するや否や、半ば人攫いの要領でエリクを屋敷へ連れ込み、舞踏室へ軟禁してしまったのである。
しかも彼が舞踏の練習相手として連れてきたのはなんと現黄帝オルランド・レ・バルダッサーレの姪であるリリアーナ・エルマンノ。この時点でエリクは「無理です、結構です」と全力でハインツの善意を拒否して逃げ出そうとしたのだが、果たして決死の主張が聞き入れられることはついになかった。
本当にどうしてこんなことになってしまったのだろう。考えれば考えるほど、エリクの頭蓋をかち割って芽吹かんとする悩みの種は育つばかりだ。
よりにもよって第三皇位継承者の立場にあるハインツの屋敷で、黄皇国の姫であるリリアーナを相手に舞踏の稽古だなんて。この状況は一体なんだ?
確かに舞踏会へ参加するからには、エリクも舞踏ができるに越したことはないのだが、しかし踊れないのなら誘われても断ればよいだけのこと。
そもそもエリクが今回、舞踏会に潜入する目的はフィロメーナが仮装客にまぎれて現れるつもりらしい、という噂の真偽を確かめるためであって、正直舞踏会など二の次なのだ。だから当日はフィロメーナを探しながら、何とか壁の花でやりすごせればそれでいいと、そう思って黄都へ来たというのに。
「いいや、全然ダメだ。どうも文武両道才色兼備と噂の黄都守護隊副長殿も、舞踏の才だけは神々から授けてもらえなかったようだぞ、ハインツ。何しろ稽古を始めて今日で三日目だというのに、未だ『黄昏の王に捧げる円舞曲』の旋律すらまともに覚えないのだからな」
「おや、そうですか。完全無欠、向かうところ敵なしと思われていたアンゼルム殿にも意外な弱点があったのですね。年の初めの新年祝賀会で、殺到するご令嬢方から逃げ回っておいでだったのもそういうわけですか」
「いえ、ハインツさん。アンゼルム様の名誉のために言わせていただきますが、この方はこう見えて料理の類も致命的に不得手でいらっしゃいます。その腕前はシグムンド様をして〝口にした者を確実に殺められる〟と言わしめるほどで……」
「コーディ。明日の朝食は俺が手ずから作ってやろうか?」
「いえ、慎んでご遠慮させていただきます!」
これ以上傷口に塩を塗られてはたまらないと、エリクは今や黄都守護隊内で〝新手の殺害予告〟とまで呼ばれる脅し文句でもって己の補佐官を黙らせた。そもそもエリク自身舞踏の才が乏しいことは認めるが、稽古に身が入らないのはどう考えても練習相手が悪すぎるせいだ。おかげでエリクはコーディがヴィオラを奏でている間中、決してリリアーナの足を踏まぬよう全神経を尖らせていなければならず、ゆえに旋律を聞いたり次の動きに備えたりする心の余裕がまったくないのだった。
(だからせめて奥方と練習させてほしいと頼んだのに……)
と、キリキリ痛み始めた胃の腑のあたりを押さえながら、エリクは内心ハインツへの恨み言を募らせる。
ヒュー家の屋敷には彼の妻である妙齢の貴婦人オリヴィア・ヒューがいて、稽古初日、ハインツとふたりで見事な舞踏の手本を見せてくれたのも彼女だった。
ゆえにエリクは、平民出の自分ごときが皇女殿下のお手を煩わせるのは不遜が過ぎるから、練習相手には奥方をお借りしたいと何度もハインツに掛け合ったのだ。
ところがハインツはいつもの朗らかな笑顔のまま、
「いやいや、我が妻を疑うわけではありませんが、さすがのオリヴィアもアンゼルム殿のような前途洋々の若者と毎日至近距離で手を取り合っていては、どのような気の迷いが起きるとも知れませんからね。その点、リリアーナ皇女殿下は未だ独身でいらっしゃいますし、何より私も稽古風景を拝見するたび、嫉妬の神の囁きを聞かずに済みますので」
と、大真面目なのかふざけているのかさっぱり分からない理由で、エリクの頼みを断固拒否したのだった。おかげでエリクは毎晩、軍司令部での仕事帰りにヒュー家へ立ち寄り、リリアーナの玉体を踏んだ罪で断頭台へ送られる未来に恐怖しながら舞踏の稽古に明け暮れている。当のリリアーナはそんなことは気にせず稽古に集中しろと言うが、そう言われても無理なものは無理だ。
だいたい、これは初めて彼女と出会った親授式の席でも思ったことだが、やはりリリアーナは皇族としての煌気というか、竜気というか、そういった気配が強すぎる。長時間近くにいるとその気に当てられて、脳が痺れたようになるのも問題だ。
さすがはオルランドに次いで最もトラモント皇家の血が濃い女人というべきか。
彼女の内にもまた初代黄妃である黄金竜の血が流れていることを強く意識せざるを得ない、常人ならざる気配だった。
「まあしかし、あれだな。舞踏会まで時間がないから、実際の曲を覚えさせながら稽古をした方が捗るだろうと思ったのだが、この調子では到底ロマハ祭に間に合わん。やはりまずは基礎中の基礎を体に叩き込む必要がありそうだ。コーディ、そなた、簡単な練習曲の演奏はできるか?」
「はい。そうですね……ワルツの練習曲というとジョヴァンニ・ポルタのワルツ・エチュードはいかがでしょう? あの曲でしたら同じ旋律の繰り返しが多いので、ステップの練習には向いているかと」
「そうだな。しかしポルタのエチュードは少々テンポが速いのが難点だ。メヌエットくらいのテンポに落として弾くことは可能か?」
「もちろんです。お任せ下さい」
コーディはリリアーナの問いにも臆せずそう答えると、ようやく震えの治まった肩にヴィオラを乗せて、すうっと弓を引いて見せた。
途端に四本の弦が優雅な震えと共に、ゆったりとした三拍子の旋律を奏で出す。
そうして実際にポルタのエチュードなるものを演奏しながら、コーディは「このくらいでいかがでしょう?」とリリアーナの顔色を窺った。
二日前、初めて彼女と対面したときには真っ青な顔をして震え上がっていたというのに、今やふたりはエリクのあまりの舞踏音痴ぶりに互いへの同情という名の固い絆を芽生えさせてしまった様子だ。というかエリクはそもそも、コーディが楽譜も見ずに何曲ものワルツをすらすらと弾けてしまうほど優れたヴィオラ奏者だということを、今回の件があるまでまったく知らなかった。
「実際コーディのヴィオラ奏者としての腕は大したものですよ。彼がまだ黄都にいた頃は、うちの楽団の指揮者が将来有望なソリストとして育てたがったほどです。以前の彼にとって音楽は、唯一の心の拠りどころだったのでしょう。ヴィオラを弾いている間だけは、自分が〝アトウッド家の恥さらし〟であることを忘れられる、と、本人も昔そう話していましたから」
とは稽古初日、コーディの演奏をまぶしそうに聴いていたハインツの言だ。
生憎エリクは音楽の世界のことはさっぱりだが、生まれた先が軍人貴族としての誇り高いアトウッド家でさえなければ、今頃コーディは優秀なヴィオラ奏者として世間に名を馳せていたのかもしれない、と思う。
その話を本人にもしてみたら、彼は恥ずかしそうに笑いながら、
「確かに昔は楽士になるのがひそかな夢でしたが、今は軍人になってよかったと、心からそう思っているので悔いはありません」
と話していたけれど。
そこからさらに一刻(一時間)あまり、リリアーナによる舞踏の猛特訓は続き、戒神の刻(二十時)の鐘が鳴る頃には、エリクは力尽きる寸前だった。
何度も同じ旋律が繰り返されるだけの練習曲のおかげで、何とか足の動きを体に覚えさせることはできたものの、長時間慣れない体勢でいた反動で体中が悲鳴を上げている。正直舞踏の稽古とは、剣術や馬術の稽古などよりよっぽど過酷かもしれない、とさえ思う。何ならこのまま背中から倒れ込んで気を失いたいくらいだが、しかしうっかり気絶するには腹が減りすぎていた。
するとそんなエリクの衰弱ぶりを見透かしたようにハインツが笑って手を叩く。
待ちに待った〝稽古終了〟の合図だ。
「お疲れ様でした、殿下、アンゼルム殿、それにコーディも。戒神の刻を回りましたので、本日の稽古はここまでとしましょう。今宵も当家の料理長に腕を揮わせた晩餐を用意しましたので、どうぞ皆様食堂へ」
「ああ、早速馳走になろう。しかしハインツ、私のことは〝将軍〟と呼べと一体何度訂正させる気だ? そなたが私に皇位継承権を押しつけたがっているのは分かっているが、だからと言ってその呼び方はやめろ。不愉快だ」
「ははは、押しつけたがっているだなんて滅相もない。ただ私が殿下のことをにわかに〝将軍〟などと呼び出すと、喜々として寄ってくる輩がいて困るのですよ。殿下を皇族としてお呼びするのをやめたということは、ヒュー詩爵もついに皇位継承に名乗りを上げる心を決めたか──などという邪推に興じるほど暇を持て余した人間が、黄都には溢れておりますので」
「近衛軍士官として黄都を離れられないそなたの身の上は確かに不憫に思うがな。だからと言って余人の目がないところでまで殿下と呼ぶ必要はなかろう」
「いえいえ。世に『壁に鼠あり、鼠に耳あり』と申しますから、用心しすぎるに越したことはございません。というわけで殿下、そろそろ食堂へ」
「ハインツ」
「どうかご容赦下さい、皇女殿下。私にも守るべき家人があるのです」
この三日間、平行線を辿るばかりのふたりのやりとりがまた始まった。そう思ってことの成り行きを静観していたら、ついにハインツが眉尻を下げ、困ったように苦笑した。するとそんな反応を見たリリアーナが珍しく反論の手を止める。
かと思えば彼女は物憂げに腕を組み、深々と嘆息をついた。
「……ならばそろそろアンゼルムにも話してやれ。わざわざ私を呼びつけたそなたの真意をな」




