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侯爵様と女中(メイド)  作者: えんとつ そーじ
本編 (完結済)
13/49

6. 苦い夢 ――崩壊――




 時が、とまった気がした。



 窓から射し込む柔らかい日差し。

 けれど、室内の空気は春のそれに反して重く、呼吸をするのも苦しくなるほどだった。

 視線が自分に集中していると感じたエステルは、髪の一筋すらも揺らせない。

(……な、に?)

 状況に頭がついていかない。

 カイルの声が部屋に響き、余韻を残して消えていったのを聞き届けてなお、言葉の意味を理解できなかった。

 硬直する身体をなんとか動かし、父を、母を――最後に婚約者へと顔を向ける。すると、カイルが男爵の執務机に置かれた一枚の紙を、エステルにつきつけるようにしてかざした。

「これ……婚約の誓約書……よね」

 自分自身に確認するように、呟く。

 そこには、エステル直筆の署名と、カイルの筆跡の署名が書かれている。数年前に交わしたため、紙自体は少し黄ばんでいた。

 ――刹那。

 ビリッ! と一気に紙が引き裂かれる音がした。

「なにするの!?」

 エステルがカイルから誓約書を奪うように手を伸ばせば、母に遮られる。

「……エステル、おやめなさい」

 蒼い顔色をした母が咎める。

 ――なぜ、自分が責められなければならないのか。

 わからないエステルは、母に抱きしめられるようにして拘束されながら、怒りを秘めた瞳でカイルの行動を見届けた。

 ビリビリと、紙吹雪のように端切れとなっていく誓約書。エステルにとって命ほどの価値があったそれは、いまやゴミも同然である。

 知らず、涙が零れた。

「どう、して――」

 震える喉で問えば、それまで額を押さえていた父の溜息が耳に届いた。

「……エステル、諦めなさい」

 ただ一言の命令形。穏やかな父の声には疲れが滲んでいる。

 だが、父の言葉をエステルがすんなり受け入れられるわけがなかった。婚約の誓約書が破られたのだ。婚約が――一方的に破棄されたのだ。

 カイルの氷のような灰青の瞳がエステルに向けられた。

 エステルの身体はびくりと射竦められるように震える。――怖いと、思った。

「エステル、もう一度言う。婚約を破棄させてもらう」

 瞠目したエステルだったが、なんとか言葉を咀嚼すると、涙がまた零れた。

「カイル様! どうしてっ!? どうして突然そんなこと言うの!? 嫌! 私はそんなの受け入れないっっ」

 母の拘束を力の限り拒み、カイルへと駆け寄る。腕を掴んで揺さぶった。

「どうして……っ。どうしてそんな目で私を見るのぉ……」

 蔑むような視線に、膝が震える。縋るように、カイルの腕にしがみつく。

「すべてはもう、終わったことだ」

 その詳細は、背後から――父から――語られた。

 エステルがゆっくりと半身を向けると、父は首をゆるく横にふる。

「……どういう、こと」

 涙で鈍く痛む喉から、言葉を紡いだ。

 その部屋にいる全員の視線で、状況を把握できていないのが自分だけだとわかった。

「エステル」と口にしたカイルだったが、男爵が遮る。

「いや、カイル殿。父である私が言おう」

 そうして、男爵は重い口を開く。

「エステル、報告を受けたんだ」

「……報告?」

「お前が――従僕と密通しているとな」

 直後、エステルは言葉を失った。身におぼえがまったくないのだ。一体どこからそんな話を耳にしたのだろう。唖然とするしかなかった。

 なにか反駁しようと唇を震わせると、父はさらに言葉をつぐ。

「従僕だけではない。夜会でも、どこぞの男と庭園に消えたと」

「そんなの知らないわ! 嘘よ!! でたらめよ!!」

 エステルは怒りに顔を赤く染め、必死に叫んだ。しかし、男爵は首を横にふる。

「カイル殿も、見ているんだ」

 父の言っていることに頭が真っ白になった。

(カイル様も……見ている?)

 エステルはすぐ傍に立つ青年を見上げる。

 カイルの、見た事もない嘲るような顔を見て、息を呑んだ。

(……嘘、よ。だって、そんなの私、知らないわ)

 呆然と立ち竦むエステルは、カイルの腕から手を放し、よろめくように後ずさる。もう、なにがなんだかわからなかった。

「知らない……私、そんなの」

 自失状態で口を開けば、否定の言葉が零れる。だがそれも、カイルの一言で無効化した。

「そうか。じゃあ、仮面舞踏会の夜、男に肩を抱かれていたのは俺の見間違いか?」

 感情のこめられない言葉。答えは知っているとばかりに発せられたため、淡々としていた。――けれど、エステルの持っている答えは、彼が確信するものではない。

「それは、彼が悪酔いしてうずくまってて……風にあたりたいって言ったから」

「あんな場所で、それを鵜呑みにしたらどこかへ連れ込まれる可能性は大きい。そんなこともわからなかったと?」

「――っ。……なにかあったら、カイル様が気づいてくれるって……――助けてくれるって、思ったの」

 確かにそれは、エステルの甘い考えだ。だが、体調が悪いという人を放置することを、エステルにはできなかった。それでも。

「……誤解させて、ごめんなさい。でも、なにもなかったの。――信じて」

 涙で声がこもる。わずかな過ちが、こんなに大事になるなんて思いもしなかった。

 それ以上言い訳もできず、俯いて涙を流していると、カイルが溜息をこぼす。

「じゃあ、従僕の件は?」

 今度こそエステルは眉根を寄せた。それには、まったく心当たりがないのだ。だから、返せる言葉はただ一つしかない。

「私、知らないわ」

「知らないわけがないだろうっ!?」

 それまで冷静さを常に保っていたカイルが、声を荒げる。振動が窓の硝子をびりびりと揺らす。

 突然のことに驚愕したエステルの両腕を、カイルは掴んだ。

「痛……っ」

 強い圧迫を受けて顔を歪めると、カイルは奥歯をぎりりと噛み締める。

 感じた事のない恐怖に襲われた。

「カイル様……放してっ」

「嫌だ」

 カイルは様々な負の感情を織り交ぜた瞳でエステルを睨めつけた。

「関係があったから、その男がこの邸をやめたんだろう!? エステルが男の部屋を何度か訪ねていると報告もあるんだ!!」

「従僕が、やめた……?」

 エステルが父に問うように視線を向けると、頷く素振りを返された。

「……そんなの、初耳よ」

「そんなわけない」

 どう言っても、カイルは聞く耳を持たない。なぜこんなにも、誰も彼もがエステルの言葉を信じないのだろうか。

 ふと、脳裏でひっかかりをおぼえた。――”報告”と、父とカイルは言った。ならば。

「――誰が、そんな報告を、したの?」

 静かに尋ねる。ここまで両親とカイルに信頼されている相手。――心当たりは、ないわけではない。

(でも……そんなわけ……)

 浮かんだ人物を消すように頭を振ると、答えが返ってきた。

「カレンだ」

 エステルの目が、見開かれる。

 今、浮かんだけれど、否定した人物。

 赤い髪の、美しい、幼い頃からの、大切な親友。

 だから――カイルにも、エステルの両親からも、信頼されている。長い年月を経て積み重ねられた信用ゆえに。

 瞬きもせず佇むエステルに追い討ちをかけるようにして、カイルは言葉をつむいだ。

「以前から度々カレンから報告を受けていたんだ。でも言えなかったのは――カレンがエステルを信じているから……誤解だと信じているから、ちゃんと確信するまでは待ってほしいと、言われた」

「……じゃあ、誤解じゃなかったって、報告を受けたのね……?」

 エステルはまるで他人事のように首を傾げる。正直だったのは、涙腺だけだった。涙が幾筋も頬を流れ落ちる。

「――ああ」

 たった一言。

 それだけを残して踵を返そうとした彼に、エステルは扉へ先回りして行く手を塞ぐ。

 目の前で立ち止まったカイルを、強い意思を秘めた瞳で見据えた。――どうか、私を信じてと、強く願った。

「カイル様、私、夜会の男とも従僕とも関係してない。――信じて」

 しかし、カイルは苛立つように眉間に皺を寄せ、問答無用でドアノブに手をかける。

 エステルはその腕に再度縋りついた。どこにも行かせないように、力の限り。

 惨めだと、自分で思った。両親の目の前で、涙を滂沱と流して縋りついて。それでも。

(カイル様が、好きなの――……)

 だから。

「カイル様、行かないで! お願い、私を信じてっっ。カレンじゃなくて、私を!!」

 泣き叫ぶ。体裁なんてかなぐり捨てた。見栄も矜持も、邪魔になるのなら、いらない。そんなものより、大切なものがあった。

「カイル様、お願い! 好きなの――」

 一瞬、カイルの能面のような表情が動いた気がしたが、すぐに冷たいものへと戻る。

「放してくれ、エステル」

「嫌っっ!」

(なんで? なんで、なんで、なんでっ!?)

 やりきれない思いが渦巻く。どうして、と。なんで、と。信じてほしいという願いと、どうして信じてくれないのか、という責める気持ちとがい交ぜになって。

「エステル」

 言い咎めるように父がエステルを呼んだが、エステルは無視して続けた。

「私のこと、好きだって……言ってくれたのに」

『好きだ』と。初恋の男に言われる度に、心が震えた。嬉しくて、世界が色鮮やかに見えた。なのに、その言葉は嘘だというのだろうか。――今さら。

「嘘、だったの……?」

「違う! 嘘じゃ、ない」

「じゃあどうして私を信じてくれないの!?」

(どうして私じゃなく、カレンを信じるの)

 嫉妬のような、黒い感情がうずめく。流れる涙が黒くくすんでいく気すらした。

 やがて頭上からふってきた答えは、彼の気持ちの一部だったのだろう。

「信じようと、した。何度も! でも……信じて、その度に裏切られたら、俺は――……」

 語尾は彼の喉で紡がれた。

 同時に、カイルはエステルを力の限り抱きしめる。

 彼は、耳元で囁いた。

「――もう、俺を解放してくれ」

 疲れたんだ、そう言ってエステルの身体を引き離す。

 カイルが扉を開いて出て行くのが、エステルの視界の端に捉えられた。



 支えを失ったエステルは、へたりこんだ。

 目の前が、漆黒の闇色に染まる。

 紫の瞳は生気を失い、涙の流れだけが彼女の時が動いていることを告げていた。

(私……)

 身体に力が入らない。

 優しく頭を撫でられた感触がして、誰に問われるわけでもないのに「……違うの」と呟く。

「エステル、部屋へ行こう」

 多分、父の声だろう。母はすすり泣くような声が部屋に響いているから。

 顔を窺い見られ、ぼんやりと父を認識し、なんの感情もなく尋ねる。

「お父様も……カレンを信じたの?」

 父が睫毛を伏せたから、それが答えなのだろう。

「エステル、私はどんなお前でも、愛しているよ」

 そんな答え、望んでいなかった。

(でも、カレンの言葉を信じるのね)

 嘘のつけない父の言葉に、いっそ笑いたくなった。


 これまで自分の築いてきたものは、なんだったのだろう。信用? 信頼? そんなもの、エステルの幻想に過ぎなかったのかもしれない。今では、愛されていたことすら、信じられない。

 痛みすら麻痺するくらい深い亀裂が、心に入った気がした。



 そして、心が凍りつく気配が、した。




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