09 竜は名を呼び、夢は爪痕を残す
「あら? ですが先程、二年前に一方的に与えられた、と仰っていましたよね」
穏やかな声色だったが、そこにわずかな探りが混じっているのがわかる。
柔らかく投げられた言葉ほど、逃げ場はない。
「それだけは思い出したんだ」
咄嗟のことで機転が利かず、浅い答えしか返せない。
セリーヌは追及せず、間を一拍置いた。
「では、どこでその力を?」
問いは静かだった。
けれど、その静けさが胸の奥を撫でる。
セリーヌは一瞬、視線を伏せた。睫毛の影が頬に落ちる。
その仕草の奥に、俺の知らない時間が確かに存在していると伝わってきた。
「夢か現実かわからないけど……故郷の街で、目の前に竜が現れたんだ」
口にした瞬間、空気がわずかに変わった。
「故郷の街……そうですか。ちなみに、リュシアンさんの信仰されている属性は?」
「信仰している属性?」
問いの意味が掴めない。
戸惑って言葉を探していると、セリーヌの双眼が黄金色の光を帯びた。
内側から磨き上げられた宝玉のように、静かで、しかし確かな光。
体が言うことを利かなくなる。
足元から力が抜け、意識がゆっくりと底へ引き込まれていった。
※ ※ ※
温かく、柔らかく、なめらかな感触。
甘い香りまでして、どう考えても普段使っている枕じゃない。
「きゃっ。あの……あまり触られると、くすぐったいです……」
枕が喋った。
そんな馬鹿な、と思う一方で、心地よすぎて手が離れない。
「あと五分だけ……」
逃すまいと抱き寄せ、頬ずりをしながら感触を堪能する。
指先に伝わる柔らかさが、やけに現実的だった。
「あの……本当に困ります……」
主人を拒むとは意味がわからない。
それにしても、本当に素晴らしい枕だ。
後頭部を支える安定感、横を向いても耳が収まる溝。
まさしく俺のために作られた形状だ。
至福に浸っていると、隣で何かが暴れる気配がした。
「ちょっと、ナルシスさん」
「いい加減に起きたまえ!」
怒号と共に頬を叩かれ、意識が跳ね上がる。
目を開けると、隣にはナルシスが地面に寝かされていた。
「どうして君が姫の膝枕で、僕がコートなんだ。どう考えても逆じゃないか」
見れば、丸められた白いロングコートが後頭部に敷かれている。
「膝枕?」
恐る恐る顔を上げる。
柔らかそうな双丘が視界いっぱいに盛り上がっている。
その向こうから、セリーヌが静かにこちらを見下ろしていた。
驚きと恥ずかしさが一気に込み上げ、慌てて体を起こす。
「がうっ」
左肩へラグが舞い降りてきた。
竜の力が消えている。
本来なら三十分は続くはずだ。それ以上の時間、意識を失っていたらしい。
「俺は……どうして?」
膝の感触が名残惜しくて、思考が鈍る。
何か大事なことを忘れている気もするが、今は掴めない。
いや。膝枕以上に大事なことなんて、あるはずがない。
ナルシスは悔しさを隠そうともしない。
実に愉快だ。俺は選ばれた。
コートを脱いだセリーヌは、例のぴったりとした紺色の法衣一枚だ。
胸元から膝上までを隠しただけの露出度。この法衣を手掛けた職人は天才に違いない。
「魔獣を退治した後、それを操っていた男性と話したことは覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん。忘れるわけがねぇ」
怒りが、ゆっくりと腹の底から蘇る。
「あの後、怒りに任せて魔獣の顔を斬りました。ですが、足を滑らせ、頭を打って気を失われたのです」
説明を聞き、ようやく記憶が繋がった。
セリーヌの援護を受け、ふたりで魔獣を追い詰めた。
最後は必殺技を叩き込み、魔獣の半身を抉り取った。
そこまで思い出すと、ナルシスが笑った。
「君と姫が魔獣を? 君のような駆け出し紛いにどうこうできる相手ではなかった。特に、そんな古びた剣ではね」
品定めする視線が、やがてセリーヌへ向けられる。
「すべてお見通しだよ。姫の素晴らしい魔法で魔獣を仕留めたんだね。彼のような下民に、みすみす手柄を渡すことはない。そんな奥ゆかしさも実に眩しいね」
魔獣を操っていた男よりも腹立たしい。
「おい。そろそろ殴ってもいいか?」
※ ※ ※
街へ戻り、宿で一夜を明かした。
翌朝、街長へ報告を済ませる。
ナルシスはびゅんびゅん丸での帰還を主張したが、セリーヌが丁重に断った。
「馬車での移動が気に入ってしまったもので」
「仕方ない……では、ヴァルネットで」
ナルシスはすぐに俺を睨んできた。
「くれぐれも、姫に失礼のないようにな」
「わかった、わかった。さっさと行け」
肩を落としたナルシスを見送り、ひとりほくそ笑む。
これでようやく、セリーヌとふたりきりだ。
意気揚々と馬車に乗る。
向かい合わせに設置された木製ベンチに、並んで腰を下ろした。
「そういえば、セリーヌの目的は達成できたのか?」
「はい。お陰様で滞りなく」
魔獣のリーダーを取り逃がした。
俺には中途半端な結果だが、手は打ってある。
彼女が満足しているなら、それでいい。
「そもそも、なんでこの依頼にこだわったんだ?」
「それは……秘密です」
口元へ人差し指を立てる仕草に、思わず笑みがこぼれた。
さらに親しくなる絶好の機会だと思っていたが、安堵したのか、急に睡魔が押し寄せる。
視界が白み、意識がふっと浮いた。
その瞬間、これは夢だと理解した。
※ ※ ※
視界が真っ白になった直後、我が家よりも巨大な塊が目の前に現れた。
は虫類のような鱗。いぶし銀に輝く皮膚。背中に広がる一対の翼。
紛れもなく、竜だ。
見上げた先には、こちらへ向けられたトカゲのような顔。
黄金色に輝く眼球の縦長の瞳孔が、俺を探るように見据えている。
「まさか、竜なのか?」
何が起こったのかわからない。
尋ね人が来ていると街の外へ呼び出され、中年の行商人と顔を合わせた。
『おまえが、リュシアン・バティストか。仲間からこれを託された』
紐で結わえられた細長い布包。
そこには見覚えのある筆跡で、ジェラルドと綴られている。
『俺も詳しいことは聞いてない。でも、確かに渡したからな』
包みを押し付けられ、商人は足早に去った。
不審に思いながらも包みを解く。
中には一本の長剣と黒い手帳、そして赤子の握り拳ほどの宝玉があった。
その宝玉を手にした瞬間、光が弾けた。
『我を呼んだのは、汝か』
「え!? えぇ!?」
現実へ引き戻すように、頭の中に声が響いた。
低く、渋味のある男性の声だ。
しかし、辺りを見回しても誰もいない。
『どこを見ている。話しているのは我だ』
「嘘だろ……」
『信じられぬのも無理はない。だが、汝へ語りかけているのは紛れもなく我』
伝承では、竜は思念で会話をしたとされている。
だが、竜という存在は二百年も前に姿を消したはずだ。
俺も伝承画でしか見たことがない。
『その通り。我々は人の前から姿を消した……だが、今はそれについて語る時ではない。残された時間はわずかだ』
「は? 時間がわずか?」
『これは運命の悪戯か。あるいは時代が汝を選んだか。見れば、混じっているようだな。資格を有する者か』
「混じってる? 資格?」
竜だけが勝手に納得している。
理解が追い付かない。
『我の意識が途絶える前に……汝へ、力の一部を授ける……』
「力? そんなもん、いらねぇって」
その直後、右手の甲が碧色の輝きに包まれた。
光は強さを増し、手首から肘へ、そして肩までを飲み込んでゆく。
「がっ! があぁぁぁっ!」
爪の先から何かが入り込んでくる異物感と痛み。
それが光の移動を追うように、腕の中を這い上がってくる。
『邪悪な……討て……そして……』
余りの激痛で思考は飛んでいた。
何かを言われたはずだが、覚えていない。
※ ※ ※
「リュシアンさん、目を覚まされましたか。間もなく、ヴァルネットへ到着しますよ」
鈴の音のような声と、触れ合った肩から伝わる温もりが、穏やかに現実へ引き戻す。
「悪い……寝ちまったのか」
「疲れていらしたのでしょう。本日は陽気も良く、うたた寝には最適です」
「依頼も無事に終わったことだしな」
眠った勢いで、もう一度膝枕をしてもらえたら最高だったのに。
そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消した。
「がう、がうっ!」
左肩の上でラグが吠える。
街へと入った馬車は、ゆっくりと減速を始めた。





