侯爵様の朝は今
『キング侯爵家現当主 セシルは低血圧であり、朝は弱い』
この噂を知らぬ者はもぐりだというくらい、キング侯爵邸では有名な話である。
ちなみに、セシルの婚約者となったエステルは既に知っている事実であるし、彼女自身彼を起こすのには過去、幾度となく苦労したものだ。
そんな侯爵は今、どう朝を迎えているのかここに記す。
*** *** ***
――朝。
本日の、セシルに顔を洗うための湯を届ける当番は、エリンであった。キング侯爵邸において、湯運び当番という仕事には部屋の主を起こすことも職務に含まれている。したがって、エリンは深い溜息をこぼさずにはいられない。
そんな彼女はまず、セシルの寝室ではなく、婚約者エステルの部屋へと向かった。
本来ならば時間をかけて婚儀の準備をするものだが、セシルは一日でも早くエステルとの入籍を望んだ。ゆえに、エステルは男爵邸に帰ることなく、婚約後はキング侯爵邸にて生活し、結婚準備を進めている。
エリンはエステルの部屋の扉の前にたった。
ついで、迷うことなく扉を叩く。
「エステル様、ご起床されてますか?」
一時は女中として同僚だったエステル。既によく知った関係であるが、身分の違いは踏まえねばならないため、彼女が貴族では珍しく朝型だと知っていたが尋ねた。
しかし、今日は珍しく応答がない。
(……温室かしら?)
首を傾げながら、最後にもう一度エリンが扉を叩こうとした時。
「お待たせしちゃってごめんなさいっ」
扉が開き、申し訳なさそうにした部屋の主が顔を覗かせた。
「おはようございます、エステル様。突然申し訳ありません」
頭を下げるエリンに、エステルは慌てて首を横にふる。
「気にしないで。私こそ着替えに手間取っちゃって……。あ、入って」
そういってエステルは部屋にエリンを促すと、椅子に座るよう勧めた。だが、エリンは座らなかった。かわりに、なぜか視線を彷徨わせる。
「……? どうしたの? エリン。あ、そうだわ。汚れ物増やしちゃってごめんなさい。早朝から土いじってたら汚れちゃって…………えぇと、エリン?」
エステルは土で汚れた町娘が着るような簡易な服を腕で抱えながら謝罪したが、どうも今日のエリンは様子がおかしい。まず、朝からエステルを訪ねてくること自体不思議だ。
エステルは眉間に皺を寄せ、再度挙動不信なエリンに声をかける。
「あの、エリン?」
すると、エリンは顔をエステルに向け、正面から見据えた。妙な迫力――鬼気迫った表情――に、エステルは唾を呑み込む。
(……な、なにかしら。なんか――怖い)
怯む心を叱咤しながら、エリンの真っ直ぐな視線を受けとめていると。
エリンはおもむろに口を開いた。
「エステル様、今すぐ外套を羽織って、さらに旅行鞄を持って、一緒にいらしてくださいませんか?」
「は?」
エリンの言葉に、エステルは目を点にする。
(え、なんで邸内で外套? というか、旅行鞄? ……急に外出することになったのかしら?)
あまりにも唐突すぎて疑念を抱く前にそう思ってしまった。
唖然とするエステルの視界で、エリンは外套と旅行鞄を用意し始めた。
「え、エリン? 旅行鞄……つまり、どこかへ行くのよね? どこか、訊いてもいいかしら?」
なんとなく気迫におされたままエステルが問うと、エリンは旅行鞄をドスン、と床に置いた。浮かべた笑みは、なんだか黒い気がする。
「――セシル様の寝室、ですよ?」
「は?」
エステル、本日二度目の唖然。
そうこうしている内に、エリンが手にしていた外套はエステルに着せられ、あれよあれよという間にセシルの寝室へ向かって廊下を歩いていた。
*** *** ***
セシルの寝室の前に待機していたのは、先輩女中ドロシーだ。
なぜか既に顔を洗う湯が用意されているのを見たエステルは目を瞬く。
そんな様子を見受けたドロシーは口端を上げた。
「おはようございます、エステル様。実は、セシル様を起こす当番がきたら、エリンと手を組むことに決めました」
「…………手を組む?」
うっかりエステルが朝の挨拶を忘れてしまうくらい気にかかる言葉だった。
銅色の髪を揺らして首を捻ると、女中二人は妙に楽しそうににやり、と笑った。
そして、エリンは「見ていればわかりますわ」と告げ、セシルの寝室扉をあけた。
ドロシーは湯の入った洗面器を寝台の傍に設置する。
同時にエリンはエステルに手招きした。
「エステル様、絶対にわたくしの斜め後ろ――ああ、大切なのは、寝起きのセシル様の視界にちゃんと入る場所で立っていてくださいませね?」
にっこり微笑むエリン。理由はわからない。けれど、断れないなにかがあった。
エステルは曖昧に頷きながら配置場所へ歩む。そしてエリンに空の旅行鞄を渡された。
「エリン、こっちは準備完了よ!」
「ドロシー様、こちらも準備完了ですわ。――では、いざ、参ります!」
(……え、なにかしら? この二人の決戦にでも行くような雰囲気……)
わずかに疎外感を感じながら、エステルはなぜか旅行鞄を手に彼女たちを見守ろうと心に決めた。
セシルは相変わらず、ふかふかとした枕に頭を沈めてぐっすり眠っていた。淡い金の髪がわずかに乱れている様は、起きている時より色気を醸す。
夢の中の美貌の青年。
そんな彼が眠る寝台の傍にそびえ立つのは、戦意を露にした二人の女中と肩を竦ませる婚約者。
エリンは鼻唇溝に両手をあて、大きな声で叫んだ。
「セシル様――――――っっ! 朝でございますわ――――――っっ!」
エステルよりよほどお嬢様らしいエリンからは、想像もつかない声だった。
しかし、セシルは唸ることもなく。
エステルは口をぽかんとあけながら、やはり見守り続ける。
そして、もう一度、エリンが大声を発した。
「セシル様――――――!! 早く起きないと後悔しますよ――――――!!」
一体なにを後悔するというのだろうか。
エステルはエリンを見、ついでドロシーへと視線をやる。なにやらドロシーは腕を組んで「うんうん」と頷いているだけだった。
(…………な、なに? なんなのかしら?)
エステルは得体の知れない恐怖をおぼえた。一体彼女たちは何を企んでいるのだろうか。
すると、ようやくセシルは「うーん……」とだけ喉の奥から声を出した。あんなにもエリンは声を張り上げていたというのにこの反応とは、これ如何に。
だが、この反応に手ごたえをおぼえたらしきエリンはドロシーへと目で合図し――突然床に膝をついたかと思うと、エステルの旅行鞄に縋りついた。
「えっ!?」
驚くエステルに、ドロシーまでもが鞄を持つ腕とは反対の腕に縋りつく。
(な、なになに、なんなのっっ!?)
エステルが視線を泳がせていると、エリンとドロシーが叫び始めた。
「エステル様ぁ! セシル様の寝起きが最悪だからって……実家に帰るだなんておっしゃらないでくださいましぃぃぃ!!」
「え、ドロシー、なに言ってるのっ?」
「エステル様ぁぁぁ! セシル様の寝起きが良くなるまで実家に篭るだなんて……セシル様の寝ぼけ顔も見たくないだなんて……およよよよ」
「え、エリンっっ!? 私、そんなこと……」
「なにもおっしゃらないでくださいませっ! 気持ちは嫌というほどわかりますわ! わかっておりますから!! よよよ……」
もはや、エステルは呆然と泣き縋られるしかなかった。
(…………私、どうしたらいいのかしら)と考えながら、天からなにか教えがないかと仰ぎ見る。が、勿論なにもなかった。
そんな中。反応したのは、今のいままで唸るだけで結局再び眠りにつこうとしていたセシルだ。
それまで気持ちよさそうに被っていた布団を撥ね落とし、腹筋運動かと思うほどの勢いで撥ね起きた。
啜り泣きの響く部屋はいっそ金縛りにでもあいそうな雰囲気であり、現にエステルはある種の金縛り真っ最中。けれど――身を起こしたセシルは瞬時にしてエステルを翠の瞳に捉えると、切羽詰った表情で叫んだ。
「エステルっっ!! 行かないでくれ!! 寝起きが悪いのが嫌いだというのなら、努力する! だから――っ」
「へっ?」というぽかん顔のエステルにも拘わらず、セシルは膝立ちで寝台の上を歩き、エステルを至近距離で切なく見つめる。
「エステル、お願いだから……離れていくなんて言わないでくれ。義父と義母に会いたいのなら、私も正式に挨拶しなければならないし、一緒に男爵邸へ行く。だから……」
捨てられた犬のように眉尻を下げるセシル。
エステルは状況把握に遅れ、取り残されたままだった。
そうして、完全にセシルが目覚めた頃、エリンとドロシーはエステルを解放し、目尻の涙を拭う。
「これで任務完了ですわね、ドロシー様」
腰をあげながらご機嫌なエリン。
「ふ、いつもより断然ちょろかったわね、エリン」
鼻で笑ったドロシー。
この様子に、ようやくエステルは確信した。
(わ、私をセシル様の目覚ましにしたってことね……)
頬の筋肉が引き攣り、片方の口尻がぴくぴくと動いてしまったのは許してほしい。
文句の一つも言いたい……ところだが。エステルには、言えない理由があった。
(……私が女中だった頃も、大変だったし……セシル様に『君があたためてよ』とか、冗談でも言ってほしくないし……)
エステルが侯爵邸へ来てから、セシルはエステル以外に『君があたためてよ』云々言わなくなったが、それをエステルは知らない。むしろ、エリンもドロシーも報せない。今後に支障が出るのだから。
「エステルのことが、好きなんだ」
朝から熱烈な口説き文句を垂れ流しながら、セシルはエステルが持つ旅行鞄を取り上げる。
そしてエステルを引き寄せ、抱え込むようにエステルを抱きしめた。
「あ、あの、セシル様」
「エステル――」
「では、わたくしたちは失礼いたしますわ。あ、エステル様、あとはよろしくお願いします」
「エステル様、これから朝はよろしくお願いしますね」
エリンとドロシーの無情な声が響きだけを残していった。
その日、エステルがセシルの懇願から逃れたのは外套を脱ぎ、「ひとりで実家へは帰りませんから、安心してください。セシル様、私も大好きですから、まずは朝の準備をしてください」と宥めるまで続いたらしい。
こうして、以降、エステルはセシルの目覚ましに借り出されるようになったという。




