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エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―【side:B】  作者: 長谷川
第4章 迷い子たちのバラッド
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103.どれほどの罪を背負っても


 ジュード・フレッカーの姿を浴場で見かけた者はいない。

 黄都守護隊(こうとしゅごたい)では古くから、そんな噂がまことしやかに(ささや)かれている。

 それはすなわち、ジュードが人前で素肌を晒すところを見た者はいない、ということだ。彼は一体いつどこで身を清め、何故兵舎にある共同浴場には姿を現さないのか。その疑問については以前から、将兵の間で様々な憶測が飛び交っていた。


 されどジュードが人前では決して衣服を脱がなかったのは、背中に刻まれた刺青(いれずみ)を誰にも見せないためだったのだ。


 長い首を左右に向けて、咆吼するように口を開けているのは『双頭の邪竜(マスティマ)』。

 遥かな昔、神話の時代に、神々が創り給うた原初の竜と戦った魔界の手先だ。

 二匹の竜は七日七晩に渡って激しい死闘を繰り広げ、やがて神なる竜が勝利を収めると、地に落ちた邪竜の亡骸は黒竜山(こくりゅうざん)となった。トラモント黄皇国(おうこうこく)には古くからそういう言い伝えがあって、ゆえにあの山へ好んで近づく者はなかった。


 もともと山の地形が険しすぎて分け入るのも難しく、そこに邪竜伝承が相俟(あいま)って〝人を喰らう山〟と忌避される要因となったのだ。

 しかしそれをかえって好都合と、集団で山に住み着く者たちが現れた。

 言わずもがな、のちに『黒竜一家』と呼ばれる山賊一味である。


 彼らは攻めにくい山の地形を利用しながら巧みに国の追及を(かわ)し、殺しては奪うを繰り返して、徐々に勢力を拡大していった。

 そして一味の団結をより強固なものとするために、一家の一員と認められた者には邪竜の刺青を授け、身内の帰属意識を高めたのだという。


「俺は……さ……黒竜一家が襲った……村の子供で……まだ……赤ん坊、だった頃に……ドルフに拾われた……らしい……物心、ついた頃には……黒竜一家の……一員として……暮らしてたから……俺自身……自分の、ことは……よく……知らないんだけど、ね……」


 というジュードの話が事実なら、彼は正確には拾われたのではなく、()()()()子供だったのだろう。あるいは彼の両親は黒竜一家による襲撃の際に殺され、唯一生き残った赤子をドルフが連れて帰ったのかもしれない。


 だが黒竜一家は当時から男だらけのならず者集団だ。そんなところに赤ん坊を連れて帰ったところでまともに育てられるわけがないし、そもそも彼らには赤ん坊を養う理由もない。だのにドルフは何故ジュードを山へ連れ帰ったのか。


 そこにはフレッカーというひとりの男が関わっている、とジュードは言った。


「フレッカーは……俺が……拾われる、前から……ドルフの下で……働いてた人、で……たぶん……トラモント人では……なかったと、思う……」

「つまり、余所から来た流れ者だったってことか?」

「うん……というか……サユキと同じ……倭王国(わおうこく)の人……だったのかなって……」

「倭王国人?」

「本人が……そうだ、って……言ってたわけじゃ……ないんだけど……倭王国の話を……よく、してたし……あの国には……ラッパ、とか……スッパ、とか、呼ばれてる……影の者がいるんだ、って……話してた……」

「それって……ひょっとしてシノビのことか?」

「そう……だと、思う。そして、フレッカーも、たぶん……昔、ラッパだった。だけど……何かの、理由で……故国(くに)には……いられなくなって……黄皇国に来て……ドルフと……出会ったんだ」


 言葉もろくに通じない異国で、恃む(よすが)を持たなかったフレッカーは自らが持つシノビの技を売り、暗殺や諜報といった裏の仕事を請け負うことで食い扶持を稼いでいた。そこをドルフに見初められ、黒竜一家に入らないかと誘われたのだ。


 ドルフは自分に仕える限り衣食住は全面的に保障すると言って丸め込み、フレッカーを自らの手下とした。ちなみに〝フレッカー〟というのは彼の黄皇国での通称で、本名は不明。あばた顔で頬のあちこちに目立つシミがあったことから、いつしか〝斑野郎(フレッカー)〟と呼ばれるようになったのだという。


「……当時、ドルフは……黒竜一家の頭目の座を……狙ってて……そのために……フレッカーを……利用したんだ。目的の、ために……邪魔になる人間を……消させて……フレッカーも……最初のうちは……大人しく、従ってた……待遇にも……特に、不満はなかった……らしいから……だけど……」


 やがてフレッカーのシノビとしての実力を知ったドルフは欲をかいた。彼と同等の実力を持つ手駒がもっとほしいと考えるようになったのだ。だがサユキを見ても分かるとおり、シノビの技というのは一朝一夕で身につけられるものではない。

 彼らに宿る超人的な体技や胆力は、幼い頃から課せられる過酷な訓練の賜物だ。


 フレッカーからもそう聞かされたらしいドルフは、ならばとひとつの手段を思いついた──すなわちどこかから子供を(さら)ってきて、フレッカーに育てさせること。

 そうすることでシノビの技を持つ後継者を育成し、自らの野望を叶えるための布陣をより盤石なものにしよう、と。


「だからドルフは、まだ赤ん坊だったお前を攫って山に連れ帰ったのか。お前を二人目のフレッカーにするために……」

「……うん。当時、ドルフは……史上最年少の……頭目になって……みんなから一目置かれたい、と……思ってたみたい……だから、フレッカーを使って……頭目の座に近かった……年長の人たちを……次々と……消していって……どんどん……フレッカーの、力に……溺れていった。だけど、そのあと……結局、頭目に選ばれたのは……先代に……気に入られてた……同期のマヴィック……だったんだ……」


 ジュード(いわ)く、ドルフは腕っぷしと頭脳こそ優れていたものの、野心が強く残酷で愛嬌がなかった。一方、一家に入った時期も年齢もドルフと近かったマヴィックは、頭は悪いが気前がよく愛嬌もあったので、周囲の者から慕われていたという。

 そしてドルフの仕組んだ暗殺により、次期頭目候補を次々と失った先代頭目は、当時一家の中堅を担うようになっていたふたりのうちマヴィックを自らの後継者として指名した。しかしそれでは野心家のドルフが納得しない。


 結果、彼が一家の不穏分子になることを危惧した先代は、ドルフを頭目に次ぐ地位である副長の座に据えて、マヴィックを補佐させることにした。

 何しろドルフは頭目の器ではないが、智略の面では役に立つ。ゆえにマヴィックの補佐役としては適任だったし、いかに野心が強いと言えど、家内第二位の地位を与えられればさすがのドルフも満足するだろうという目算だったようだ。


 ところが結論から言えば、先代の読みは甘かった。長年頭目の座に就いて一家を完全に牛耳ることだけを夢見てきた男が、他人の下に置かれることを(がえん)じるわけがなかったのだ。実際、先代が息を引き取り、彼の遺言によってマヴィックが一家の長となると、ドルフは何故実績も能力も自分より遥かに劣る男が頭目に選ばれるのかと怒り、激しい憎しみを燃やすようになったという。


「だけど……ドルフは……表向きには……本音を、隠して……ずっと……マヴィックを……従順に、補佐してた……と、いうより……めんどくさいことは、全部……自分が請け負うから、って……ことにして……実質、一家を……掌握したんだ。マヴィックの、ことは……酒浸りにさせて、ね……」

「……なるほど。つまりマヴィックをお飾りの頭目に仕立て上げて、一家の実権はドルフが握ってたってことか。だけど確か、ドルフはマヴィックに対して反乱を企てた結果、失敗して一家から逃げ出したって話だったよな?」

「うん……まあ、あれは……実際には……俺と、フレッカーが……ドルフから……逃げるために……仕組んだこと……だったんだけど、ね……」

「え?」


 まったく予想もしていなかったジュードの告白に、エリクは図らずも目を丸くした。けれども、そうだ。言われてみれば確かにドルフは死ぬ間際、マヴィックに余計な入れ智恵をしたのはお前たちか、とジュードに向かって喚いていた。

 そのせいで自分が人生を懸けて積み上げたものをすべて破壊された、とも。


「フレッカーは、さ……どうも……俺を、育てるうちに……情……みたいな、ものが……湧いたみたい……なんだよね……それで……俺を、このまま……ドルフの操り人形として、育てるのは……忍びないと思って……ある日……ドルフに……一家を抜けて……俺とふたりで……山を下りたい、って……頭を下げた。だけど、ドルフは……当然……そんなこと、許してくれるわけ……なくて……むしろ……今日まで面倒を見てやった恩を……仇で返す気か、って……怒り狂って……そして──」


 ──こいつが足を洗いてえなんて抜かすから、洗う足ごと奪ってやったよ。


 そう言って、ドルフは当時十一歳だったジュードの眼前に、両脚を失ったフレッカーを投げ捨てた。無惨に膝から斬り落とされた、彼の二本の脚と一緒に。


「次はてめえが俺の影になれ、ジュード」


 そうしてドルフは茫然と座り込む、幼き日のジュードに言い放った。


「フレッカーはこのザマで、もう使い物になりやしねえ。だから今度はお前が代わりに働くんだよ。逆らえばこいつの命はないと思え」


 幸い、と言っていいものか、フレッカーは両の脚こそ失ったものの一命は取り留めた。以来脚の代わりに粗末な義足をつけて暮らすようになったが、険しい山中で不自由なく生活できるようになるにはとても長い時間がかかり、その間、ジュードはフレッカーのために人を殺し続けた。ジュードが与えられた()()をしくじれば、代わりにフレッカーがドルフに(なぶ)られ、食事や水も与えられなかった。


 ゆえにジュードは必死になってドルフの命令をこなし続けた。

 どこの誰を、何のために、何人殺したのかはもう覚えていない、と彼は言う。

 ただ、そうして日に日に人から遠ざかってゆくジュードの姿に、フレッカーはひどく心を痛めた。だから彼は決意したのだ。頭目の座を狙うドルフの反乱に見せかけてマヴィックを襲い、ふたりを殺し合わせて脱走を図ろうと。


「あとのことは……知ってのとおり。フレッカーの、計画は……成功して……俺たちは、ふたりで……山を下りた。で……ソルレカランテの……貧民街に、住み着いて……俺は……軍人になることにしたんだ。黒竜一家や……ドルフみたいなやつらを……許したくない、って……そう……思ったから……」


 かくしてようやく、エリクは最初の質問の答えが聞けた。

 山賊だったジュードが軍人を志した理由。

 それは彼の人生が黒竜一家によって歪められたためだったのだ。そこでまさかと思い尋ねてみれば案の定、黄都守護隊発足直後に行われた黒竜一家征伐も、ジュードが先代隊長のラオスに直談判して実現させたものだったという。


「ってことはひょっとして、ラオス将軍はお前の経歴をご存知だったのか?」

「うん……ラオス将軍にだけは……本当のこと……全部……話してた、から……マヴィックは……『略奪王』とか……呼ばれてたけど……あれも、実際には……ドルフが……自分のやったことを……マヴィックに……なすりつけたから……だったんだ。だから……一家を抜けたあとの、俺には……今の一家を……率いてるのが……マヴィックなのか、ドルフなのか……分からなくて……」

「なるほど。だから万一ドルフが山に戻って、一家を乗っ取っていたらまずいと考えたんだな。そうだとしたらなおのこと黒竜一家を野放しにしておくわけにはいかないから、将軍に征伐を進言したのか」

「そういうこと……何より……俺は……ドルフだけは、絶対に……この手で殺すって……決めてたから……一回だけ、将軍に……わがまま、聞いてもらったんだ。当時は、結局……ドルフはまだ……戻ってきてなくて……空振りだったけどね……」


 だとしても長らく攻略不能と言われ続けた黒竜山に、ラオスが隊の発足早々、危険も(かえり)みず攻め入った理由がようやく分かった。彼は黒竜山の地理に明るく、しかも一家の内情まで知り尽くしたジュードが隊にいる今ならば、長年軍も頭を悩ませてきた黒竜一家を討ち滅ぼせるかもしれないと考えたのだろう。


 そして実際、黄都守護隊による黒竜一家征伐は一定の成果を挙げ、一家の勢力は急速に衰えた。もっともその情報を聞きつけたドルフが、再び一家の頂点に返り咲こうともくろみ、今回の事件を引き起こしたのは完全に想定外だったが。


「……そうか。お前も過去にそんなことがあったんだな。ちなみにフレッカーさんはもういないって、さっきドルフと話してたけど……」

「……うん。フレッカーは……七年前に……死んじゃった。正黄戦争(せいこうせんそう)中……偽帝軍(ぎていぐん)に、強制徴集されそうになってた……俺たちを……逃がすために……たったひとりで……(おとり)に……なってくれて……」

「七年前……ってことは、お前はまだ軍学校に?」

「うん……当時……敗色濃厚になり始めてた、偽帝軍は……人が足りなくて……卒業前の……士官候補生まで……戦に、動員……しようとしてたんだ。だから……同級生の、何人かで……脱走しよう、って……話になって……」


 結果、ジュードと友人たちは無事に黄都からの脱出を図れたが、事情を知って協力を申し出たフレッカーは偽帝軍の追っ手と戦い、帰らぬ人となった。

 その足で真帝軍(しんていぐん)──すなわち現黄帝(こうてい)たるオルランドの陣営に(はし)ったジュードは、たまたま野営を張っていたハミルトンの部隊へ駆け込み、自分も真帝軍の一員として戦わせてほしいと訴えたそうだ。他でもない、(フレッカー)の仇を取るために。


「じゃあ、お前がいま名乗ってる〝フレッカー〟の姓は」

「うん……正黄戦争のあとの……論功行賞で……姓を、もらえて……好きな名前を名乗っていい、って……言われたんだ。だから……フレッカーの……名前をもらった。今の俺が、ここにいるのは……全部……フレッカーの……おかげだから……」

「……そうか」


 そう言って頷き、ふとカルボーネ村の様子へ目を戻したエリクとジュードの間を春の風が吹き抜けた。炊煙たなびく麓の教会付近ではこの一ヶ月、食事もろくに与えられずにいた村人たちのための炊き出しが始まったようだ。


 こんなに離れているというのに、風に乗って料理のうまそうな匂いが微か漂ってくる。今回村を襲った悲劇にも、ジュードの過去にも決着はついた。彼らはここからまた少しずつ、人としての尊厳と日常を取り戻してゆくのだろう。


「……ところで、アンゼルム」

「ん?」

「今の、話……アンゼルムから……シグムンド将軍、にも……伝えてもらって、いい……? 今ので……分かったと、思うけど……俺……説明……下手だから……」

「ああ……お前がそうしてくれって言うなら、俺は別に構わないが……本当にいいのか? シグムンド様に話してしまっても」

「……うん。ラオス将軍は……俺の過去に……目を、(つぶ)ってくれた……けど……今の隊長は……シグムンド将軍だから……ね」


 言いながらどこか遠くへ視線を向けたジュードの横顔は、心なしか少しだけ晴々としているように見えた。今までラオス以外の誰にも打ち明けられず、ひとりで抱えていた過去を吐き出せて、何かが吹っ切れたのかもしれない。


 そしてだからこそドルフへの復讐を終えた今、ジュードは自分の人生にひとつの区切りをつけようとしているのだろう。とは言えエリクには、事情を知ったシグムンドがジュードを罰するとは思えない。何故なら彼はもう充分過去の罪を償った。

 何よりジュードと同じように、誰にも言えない秘密を抱えるエリクをもシグムンドは許し、受け入れてくれたのだから。


「なあ、ジュード。確かに人は過去をなかったことにはできないが……少なくとも俺はお前を責めようとは思わないよ。当時のお前は、たとえあと戻りできないほどの罪を背負ってでもフレッカーさんを守りたいと願ったんだろ? そして今も投げ出さず、ずっと背負い続けてる。正直すごいと思うよ。何なら俺も見習わないと」

「……アンゼルムが、俺を……見習うようなこと……ある……?」

「ああ、あるさ。現に今回の騒動でも……俺は味方の勝利のために、何の罪もない女性をひとり犠牲にしてしまった。幸い彼女も命までは取られなかったが……一生ものの傷を負わせてしまってな。償おうにも、償いきれない……」


 今も目を閉じると、あの日の彼女の泣き顔と悲鳴が五感に(よみがえ)った。

 未来ある若い娘が、二本。自分のせいで、二本もの指を失ってしまったのだ。

 それでも勝利のためには仕方のないことだったと、言い訳することはたやすいだろう。どのみちあそこで彼女を救う選択をしていても、ドルフなら決して人質を無傷のまま解放したりはしなかっただろうという確信もある。


 けれど罪悪感という名の(とげ)は今もエリクの胸に深く深く突き刺さり、なかなか抜けてくれそうになかった。今更悔やんだところで彼女の指はもう戻ってこないと分かっていても、自分にもっと力があれば、より最小限の犠牲で村を救えたのではないかと繰り返し考えてしまう。いや、もちろん彼女のことだけではない。


 イークのことも、フィロメーナのことも。

 自分は彼らを守りたいと願いながら、今なお敵対する立場に身を置いている。

 そしてもしも今後、黄皇国と救世軍が戦う時代が訪れるなら、エリクはなおもシグムンドの傍らで剣を振るうことを選ぶだろう。何故なら今日、確信した。


 ドルフを欺くためにシグムンドと向かい合った山門で、これがもし演技ではなく現実であったなら──すなわち、いつか本物の救世軍の一員としてシグムンドに剣を向ける日がやってくるとしたら。


 ああ、恐らく俺は耐えられないなと、そう思ったのだ。ドルフに虐げられ続けた二日間、生と死の瀬戸際でエリクがもう一度会いたいと願ったのはイークでもフィロメーナでもなくシグムンドだった。それがたぶん、すべての答えだ。ゆえに、いや、だからこそ自分はこの胸の痛みを、一生抱えていくべきなのだろう。


「……まったく、ままならないよな、人生は」


 と、長い長い石段の最上段に腰かけたままエリクは天を仰ぐ。

 昼時をわずかに過ぎて、ゆっくりと天の座を下り始めた太陽の下では一匹の(わし)が翼を広げ、悠然と大空を舞っていた。


「何かを守ろうと思ったら、俺たちは剣を掴むために、大事に抱えてきたものを手放す覚悟をしなくちゃならない。本心ではどちらも失いたくないと願っていても、現実はそうやさしくはないんだ。だけど、だからこそ俺たちは、そのときの自分にとって最善だと思える道を選び取っていくしかない。たとえ他人から見れば正しくない道だとしても、迷って何も決断できずに、どちらも失うよりはマシだからな」


 自分に言い聞かせるように呟いた言葉を、ジュードがどんな様子で聞いていたのかは分からない。ただ、何となく視界の外で、彼も頷いてくれた気がした。

 けれども今回の事件を経て、エリクもようやく少し吹っ切れた気がする。

 ここには自分を信じ、案じ、前を向かせてくれる仲間がいるから。

 だからこそ失いたくないと願うし、少なくとも今日まで自分が選んできた道のりは間違いではなかったのだと思う──俺は、黄都守護隊のアンゼルムだ。


 もう一度、その想いを胸に刻んだ。


 いつかどこかの世界にいたかもしれない〝救世軍のエリク〟に別れを告げて。


「アンゼルムさま!」


 ところがなおも村の上空を旋回する鷲の姿を眺めていたら、不意に眼下から呼び声がした。聞き覚えのない声に何事かと視線を下ろせば、駐屯所へ向かって伸びる石段を、数人の兵士に付き添われたひとりの女が懸命に登ってくるのが見える。

 そうしてこちらを見上げる女の顔を見た途端、エリクは思わず腰を浮かした。

 何故なら息を切らしてやってくる彼女はあの日、エリクの前で無惨に指を切り落とされた人質の娘だったからだ。


「あ、き、君は……」

「あ、アンゼルムさま……不躾(ぶしつけ)に、申し訳ございません……! ただ、どうしても……あなたさまに、お伝えしたいことが──きゃあっ!?」


 が、弾む息の下から何とか声を絞り出し、さらに石段を登った娘は、エリクのいる最上段まであと少しというところまで来てにわかに短い悲鳴を上げた。

 かと思えば彼女は慌てて両手で顔を覆い、失くした指の先から覗く頬を真っ赤に染める。そんな彼女の反応にエリクは一瞬戸惑ったが、すぐに理由を理解した。

 そう言えばいま自分の後ろには、上衣を脱ぎ捨てたジュードがいるのだ。


「ちょ、じ、ジュード隊長!? なんであなたがここにいるんですか、っていうかなんで半裸なんですか!?」

「あー、うん……ちょっと……アンゼルムと、話してたら……急に……脱ぎたい気分になって……」

「副長、うちの隊長に何言ったんですか!?」

「い、いや、俺は別に何も……というかジュードが勝手に脱ぎ出して……」

「うん……俺と、アンゼルムの仲だから……ね……」

「いきなり目の前で裸になるってどういう関係なんですか!? というか隊長、さっきからずっと副隊長が探してますよ!? こんなところで脱いでる暇があったらさっさと仕事に戻って下さい! 副隊長がまた胃痛を起こして動けなくなる前に!」

「あ、蝶々……」

「隊長!? 聞いてます!?」


 どうやら娘に付き添ってやってきたのは、麓で索敵に当たっていた第四部隊の兵士だったらしい。彼らは自隊の隊長であるジュードにも物怖じせずに言いたい放題しているが、当のジュードはどこ吹く風だ。もうすっかりいつものジュードに戻ったな……と思いながら、野花に寄ってきた蝶に(うつつ)を抜かしている彼を見やり、この状況を喜ぶべきか、はたまた副長として注意すべきかとエリクは頭を痛めた。


 が、今はジュードよりも先に向き合うべき人がいる。

 エリクは改めて、数段先で困惑顔をしている娘へ目を向けた。

 恐らく教会で手当てを受けてきたのだろう、痛々しく包帯が巻かれた彼女の右手を見ると、胸がナイフで突き刺されたように痛む。


「君、会いに来てくれてありがとう。あのときのことを、ずっと詫びたいと思っていたんだ。本当にすまなかった。事情は既に隊の者から聞いたと思うが……作戦のためだったとは言え、ひどい怪我を負わせてしまった。おまけにあんな恐ろしい思いまでさせてしまって……この償いは、一生を懸けてさせてもらうつもりだ」

「え……ま、待って下さい! た、確かに事情は(うかが)いましたが、わたしはむしろ、アンゼルムさまにお礼を申し上げたくてここへ来たのです」

「俺に……礼を?」

「はい。だって、アンゼルムさまが危険を冒して救いに来て下さらなかったら、わたしたちはきっと指どころか命を失っておりました。確かにあの晩はとても恐ろしい思いをしましたが……アンゼルムさまはご自分も傷つきながら、それでも必死にわたしを守ろうとして下さった。そのことを感謝こそすれ、恨む気持ちなどあろうはずがございません。本当に……本当に、ありがとうございました」


 そう言って声を震わせ、()に涙を浮かべた娘が深々と頭を下げるのを見て、エリクは不覚にも言葉を失った。長きに渡った監禁生活で痩せ衰え、あちこち(あざ)だらけになった彼女の様子は、どう見ても無事とは言い難い。だというのに娘は衰弱した体に鞭打ち、こんなところまで息を切らしてやってきた。


 力及ばず、彼女を守り切れなかったエリクを探して。


「……いや、礼を言わなければならないのは俺の方だ。ありがとう」


 そう思ったら、自然と感謝の言葉が零れていた。

 未だ非力な自分を許し、前を向けと背中を押してくれた彼女に。


「この一ヶ月間の記憶は、これからも君たちを苦しめるだろうが……どうか希望を失わず、生きてほしい。俺たちもトラモント黄皇国の軍人として、そのための助力は惜しまないつもりだ。そしてもう二度と、君たちをこんな目に遭わせはしないと違う。俺たちにできることがあれば何でも言ってくれ。黄都守護隊はいつだって、黄皇国の民と共に在る」


 そう言って、エリクはボロボロの衣服を隠すために羽織っていた黄都守護隊の(がい)(とう)を、未だ粗末な衣服をまとう彼女の肩にそっと回した。

 途端に娘の瞳から涙が溢れる。それでも彼女はエリクを見上げ、笑った。

 竜守る天馬の紋章が刺繍された外套を、大切そうに掻き合わせながら。

 かくてカルボーネ村事件は幕を閉じ、黄都守護隊の名はいよいよ国中に(とどろ)いた。

 先のクェクヌス族討伐戦から続く隊の功績に、ある者は讃嘆の声を上げ、ある者は顔を(しか)める。そしてその武名は当然ながら、彼らの耳にも届き始めた。


 亡きジャンカルロ・ヴィルトの遺志を継ぎ、再び胎動を始めた救世軍に。


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