6. 苦い夢 ――崩壊――
時が、とまった気がした。
窓から射し込む柔らかい日差し。
けれど、室内の空気は春のそれに反して重く、呼吸をするのも苦しくなるほどだった。
視線が自分に集中していると感じたエステルは、髪の一筋すらも揺らせない。
(……な、に?)
状況に頭がついていかない。
カイルの声が部屋に響き、余韻を残して消えていったのを聞き届けてなお、言葉の意味を理解できなかった。
硬直する身体をなんとか動かし、父を、母を――最後に婚約者へと顔を向ける。すると、カイルが男爵の執務机に置かれた一枚の紙を、エステルにつきつけるようにしてかざした。
「これ……婚約の誓約書……よね」
自分自身に確認するように、呟く。
そこには、エステル直筆の署名と、カイルの筆跡の署名が書かれている。数年前に交わしたため、紙自体は少し黄ばんでいた。
――刹那。
ビリッ! と一気に紙が引き裂かれる音がした。
「なにするの!?」
エステルがカイルから誓約書を奪うように手を伸ばせば、母に遮られる。
「……エステル、おやめなさい」
蒼い顔色をした母が咎める。
――なぜ、自分が責められなければならないのか。
わからないエステルは、母に抱きしめられるようにして拘束されながら、怒りを秘めた瞳でカイルの行動を見届けた。
ビリビリと、紙吹雪のように端切れとなっていく誓約書。エステルにとって命ほどの価値があったそれは、いまやゴミも同然である。
知らず、涙が零れた。
「どう、して――」
震える喉で問えば、それまで額を押さえていた父の溜息が耳に届いた。
「……エステル、諦めなさい」
ただ一言の命令形。穏やかな父の声には疲れが滲んでいる。
だが、父の言葉をエステルがすんなり受け入れられるわけがなかった。婚約の誓約書が破られたのだ。婚約が――一方的に破棄されたのだ。
カイルの氷のような灰青の瞳がエステルに向けられた。
エステルの身体はびくりと射竦められるように震える。――怖いと、思った。
「エステル、もう一度言う。婚約を破棄させてもらう」
瞠目したエステルだったが、なんとか言葉を咀嚼すると、涙がまた零れた。
「カイル様! どうしてっ!? どうして突然そんなこと言うの!? 嫌! 私はそんなの受け入れないっっ」
母の拘束を力の限り拒み、カイルへと駆け寄る。腕を掴んで揺さぶった。
「どうして……っ。どうしてそんな目で私を見るのぉ……」
蔑むような視線に、膝が震える。縋るように、カイルの腕にしがみつく。
「すべてはもう、終わったことだ」
その詳細は、背後から――父から――語られた。
エステルがゆっくりと半身を向けると、父は首をゆるく横にふる。
「……どういう、こと」
涙で鈍く痛む喉から、言葉を紡いだ。
その部屋にいる全員の視線で、状況を把握できていないのが自分だけだとわかった。
「エステル」と口にしたカイルだったが、男爵が遮る。
「いや、カイル殿。父である私が言おう」
そうして、男爵は重い口を開く。
「エステル、報告を受けたんだ」
「……報告?」
「お前が――従僕と密通しているとな」
直後、エステルは言葉を失った。身におぼえがまったくないのだ。一体どこからそんな話を耳にしたのだろう。唖然とするしかなかった。
なにか反駁しようと唇を震わせると、父はさらに言葉をつぐ。
「従僕だけではない。夜会でも、どこぞの男と庭園に消えたと」
「そんなの知らないわ! 嘘よ!! でたらめよ!!」
エステルは怒りに顔を赤く染め、必死に叫んだ。しかし、男爵は首を横にふる。
「カイル殿も、見ているんだ」
父の言っていることに頭が真っ白になった。
(カイル様も……見ている?)
エステルはすぐ傍に立つ青年を見上げる。
カイルの、見た事もない嘲るような顔を見て、息を呑んだ。
(……嘘、よ。だって、そんなの私、知らないわ)
呆然と立ち竦むエステルは、カイルの腕から手を放し、よろめくように後ずさる。もう、なにがなんだかわからなかった。
「知らない……私、そんなの」
自失状態で口を開けば、否定の言葉が零れる。だがそれも、カイルの一言で無効化した。
「そうか。じゃあ、仮面舞踏会の夜、男に肩を抱かれていたのは俺の見間違いか?」
感情のこめられない言葉。答えは知っているとばかりに発せられたため、淡々としていた。――けれど、エステルの持っている答えは、彼が確信するものではない。
「それは、彼が悪酔いしてうずくまってて……風にあたりたいって言ったから」
「あんな場所で、それを鵜呑みにしたらどこかへ連れ込まれる可能性は大きい。そんなこともわからなかったと?」
「――っ。……なにかあったら、カイル様が気づいてくれるって……――助けてくれるって、思ったの」
確かにそれは、エステルの甘い考えだ。だが、体調が悪いという人を放置することを、エステルにはできなかった。それでも。
「……誤解させて、ごめんなさい。でも、なにもなかったの。――信じて」
涙で声がこもる。わずかな過ちが、こんなに大事になるなんて思いもしなかった。
それ以上言い訳もできず、俯いて涙を流していると、カイルが溜息をこぼす。
「じゃあ、従僕の件は?」
今度こそエステルは眉根を寄せた。それには、まったく心当たりがないのだ。だから、返せる言葉はただ一つしかない。
「私、知らないわ」
「知らないわけがないだろうっ!?」
それまで冷静さを常に保っていたカイルが、声を荒げる。振動が窓の硝子をびりびりと揺らす。
突然のことに驚愕したエステルの両腕を、カイルは掴んだ。
「痛……っ」
強い圧迫を受けて顔を歪めると、カイルは奥歯をぎりりと噛み締める。
感じた事のない恐怖に襲われた。
「カイル様……放してっ」
「嫌だ」
カイルは様々な負の感情を織り交ぜた瞳でエステルを睨めつけた。
「関係があったから、その男がこの邸をやめたんだろう!? エステルが男の部屋を何度か訪ねていると報告もあるんだ!!」
「従僕が、やめた……?」
エステルが父に問うように視線を向けると、頷く素振りを返された。
「……そんなの、初耳よ」
「そんなわけない」
どう言っても、カイルは聞く耳を持たない。なぜこんなにも、誰も彼もがエステルの言葉を信じないのだろうか。
ふと、脳裏でひっかかりをおぼえた。――”報告”と、父とカイルは言った。ならば。
「――誰が、そんな報告を、したの?」
静かに尋ねる。ここまで両親とカイルに信頼されている相手。――心当たりは、ないわけではない。
(でも……そんなわけ……)
浮かんだ人物を消すように頭を振ると、答えが返ってきた。
「カレンだ」
エステルの目が、見開かれる。
今、浮かんだけれど、否定した人物。
赤い髪の、美しい、幼い頃からの、大切な親友。
だから――カイルにも、エステルの両親からも、信頼されている。長い年月を経て積み重ねられた信用ゆえに。
瞬きもせず佇むエステルに追い討ちをかけるようにして、カイルは言葉をつむいだ。
「以前から度々カレンから報告を受けていたんだ。でも言えなかったのは――カレンがエステルを信じているから……誤解だと信じているから、ちゃんと確信するまでは待ってほしいと、言われた」
「……じゃあ、誤解じゃなかったって、報告を受けたのね……?」
エステルはまるで他人事のように首を傾げる。正直だったのは、涙腺だけだった。涙が幾筋も頬を流れ落ちる。
「――ああ」
たった一言。
それだけを残して踵を返そうとした彼に、エステルは扉へ先回りして行く手を塞ぐ。
目の前で立ち止まったカイルを、強い意思を秘めた瞳で見据えた。――どうか、私を信じてと、強く願った。
「カイル様、私、夜会の男とも従僕とも関係してない。――信じて」
しかし、カイルは苛立つように眉間に皺を寄せ、問答無用でドアノブに手をかける。
エステルはその腕に再度縋りついた。どこにも行かせないように、力の限り。
惨めだと、自分で思った。両親の目の前で、涙を滂沱と流して縋りついて。それでも。
(カイル様が、好きなの――……)
だから。
「カイル様、行かないで! お願い、私を信じてっっ。カレンじゃなくて、私を!!」
泣き叫ぶ。体裁なんてかなぐり捨てた。見栄も矜持も、邪魔になるのなら、いらない。そんなものより、大切なものがあった。
「カイル様、お願い! 好きなの――」
一瞬、カイルの能面のような表情が動いた気がしたが、すぐに冷たいものへと戻る。
「放してくれ、エステル」
「嫌っっ!」
(なんで? なんで、なんで、なんでっ!?)
やりきれない思いが渦巻く。どうして、と。なんで、と。信じてほしいという願いと、どうして信じてくれないのか、という責める気持ちとが綯い交ぜになって。
「エステル」
言い咎めるように父がエステルを呼んだが、エステルは無視して続けた。
「私のこと、好きだって……言ってくれたのに」
『好きだ』と。初恋の男に言われる度に、心が震えた。嬉しくて、世界が色鮮やかに見えた。なのに、その言葉は嘘だというのだろうか。――今さら。
「嘘、だったの……?」
「違う! 嘘じゃ、ない」
「じゃあどうして私を信じてくれないの!?」
(どうして私じゃなく、カレンを信じるの)
嫉妬のような、黒い感情がうずめく。流れる涙が黒くくすんでいく気すらした。
やがて頭上からふってきた答えは、彼の気持ちの一部だったのだろう。
「信じようと、した。何度も! でも……信じて、その度に裏切られたら、俺は――……」
語尾は彼の喉で紡がれた。
同時に、カイルはエステルを力の限り抱きしめる。
彼は、耳元で囁いた。
「――もう、俺を解放してくれ」
疲れたんだ、そう言ってエステルの身体を引き離す。
カイルが扉を開いて出て行くのが、エステルの視界の端に捉えられた。
支えを失ったエステルは、へたりこんだ。
目の前が、漆黒の闇色に染まる。
紫の瞳は生気を失い、涙の流れだけが彼女の時が動いていることを告げていた。
(私……)
身体に力が入らない。
優しく頭を撫でられた感触がして、誰に問われるわけでもないのに「……違うの」と呟く。
「エステル、部屋へ行こう」
多分、父の声だろう。母はすすり泣くような声が部屋に響いているから。
顔を窺い見られ、ぼんやりと父を認識し、なんの感情もなく尋ねる。
「お父様も……カレンを信じたの?」
父が睫毛を伏せたから、それが答えなのだろう。
「エステル、私はどんなお前でも、愛しているよ」
そんな答え、望んでいなかった。
(でも、カレンの言葉を信じるのね)
嘘のつけない父の言葉に、いっそ笑いたくなった。
これまで自分の築いてきたものは、なんだったのだろう。信用? 信頼? そんなもの、エステルの幻想に過ぎなかったのかもしれない。今では、愛されていたことすら、信じられない。
痛みすら麻痺するくらい深い亀裂が、心に入った気がした。
そして、心が凍りつく気配が、した。




