11. 侯爵様と男爵令嬢 (3)
『エステル、私と結婚してほしい』
『先手を打たれる前に、奪いに来た』
頭の中で反芻される二つの科白に、エステルは顔を紅潮させて立ち竦む。
確かにエステルは、セシルに”カイルと婚約している”旨を告げた。そしてセシルもそれを知っているようだった。
瞬間、眩暈をおぼえるような、頭痛がするような、足元が崩れ落ちていくような、言葉では言い表せない感覚に陥る。
(……奪うって…)
……嬉しいに決まっている。好きな男からそんなことを言われれば。でも――。
(無理に、決まってるわ)
契約社会において婚約誓約書は、非常に重要とされている。とくに、貴族のものともなれば、貴族の縁故関係を管理する国にとっても無視できない代物だ。
ふん、と鼻で笑う気配がした。
エステルが音の主を振り返ると、そこでカイルが冷笑していた。彼の視線は跪いたままのセシルに向けられている。
カイルの灰青の眼差しを受け、セシルは立ち上がった。
「――なにがそんなにおかしい?」
感情の一切を消した表情でセシルが問う。
カイルは漆黒の髪を掻きあげながら答えた。
「エステルの言葉をきいていなかったのか? エステルと俺は、婚約しているんだ。証拠は、今公爵様が持っている誓約書だ。――これで理解できるだろう? お前はそこまで愚者ではない」
「そうだな。でも……君はもっと警戒心を持った方がいい」
なんの痛手にも感じていない素振りで、セシルはウォーレスへと歩み、一通の封筒を受け取った。
そうして、封筒を公爵へと差し出す。
「……なんだ、これは」
首を捻る公爵に、セシルは「中身をご覧ください」と促した。
カイルとエステルは、訝りながら公爵の行動を見守る。
公爵は封筒から折りたたまれた紙を取り出し、開いて読みはじめた。次第に顔色が変わっていくのが見て取れた。
(なにが書かれているのかしら?)
把握できない状況に、エステルがセシルを見上げると、彼はにこりと微笑む。
そうして、再び口を開いた公爵から出たのは、笑いを含んだ言葉。
「こりゃ面白い!」
くつくつと笑い出した壮年の男は、眉を寄せ続けるカイルとエステルにも内容がわかるように紙を掲げた。
「っなっっ!?」
言葉にならない声をあげ、瞠目するカイル。エステルに至っては、もはや言葉を失って唖然としている始末。
やがて公爵は笑いをおさめ、こめかみを押さえた。
「困ったことになったな」
呟いた声は悩ましげなものだが、明らかに心からの言葉ではないと察せられる。しかし、セシルも公爵の言葉に便乗した。
「はい。困ったことになりました」
浮かべる微笑みで、彼も困ったとは思っていないことが一目瞭然だった。
男性陣の中でただ一人、カイルが瞳を揺らす。
「……どういう、ことだ」
動揺で声までもが揺れていた。理解するのに時間を要しているようだ。
――それもその筈である。
その紙は――セシルとエステルの婚約誓約書なのだ。
しかも、セシルの署名もエステルの署名もあり、承認にはセシルの母であるキング家名代とエステルの父である男爵の名もある。
それまで重い沈黙状態だった会場が、一気に騒然とした。
その中、エステルが独り、セシルの婚約誓約書を凝視して、自分の置かれた状況に思考に耽る。
(あの文字、確かに私の字だわ。……でも)
エステルはセシルとの婚約誓約書に名を書いたおぼえはない。というか、婚約誓約書自体初見だ。そもそも、キング侯爵邸で本名を記入したことなど――。
はっ、とエステルは息をのんだ。
(――ある。たった一度だけ)
しかしそれは、別の契約書ではなかっただろうか。
(まさか、あれ……?)
脳裏に浮かんだのは、エステルが女主人と交わした、エルーではなくエステルとして女中の雇用契約を交わしたと思っていた時のこと。
後にも先にも、あの時しかエステルは”エステル・コーネリア・クラーク”の名を文字にしたことはなかったのだ。
(……あの時――なんの契約書か訊いた時、奥様はなんて答えたかしら)
不自然に半分巻かれたままのそれに違和感をおぼえたがゆえに、確かにエステルは女主人に問うたのだ。
(そうだわ、確か――)
『わたしが雇ったのは、エルーという女の子であって、エステル嬢ではなかったでしょう?』
刹那、エステルの顔は蒼白となる。
女主人は、その書類がなにか、一言も口にしていなかったのだと。勝手に意味を推測し、咀嚼したのはエステルに他ならない。
(まさか……まさか、私――奥様に謀られた!?)
真実に気づいたエステルは、四つん這いになって黄昏たくなった。
厄介すぎる、キング侯爵家の面々。美しい容姿は、策士であることを隠すための仮面に過ぎないということか。
絶句し、口元に手をあてるエステルに、公爵は流し目を送った。
「罪だな、エステル嬢。――だが、重婚はできない。君が罪に問われる。それは、知っているな?」
突如向けられた冷水を浴びせるような声音に、エステルの肩がビクリと動く。一度混乱状態に陥ると、冷静さは微塵もなくなった。
「あ、は、はい。存じて、おります」
冷や汗が背筋を流れたのがわかる。なにを言われるのかと怯えるように唾も息も呑みこめば、公爵は矛先を変え、セシルとカイルに向けて質問した。
「セシル、カイル、お前らのどっちかが引くつもりは?」
重く問う言葉に、「ありません」と即座に二人分の返答が返される。
ほぉ、と興味深そうに口端を上げ、公爵はついで促した。
「だが、二人との結婚は認められん。ここは――騎士らしく、決闘、といくか?」
その一言に驚いたのはエステルだ。
――決闘。
騎士と貴族の文化において、それは表立っては禁止されていたものの、実際は暗黙の了解とされていた。命を懸けて戦うそれは、血を流すことも珍しくない。
「なっ!? 公爵様!? 危険――」
エステルの反駁を制したのは、ウォーレスだった。
「エステル嬢、どんな形であれ、君は二人の婚約誓約書に署名してる。――それに、セシルのこと、好きなんだよね?」
エステルの耳元に唇を寄せ囁くウォーレスの言葉に、エステルは目を泳がせる。
顔を離したウォーレスが、人好きのする笑みを浮かべた。
「”どうして知ってるの?”って顔してるね。……知ってるよ、セシルも。だから、彼は絶対引かない。君も拒まないであげてよ」
ウォーレスの黒曜石のような瞳は、いつになく真剣さを帯びていた。
「……でも……危ないこと、してほしくないの……。怪我するかも、しれないわ」
エステルが呟くと、ウォーレスの眉が八の字に歪む。
「決闘っていっても、公爵様が殺し合いをお許しにならない。決着がついたと思えば、とめるし――セシルは強いよ」
「――でも」
エステルはウォーレスの瞳を真っ向から見つめ返した。
「でも、セシル様は病を患っているでしょう?」
手に触れたセシルの体温と様子で、気づいてしまった。間違いなく、高熱が出ている。そんな彼に、無理をさせていいはずがない。決闘どころか、本来なら寝台で寝ているべきなのだ。そこに怪我を負う可能性まで浮上するなんて、認められるわけがない。
セシルの容態を知っているだろうウォーレスに、半ば怒りのような感情を向けると、彼は肩を震わせた。口元を拳で隠しているようだが、笑っているのだとすぐにわかる。
「……うん、やっぱり、セシルの相手は君がいいな。――だから、とめさせない」
ウォーレスは満足気に言う。
――ウォーレスには公爵の考えがわかっていた。
公爵が二つの婚約話に介入し立ち会うことで、周囲からも了承を受けたものとし、決闘でどちらが勝とうとも今後敗者に不利となる行為を許さないと示しているのだ。
決闘がすべてであり、裏から手をまわして敗者とエステルを縁組させることは許さない、という絶対の中立。
だからこそ、ウォーレスはエステルを引き止める。
そんなウォーレスとエステルが二人で火花を散らしている他方で――公爵がセシルとカイルの返事を待っていた。
「望むところです」
セシルが会心の笑みを浮かべる。
「受けます」
すぐにカイルが傲岸な笑みで返した。
「では、決闘を――」
公爵が改めて宣言すると、会場のざわめきは最高潮に達した。




