99.食いついたのは
カルボーネ村の天辺にある駐屯所に戻るなり、ドルフはエリクの胸ぐらを掴み、石の壁へと叩きつけた。坑道から生きて戻った手勢はたったの三十人足らず。
率いていった二百人のうち大半は、あのキムとかいう男が指揮する官軍に討たれたか、この男の放った神術によって岩盤の下に埋められてしまった。
不幸中の唯一の幸いは、崩落によって炭鉱の出口を塞がれた黄都守護隊が追ってくる気配がないことと、敵本隊による襲撃を危惧していた村の山門には何の被害も出なかったことか。おかげで山門の防衛にやっていた七十人ほどの手勢は無事だったが、全体で三百人近くいたドルフの手勢は、坑道戦の生き残りと合わせても百人に満たなくなってしまった。
「おい赤髪の、ありゃ一体どういう了見だ? あのときてめえが言った〝考え〟ってなァ、おれの部下ごと官軍を生き埋めにすることだったのか? おかげでおれたちゃ戦力の七割を失った上に、村から脱出するための退路まで断たれちまったじゃねえか! それも含めて全部てめえの策略でしたってか、あァ!?」
坑道から戻ったドルフたちがひとまず逃げ込んだ駐屯所の訓示室には、当然ながら張り詰めた空気が流れている。
中には黄都守護隊との交戦で怪我を負った者も多くいて、室内は血と汗と泥の臭い、負傷者の呻き声、そして有り余らんばかりの殺気で満ち溢れていた。
「……っだから、私はさっさと村を放棄して逃げた方がいいと言ったはずだ! だいたい、あの状況では他に官軍の追撃を振り切る方法はなかった! あと半瞬でも神術を撃つのをためらっていたら、私もお前もジエン・ダオレンに首を取られていたはずだ……! 第五部隊を相手にして命があっただけでも有り難く思え!」
ところがそんな一触即発の空気にも怯まず、エリクは胸もとを締め上げるドルフの拳を振り払ってくる。昨夜ドルフたちからは殴る蹴るの暴行を加えられ、坑道でもジエンの猛攻を受けて既に満身創痍だというのに、この男はまるで怖じ気づくということを知らなかった。
そこがまたドルフの癇に障って仕方がないのだが、しかしエリクの言い分もまた事実だ。やつが落盤を誘発しなければ官軍は逃げるドルフらを追って村へと雪崩れ込み、人質ごと一味を殲滅することも辞さなかっただろう。
だがおかげですべての計画が狂った。極力官軍との戦闘を避け、戦力を温存したまま黒竜一家攻めの物資を確保し、用が済んだらさっさとトンズラするつもりだったのがこのザマだ。やはりわざわざ救世軍を名乗り、戦場に中央軍を引きずり出したのが悪手だったのか。しかし自分が山に戻ったことをギリギリまでひた隠し、なおかつ確実に物資を手にするためにはこうする他なかった。
何故なら日和見主義の地方軍が相手では、いくら人質の首をチラつかせて交渉したところで結論を先延ばしされ、物資の提供を渋られるおそれがあったためだ。
少なくともカルボーネ分隊が属する第三郷区の郷守は、これまでの対応を見る限り、カルボーネ村の防衛については分隊長のブライアンに丸投げで、分隊の管轄で起きたことまで責任を負いたくないと考えているのが一目瞭然だった。
そんな悪徳郷守に人質を使って強請をかけたところで、それこそ村の民など好きなだけ殺せと知らん顔をされるに決まっている。
ゆえにドルフは救世軍の名を使い、意図的にことを大きくしようと考えた。さすれば地方軍よりは話の分かる中央軍を引っ張り出せる可能性があったし、官軍の態勢が整うまでの時間を使って、坑道の抜け道を探すこともできると思ったから。
(だがよりにもよって現れたのは第一軍きっての曲者シグムンド・メイナード……やつが出張ってくるのは想定の範囲内だったとは言え、領地じゃ民衆の支持を得るのに躍起になってると噂のあの男が、カルボーネ村の村人をこうもあっさり切り捨てるとは予測できなかった。いや、あるいはレーガム地方でのやつの評判は、全部赤髪が作ったもんだったのか? 官軍の反応を見る限り、こいつが救世軍側の人間であることはほぼ確定……とすりゃジャンカルロ・ヴィルトの思想を信奉するこの男が、シグムンドの陰で民政に力を入れてたとすれば辻褄は合う、か……)
と、ようやくいくばくかの冷静さを取り戻した頭で、ドルフはここまでに手に入れた情報を目まぐるしく整理した。すると腑に落ちなかったいくつかの状況にも納得のいく答えが見え始め、思わず悪態が口をつく。されどエリクの忠告に従って大人しく逃げていたところで、果たしてドルフらに成算はあっただろうか。
何しろ昨日の時点で抜け道は軍に発見されていたのだ。とすれば脱出を試みていたとしても、山中へ出たところを捕捉され、追跡された可能性が高いだろう。
(ってことは何だ? 黄都守護隊が出てきた時点でおれの計画は詰んでたってのかよ、くそったれ……!)
六年前の正黄戦争以来、国中で腐敗の一途を辿る黄皇国軍を手玉に取ることなどたやすいと思っていた。
賄賂で簡単に動く郷守。他人を出し抜き、私腹を肥やすことにしか興味を示さない貴族たち。平和に浸れば浸るほど、ふやけて弱体化していく常備軍……。
まるで害虫に食い荒らされた作物のごとく穴だらけの姿を晒し、腐臭を放つ黄皇国はもはや死に体で、滅びに抗う力など残されてはいまいと確信していたのに。
(こんなところで、このおれが……死にかけの黄皇国ごときに……!)
老いた黄帝と共に滅ぶとばかり思っていた国に牙を剥かれた怒りと屈辱。ふたつの感情が煮え滾る狭間で、ドルフは青筋の走る額を押さえ、指先に力を込めた。
しかしどちらにせよ、ドルフが十数年をかけて描いた絵図はすべて額から剥げ落ち、崩れ去ったと言っていい。こうなった以上、黒竜一家への復讐を果たすなどという野望にかかずらっている場合ではないだろう。
今、ドルフが最優先で考えるべきは、退路を失った窮地からいかにして脱出を図るかということ。黒竜一家を再び手中に収めるという計画は、どんなに時間がかかろうとも、生きてさえいればまた立て直せる。
そのためにも、まずは生きてカルボーネ村を出ることだ。ひとつしかない山門から、麓で待ち構える五千の黄都守護隊を、たった百人の手勢で受け流して……。
「……おい、赤髪の。てめえが正真正銘反乱軍の人間だってことは分かった。だがてめえ、神術が使えることを何故黙ってた? 神術使いなら俺たちの隙を衝いて、こっから逃げ出すことだってできたはずだろう」
「ああ、確かにな。だが私ひとりだけおめおめと逃げ出してどうなる? ここには救いを待つ民がいる。ならば私はジャンカルロ様の遺志を継ぐ者として、彼らを見捨てるわけにはいかない」
「ハッ……相変わらずご立派なお志じゃねえか。しかし官軍連中は村人のことなんざもう眼中にねえ様子だったぜ。ってこたァ今、律儀に人質を救い出そうとしてんのはてめえひとりだけってわけだ。そんな状況でどうやって村を解放するつもりだ? あ?」
「……」
ドルフが口の端に嘲笑を滲ませながらそう尋ねれば、エリクはそれきり視線を落として沈黙した。この男にとっても官軍が人質を切り捨て、ドルフらの討伐を優先したのはきっと計算違いだったことだろう。ゆえにドルフは駆け引きに出ることにした。エリクがもし本気で人質を救出したいと考えているのなら、やつらにもまだ使い道はある。すなわち人質を盾にしてエリクの協力を引き出すのだ。
そもそも官軍に正体を暴かれたエリクにはもはや行く宛がない。となれば嫌でもドルフらと協力関係を結ばざるを得ないはず。されど救世軍にとって民を傷つけ、その命を利用しようとしたドルフらは決して許してはならない存在だろう。
とすればある程度の協力関係は結べても、土壇場でこちらを裏切ってこないとも限らない。ゆえに人質を使ってこいつの首に縄をつける。
現にエリクは坑道でも、あの絶体絶命の状況から仇敵であるはずのドルフを人質のために助け出した。つまり人質の命さえ握ってしまえば、この男は嫌でもドルフに従わざるを得ないということだ。そこを利用して黄都守護隊にまつわる情報を最大限に引き出し、脱出の糸口を探る。無論エリクの頭脳と度胸は生かしておけば脅威になるから、用が済み次第始末することにはなるだろうが──
「……おい、ドルフ。お前は戦う相手のことは事前に調べ尽くすと言っていたな」
「あ? ああ、まあな。敵のことをある程度詳しく知っときゃ、いざってときに弱味を握ったり、揺さぶりをかけたりしやすいだろ」
「なら黄都守護隊にクラエス・ラインハルトという将校がいるのは知ってるか?」
「ラインハルト……?」
「ああ。今のトラモント黄皇国を裏で牛耳っている大貴族のひとり、ヴェイセル・ラインハルト詩爵の実の息子だ。それも五人いる子息の中で唯一の現妻の実子……他の四人の兄たちは愛人に格下げされた元妻の子で、クラエスは長男のアダム・ラインハルトに次いでラインハルト家次期当主の座に近いと言われている。他の三人の息子は既に他家へ婿入りしているしな」
ヴェイセル・ラインハルト。その名に聞き覚えがないはずがなかった。
シグムンド・メイナードという男について調べていたとき、やつの最大の政敵として名前の挙がっていた男だ。
肩書きは確か財務大臣で、黄都では次期宰相の最有力候補と目される人物だったはず。されどシグムンドとは政治的思想が噛み合わず、ことあるごとに衝突しており、ラインハルトからシグムンドへ向かう憎しみは今や相当なものだという。
「ほう……そいつァ初耳だ。しかし用心深いことで知られるシグムンドが、自分の軍にラインハルトの身内を置いてるとは意外だな。さしずめ大臣を牽制するための人質ってところか?」
「いや、クラエス・ラインハルトは黄都守護隊の先代隊長、ラオス・フラクシヌス将軍が入隊を許可したんだ。そして守護隊内では今もフラクシヌス将軍の影響力が強く残っていて、さすがのメイナード将軍も、先代が配置した将校を大した理由なく動かすことができない状況が続いている……」
「あァ……ラオス・フラクシヌスといや、現黄帝の父親代わりとして有名だったジイさんだろ。とすりゃ新任の隊長ごときが隊の人事に口を出せねえのは当然っちゃ当然か」
「……そこまで分かっているなら話は早い。実はそのクラエス・ラインハルトが、今回の出撃にも従軍している」
「……何?」
「これがどういうことか、お前なら分かるだろう。お前はメイナード将軍が、世論を気にして人質から犠牲が出ることを嫌うはずだと予想していた。あの予想はある意味正しい……何故なら将軍がカルボーネ村の民を意図的に見殺しにするようなことがあれば、話はたちまちラインハルト詩爵の耳に入る。そうなれば黄都での勢力争いは、一気に詩爵の有利に傾くだろう……メイナード将軍としても、それだけは何としても避けたいはずだ……」
言いながらエリクは衣服ごと裂かれた右肩を押さえ、灰色の壁を背にしたままずるずると沈み始めた。どうやらドルフたちに散々痛めつけられた上に、先程の戦闘でもあちこち浅傷を受けて、いよいよ体力が尽きつつあるようだ。
──そういやこいつにはろくにメシも食わせてなかったな。
浅い呼吸を繰り返しながら座り込んだエリクを見下ろして、ドルフはようやくそんなことを思い出した。しかしこれは渡りに船だ。ここまで衰弱していれば、エリクは生きて村を脱するために、ますますドルフらを頼らざるを得ないはず。
生命の危機に瀕しつつある人間を手懐けるには、救いの手を差し伸べてやるのが最も手っ取り早い。そう判断したドルフはニィッと口の端が持ち上がりそうになるのを堪えながら、エリクの顔を覗くようにしゃがみ込んだ。
「おい、赤髪の。そんな情報をわざわざおれに渡すってことは、てめえ、さては黄都守護隊を出し抜く策を持ってやがるな?」
「……」
「そいつをおれらに教える代わりに、命だけは助けてほしいって魂胆だろ。官軍に正体がバレた以上、おれたちと行動を共にする以外に、てめえが生き残る手段はねえからな」
「……ああ、確かに策はある。だが、私ひとりの命の保証だけでは教えられない。お前たちが、もし……これ以上人質には危害を加えないと誓うのなら……唯一生き残れるかもしれない方法を、教えてやってもいい」
「ククッ……この期に及んでまだ人質がどうとか言ってんのかよ。いいぜ、そういうことなら誓ってやる。どのみち人質はもう官軍との交渉材料には使えそうにねえからな。だったら生き残ったやつは全員てめえにくれてやるよ」
「……交渉成立、だな。ならここから先、人質の生殺与奪の権利はすべて、私に譲り渡してもらうぞ」
振り絞るような声で言い、ようやく顔を上げたエリクは、ほんの少し笑ったようだった。村からの脱出を対価に自分の命の保証はもちろん、人質の命さえも買い戻せたという事実が、尽きかけていた彼の気力を再び燃え上がらせたらしい。
他方、ぶら下げたエサにエリクがまんまと食いついたのを認めたドルフも内心ほくそ笑みながら、手下を顧みて「おい、誰か水を持ってこい」と命じた。
何しろドルフとしても、生きて村を出るまではエリクに死なれては困る。
この男の智略と正義心とを利用できるだけ利用させてもらわなければ。
そのためには水だろうが人質だろうが必要なものは何でもくれてやる。
無論、無事に脱出を果たせたあとのことまでは保証しないが。
「で、肝心の策ってのは?」
ほどなく運ばれてきた飲み水を与え、エリクが人心地ついたところで、ドルフはどかりと床にあぐらを掻いたまま尋ねた。
獣の革で作られたそこそこ大きな水筒の中身を、ほんの数拍でひと思いに飲み干したエリクは、いくらか生き返ったような顔色で息をつき、言う。
「……簡単な話だ。さっきも言ったとおり、メイナード将軍は黄都での立場を守るため、人質を意図的には殺せない。だとしたら我々は将軍の弱みであるそこを突けばいい。つまりこれまでのやり方どおり、人質を盾にするということだ」
「はあ? だが坑道で戦った連中は、人質なんぞ好きなだけ殺せと言ってただろうが。まさかあれはおれらを動揺させるための虚勢だったとでも言いてえのか?」
「いや、違う。将軍が人質の犠牲を容認したのは、お前たちを救世軍と誤認したからだ。さっきキム殿が言っていたとおり、救世軍が保身のために人質を害したとなれば世論はむしろ黄皇国に味方する。だがそれなら、人質に手を上げるのが救世軍ではなく黄都守護隊だとしたら?」
「……何?」
「言っただろう、簡単な話だ。俺たちはただ人質を盾にして村からの脱出を図ればいい。そう──まさしく文字どおりに、な」




